高橋源一郎、失語症。そうだ。そうなんだよね。
「コミュニケートしたい」そうだ。そうだよね。 愛がすぎさってゆく 瞬間を濃く見つめなきゃ いま とか これ とか 濃く濃く 圧縮! して、いいかんじで出さなきゃ あなたに飽きられちゃうからね 恐怖だよ そう考えると 俺は恐怖とおもってんだよ ね びくっとした? そんなかんじの神経も刺激しようよ 飽きちゃうからね えーと 言葉を壁にして使えば使うほど あれこっちの かんじたことも 出ないような 外に出ないようなきがします こんなはずじゃおかしいな 表情とか 涙とか 感情 そういうふうにしか出せないけど それもぎりぎりだね 存在 生身の 次元で 自信がない のか AIとかが怖いきがしてしかたない 俺は 精神だけでできてるぜー だから AIでおきかえれるぜー と いってもまちがいじゃない みたいな 人の 意識の 重心は 人によって 外 内 それぞれ このふたつの目でなにをみるか こころの目 こころをみる でもみえるのは 俺のこころ 俺のこころだけ きみのはみえない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 存在倫理。ただあることだけでもって、その価値。 「俺なんていてもいなくてもいい」とおもっているところの人間の価値。 自殺する直前の人間の価値 と 自殺した直後の人間の価値 人間に、価値があるとかないとか、そこらへんの目つきを、解体しないとな。 あいつらのように、こいつらのように、おれのように、カラスのように やらしいひきょうな連中が 言辞をついばみ鳴いている おう おう おう おう 人生のプログラム だとぼくたちは解して いたけれどそれも 限定された時代的な おもいこみにすぎなかった これから それもなく まったくの むきだしの 細胞とひとしい生命体として 銀河鉄道の妄想めざしてすすむ そこでしあわせなぼくたちの えいえんの さいわい みつけます となる そこで fin. だ なにしろ 意識 はすばらしい これをてばなすな おれのものだ おれたちのものだ 戦争して それでもきたえた つぎの時代に渡した 血がついた言葉を 無意味にさせてたまるか ああ こんな うしろむきの 古い 喪失が もうぼくたちの 妄想状態をあらわしている お医者さんが しあわせなまんまで 完璧な治療を ほどこしてくれる しあわせなまんま 妄想しつづけられる 生きることはかるい 中身がない そこにはなにもない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『幽霊の復讐』 なんて 言葉にすればいいんだろう たどり着くべき場所が とても遠くにあるような・・・ きのうまでは 忘れられていた その遠さと自分の無力さに・・・夜の風が窓の向こうで吹く 幸せにするから 幸せにさせてほしい 見捨てつづけてきた 僕自身のつめたさのせいで 夜の風にあたることもできない・・・ こんな弱くて醜い自分を 受け入れて・・・もっと近くに・・・ 道がみえた たどりつけそうだと 思うほどにかならず震えが\寒気がやってくる 明日にすすむのが 怖くなり 昨日にすすむことばかり・・・それがほんとだと思って・・・\嘘じゃない、それがきっと、嘘じゃない 超えなくちゃいけないんだ ああそうなんだきっとそうなんだ 遠いところにあるものだから 僕は体をおきざりにした・・・ 幽霊が僕に復讐する・・・ 僕の幽霊が僕に・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー つかれた ただそれだけだ 自意識がすりへり 無意味さにこだわれなくなり 身体が滅んでゆくから しかたないさ と 『絶対孤立の原則へ』 裏返ってしまうほどの生命の鳴き声をだせ あらゆることから目をつむり存在することだけで なにも手にとらないしいらねえし知らねえしの なにもかもはぎ取った存在になれ そして精神が右から左に横切った そのイメージと現実をひっくりかえせ なにもかもから無視され否定されて それだから生きられる場所のため 偶然の延長線上にいまも未来もあり それからひどいことも恵まれたこともあるのなら これからなんの根拠もなく徘徊して 街と社会を汚してもかまわないだろう ゆるくできあがったその堅固な家を うらやむことはあっても建てることはないから 無限にどうでもいいとあなたがたがおもう なぐさめのための業をやらせて きれいな きれいな ものを覚えたから そこで歩く理由ができてしまったんだ 愛する人を必要としたから 愛することをつくろうとしたんだ・・・ ねえねえ 呼びかけると ねえねえ 答えてくれる・・・ 呼びかける人が消え去ったあと 一人が孤立して向かい合わなきゃならない きれいなものの その誘惑に 向かい合って勝つことをもとめられ はじめから やりなおすんだ 存在は ほらここにあるんだ 呼びかける声を ただの叫びにして なにもかもから降りた場所で ねえねえ もうきかないよ ねえねえ もういわないよ A どうだ。
B えーと、理論じみてきても、詩にはならないのな。 A いま、じゃあ歌の現場において、インパクトできる曲を作成したいよな。その意味では、ループやエフェクトというのは手段としておおきい。そのうえで、明るい曲もほしい。それでいてメッセージももとめる。 B モチベーションの向きなんだよな、問題は。現場みることではじめて照準が合うというか。普段はやっぱ、日常のレベルだとライブハウス的な「非日常」はようわからんのだ。 A 場の理論と俺の個人の課題はちがうさ。ただメタ視点、状況認識はもっておきたいからな。単なる音楽まっしぐら、というのは俺はちがう。それはわかってる。つもりであってもそれでいく。 B ところで辺見庸のことばって、いつでも詩になるよな。あれは、理論じゃねえんだ。時事問題を前にしてもね。あの立場をぶらさないのは、けっこうすげえな。 A 詩はやはり<私>でないといけないよ。そういうことばを薄くしちまっちゃあだめなわけで。でもまあ理論も必要な段階だね。相互作用ということでいい。自分の内部意識も二層構造というわけでね。 B 実作者と批評家と。オルガナイザーにもなりたいのかね? A というか、俺は俺が生きやすい場がほしいんだよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 歌は、感情がないと書けない。論理は、感情を排したところで書かれる必要がある いま、こうやって文章を投稿しているけど、もっと「音楽」を投稿できないと、そっちのモチベーションも保っていけない。詩でもいいし。インプットもだから音楽のインプットを、やってく必要があるけど、アップルミュージックやってからは要は過去の音源も簡単に手に入る、ということが、主体的に掘ってく感じと矛盾するというか、やっぱ「買う」ってことが一種のトリガーになってる面はあったろう。たとえばガスリーとか聞いて、いろいろ思ってもいいんだけどね。なんだか「これもスケールじゃねえか」とおもうとしらけるよなあ、我ながら。音楽というのは、「流通してる」ということ自体がルサンチマンの種だ。ルサンチマンを排して聞けないといけない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 細部。あわれみ。 読む俺。実践への俺。最終的な理想はこれこれ。 そんでもいま中途でおれおれ。 『秘密のコミュニティ』 図書館で本を抱えてた 俺の頭には理論があった おまえに言えない、今は言えない 秘密のコミュニティ あの子とこの子がドッキング きりきりする空気はおしまい うらやみうらみ、ひきずりあった 不幸を願うコミュニティ 愛する人、あこがれる人、もう二度と会いたくない人 気まずかったりのりきれなくて、苦い思い出に・・・ オサラバしたくて! 図書館でひとり企んだ おたがい嫌いな人たちが 不意を突かれて出くわしてしまう 秘密のコミュニティ ドックワドックワ・・・ ドックワドックワ・・・ ((おいおい、お前、こっちに来るなら来るとき用のチケットをもってきてくれ-! 話をするんだきいたりするんだ、コミュニケーションコミュニケーションコミュニケーション 自分をさらしてお金をおとしてこのコミュニティに貢献しなさい!)) 私には私なりの スタイルってものがあるわ つまらない意地の張り合い 俺にはあんまりピンとこねえ そしたら俺も俺だって 鈍感なくくりにはいった 赤だの青だの黄色だの くすんでばっかでめんどくせえ 小さくて、わがままで、はた迷惑で くだらない、滑稽な、尊敬できない・・・ 人になってゆく! 俺には俺のやりかたが あるけど、お前もやってみろ 図書館で俺は一人きり けど頭にはコミュニティ あ、秘密のコミュニティ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『お姫様の一本道』 くだらないことはやめにしよう そんなこといって!私たちの、営みを、見えなくしてしまわないで! お前らはもっと、立派になれる 私たちはもう、信じられないし!もう、疲れてしまったの! 毎日毎日(つまらない)うだつのあがらない仕事をしすぎてまいってしまったわ 私、こんなところでは、私が誰だか、きっとわからないわ 少女の頃とくいだった お姫様のまねが もう冗談でもできない わたしの家来に ご褒美をあげるわ みんな私に 憧れてるらしいわ 大人になるなんて想像できないけど はるか先の未来に 星のかなたから 龍にのった王子様が くるのよ! 当たり前に時はすぎては 大人になることを知る なんにでもなれたけど 君は君だけにしかなれない 今日は昨日の、もう何年もの、老廃物のせいで動けなくなった 体にもいつのまにか、だけど心にあるなにか満たされない空間が 反乱(氾濫)しそうなの、ごめんなさいおかしく見えてしまったら ああこんなときに、だけど 王子様は こない 間奏 大人になるまで君のとおった 道が一本の足跡になる なんにでもなれたけど 君は君だけにしかなれない あしたの一歩もまた、足跡に・・・ 私たちに私たちの、希望できるあしたを! 私たちに王子様の、かわりのなにかを! 図書館にきた。GW、ゴールデンウィーク。
『新平等社会』 モチベーション格差。「希望は努力が報われると感じたときに生じ、努力が報われないと感じたときに絶望が生ずる」勉強しても報われない?勉強努力保障システムのおわり。新しい価値観を「本気で」支援し推進する。 結局、ひとびとは、あんまり他人を信用しないし、連帯もしない。ほうっておけば孤立して損をかこっていく。モチベーションの格差、と表現されるものもある。 『ネットと愛国』 居場所のために。主張よりも、団体というのは「共同体」だ。なぜそこに参画するか。主張と居場所。 『「生きること」と「死ぬこと」 人はなぜ自殺するのか』 「自殺の直接動機は、結局のところ価値観の挫折と関係がある。~~どの自殺をとりあげてみても、一つとして同じ自殺はないのである。」 『90分でわかるサルトル』 結局、生き方はサルトル的な、あるいは吉本隆明的な、実存主義を強度の根拠としてもつしかなくなってくる。それでAI=人工知能の問題もその展開として理解し、修正として対応したい。「人間性」というものが置き換えされていくとしたら、最後の人間のよりどころはなんだろう?ということは、しかし考えさせられる。それは思考実験だろうか。それとも現実化していく喫緊の脅威だろうか。 価値観、という外部設定と、実存主体の能動性。それの関係の仕方がどうなのか、という問題。そのぶつかりあい。 じゃあ、そのぶつかりあいの「舞台」はどこに設定されうる?スケールフリーとスモールワールドのあいだに。誤配を期待して。 価値相対主義からなにかを主張するものへ。そして評価経済の流脈に対し実存が等価原則をもって抗う。新鮮な「価値観」が生成され、それが維持されるためにコストがかけられなければならない。そのアイデアを生み、つくる。 在特会でもなく、べてるでもなく、SEALDsでもなく、草の根のミュージシャンの集いかたがなければならない。音楽はなにを主張しうるか。「生身」であること、「ライブ」であることの特性。承認ハードルを下げること。そして承認欲求よりも高い実存的強度をもつためには。単なるなれあいではなく、会員制のようなありかたなのか?僕がみたいのは、既存の技術の優劣をもとにした価値観ではおどろくような、別種の自由さ。別種の表現の力。 単に「表現の場(機会)」と、それへの賞賛、だけではたりない。やはり、批評が機能することはたいせつだ。ジャーナル、メディア、深掘りする情報。ミュージシャンといえども、歌うだけではアーティスト性を確保するのは難しい。文芸批評的アプローチ、ロッキンオン的?アプローチ、もっと瞬発的な寸評の充実、評の表現はツイッターで間接的にやってもその場でやってもいい。もっと「評する」ことがだいじとおもえる。そしてその評を外部へおくること。もっと誤配を企むこと。 内部的に、場で場を高め合う工夫、意識。もっと本質的なはなしを交わしたい。交わせる場があったほうがいい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 18:35 食楽市場へちょいと。千葉。ぷらぷら。サンマルク。なんというか、モチベーションの管理がきっと必要。書籍ばかりインプットしていると、そっちにばかりいくので、音楽の現場をみたい。音楽の現場でなくても、WEBで確認できる音楽、YouTubeやツイッターやツイキャスや、それなりにある。でも、僕にとっては音楽の場の意味は「知り合いに会える」ことだったりする。 音楽そのものを楽しみたい、ということと、知り合いに会いたい、というふたつが並行してある。なじみの連中、というのは有意味なこと。そのなかで、もっと成果を出すには、きっと乱暴なくらい深掘りする蛮勇が一瞬いる。 ゲンロン0をちょいとめくりなおすと、「再誤配」というキーワード。固定しがちな数を偶然性に再誤配する。音楽の場でいえば、ある程度名のあるミュージシャンとの対バン。ひと目にさらされることがおもいうかぶ。現状のままでは格差は固定化。世界にもっと偶然性、流動性、平等性をおもいださせるには、認識と方法がいる。 ほぼ日、糸井重里とインターン生の対話。人生はスイカ割り?「こっちだよ」の声を間違えないことが大事。いろいろと示唆のおおい対話。基本的には、根っこがだいじ。 いくつか考えたいこと、というか、常識的にはAだけど俺はBだ、Bの方法でいくんだ、といいたいことがらがある。ライブの方法、ありかた、というのはそれ。「客数」と「演者数」の考えなおし。「ライブにおける成功」というものの考えなおし。現状、ライブに対する考え方は硬直していて、とりあえず動員数以外の成功の価値基準というのは実はあんまりない。それにしても動員数というのはなんだろう。もちろんそれがなければライブハウス自体が成り立たない。しかしただその場限りの人が来ただけでは場は次につながらない。次につながっていく、ということがサスティナブルなコミュニティになっていく。ならば、そこでのコミュニケーションの本質をもっと考えたい。ライブはコミュニケーションだ、という場所ではなにができるか。 こういうことを考えて、それは実践へと結びつくはずだが、いまはただ考えるだけだ。考えなきゃどうしようもない。僕にとっては「考えるな、やれ」という意見が強すぎたようにおもう。いまの時代の突破口を見つけないといけない。あとは、スイカ割りだ。 冷静さはロジックに不可欠です。
客観的になればなるほど、父っぽくなる。病気が顕在化すれば息子よ。 そのふたつの位相が矛盾し合うので、並立はない。ということは、明晰かカオスか。 カオスにばっかり挨拶していてもしかたないね、となってくればよい。文字の運びは、なにかが判断する。 無意識こみで、表現するには詩の言葉がいい。メタファーでなんでもいい。物語性をもてばどこかへいく。どこかにいかざるをえない。 外在的ななにかが侵入しそうになるのか。その防備反応か。システムが内部で偏りはじめる。整合性をとりたい、無視するか。普段無視しているのか。 それは「現れている」のか。それとも、自分自身で「生み出している」のか。なにかを「仮に投影している」のか。仮の友敵図式によって心情がのりきろうと、解釈しようとする。そのときその図式はどれだけ根拠をもとめるか。 いっさいの根拠はない。ぜんぶかりそめである。妄想、幻想である。そうだというと、それは突破口がないかんじになる。根拠をみとめる。そのうえで、突破口を探したいのだが、安易なる突破の試みは成功しそうにない。いや、それともそれはできないのだ。 いったい心情のトリガーはなにをもって仕掛けられ、解除されるか。その運動をあきらかにしたい。それは理解の助けになる。 内部へとひきこもりたい心情は、子宮退避願望のようなものか。外部があることそのものが、等しく異和になる。原生的疎外。その領域では、善悪が社会通念以前にもどる。おそらくはテロリズムとは関係ないが、短絡は可能である。それとも、宗教テロリズムとは無関係だがテロとは関係あるかもしれない。秋葉原のものをおもいうかべる。 行動と無行動。「あること」より「ないこと」が劣っている、という価値序列へ異和する。根本的にそうなってくると、バートルビーのようになる。ひたすら無言だ。一人の人間はなにを表現しうるか。バートルビーは無行動は行動と拮抗しうる、ということを表現した。本来、どこかにそうした心情は隠されているとおもう。どんな運動体にも。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 競合ゲームを勝ち抜いても競合ゲームの構造は変わらない。競合ゲームを競合でない、別様のやりかたでプレイする、というときはじめてオルタナティブはあらわれる。それは批評ゲームかもしれない。協同ゲームかもしれない。 表現ゲーム、をおもう。べてるの方法がそれにみえた。なにをやっても優劣ゲームに移行するだろうが、本質、はじまり、ゼロ点が近く、いつでも戻れるようであればいい。北初富にそれに近いものがみえたきがした。千葉近辺では少しちがう。もっと距離があり、なにか媒介している。それは東京-地方という関係、あるいは東京-郊外という自意識なきがする。千葉というのはアイデンティティが薄いとおもう。固有の土地、というより、埋め立て地が多いし。マザースというライブハウスはまったく知らないけど、ルックだって30年弱で、それ以上の歴史は千葉ではたどれない。といっていまからなにかやれるほど可塑性ものこってない感じがする。 もっと本質的なはなしをおもいだそう。人にとっての人生のスケール、それが場においてどう対応づけられるか、だ。つまり、人の死にその場はどう対応するのか。ライブハウスという場にとっても、そういうことは考えられていないと、人間の一生以上のスケールはみえない。 「いま」だけみてても、狂う。スケールをもっと考えてから、共同性を考えないと。伝統的な田舎は当然それができている。近代以降はそのスケールが狂いはじめて、落としどころがわからない。本質的な解決を見いださないまま、AIなどの次のテクノロジーでなんとか疑似解決しようとしている。すこし考え直したい。 相対性→否定神学 でなく 相対性→肯定人間学 を。 人間の相対性が、各人の相対的無価値へとつながるのでなく、相対的有価値へとつながっていく通路を構想する。 なんだか妙に疲れを覚えて、きょうは休みだったけれど寝てしまった。こういうときはだいたい精神的にも詰まった感がある。
朝から昼に「スマホで朝生」なる番組をYouTubeでみた。3月の放映分。AIについての議論。堀江貴文と落合陽一などが出演。 AIについての知識。それへの考え方。AI危機論。人文知や既存芸術との折り合いでつい考えてしまうが。 いやでもよくてもAI技術は発達して生活にも更に入り込んでゆく。社会で存在感も増してくるし影響力も増してくる。 宮台真司がいう「主体」というのとかかわること。いま、僕がこうして考えて書いていることも、脳科学的に解けるしAIやビッグデータのリソースとしても解ける、として、「文学」の有効性はどうなるだろう。「自己表現」というものの、そもそもの有効性は、普遍的な価値にかかわるなにかではない、ということになるか。 AIに関する議論は整理が必要だとおもう。 さんざん、いろんな人の「ライブ」を見てきた。彼らがステージ上で歌う、そのとき、彼らはなにをしているか。それはとても生身な行為で、その限りでAIには代替できない。人間が人間であったという歴史、古代からの音楽のコミュニケーションの歴史というものもたぶんある。 AIは、ラクさせてくれる。目の前に作曲してくれるAIがあったら、とりあえず使うだろう。出てきたものが良いか悪いか判断するのは僕だ。 そこで失われるものがあるとしたら、吉本隆明的な考えでいけば、やはり沈黙にかかわるはなしだとおもう。 書道というのは筆跡をみるんだ、というはなしを聞いたことがある。そこに書かれているカタチをみるのでなく、むしろ筆者の筆のはこび、書くときのいきおい、なんかをみるのが書道の鑑賞なんだ、と。つまり結果でなくプロセスをみる、想像するんですね。 となると当然、AIにはプロセスがその意味で「無い」のだから、その分だけ「つまらない」。これは、芸術的価値にかかわるとおもう。ただ、じゃあその「プロセス含めて鑑賞する類いの観客はどう確保するか」という問題。ゲンロン4のことばでいえば、「批評というゲーム」が機能するには観客が要る。批評は観客を要請する。だからみんな、観客になれよ、と。 観客がいることで芸術の場が保たれて、再生産可能になり、それが文化になり、人間社会に根付いてゆき、局面で物事の是非を考える能力になったり、感情の豊富さになったりする。文化にはいろいろ、良い面があるはずだ。 最近おもうのは、「文学なんて役にたたねえ」「でも役に立たねえからいいんだ」という意見の退き。吉本隆明はそう言っていた派。この段階では、「役に立つ」「役に立たない」ということばの使い方がいまと変わってきたのだとおもう。高次産業社会より前の感覚なのかな。つまり食う食わないに関係ねえ、ということ。だけど人間に必要な、人間たらしめているなにかだ、と。 こういう言い方から、背景が変わった。文化芸術の有効性を文化芸術自身がアッピールしないといけなくなった。自らの必要性、必然性を自己証明しないといけないんですね。価値相対主義において。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 30才は成人式。「成人式」が行われるようになったのはいつ?そのときの平均寿命といまとの比較。 べてるの家の当事者研究。研究というと公へ提出するもの、というニュアンスが濃くなり、それがいいのだ。「自己反省」だとまだ内側にとどまる感がある。社会化への道筋がつくことが突破口になる。 生まれたことに意味がある、と人間がいえるか。個々人がそういえるか。時代が変わっても、AI時代になっても、その条件は変わるだろうか。生まれ、生きたことに価値を見いだす考えが深まっていかないといけないだろうが、今後の状況に対応しないといけない。条件は変わる。近代意識を更新する必要があるということだ。それは当然のことで、でもうまくやられていない。必要なことはまだまだ手つかずのままとおもえる。 ステージに立つ、歌を歌う、ということは、けっこう不思議なことだ。これは、なんだ。ある種の憧れゆえか。そうかもしれない。この「歌」というもののメッセージに、別様のなにかを込める試みをやりたかった。間接話法でイメージをつくる。可能性を出現させる。 ある理想の場の状態。理想の場のイメージがなんとなくあって、そこに近づきたい、という願望がある。それを追い求めているともいえた。理想の場はじゃあどんな条件に依っているだろうか。それは僕にとって「生きやすい場」ということがはじめにもとめられる。誰であっても「自分にとって生きやすい場」をもとめるだろう。さらに、挑戦的でなくてはいけない気がする。これは自分の資質の延長線上で、自分の得意な挑戦ということになるだろうか。自己暴露だって挑戦だけど、とくいなことかもしれない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「苦労を取り戻す」か。 正義と悪が、反転しますよ。それは、かくされたなにかの結果で。 具体的になろうとしないので、それはポエムたるのだった。 いいか、悪がはびこっている。 いいか、正義が悪をやっている。 正義が悪いんだ。みんな正義が悪い。 ポエムだけ。やりかたはポエムだけ。 いや、もっと、具体に、、、。 そうなるときは散文だった。 散文の先に、他犠牲的な暴露があって、、、。 私小説は破壊する。 まず、破壊衝動。 悪が正義になるだろう。 悪が正しいからだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 例をあげたい。なんだろう。世にも奇妙な物語。つまりなんだろう、常識というか、自民党の憲法草案。あれの家族愛、素朴なことを議員さんはいうが、そういったものの悪性だ。 過去も未来も無視したいまへ。 素朴なことを僕もいいたい。意味が不明瞭でもいい。意味が不明瞭で、それはでっちあげない。意味が不明瞭とはなんだろう。 さけていて表現していて、それはマシュマロマンのような体躯で。精神運動の普遍性にくらべれば彼の理屈なんて人工的な蝋細工にすぎない。人間として生きていくことのいくつかの困難な側面をスルーするか否か。スルーする技術、スルーすること自体の是非。 話が通じないので、こころがそれだけ壊れ疲れた。壊れ疲れたことをつきつけたいので公にそれを公表しようかとおもった。おもいうかぶリベンジポルノ。犯罪への共感と理解の契機はあるのだが。 人殺しは善である。テロの人たち、そう教える教育効果があるとおもう。それはイメージの段階からくる。反転する。価値を反転することに惹かれるのは、価値を憎むからだ。 少し混乱している。おちつこう。おちつきたくない。いいか、善悪とか倫理とか、それが主張されるときは当人の当事者性が肝要だぜ。どこから言葉を発しているか。僕は、精神の言葉が、ポエムになるとき、現実はかっこに入るんだ。善意の人間は悪い。そうとしかおもえない。 曲がり角に来た。電柱。ぶつかると、ごん。すべて世界がまんがになる。一時避難所としての低次空間。昔のファミコン、ドット絵。 自分の発育とともにゲーム機も性能があがって。そういう意味での同時代性はテレビゲームが一番ある。新しい技術、ハード、それはわくわくするものだし、期待と希望があるもの。 ときどき、スパロボをやりたくなる。あれは、アニメごとの文脈があって、機体や操縦者に感情移入した。物語性があった。そういうもの。そういうものを動かすこと。赤い敵がいて、最適手順で倒すこと。経験値、獲得金を最大限もらうこと。機体や操縦者を強化すること。 指先の操作で世界を制覇し勝利できた。それは「成功体験」と呼べるだろうか。ゲームのなかでの苦労は苦労と呼べるだろうか。そうでなかったら、それはなにであって、なんの時間だったろうか。 なぜ、人は、自分の世界観を人におしつけようとするだろうか。それは善意だ。善だからだ。もうすこし、自分を疑ってみたほうがいい。違う視点で考えてみよう。僕が反論したとして、それでも、話が通じない、またふりだしにもどる。 話の仕方が悪かったろうか?文書にしてのこそう。外交文書のように明確に書こう。文書を基点にしよう。また話すときは文書をふまえてやろう。 |