千葉雅也『勉強の哲学』
これもおもしろいなー。 p29 読んでて思いついたのは、バンドやめる人間って要は「そもそも音楽やってない」人間なんだ、ということ。つまり「結婚相手の家族に自分のやっていることを説明する言葉をもたない」ということが根本的な問題。再帰的な意識から自分のやっていることを見つめ言語化し、加えて市井の人が理解できる大衆的なことと接続しわかりやすくするのだ。脱コード化がまずないとお話にならない。 こういう本が出てくる背景には、SNSおよびネット時代においていろんなことを考えなきゃいけなくなっていて、だけど人文知はそれに答えを与えてくれなかった、という状況がある。新しい時代、状況に対応した、そこにおける人間社会のありようによく応えた思想哲学のコトバ。 p31 他者依存的に構築された趣味嗜好、ね。音楽文化のことにおいてもいえる。自分は常に着衣なら、音楽文化も他者から着衣されたものだ。だから逆に音楽文化を継承ないし創造したいなら、自分から他者に着衣、いや、自分の来ている衣を他者にほどこさないといけない。 そこで批評は役に立つし、もっと直裁には好きなもの評論が役に立つ。吉本隆明の本をYouTubeで紹介すればてっとりばやく継承ができる。尾崎豊でもそうだ。間接話法としてカバーやパロディがある。 ここらへんの議論は「関係の絶対性」に近い。 「一人ノリ」をすごくすることが大事なんだ。それが作家や芸術家のできること。単に「脱ノリ」じゃない。 言語の透明性のはなし。透明=日常言語。不透明=概念言語、人文やら文学やら科学やらの非日常的言語。たとえば町田康は透明性を保ったまま(ことばが浮いた感じにならない)で高度なことを表現する。それはある種脱ノリを果たしているが、ノリが悪いわけじゃない。いいかえれば、共同的なノリとまったく合わないわけじゃなく、それへの突っ込みとして機能できる。高橋源一郎はたぶん意識的にことばを透明にしてはいるが、いくぶんノリが悪い印象。使い方がくだけていないのかな。用法が普遍的というか、スラング(文法、用法においても)の可動性が町田康にくらべたら低い。 p48 言語の異物感、器官なき、文脈から脱落した生の「コトバ」。そんな領域でこそ言語の操作が自由になり、詩や文学がはじまる。 俺が中学でひきこもって学校に再会したとき、同級がバカにみえた。ノリを無理矢理やってるような。もう小学生のようには無邪気にノレない。けど共同性をたもつにはノルふりするしかない。そんなのが滑稽だったし哀れだった。それは俺にとって「詩のおとずれる機会」だった。現実を距離をもって眺める視点から詩がやってきた。 きもい。これは大事だ。 HPアイデア:やらかす≒きもい≒新しい自分になる。 昨日は敗北気味だった。けっきょく自分が主体なので、メタの視点ばかり意識していてもしかたないし、その議論ばかりされるとこっちが段々ずれていく。もちろんそんなことわかっている、が、わからなくなってしまうタイミングが危険だ。 強そうだったり前向きなかんじだったり男性的なかんじだったり、が重要で、もうそれはポーズのとりかただけど、でもポーズというのは重要だ。 ところで食楽市場のような場所でまともに観客を相手にできるだろうか僕は。どうもイメージがわかない。大まじめにやるか、ふざけたふりするか。なんにしても気楽で和気あいあいとした雰囲気を疎外しそうで、それはどうなのかと自分でおもう。場所が大事だ。表現に適した場所がある。場所に適した表現がある?でも、そんなこといってたら決まり切ってしまう。カオスが必要ならば、カオスの主体になる覚悟も必要だろう。そこで重要なのは予測をつけること。観客がついてこない、明らかに場にそぐわない、みたいな空気をかんじても、あらかじめ予測しておく。その上で大事そうなことをおさえる。「そこまで言ったらおんなじだよ」と演者と観客の双方がおもえることがらがあるはずだ。 強い言葉。ポーズは強さを要求する。強さのポーズは。じゃあ弱さはどうなるだろう、ということがある。弱い言葉、弱さの言葉を、吐ける場があったほうがよいのだ。それは詩になるだろうか。散文よりも、詩の方法の方が、自分になじんでいるきがする。 彼が生きるに値する世界、場。もしくは、場はあっても世界総体との関係において劣勢感情がぬぐえないことが絶望のタネかもしれない。 おう、そこにいたかあ。
ここにいるのは、おれだけだあ。 スケールフリーとスモールワールドの二層構造。 「ネットワークの死者」への社会的対応とリアルの死者への社会的対応の関係。 基本的に「つながり」の上でしか、人は人を追悼しないとおもわれる。 「欲望」させること。 あれこれ考えつつも、身体(行動)はスケールフリーの次元に適応させること。その「あえて」の意識の強度を身につける、か。 ということで、バランスというか、分人というか、いくつかの「モード」を切り替えながら意識的にやっていけないと、どうにも有効打は見いだせない、ということになっておる。単に「売れればいい」だけではだめだし(俺はそもそもそれできないが)、本質的なことのみを集中してやろう、というのもたりない。 ツイッターつぶやくのとか、やっぱおっくうなんだ。曲作るのだってじっさいは。ライブするのだって大変だ。そういうことを、やらないとかき混ぜられない。やる気を出す際の障壁はとりさっておきたい、その一部が、表現すること自体の意義の意識と、それから「見られる」ことへの不安の除去。もっと無責任に、という「観光」意識はよいきがする。 ツイッターには強制力がないから、したがって任意に自発的につぶやかないとなにもない。発信するということはそういうことで、なにかしらのモチベーションを調達しないといけない。それが習慣でも大義でもよい。 ほんとうは、まとまった塊として表現=作品がいるので、フローする表現=つぶやき、ブログなんかは、あまり有効性はもとめられないのだ。だけれども自分のリズムや蓄積や態勢のためにそれをやる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 東浩紀のいろんな本を読んでいたら眠くなってしまった・・・。僕はあくまで単なるミュージシャンにすぎないので、理屈めいてばかりいてもしかたない。自分が小さい個人としての単位であることを自覚すると落ち込む、という状況はよくない。むしろそのゼロ点を支点にして組み立てる式の実存がないといけない。 人を巻き込んで他人に欲望させて、、、とか、あんまり戦略めいたことを考えようとしても、結局自分が耐えられないし構想しきれないしなにより行動しきれない。ということなので詩を書いたり演奏したりしているのがよい。頭をそっちにいかせる、ということとのバランスをもっとうまくとりたい。 「役に立たない」とか「意味のない」こととか、無効なこととか、そういうものの方へいかないといけない。なんというかそこらへんの意識も二層構造だ。メタでは「有効性」をおいもとめ、主体としては内部の動きを観察する。詩を書くときに、理屈は必要ない。理屈がこわれたところも詩になる。 自分がいままで生きてきたコースと、なにか踏んできてしまったらしいそれと、批評的書籍の言葉のなにもかもが、自分をダメ出ししているような、あるいは無視しているかのような、なんというかの心境であり、そういうところから抜け出したい、救われてみたい、というところで、詩を出発させるというのは、またもや、苦し紛れの、ほめられない、アナクロな、軸のない、行為・・・。 高橋源一郎、失語症。そうだ。そうなんだよね。
「コミュニケートしたい」そうだ。そうだよね。 愛がすぎさってゆく 瞬間を濃く見つめなきゃ いま とか これ とか 濃く濃く 圧縮! して、いいかんじで出さなきゃ あなたに飽きられちゃうからね 恐怖だよ そう考えると 俺は恐怖とおもってんだよ ね びくっとした? そんなかんじの神経も刺激しようよ 飽きちゃうからね えーと 言葉を壁にして使えば使うほど あれこっちの かんじたことも 出ないような 外に出ないようなきがします こんなはずじゃおかしいな 表情とか 涙とか 感情 そういうふうにしか出せないけど それもぎりぎりだね 存在 生身の 次元で 自信がない のか AIとかが怖いきがしてしかたない 俺は 精神だけでできてるぜー だから AIでおきかえれるぜー と いってもまちがいじゃない みたいな 人の 意識の 重心は 人によって 外 内 それぞれ このふたつの目でなにをみるか こころの目 こころをみる でもみえるのは 俺のこころ 俺のこころだけ きみのはみえない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 存在倫理。ただあることだけでもって、その価値。 「俺なんていてもいなくてもいい」とおもっているところの人間の価値。 自殺する直前の人間の価値 と 自殺した直後の人間の価値 人間に、価値があるとかないとか、そこらへんの目つきを、解体しないとな。 あいつらのように、こいつらのように、おれのように、カラスのように やらしいひきょうな連中が 言辞をついばみ鳴いている おう おう おう おう 人生のプログラム だとぼくたちは解して いたけれどそれも 限定された時代的な おもいこみにすぎなかった これから それもなく まったくの むきだしの 細胞とひとしい生命体として 銀河鉄道の妄想めざしてすすむ そこでしあわせなぼくたちの えいえんの さいわい みつけます となる そこで fin. だ なにしろ 意識 はすばらしい これをてばなすな おれのものだ おれたちのものだ 戦争して それでもきたえた つぎの時代に渡した 血がついた言葉を 無意味にさせてたまるか ああ こんな うしろむきの 古い 喪失が もうぼくたちの 妄想状態をあらわしている お医者さんが しあわせなまんまで 完璧な治療を ほどこしてくれる しあわせなまんま 妄想しつづけられる 生きることはかるい 中身がない そこにはなにもない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『幽霊の復讐』 なんて 言葉にすればいいんだろう たどり着くべき場所が とても遠くにあるような・・・ きのうまでは 忘れられていた その遠さと自分の無力さに・・・夜の風が窓の向こうで吹く 幸せにするから 幸せにさせてほしい 見捨てつづけてきた 僕自身のつめたさのせいで 夜の風にあたることもできない・・・ こんな弱くて醜い自分を 受け入れて・・・もっと近くに・・・ 道がみえた たどりつけそうだと 思うほどにかならず震えが\寒気がやってくる 明日にすすむのが 怖くなり 昨日にすすむことばかり・・・それがほんとだと思って・・・\嘘じゃない、それがきっと、嘘じゃない 超えなくちゃいけないんだ ああそうなんだきっとそうなんだ 遠いところにあるものだから 僕は体をおきざりにした・・・ 幽霊が僕に復讐する・・・ 僕の幽霊が僕に・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー つかれた ただそれだけだ 自意識がすりへり 無意味さにこだわれなくなり 身体が滅んでゆくから しかたないさ と 『絶対孤立の原則へ』 裏返ってしまうほどの生命の鳴き声をだせ あらゆることから目をつむり存在することだけで なにも手にとらないしいらねえし知らねえしの なにもかもはぎ取った存在になれ そして精神が右から左に横切った そのイメージと現実をひっくりかえせ なにもかもから無視され否定されて それだから生きられる場所のため 偶然の延長線上にいまも未来もあり それからひどいことも恵まれたこともあるのなら これからなんの根拠もなく徘徊して 街と社会を汚してもかまわないだろう ゆるくできあがったその堅固な家を うらやむことはあっても建てることはないから 無限にどうでもいいとあなたがたがおもう なぐさめのための業をやらせて きれいな きれいな ものを覚えたから そこで歩く理由ができてしまったんだ 愛する人を必要としたから 愛することをつくろうとしたんだ・・・ ねえねえ 呼びかけると ねえねえ 答えてくれる・・・ 呼びかける人が消え去ったあと 一人が孤立して向かい合わなきゃならない きれいなものの その誘惑に 向かい合って勝つことをもとめられ はじめから やりなおすんだ 存在は ほらここにあるんだ 呼びかける声を ただの叫びにして なにもかもから降りた場所で ねえねえ もうきかないよ ねえねえ もういわないよ A どうだ。
B えーと、理論じみてきても、詩にはならないのな。 A いま、じゃあ歌の現場において、インパクトできる曲を作成したいよな。その意味では、ループやエフェクトというのは手段としておおきい。そのうえで、明るい曲もほしい。それでいてメッセージももとめる。 B モチベーションの向きなんだよな、問題は。現場みることではじめて照準が合うというか。普段はやっぱ、日常のレベルだとライブハウス的な「非日常」はようわからんのだ。 A 場の理論と俺の個人の課題はちがうさ。ただメタ視点、状況認識はもっておきたいからな。単なる音楽まっしぐら、というのは俺はちがう。それはわかってる。つもりであってもそれでいく。 B ところで辺見庸のことばって、いつでも詩になるよな。あれは、理論じゃねえんだ。時事問題を前にしてもね。あの立場をぶらさないのは、けっこうすげえな。 A 詩はやはり<私>でないといけないよ。そういうことばを薄くしちまっちゃあだめなわけで。でもまあ理論も必要な段階だね。相互作用ということでいい。自分の内部意識も二層構造というわけでね。 B 実作者と批評家と。オルガナイザーにもなりたいのかね? A というか、俺は俺が生きやすい場がほしいんだよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 歌は、感情がないと書けない。論理は、感情を排したところで書かれる必要がある いま、こうやって文章を投稿しているけど、もっと「音楽」を投稿できないと、そっちのモチベーションも保っていけない。詩でもいいし。インプットもだから音楽のインプットを、やってく必要があるけど、アップルミュージックやってからは要は過去の音源も簡単に手に入る、ということが、主体的に掘ってく感じと矛盾するというか、やっぱ「買う」ってことが一種のトリガーになってる面はあったろう。たとえばガスリーとか聞いて、いろいろ思ってもいいんだけどね。なんだか「これもスケールじゃねえか」とおもうとしらけるよなあ、我ながら。音楽というのは、「流通してる」ということ自体がルサンチマンの種だ。ルサンチマンを排して聞けないといけない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 細部。あわれみ。 読む俺。実践への俺。最終的な理想はこれこれ。 そんでもいま中途でおれおれ。 『秘密のコミュニティ』 図書館で本を抱えてた 俺の頭には理論があった おまえに言えない、今は言えない 秘密のコミュニティ あの子とこの子がドッキング きりきりする空気はおしまい うらやみうらみ、ひきずりあった 不幸を願うコミュニティ 愛する人、あこがれる人、もう二度と会いたくない人 気まずかったりのりきれなくて、苦い思い出に・・・ オサラバしたくて! 図書館でひとり企んだ おたがい嫌いな人たちが 不意を突かれて出くわしてしまう 秘密のコミュニティ ドックワドックワ・・・ ドックワドックワ・・・ ((おいおい、お前、こっちに来るなら来るとき用のチケットをもってきてくれ-! 話をするんだきいたりするんだ、コミュニケーションコミュニケーションコミュニケーション 自分をさらしてお金をおとしてこのコミュニティに貢献しなさい!)) 私には私なりの スタイルってものがあるわ つまらない意地の張り合い 俺にはあんまりピンとこねえ そしたら俺も俺だって 鈍感なくくりにはいった 赤だの青だの黄色だの くすんでばっかでめんどくせえ 小さくて、わがままで、はた迷惑で くだらない、滑稽な、尊敬できない・・・ 人になってゆく! 俺には俺のやりかたが あるけど、お前もやってみろ 図書館で俺は一人きり けど頭にはコミュニティ あ、秘密のコミュニティ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『お姫様の一本道』 くだらないことはやめにしよう そんなこといって!私たちの、営みを、見えなくしてしまわないで! お前らはもっと、立派になれる 私たちはもう、信じられないし!もう、疲れてしまったの! 毎日毎日(つまらない)うだつのあがらない仕事をしすぎてまいってしまったわ 私、こんなところでは、私が誰だか、きっとわからないわ 少女の頃とくいだった お姫様のまねが もう冗談でもできない わたしの家来に ご褒美をあげるわ みんな私に 憧れてるらしいわ 大人になるなんて想像できないけど はるか先の未来に 星のかなたから 龍にのった王子様が くるのよ! 当たり前に時はすぎては 大人になることを知る なんにでもなれたけど 君は君だけにしかなれない 今日は昨日の、もう何年もの、老廃物のせいで動けなくなった 体にもいつのまにか、だけど心にあるなにか満たされない空間が 反乱(氾濫)しそうなの、ごめんなさいおかしく見えてしまったら ああこんなときに、だけど 王子様は こない 間奏 大人になるまで君のとおった 道が一本の足跡になる なんにでもなれたけど 君は君だけにしかなれない あしたの一歩もまた、足跡に・・・ 私たちに私たちの、希望できるあしたを! 私たちに王子様の、かわりのなにかを! 図書館にきた。GW、ゴールデンウィーク。
『新平等社会』 モチベーション格差。「希望は努力が報われると感じたときに生じ、努力が報われないと感じたときに絶望が生ずる」勉強しても報われない?勉強努力保障システムのおわり。新しい価値観を「本気で」支援し推進する。 結局、ひとびとは、あんまり他人を信用しないし、連帯もしない。ほうっておけば孤立して損をかこっていく。モチベーションの格差、と表現されるものもある。 『ネットと愛国』 居場所のために。主張よりも、団体というのは「共同体」だ。なぜそこに参画するか。主張と居場所。 『「生きること」と「死ぬこと」 人はなぜ自殺するのか』 「自殺の直接動機は、結局のところ価値観の挫折と関係がある。~~どの自殺をとりあげてみても、一つとして同じ自殺はないのである。」 『90分でわかるサルトル』 結局、生き方はサルトル的な、あるいは吉本隆明的な、実存主義を強度の根拠としてもつしかなくなってくる。それでAI=人工知能の問題もその展開として理解し、修正として対応したい。「人間性」というものが置き換えされていくとしたら、最後の人間のよりどころはなんだろう?ということは、しかし考えさせられる。それは思考実験だろうか。それとも現実化していく喫緊の脅威だろうか。 価値観、という外部設定と、実存主体の能動性。それの関係の仕方がどうなのか、という問題。そのぶつかりあい。 じゃあ、そのぶつかりあいの「舞台」はどこに設定されうる?スケールフリーとスモールワールドのあいだに。誤配を期待して。 価値相対主義からなにかを主張するものへ。そして評価経済の流脈に対し実存が等価原則をもって抗う。新鮮な「価値観」が生成され、それが維持されるためにコストがかけられなければならない。そのアイデアを生み、つくる。 在特会でもなく、べてるでもなく、SEALDsでもなく、草の根のミュージシャンの集いかたがなければならない。音楽はなにを主張しうるか。「生身」であること、「ライブ」であることの特性。承認ハードルを下げること。そして承認欲求よりも高い実存的強度をもつためには。単なるなれあいではなく、会員制のようなありかたなのか?僕がみたいのは、既存の技術の優劣をもとにした価値観ではおどろくような、別種の自由さ。別種の表現の力。 単に「表現の場(機会)」と、それへの賞賛、だけではたりない。やはり、批評が機能することはたいせつだ。ジャーナル、メディア、深掘りする情報。ミュージシャンといえども、歌うだけではアーティスト性を確保するのは難しい。文芸批評的アプローチ、ロッキンオン的?アプローチ、もっと瞬発的な寸評の充実、評の表現はツイッターで間接的にやってもその場でやってもいい。もっと「評する」ことがだいじとおもえる。そしてその評を外部へおくること。もっと誤配を企むこと。 内部的に、場で場を高め合う工夫、意識。もっと本質的なはなしを交わしたい。交わせる場があったほうがいい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 18:35 食楽市場へちょいと。千葉。ぷらぷら。サンマルク。なんというか、モチベーションの管理がきっと必要。書籍ばかりインプットしていると、そっちにばかりいくので、音楽の現場をみたい。音楽の現場でなくても、WEBで確認できる音楽、YouTubeやツイッターやツイキャスや、それなりにある。でも、僕にとっては音楽の場の意味は「知り合いに会える」ことだったりする。 音楽そのものを楽しみたい、ということと、知り合いに会いたい、というふたつが並行してある。なじみの連中、というのは有意味なこと。そのなかで、もっと成果を出すには、きっと乱暴なくらい深掘りする蛮勇が一瞬いる。 ゲンロン0をちょいとめくりなおすと、「再誤配」というキーワード。固定しがちな数を偶然性に再誤配する。音楽の場でいえば、ある程度名のあるミュージシャンとの対バン。ひと目にさらされることがおもいうかぶ。現状のままでは格差は固定化。世界にもっと偶然性、流動性、平等性をおもいださせるには、認識と方法がいる。 ほぼ日、糸井重里とインターン生の対話。人生はスイカ割り?「こっちだよ」の声を間違えないことが大事。いろいろと示唆のおおい対話。基本的には、根っこがだいじ。 いくつか考えたいこと、というか、常識的にはAだけど俺はBだ、Bの方法でいくんだ、といいたいことがらがある。ライブの方法、ありかた、というのはそれ。「客数」と「演者数」の考えなおし。「ライブにおける成功」というものの考えなおし。現状、ライブに対する考え方は硬直していて、とりあえず動員数以外の成功の価値基準というのは実はあんまりない。それにしても動員数というのはなんだろう。もちろんそれがなければライブハウス自体が成り立たない。しかしただその場限りの人が来ただけでは場は次につながらない。次につながっていく、ということがサスティナブルなコミュニティになっていく。ならば、そこでのコミュニケーションの本質をもっと考えたい。ライブはコミュニケーションだ、という場所ではなにができるか。 こういうことを考えて、それは実践へと結びつくはずだが、いまはただ考えるだけだ。考えなきゃどうしようもない。僕にとっては「考えるな、やれ」という意見が強すぎたようにおもう。いまの時代の突破口を見つけないといけない。あとは、スイカ割りだ。 |