今日は休日であるからして「ちはら台ユニモ」にて本を物色。さまざま興味深いことがらを立ち読む。一冊も買わず。
サド、マゾ。変態。欲望。享楽。俺ってどう見られてんのかなー、てゆうかあいつまじキモい、なに息してんだよハゲ、、、こういった循環のなかの人間の関係性のトリック、とりこ、享楽の循環の自己解釈をわがものとし、もっと平易にがんばってこう。とおもった。 「どう遊ぶか?」「いかに楽しむか?」「自由になれるか?」「そこでリスクはどう見積もるか?」、、、などといったテーマがあり、それらについて、いまの感触だとかなり無責任になってきている。どうでもよい。どうでも、よい、と言えることはかっこいいね、とか感じていられるとしたらそれも享楽の一種だ。立派なんだ。なにを言っても立派。 なにを言ってもやってもぼくたち結果中途半端、という題名。なのだから、気張らず、半端さを折り込んでいこう。本は半端にしか読めない。つまみ食いしかない。道は極まらない。上には上がいる。そして下にも下がいる。横にもいろいろいる。失過した、とかいちいちおもうな。 一番の思想とそれ以外の思想。肯定的になるために二重構造を利用しよう。元気の出る思想。サルトルの実存主義を勝手に自己解釈して元気になろう。元気になれることが重要だ。とりあえずそれは正しい。 そんなことを考えていたら、もっと積極的な自由=パロディも問題になってきた。ソローキンという人は過激に実在人物(スターリンとか)をパロってた。さて、いま、安倍さんと、誰でもいいけど稲田朋美、櫻井よしこ、長谷川三千子、、、などといった人物、こういう人たちが乱交したりSMプレイしたりする、みたいな文章を書いたらそれは炎上するだろうか。そもそも、そういう種類の文章はわりと使い古された文学手法かも。とおもうけど、逆に、そういう文学も許されないとしたら状況としてどうだろう。少なくとも、そこには勇気か野蛮か無謀かがないとできない感じのなにかがある。 状況は非常に細かく、面倒な次元にまでおよんでいるように見えて、公人か私人かとか(稲田朋美はいいけど櫻井よしこ、長谷川三千子はNG?)、名誉毀損の問題、人権、それから表現の自由などなど、ぶつかりあって矛盾して落としどころが見つからない。筒井康隆の慰安婦像についての筆致など、炎上するとそこに「問題」があるように思えてくるが、本来たいしたことじゃなかったのかもしれないともおもう。(東浩紀は日本語圏だけで読まれる場合と、韓国語圏でも読まれる場合で意味合いがちがう、ということを宮台との対談の質疑応答でちらっと言っていた。つまりコードの差異で表現のアリナシは変わる、ということだろうか。) 当然、ほんとうに何をしても何を言ってもオッケー、許される、ということではない。たぶん。いや、文学の世界の内側においては何を表現しても自由なはずだろう。けれど公共的には異なる。そこで異なる次元が重なり合っている、ように見るか見ないかの立場でも変わってくるだろう。 ではどう線引きすればいいか。というか、線引きはどうなされるか。線引きするのは世間であり大勢だ。じゃあ個人の表現者はどう自分の表現をチェックすればいいのか。ということは当然気になる。そこを何も考えないとなると、無謀になるか、コードの範囲内で無難になるかしかない。 無責任になる。いっそ無責任になる。最終的には、無責任。それも一種の決断主義か?まあ考えても埒あかぬからやっちゃえ。やってみよう。いってみよう。 加害がある。被害もある。そして加害や被害にセンシティブになりすぎると、観光はできない、というのも現実である。人は人に迷惑をかけないと生きていけない。そもそも生きていくのに他の生命体を食している。命を奪って我が命を延長しているのだ。ただそういう加害は目に見えない=無意識化されている。 おう、そこにいたかあ。
ここにいるのは、おれだけだあ。 スケールフリーとスモールワールドの二層構造。 「ネットワークの死者」への社会的対応とリアルの死者への社会的対応の関係。 基本的に「つながり」の上でしか、人は人を追悼しないとおもわれる。 「欲望」させること。 あれこれ考えつつも、身体(行動)はスケールフリーの次元に適応させること。その「あえて」の意識の強度を身につける、か。 ということで、バランスというか、分人というか、いくつかの「モード」を切り替えながら意識的にやっていけないと、どうにも有効打は見いだせない、ということになっておる。単に「売れればいい」だけではだめだし(俺はそもそもそれできないが)、本質的なことのみを集中してやろう、というのもたりない。 ツイッターつぶやくのとか、やっぱおっくうなんだ。曲作るのだってじっさいは。ライブするのだって大変だ。そういうことを、やらないとかき混ぜられない。やる気を出す際の障壁はとりさっておきたい、その一部が、表現すること自体の意義の意識と、それから「見られる」ことへの不安の除去。もっと無責任に、という「観光」意識はよいきがする。 ツイッターには強制力がないから、したがって任意に自発的につぶやかないとなにもない。発信するということはそういうことで、なにかしらのモチベーションを調達しないといけない。それが習慣でも大義でもよい。 ほんとうは、まとまった塊として表現=作品がいるので、フローする表現=つぶやき、ブログなんかは、あまり有効性はもとめられないのだ。だけれども自分のリズムや蓄積や態勢のためにそれをやる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 東浩紀のいろんな本を読んでいたら眠くなってしまった・・・。僕はあくまで単なるミュージシャンにすぎないので、理屈めいてばかりいてもしかたない。自分が小さい個人としての単位であることを自覚すると落ち込む、という状況はよくない。むしろそのゼロ点を支点にして組み立てる式の実存がないといけない。 人を巻き込んで他人に欲望させて、、、とか、あんまり戦略めいたことを考えようとしても、結局自分が耐えられないし構想しきれないしなにより行動しきれない。ということなので詩を書いたり演奏したりしているのがよい。頭をそっちにいかせる、ということとのバランスをもっとうまくとりたい。 「役に立たない」とか「意味のない」こととか、無効なこととか、そういうものの方へいかないといけない。なんというかそこらへんの意識も二層構造だ。メタでは「有効性」をおいもとめ、主体としては内部の動きを観察する。詩を書くときに、理屈は必要ない。理屈がこわれたところも詩になる。 自分がいままで生きてきたコースと、なにか踏んできてしまったらしいそれと、批評的書籍の言葉のなにもかもが、自分をダメ出ししているような、あるいは無視しているかのような、なんというかの心境であり、そういうところから抜け出したい、救われてみたい、というところで、詩を出発させるというのは、またもや、苦し紛れの、ほめられない、アナクロな、軸のない、行為・・・。 図書館にきた。GW、ゴールデンウィーク。
『新平等社会』 モチベーション格差。「希望は努力が報われると感じたときに生じ、努力が報われないと感じたときに絶望が生ずる」勉強しても報われない?勉強努力保障システムのおわり。新しい価値観を「本気で」支援し推進する。 結局、ひとびとは、あんまり他人を信用しないし、連帯もしない。ほうっておけば孤立して損をかこっていく。モチベーションの格差、と表現されるものもある。 『ネットと愛国』 居場所のために。主張よりも、団体というのは「共同体」だ。なぜそこに参画するか。主張と居場所。 『「生きること」と「死ぬこと」 人はなぜ自殺するのか』 「自殺の直接動機は、結局のところ価値観の挫折と関係がある。~~どの自殺をとりあげてみても、一つとして同じ自殺はないのである。」 『90分でわかるサルトル』 結局、生き方はサルトル的な、あるいは吉本隆明的な、実存主義を強度の根拠としてもつしかなくなってくる。それでAI=人工知能の問題もその展開として理解し、修正として対応したい。「人間性」というものが置き換えされていくとしたら、最後の人間のよりどころはなんだろう?ということは、しかし考えさせられる。それは思考実験だろうか。それとも現実化していく喫緊の脅威だろうか。 価値観、という外部設定と、実存主体の能動性。それの関係の仕方がどうなのか、という問題。そのぶつかりあい。 じゃあ、そのぶつかりあいの「舞台」はどこに設定されうる?スケールフリーとスモールワールドのあいだに。誤配を期待して。 価値相対主義からなにかを主張するものへ。そして評価経済の流脈に対し実存が等価原則をもって抗う。新鮮な「価値観」が生成され、それが維持されるためにコストがかけられなければならない。そのアイデアを生み、つくる。 在特会でもなく、べてるでもなく、SEALDsでもなく、草の根のミュージシャンの集いかたがなければならない。音楽はなにを主張しうるか。「生身」であること、「ライブ」であることの特性。承認ハードルを下げること。そして承認欲求よりも高い実存的強度をもつためには。単なるなれあいではなく、会員制のようなありかたなのか?僕がみたいのは、既存の技術の優劣をもとにした価値観ではおどろくような、別種の自由さ。別種の表現の力。 単に「表現の場(機会)」と、それへの賞賛、だけではたりない。やはり、批評が機能することはたいせつだ。ジャーナル、メディア、深掘りする情報。ミュージシャンといえども、歌うだけではアーティスト性を確保するのは難しい。文芸批評的アプローチ、ロッキンオン的?アプローチ、もっと瞬発的な寸評の充実、評の表現はツイッターで間接的にやってもその場でやってもいい。もっと「評する」ことがだいじとおもえる。そしてその評を外部へおくること。もっと誤配を企むこと。 内部的に、場で場を高め合う工夫、意識。もっと本質的なはなしを交わしたい。交わせる場があったほうがいい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 18:35 食楽市場へちょいと。千葉。ぷらぷら。サンマルク。なんというか、モチベーションの管理がきっと必要。書籍ばかりインプットしていると、そっちにばかりいくので、音楽の現場をみたい。音楽の現場でなくても、WEBで確認できる音楽、YouTubeやツイッターやツイキャスや、それなりにある。でも、僕にとっては音楽の場の意味は「知り合いに会える」ことだったりする。 音楽そのものを楽しみたい、ということと、知り合いに会いたい、というふたつが並行してある。なじみの連中、というのは有意味なこと。そのなかで、もっと成果を出すには、きっと乱暴なくらい深掘りする蛮勇が一瞬いる。 ゲンロン0をちょいとめくりなおすと、「再誤配」というキーワード。固定しがちな数を偶然性に再誤配する。音楽の場でいえば、ある程度名のあるミュージシャンとの対バン。ひと目にさらされることがおもいうかぶ。現状のままでは格差は固定化。世界にもっと偶然性、流動性、平等性をおもいださせるには、認識と方法がいる。 ほぼ日、糸井重里とインターン生の対話。人生はスイカ割り?「こっちだよ」の声を間違えないことが大事。いろいろと示唆のおおい対話。基本的には、根っこがだいじ。 いくつか考えたいこと、というか、常識的にはAだけど俺はBだ、Bの方法でいくんだ、といいたいことがらがある。ライブの方法、ありかた、というのはそれ。「客数」と「演者数」の考えなおし。「ライブにおける成功」というものの考えなおし。現状、ライブに対する考え方は硬直していて、とりあえず動員数以外の成功の価値基準というのは実はあんまりない。それにしても動員数というのはなんだろう。もちろんそれがなければライブハウス自体が成り立たない。しかしただその場限りの人が来ただけでは場は次につながらない。次につながっていく、ということがサスティナブルなコミュニティになっていく。ならば、そこでのコミュニケーションの本質をもっと考えたい。ライブはコミュニケーションだ、という場所ではなにができるか。 こういうことを考えて、それは実践へと結びつくはずだが、いまはただ考えるだけだ。考えなきゃどうしようもない。僕にとっては「考えるな、やれ」という意見が強すぎたようにおもう。いまの時代の突破口を見つけないといけない。あとは、スイカ割りだ。 冷静さはロジックに不可欠です。
客観的になればなるほど、父っぽくなる。病気が顕在化すれば息子よ。 そのふたつの位相が矛盾し合うので、並立はない。ということは、明晰かカオスか。 カオスにばっかり挨拶していてもしかたないね、となってくればよい。文字の運びは、なにかが判断する。 無意識こみで、表現するには詩の言葉がいい。メタファーでなんでもいい。物語性をもてばどこかへいく。どこかにいかざるをえない。 外在的ななにかが侵入しそうになるのか。その防備反応か。システムが内部で偏りはじめる。整合性をとりたい、無視するか。普段無視しているのか。 それは「現れている」のか。それとも、自分自身で「生み出している」のか。なにかを「仮に投影している」のか。仮の友敵図式によって心情がのりきろうと、解釈しようとする。そのときその図式はどれだけ根拠をもとめるか。 いっさいの根拠はない。ぜんぶかりそめである。妄想、幻想である。そうだというと、それは突破口がないかんじになる。根拠をみとめる。そのうえで、突破口を探したいのだが、安易なる突破の試みは成功しそうにない。いや、それともそれはできないのだ。 いったい心情のトリガーはなにをもって仕掛けられ、解除されるか。その運動をあきらかにしたい。それは理解の助けになる。 内部へとひきこもりたい心情は、子宮退避願望のようなものか。外部があることそのものが、等しく異和になる。原生的疎外。その領域では、善悪が社会通念以前にもどる。おそらくはテロリズムとは関係ないが、短絡は可能である。それとも、宗教テロリズムとは無関係だがテロとは関係あるかもしれない。秋葉原のものをおもいうかべる。 行動と無行動。「あること」より「ないこと」が劣っている、という価値序列へ異和する。根本的にそうなってくると、バートルビーのようになる。ひたすら無言だ。一人の人間はなにを表現しうるか。バートルビーは無行動は行動と拮抗しうる、ということを表現した。本来、どこかにそうした心情は隠されているとおもう。どんな運動体にも。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 競合ゲームを勝ち抜いても競合ゲームの構造は変わらない。競合ゲームを競合でない、別様のやりかたでプレイする、というときはじめてオルタナティブはあらわれる。それは批評ゲームかもしれない。協同ゲームかもしれない。 表現ゲーム、をおもう。べてるの方法がそれにみえた。なにをやっても優劣ゲームに移行するだろうが、本質、はじまり、ゼロ点が近く、いつでも戻れるようであればいい。北初富にそれに近いものがみえたきがした。千葉近辺では少しちがう。もっと距離があり、なにか媒介している。それは東京-地方という関係、あるいは東京-郊外という自意識なきがする。千葉というのはアイデンティティが薄いとおもう。固有の土地、というより、埋め立て地が多いし。マザースというライブハウスはまったく知らないけど、ルックだって30年弱で、それ以上の歴史は千葉ではたどれない。といっていまからなにかやれるほど可塑性ものこってない感じがする。 もっと本質的なはなしをおもいだそう。人にとっての人生のスケール、それが場においてどう対応づけられるか、だ。つまり、人の死にその場はどう対応するのか。ライブハウスという場にとっても、そういうことは考えられていないと、人間の一生以上のスケールはみえない。 「いま」だけみてても、狂う。スケールをもっと考えてから、共同性を考えないと。伝統的な田舎は当然それができている。近代以降はそのスケールが狂いはじめて、落としどころがわからない。本質的な解決を見いださないまま、AIなどの次のテクノロジーでなんとか疑似解決しようとしている。すこし考え直したい。 相対性→否定神学 でなく 相対性→肯定人間学 を。 人間の相対性が、各人の相対的無価値へとつながるのでなく、相対的有価値へとつながっていく通路を構想する。 なんだか妙に疲れを覚えて、きょうは休みだったけれど寝てしまった。こういうときはだいたい精神的にも詰まった感がある。
朝から昼に「スマホで朝生」なる番組をYouTubeでみた。3月の放映分。AIについての議論。堀江貴文と落合陽一などが出演。 AIについての知識。それへの考え方。AI危機論。人文知や既存芸術との折り合いでつい考えてしまうが。 いやでもよくてもAI技術は発達して生活にも更に入り込んでゆく。社会で存在感も増してくるし影響力も増してくる。 宮台真司がいう「主体」というのとかかわること。いま、僕がこうして考えて書いていることも、脳科学的に解けるしAIやビッグデータのリソースとしても解ける、として、「文学」の有効性はどうなるだろう。「自己表現」というものの、そもそもの有効性は、普遍的な価値にかかわるなにかではない、ということになるか。 AIに関する議論は整理が必要だとおもう。 さんざん、いろんな人の「ライブ」を見てきた。彼らがステージ上で歌う、そのとき、彼らはなにをしているか。それはとても生身な行為で、その限りでAIには代替できない。人間が人間であったという歴史、古代からの音楽のコミュニケーションの歴史というものもたぶんある。 AIは、ラクさせてくれる。目の前に作曲してくれるAIがあったら、とりあえず使うだろう。出てきたものが良いか悪いか判断するのは僕だ。 そこで失われるものがあるとしたら、吉本隆明的な考えでいけば、やはり沈黙にかかわるはなしだとおもう。 書道というのは筆跡をみるんだ、というはなしを聞いたことがある。そこに書かれているカタチをみるのでなく、むしろ筆者の筆のはこび、書くときのいきおい、なんかをみるのが書道の鑑賞なんだ、と。つまり結果でなくプロセスをみる、想像するんですね。 となると当然、AIにはプロセスがその意味で「無い」のだから、その分だけ「つまらない」。これは、芸術的価値にかかわるとおもう。ただ、じゃあその「プロセス含めて鑑賞する類いの観客はどう確保するか」という問題。ゲンロン4のことばでいえば、「批評というゲーム」が機能するには観客が要る。批評は観客を要請する。だからみんな、観客になれよ、と。 観客がいることで芸術の場が保たれて、再生産可能になり、それが文化になり、人間社会に根付いてゆき、局面で物事の是非を考える能力になったり、感情の豊富さになったりする。文化にはいろいろ、良い面があるはずだ。 最近おもうのは、「文学なんて役にたたねえ」「でも役に立たねえからいいんだ」という意見の退き。吉本隆明はそう言っていた派。この段階では、「役に立つ」「役に立たない」ということばの使い方がいまと変わってきたのだとおもう。高次産業社会より前の感覚なのかな。つまり食う食わないに関係ねえ、ということ。だけど人間に必要な、人間たらしめているなにかだ、と。 こういう言い方から、背景が変わった。文化芸術の有効性を文化芸術自身がアッピールしないといけなくなった。自らの必要性、必然性を自己証明しないといけないんですね。価値相対主義において。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 30才は成人式。「成人式」が行われるようになったのはいつ?そのときの平均寿命といまとの比較。 べてるの家の当事者研究。研究というと公へ提出するもの、というニュアンスが濃くなり、それがいいのだ。「自己反省」だとまだ内側にとどまる感がある。社会化への道筋がつくことが突破口になる。 生まれたことに意味がある、と人間がいえるか。個々人がそういえるか。時代が変わっても、AI時代になっても、その条件は変わるだろうか。生まれ、生きたことに価値を見いだす考えが深まっていかないといけないだろうが、今後の状況に対応しないといけない。条件は変わる。近代意識を更新する必要があるということだ。それは当然のことで、でもうまくやられていない。必要なことはまだまだ手つかずのままとおもえる。 ステージに立つ、歌を歌う、ということは、けっこう不思議なことだ。これは、なんだ。ある種の憧れゆえか。そうかもしれない。この「歌」というもののメッセージに、別様のなにかを込める試みをやりたかった。間接話法でイメージをつくる。可能性を出現させる。 ある理想の場の状態。理想の場のイメージがなんとなくあって、そこに近づきたい、という願望がある。それを追い求めているともいえた。理想の場はじゃあどんな条件に依っているだろうか。それは僕にとって「生きやすい場」ということがはじめにもとめられる。誰であっても「自分にとって生きやすい場」をもとめるだろう。さらに、挑戦的でなくてはいけない気がする。これは自分の資質の延長線上で、自分の得意な挑戦ということになるだろうか。自己暴露だって挑戦だけど、とくいなことかもしれない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「苦労を取り戻す」か。 正義と悪が、反転しますよ。それは、かくされたなにかの結果で。 具体的になろうとしないので、それはポエムたるのだった。 いいか、悪がはびこっている。 いいか、正義が悪をやっている。 正義が悪いんだ。みんな正義が悪い。 ポエムだけ。やりかたはポエムだけ。 いや、もっと、具体に、、、。 そうなるときは散文だった。 散文の先に、他犠牲的な暴露があって、、、。 私小説は破壊する。 まず、破壊衝動。 悪が正義になるだろう。 悪が正しいからだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 例をあげたい。なんだろう。世にも奇妙な物語。つまりなんだろう、常識というか、自民党の憲法草案。あれの家族愛、素朴なことを議員さんはいうが、そういったものの悪性だ。 過去も未来も無視したいまへ。 素朴なことを僕もいいたい。意味が不明瞭でもいい。意味が不明瞭で、それはでっちあげない。意味が不明瞭とはなんだろう。 さけていて表現していて、それはマシュマロマンのような体躯で。精神運動の普遍性にくらべれば彼の理屈なんて人工的な蝋細工にすぎない。人間として生きていくことのいくつかの困難な側面をスルーするか否か。スルーする技術、スルーすること自体の是非。 話が通じないので、こころがそれだけ壊れ疲れた。壊れ疲れたことをつきつけたいので公にそれを公表しようかとおもった。おもいうかぶリベンジポルノ。犯罪への共感と理解の契機はあるのだが。 人殺しは善である。テロの人たち、そう教える教育効果があるとおもう。それはイメージの段階からくる。反転する。価値を反転することに惹かれるのは、価値を憎むからだ。 少し混乱している。おちつこう。おちつきたくない。いいか、善悪とか倫理とか、それが主張されるときは当人の当事者性が肝要だぜ。どこから言葉を発しているか。僕は、精神の言葉が、ポエムになるとき、現実はかっこに入るんだ。善意の人間は悪い。そうとしかおもえない。 曲がり角に来た。電柱。ぶつかると、ごん。すべて世界がまんがになる。一時避難所としての低次空間。昔のファミコン、ドット絵。 自分の発育とともにゲーム機も性能があがって。そういう意味での同時代性はテレビゲームが一番ある。新しい技術、ハード、それはわくわくするものだし、期待と希望があるもの。 ときどき、スパロボをやりたくなる。あれは、アニメごとの文脈があって、機体や操縦者に感情移入した。物語性があった。そういうもの。そういうものを動かすこと。赤い敵がいて、最適手順で倒すこと。経験値、獲得金を最大限もらうこと。機体や操縦者を強化すること。 指先の操作で世界を制覇し勝利できた。それは「成功体験」と呼べるだろうか。ゲームのなかでの苦労は苦労と呼べるだろうか。そうでなかったら、それはなにであって、なんの時間だったろうか。 なぜ、人は、自分の世界観を人におしつけようとするだろうか。それは善意だ。善だからだ。もうすこし、自分を疑ってみたほうがいい。違う視点で考えてみよう。僕が反論したとして、それでも、話が通じない、またふりだしにもどる。 話の仕方が悪かったろうか?文書にしてのこそう。外交文書のように明確に書こう。文書を基点にしよう。また話すときは文書をふまえてやろう。 しかし、悲観的なことばが必ず正しいとはかぎらない。むしろそれもバイアスがかかっている。現実がこうなったことへの反応としての悲観主義化という側面もあるか。現実を肯定しつつ道筋をみいだしていく類いの思想はいまありうるか。それはリバタリアニズムになっちゃうのか。
マストドンはどうかしらないが、とりあえず自分の空間を広げるというのが目下やるべきこと。ツイッターはだから利用したい。HPとツイッター、かな、いまのところは。WEB空間はそれでいい。YouTubeもそろそろあげたい。サウンドクラウドもやらないとミュージシャンだと思われないな。 そうするともっと野心的な作品もつくりたくなってくる。ちょいと前はそういった意欲もあったけれど、今年になってからは純粋に真面目に考えることが多い。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今日は仕事がイベントで、だからリズムがおかしい。帰ってきてからブックオフに行き3冊購入。「シリーズケアをひらく」の『当事者研究の研究』がよさそう。これは、ミュージシャンにも適用できる、というか自分にも。俺の当事者研究。 「具体的な自分の実感をことばにすること」というくだり。そこに、ポエジーも宿るとおもえる。心の動きを記述。身体の反応をことばにする。 自分がその場にいられない、なんとなく疎外されたような、胸のあたりが落ち着かなくって、ひとりにならないといけないけどひとりになりたいわけじゃなく、ほんとうは共有できればいいのだけど、共有はしたくないしできない。そういう場面がある。そういうとき、それはこらえ忍ぶしかないのだけど、その体験をことばにすることができたら、なにかの一歩にはなる。事後的な共有への一歩になるかもしれない。人間とは、表現することによってつながりうる存在なのだ。 すべての本は表現だ。この文章もしかり。書き手はなにがいいたいか。なにを欲しているのか。メタメッセージとメッセージ、あるいは本音と建前。 SNSやら、いまどきのべき乗世界、スケールフリー、資本のそれに向かいあってこちらの心がくらってしまうとき、そこにも具体的なことばの表現余地がある。それらはまだ表に出ていないかもしれない。SNSがむかつくんだ、なんて、言ってみてもいいはずだけどそれも紋切り型と受け取られる。紋切り型ではない通路を経なければ。 いまビデオニュースの更新メールが入ったけど、ビッグデータに支配されないために、か。たとえばこうやって書く僕の文章によって僕の人格データが蓄積され、ネット履歴によって蓄積され、購入履歴、入力した単語、クリックしたいいねによって蓄積され、会社や政治?に利用される、というようなイメージだろうか。僕たちは動物だ。管理されている。こういう現実認識から「抵抗」のモチーフも生まれてくる。ただどこまで妥当かよくわからない面もおおい気がする。 「肯定する思想」というもので、未来性ある議論は不可能だろうか。それは間違いの素だろうか。最小単位なら肯定できる、ものもあるとして、それを出発点にできるならば。 歴史はかなり進んだ。人間社会は後期だ。というわけで、「ゼロ点」が見いだしづらい、ということはないか。当事者研究的方法でゼロ点が確認できるのでないか。べき乗でなく正規分布、ビッグデータではなく生身、そっちにもう一度ものさしを合わせなおす。 こういったことも散々言われ続けていることにすぎないかもしれない。ただ実存(の安定継続可能性)に必要な現実認識は、そこにゼロ点が含有されてないといけないとおもう。骨がなく服を着てボロボロくずれる、ということがないように。 |