ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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詩1 唯一性
メタフィクショナルな殺人なら いつでもやっているさ 思い込みありきで色揚げしたり 解決するより放置をしたり どこにも方途がないような 気分のなかでどこにいく?
俺は唯一性だ 俺は人間だ 無限に増殖して 単にデータの上だけで お前らは表面に表れてくるけれど 俺は 命だ それは俺たちの かけがえのない概念だ AIは 俺を 癒やしてくれると思えない
存在が存在だから 無為な徒労もするのであり 意味が意味あるとおもうから 俺たちは動物と区別してきた だけどペットは俺たちの方で 何に飼われているかが見えないから 従属したくてもできないから 俺たちは俺たちを憎しみあう そこから出口があると信じ込んでて たどったことのない道を歩みつづける なんだろうこれは そろそろエラーが 治療対象になるべきはずだ
ここは 命が役に立たない 荒野に来た 荒野に見える 俺にはここが荒野に見える 要は見え方が悪いんだとか かたくなになってちゃいけないよとか \\もっと気楽になってみようだとか 親切なコトバが土の下に消え ここは すっかり荒野だった
愛はエゴで だからすがりついてもみて すっきりした性欲の処理に だんだん男も慣れていったら コストパフォーマンスの破綻している エゴセントリックな愛は潰える
「ここで跳ぶんだ」「迷ったら跳ぶんだ」 人間でありつづけるかぎり 盲目を受け入れなくちゃいけない 不自由と不潔を内側に抱え 主観を訴えなくちゃいけない
(「イメージ」や「情報」 それは (俺たちのカラダを跳び超えてゆく (「イメージ」や「情報」 それは (俺たちのカラダを覆い隠してゆく
\\そしてなにも訴えるものなくなったら \\自分のカラダに立ち返ろう
詩2
無意味な幸せが彼たちを覆っていた 意味ある幸せとはたぶん 他者を交えた戦いのなかにあるんだろう
個別論点
政治
民進党及び野党
・現状は厳しい。長島さんがああして、あのメッセージは共感したが。ナイーブだね。左右のののしり合いに心痛めてた。それをタフにして超克する覚悟いります。それが現在の分断の課題かな。
ゲンロン0
・東浩紀の方法論。個別の哲学者の論を参照し、解説しながら、それを乗り越えようとしていく。列挙型とも。吉本隆明の場合はひとりひとりの哲学者をもっと深掘りしていた。 観光というターム。東浩紀はある意味で「大衆の原像」を再救済しようとしている、ともいえる。「人間」と「動物」を等価にとらえてみる。「人間としての人間」と「動物としての人間」の再解釈だ。観光は「動物としての人間」が前景化する。下半身、欲望的であり、だからこそ、条件を問わず大衆へ影響しやすい。 東浩紀は意外と、スノビズムを排除しようとしているように見える。
ここに、現代において、現代の他者や市場において、いかなる有効性が見いだせるのか。
・東浩紀の論を読んでいるとけっこう前向きになれる。積極的になれる気がする。これは、なんでだろう。 彼の解決、前進方法、現実対処と認識が、かなり妥当で、網羅的で、物語として説得力あるからだろう。「これが出口だ」という筋道が納得しやすい。加えて、彼自身の実践や仕事の説得力もある。彼自身のキャラクターも、こちら側に染みついている。この「キャラクター」というのは、結局のところ、表現者全般にとって極めて重大な要素じゃないか。
東浩紀の論は、言っている内容に加えて「東浩紀がそれを言う」ということを含めて評価され解釈される。彼はもう確立した一個のキャラクターだ。そうなるまでに、彼には彼の仕事や発言があった。動画配信やツイートがあった。恥ずかしいところ、くだらないところ、弱点も含めて「さらして」いるのだ。ここまで「さらして」いる批評家がほかにいるか。
AB対話
A 久しぶりに、かましてみようぜ。 B おいおい、呼び出しといて。なんのようだい、きょうびは。 A おまえさ、最近、何考えてんの?どうしたいの? B なんだよ急に。俺はただやっていきたい、やり通したいだけさ。 A なにを? B つまりさ、主観と客観をとおしたいんだよ。それは東浩紀の方法さ。そんなこというと、お前はまた「人の影響か」「マイブーマー」と批判するだろうけど、それは俺の問題意識とからむからいいんだ。だからそうすべきだってね。 A わかるよ。主観と客観が通んなきゃ公に表現活動して継続できない。それは俺の不安点なんだなあ。けれど、じゃあこの対話だって、公に開いてんのか?客観を繰り込めてんのか?そういう疑問はおおいにあるよ。それに答えられるかい。 B そうだな。東浩紀を参考にして、論理の開き方、論敵との相当問答など、勉強したいところだ。最近の俺のMCなんかでもね。 A 主観の優位性というのもあるとは思うがね。むしろ、自己表出論でいくなら、そっちがメインだ。けれど、けれどね。そっちばっかりのバランスじゃ、やっぱだめなんだなあ。 B そこを学びたいさ。この対話もね、AとBの問答だけじゃなく、不特定の他者、つまり「公」に向かってしゃべれなきゃならん。電車のなかで目の前の人たちに演説できるか、って想像とおなじだ。さて? A それもさ、精神論で終わってちゃだめでね。実践がなにより大事だろうけどね。ライブでMCすることで、経験値は少しずつたまってる。それはいい兆候だ。「書き物」してるだけじゃ得られないもんだ。書き物は、ひとりだからね。 B まあ「ひとり」がもとなんだけどね。そこらへんの構造の理解とさ、指示表出をもっと意識できればね。
・他者を相手にするときは、論理や話を「ゼロ」からとることが必要だ。ライブのmcだってそうだろ。前提からはなさんといけん。話には「つかみ」も重要だ。 そういうことでいうと、ブログとかの書き物もそうでねえ。 読み手が飽きないか。おもしろいか。つまらなく感じないか。読み進めていて、だれたり飛躍したり、いろいろあっても良い感じになってないとだめ。 東浩紀のいう「他者からどう見られてるか」を繰り込む=二次創作の想定、があるかないか。それは吉本隆明の「大衆の原像を繰り込む」というのと、似ている。
・吉本隆明―東浩紀ライン。大衆≒観光客≒動物のライン。そこを肯定し、受容するポジション、視座の確立。
・だから、自分向きに書くのと、公向けに書くのと、ぜんぜん違う。自分はわかってるし、前提を知っている。公というのはつまり「知らない」存在。そこと話を通じさせるのだから。
ブログ「あなた」
あなた。あなたはいまこれを見ている。あるいは、「読んで」いる。ここから何が書かれるか、語られるかを読み取ろうとしている。そうした瞬間、ここで書いている私と、あなたとの距離は接近する。無関係だったものが、関係づく。はなれていたものが、手を伸ばし、くっつく。それは、細胞の単位から人間の単位まで普遍的に行われている生命の挙動だ。 ブログを書き、読まれるという場面においても、それらは生命の普遍的動きの範疇にある、といえる。私たちは、動き、それが他なるものと接触する、という場面において、快感を感じる動物なのだ。 一方、この接触する瞬間に、痛みを覚え、不快を受け取り、くっつくよりも離別の道をたどることもある。その場合においても、やはり、接触するまでは「それに触れたい」という想いがあったことが、重要である。そして触れ、期待と異なる肌触りや苦さを覚え、失望しながら背中を向ける。そのとき、この細胞、あるいは人間は、触れる前とは違う細胞、あるいは人間になったのだと、いうこともできるだろう。
私はあなたに、話を通じさせたい。そして共通の開かれた場に、いっしょに向かいたいと願うのだ。ブログを書くことは、そうした願いを叶えるために、有効な行為となりうるだろうか。
人は、もっと人になりたいと思っている。私はもっと私になりたい。そういう思いをそのままに推し進めるためには、いかなる準備と作業が必要なんだろうか。あなたになにを伝えることが必要なんだろうか。私のなかのなにを表出すればいいのだろうか。それとも、そういった類いの認識の枠組み自体が、変更を迫られている、とおもうべきだろうか。
しゃがみこんで石を拾っても、それを見ているのは自分だけだったので、やはり共通の友達といえるほどの存在は、自分だけだった。だから自分から他人になりたい。自分を他人にしてみたら、それは他人に似ようとした自分だった。自分は、ここでもいなくならない。
では、広場に出て、自分をたくさんの中において、たくさんの自分と出会おうとおもった。その広場は外にあるとおもった。私は外に向かった。
私の外は、外ではない。実際の外は、私がいなかった。今度は私はいなくなってしまった。他人と出会うことで、私は、私がいなくなってしまうことに、恐怖を覚えた。その恐怖のせいでおののき、外は怖い世界になった。
死んだ知人を何度も呼び起こすのは、私のそういった都合のせいだ。私は、あらかじめそういっておきたい。死んだ知人は、自分と他人、私と外の関係を、もっと絶対的な場所からほどいてくれるような、そんな存在だった。私は死んだ知人を存在させた。
ブログ「小説的」
・全てを投げだそうと思った。小説を書こう、とはじめて思ったのはこのときだ。小説なんて構想できる脳力はいままでなかった。しかし、その脳力がなければ、現実を変革し、主体的に生きていくこともかなわなそうで、心許ない。
自分の実感に即して、物事を書く。しかし、自分の実感が壊れたら、どうなる?現代詩に見られる崩壊した文法のようなものを、自分のことばをのっける方法として選択したくなるのはそういうときだ。
小説を書く、ような。実際に書くかどうかは別として、そういう気分、そういう段階があるんだろうと思う。一方で、現代詩的な壊れた文を書き連ねたい欲求もある。ポストモダンの方法はそれらのミックスとなって出力される。それが、いま現在の時代をひっかくなにかになりうるだろうか?それとももうそれはすでに「古い」か。
・東浩紀の「ゲンロン0」を読み始めた。彼の問題意識としてひとつに、リベラルな理想主義が通用しなくなった現状と、それでも人文学的なことばを生きさせるにはどうしたらよいか、というものがあるとおもう。僕としては、吉本隆明の思想の「つづき」として読むような読み方をしてしまっている。東浩紀の「観光」と吉本隆明の「大衆」は共通する意識がある。
現在が困難な時代、だとして、その困難な時代を超える方法を、みんな考える。しかしその考え方に、やはり罠もある。そもそも、現在は、不幸な時代なのか。過去と比べて、どう違っているか。世界はどう進んできているのか。
東浩紀はグローバリズム、観光の増加の先に可能性と肯定を与えようとしている。たしかにそれは既存のリベラル知識人たちに対する価値転倒になるとおもう。しかし同時に、この苦しみはなんなのだろう、というおもいもある。
苦しみ、といったときに、時代的な苦しみと、個人的な苦しみ、つまり外部から来る苦しみと内部から来る苦しみとふたつある。そしてこの苦しみが、いったいどちらからくる苦しみであるのか、その区別は混乱した頭脳ではうまくつかない。ともすると、外部的な因子と内部的な因子を同一視して、時代の課題を述べていることが実は自己の課題を述べていることと同じになったりする。もっとも、人間というのはだいたいにおいてそういうものなのかもしれないが。
苦しみに注目しつづけようとする。すると、実存主義的な立場に近づいてゆく。大澤信亮や杉田俊介が、現在そういった立場により近い批評家として思い浮かぶ。東浩紀は大澤に批判的だ。ほんとうは両者の要素はどちらもあるべきものとして肯定可能だとおもう。僕としては、AIの時代においても、人間が人間でありつづける条件をどう言葉にできるか、という問題意識がある。人間の実存は残存しつづけ、無意味的ないし無価値的な危機にさらされつづける。そのとき救いの道があってほしい。
東浩紀から、まくら
東浩紀を読む。なぜ彼を読むか?それは、現在の問題意識に対する解答がほしいのと、その解答の提出における強度ゆえだ。彼の論理には強度が宿っており、それが他の批評家とのちがいをつくっている。その強度は、彼のメタ意識と、あらかじめ批判を内側にくりこんだ論理の鍛え上げあってのものだ。特に、自身の言説が消費の流通にきちんとのっていくことを、彼は苦労しながら選択しつづけている。その実践の姿あっての彼の批評ともいえる。僕たちは、現在に対し有効な表現を模索しつつ、その表現が影響力をもちうるために、戦略が必要であるとの認識に至るが、果たしてその戦略がうまく機能しない。僕たちは、しばしば<非戦略>という思考放棄に逃げ込む。それは自分を生き延びさせるには有効な避難方法だ。しかしいつまでも自立できない。
表現とシェルター
僕たちは、まったくもってハードルを下げ、小さな実現可能な成功を追い求めるべきだ。たとえ小さなスケールであっても、理念だけは無限に拡張しうる。なにかの力がなくては、実際、無力を擁護することもできないのだ。もし表現の場が無力なもののためのシェルターであるときには、そこには最低限の力が注入されなくてはならない。シェルターが外部からの空気遮断機であるならば、遮断する機構が設置されなくてはならない。さて、ではそこで表現者とは、無力なものの擁護者だろうか。それとも無力なものそのものが、表現者なのだろうか。
演者と観客
音楽の場を考えるとき、表現する側とそれを見る側、演者と観客という二項が原則としてあるようにおもえる。しかし実際の現場では、演者が観客も兼ねているような場合が多い。たとえば演者が5組いて、観客がそれぞれ1人ついて来てくれれば、観客は5人いることになる。演者が5組10人だとしたら、観客が5人では、演者の方が観客より多いことになる。こうした場合、その場では観客に対して演奏するというよりもむしろ、演者に対して演奏するという意識の方が濃くなるのは必然である。実際僕がライブする場において、観客が5人でもいれば多い方で、それ以下であることもまったくめずらしくない。
僕たちはまずこの現実から向かい合わないといけない。観客がいない。いままでのライブハウスのあり方は、観客がいることを前提として設計されている。観客がいなくなったらライブハウスは成り立たないのだ。
さらにもうひとついえば、いまでは演者も少なくなった。観客がいないということと、演者がいないということは相似関係にあるが、若者がなぜ音楽を志すかということを思い直してみても、異性にモテるだとか、ミュージシャンへの憧れだとかがあったはずで、それは観客がいることによってはじめて成り立つイメージであった。そのイメージが成り立たないならば、演者になるものもいなくなるのが当然である。
なぜそうなったか?
時代背景の変遷、ポストモダン
サブカルチャーの分散化メインの移動
音楽そのものの弱体化、成熟化、文化としてひとまわりしたということ。あるいは陳腐化
ではどうするか?
音楽がもう一度先鋭的な表現として復活するために。
参照できる動き
ポエトリーラップ、竹原ピストル。言葉や思想とのフュージョン
ゲンロンの方法
音楽の磁場を発生させる。メディアを含めたトータルなアッピール。 実存を拾い上げる役割の再確認。音楽の文学性。 あるいは、思想として音楽の可能性。ひとつの在り方を提示できるか。
時事現象への反応として
トランプ現象や国内の政治現象を音楽として歌う可能性。フォークの原点は取り戻せるか。 1960年代とのちがい。文脈ももっと高度になっており、表現も対応する必要がある。
ロック保守問題
ロックやフォークやブルースの古典の保守派への違和感。かつての表現を賞賛するのはたやすいが、それだけではいけないはず。僕らやさらに子供の世代に向けて、いまの問題に対処していかないと残せないものがあるはず。伝統音楽化するだけでいいのか。これは音楽における右と左の対立でもある。 瘋癲野朗は右であり保守である。僕は左であり革新である。ほんとうは右でもあり左でもあるような在り方をかなえたかった。親がいなければ子もいない。自分はそれでも、親とは違う独自の存在だ。これは両方ほんとうであり、したがって両方表現されてしかるべきである。
百田尚樹が安易であるようにロック保守も安易。文学保守もしかり。(だから大澤信亮は批判される)大塚英志のように、AI(いま)と実存を結びつける仕事が望ましい。 ロック保守の安易さ。一方、オルタナティブロックの切っ先の鈍さも目立つ。全体的にサウンド志向になっており、思想性や文学性を避ける方向に音楽シーン全般は移ったように見える。これは日本における動きか。アメリカではどうも政治性含んだなラップや黒人音楽の存在感が上がっているように見える。 僕が気持ち悪いのは、現政権への無批判、あるいは無視、無関与(デタッチメント)と音楽のみならずサブカル全体との親和性、なしくずし性が感じられてしまうことだ。 いや批判しようが擁護しようがどちらでもいいが、とにかく無関心すぎる。いや、無関心というのではないのかもしれない。表現するルートがなくなってしまっているだけかもしれない。構造的な問題として問うべきかもしれない。政治家といっしょで、論点として提示しても票にならない論点は出してもしかたない、ということかもしれない。まったくもってその通りで、その通りそうやって推移していることが、僕の神経を苛立たせる。 といって、では横山剣やアジカン後藤のように政治を政治として語ることが、最もいい方法なのかというと、そうとも思えない。いや、彼らが語ること自体はとても好ましいし、ある種のかっこうよさも感じる。しかし一方、彼らに対してどうも僕はシンパシーを感じられないのだ。それは僕と彼らとの距離のせいだろうか。それとも別のものだろうか。
アジカン後藤はツイッターにおいて、ファンから「政治を語られると違和感がある」というメッセージを受けた。このやりとりはとても印象的だった。そのファンはどうして違和感を感じるか、自分の言葉では言えなかった。ただ確かにそう感じる、としか。 ここでの後藤のとまどいはどういうものだったか。なぜこのファンは違和感を感じたか。なにか微妙な問題がここには潜んでいて、なおかつ言葉として取り出すのが困難なような気がした。(吉本隆明の転向論のような論理が、なにか適用できないかと考えたりもした)
性愛を歌うロックと、政治を語る後藤の在り方のズレ。そのズレは、彼の存在を全的に享受しようとするファンにとっては、許容できない類いのものだったろうか。ではそこではいったいなにがズレてしまっているのだろうか。
承認としてのロック
ロックは承認音楽である。歌い手の承認と、聞き手の承認の。私小説が承認文学であるのと同義だ。もちろん、そう言い切れないロックもある。ここで問いたいのは後藤がひきだしたイメージは、聞き手にどういう幻想を用意したかだ。
演者と観客
ライブハウスにおいて演者が期待するものと、観客(となるもの)が期待するものとは、かみあっているだろうか。人やバンドによっては疑似恋愛を期待するものもいるし、単に身体的、精神的な高揚感を期待するものもいる。様々なバンドや演者のかたちがある。 僕がここで考えたいのは、まさに、僕自身がこれから音楽活動する際に有効な手立て、方策だ。闇雲に活動し、歌を歌い、曲を作り、練習したりしても、根本的な疑義は晴れない。この疑義が晴れない感覚が、僕の心をにごらせていたようにおもう。疑義を一掃しなければならない。それができるか。
自己方法へ
まず、現状、僕はどこにいるのだろう?ーーーいささか抽象的な問いから、むしろ問いたい。
音楽をはじめたところから、瘋癲野朗を経てソロへと至る道筋をここで描写したい。原点と延長線がみえるはず。
自分の理由
では、僕自身としては、いったい「どこ」に身をうずめたいか、ということだ。それは、自分の時間をどの場所で使い果たすかということとつながっている。 ライブハウスという場所が存在して、その場所が、僕にとって重要であるならば、また、さらにもっと重要にしたいならば、その場所に自分がいなければいけない。その先に、人が人としてもっと自由で平等であり、なおかつ違いを受け入れていられるような、理想に近い人間のつながりのかたちがありうるならば。 僕は僕自身の人生の突破口と重ねたかたちで、この問題を考える。それが有益なるものに、つまりは公益にかなうようにしたい。僕にとって生きやすい場所は、僕以外の人にとっても生きやすい場所でありうる。しかしそうじゃない場合もありうる。ただ、僕としては、僕が生きうる方途を、その最善を探すことに後ろ向きにはなりたくないのだ。 悩んでいても、しょうがなかった。その場にいれば力を発揮できる場所にいたいと願うのは当然のことであり、個人の権利でもある。
社会への目線
自分の理由と、それを離れたもっと普遍的な理由とのふたつによって、人の行動は出来上がるようにおもう。後者のことを考えたい。ライブハウス、および音楽活動によって、いかなることが可能であるか。いいかえればなぜ、音楽はなければならないのか。そのような問いに大まじめに答えることが必要だ。
音楽という作用、音楽という身体表現は、演者にとっては自己表現たりうる。自己表現というのはなにかというと、自分の中のかたちにならない思い含めた、ある観念の表現、記憶や風景の表現、恋愛感情や喜怒哀楽の表現など、個人の中のあらゆる感情や観念の表現のことだ。それが、誰か別の他者に対して、自分を離れて作用し、共鳴する。それが音楽のダイナミズムであり魅力である。これは音楽に限らず芸術全般にいえる要素だとおもう。(ここでは、音楽を主にポップソングなどの「歌」を前提にとらえている。しかし歌以外の音楽においてもそれは自己表現といえるとおもう。身体表現であってもエレクトロであってもその人間の取捨選択によって成り立つからだ。)
では自己表現を作動させ、観客に共鳴させることによって、いかなることが起こるのか。なぜ、それはなければいけないのか。
中沢新一は芸術のはじまりをラスコーの壁画のような、古代人類の洞窟内における活動に求めた。それは人類の知性にとって革命的な出来事であり、以後、人類は「概念」を手にし、抽象的な思考が可能な存在へと至る。ここに「詩」や「音楽」の原初的な居場所はあるようにおもう。 音楽は、詩よりもさらに古いものかもしれない。人間以外の動物、鳥の一部などにも 音楽に近いような声のコミュニケーションが見られる。それは「音楽」といってもいいものかもしれない。
吉本隆明からポストモダニズムへと至りそして
吉本隆明は芸術の本質はコミュニケーションではないと言った。自分に対する自己表現が第一だと。これは僕にとってとても大事な思想になった。けれど、同時にこの考え方は他者に対するコミュニケーションを二番目に考えてしまい、自分の表現を外に開いてゆく際にはむしろ、そこからの逃げ道を用意する言い訳のようにもなりえてしまった。僕としては、自分に対する自己慰安が第一だとして、それでもそれを外に表現していく必然性はいったいどう考えればよいのか、それが問題だった。 ここにポストモダニズムの問題も絡めて考えることもできるのだろう。というか、この問題意識を解くために、ポストモダンの思想や表現を参照しようとしてきた自分がいた。つまり、なにもかも相対的な世界観および価値観のなかで、それでも個人がなにかの行動を必然として強く選びうるには、どんな考えがなくてはならないのか、そんな答えが知りたかった。 しかしその解答はいまだにつかめていない。もとより勉強も探究も足りないのだろう。実践もまた足りないのだろう。いま、ここで、少しでも明瞭にかたちづけておきたい。これからの自分の基礎となる考え方に到達したい。 いままで感じてきたこと、考え続けてきたことで、いくらかイメージや方向性というのは自分でもわかってはいる。それを、もっとはっきりと言葉にしたいし、外に出せるようでないといけないと思っているのだ。
おそらく、東浩紀の思想は自分の考え方に有効な補助線となるとおもう。結局僕は同時代の支える棒がほしい。思想家や批評家というのはそういうものなのだとおもう。そのことをいま僕は、恥じようとしたり隠そうとしたりも、しないでいたい。むしろそうやって「考える人」たる批評家を「参照」(利用)することこそが、彼らの存在価値に合致することであり、それが批評家や思想家の影響力というメーターだ。オリジナリティの神秘性にとっては、あらゆる影響元をふせたほうがいいのだろうが、そういう考え方こそ罠である気がする。それはもう、通用しないという気もする。 ポストモダニズムというのは迷路である。おおよそ知というのは迷路でありうる。入ったら出口までは長く複雑な道である。だからこそ「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という詩人も出没する。僕のいままでの来し方というのは、不釣り合いな知の生半可な影響下にあったといえるかもしれない。(吉本隆明の芥川龍之介論が身にしみるのは確かだ。鹿島茂の『吉本隆明1968』)知識によって上昇するということの反作用が存在するのだ。もっともこういう認識自体がどこかロマンチシズムなものかもしれない。 東浩紀の思想の「使える」と思えるところは、吉本隆明でいえば「大衆の原像」にあたる概念の延長線として読める部分だ。「観光」、「偶然性」、ネットやグローバリズムの常態化した現在に対応した知のありかたを示している。そういった思想は希少なのだ。やはり既存の思想の考え方にひきずられているものが大半なので、それは現在の課題をうまく乗り越えられない。かといって、アイデアだけで勝負しようとしても、既存の哲学や思想とうまく対応関係が自己証明できず、そうすると「哲学史」や「思想史」に登録されず、イコール忘れられてしまう。東浩紀の『ゲンロン0』はその課題をクリアした上で書かれた書物といえる。これが影響力をもつのは当然だろう。
ひとまず東浩紀がなにを言いたいのか、それは僕の問題意識とどう絡み、どう僕にとって役立つのか、功利的に読んでみたいとおもう。もしかしたら、彼にとって戦略的にペケとなっていることが、僕にとって、あるいは音楽人にとっては有効となることもあるかもしれない。東浩紀は文学や思想や批評に対して主に論じているのだから、それらと音楽との相違が考えられなければいけない。しかし、とはいっても時代認識は共通であるとおもう。音楽人は時代認識を更新することを、ある時期から放棄した、あるいは、もっと気味の悪い比喩を使えば、ぶよぶよした巨きなものにオルグされた。少なくとも僕の中ではずっとそういった批判意識があった。 どういった批判があるだろうか?たとえば、「考えるよりやれ」という行為態度がある。それがロックだ、というような。たしかに短期的に考えれば結果を残すためにはとにかく行動したらいい。行動した分だけ結果になるだろう。「やったほうがいいな」と思えることは即やったらいいのだ。しかし、長期的に見るとき、そんな行為態度のみが信条であったら、方向性を見失うときが来るに決まっている。背景は変わるし、その都度、持続可能な本質と戦略をつかみなおさなければいけないからだ。 僕の場合には、頭で考えて、実践していくことから逃げる志向性があった。この場合には、その逆だ。実践することだけが仕事であり、自分と向かい合う、時代と向かい合う、そのための議論を交わす、そういった言葉を自分の中に蓄え発する、という手続きは仕事とみなされないのだ。それでは時代が味方しているときにはいいけれど、そうでなくなってきたら、突破する方法が考えられないとおもう。そこが大いなる弱点じゃないかとおもう。
僕は、もっと音楽は考えるべきだし、そしてもっと時代的な困難に対してアプローチすべきだとおもってきた。その実践は自分でも薄い。どうしたらもっとアクティブにやれるか、という課題に対する第一番目の返答が、理念だとおもった。結局僕は、まず理念があり、そのもとで実践がある、という型を必要としていた。それが自分の資質であり、自分でも空虚さとたよりなさを感じるが、反面それが個性だと思おうとおもう。 その理念を表明できなくてはいけない。もっとまとめないといけない。いくつかの論点、イシューがバラバラに書かれ、完結したかたちでまとめられていない。まず整理し、ひとまとまりの論にまとめあげないといけない。そういうかたちで自分の考えをまとめあげることで、他人にとってと同時に自分にとっても問題をクリアにすることになる。
◆論点出し
論点1 演者と観客の関係性 論点2 ライブハウスのありかた 論点3 時代状況への対応 論点4 ポップミュージックの来し方 論点5 理想的な共同体はなにか。音楽においてそれは構想できるか 論点6 ありうべき音楽のすがた。ありうべき音楽活動のかたち
補助論点1 東浩紀の思想、観光、郵便的、脱否定神学 偶然性の思考から、歌を歌って観客に届く確率を思考し、それを表現態度に組み入れる。もし確率が低いなら、遠くに向かって表現してみる。遠くの対象にもアピールできる内容であるなら。ぼくの場合、身の回りのコンテクストは必要ないはずだから。 補助論点2 吉本隆明の思想、大衆の原像、芸術言語論
結論 沼田謙二朗は自身の理想のコミュニティを音楽の場において実現したい。 そのための理念、思想を提示したい。 既存の価値の反転(どんな価値を反転しなければならないか) 弱く小さいもの(マイノリティ)の肯定、あるいは東浩紀流のマジョリティの肯定 吉本思想と東思想のミックス、ハイブリッド、いいとこどり
・個々の論点を解く際の論理の武器が批評家ふたりのことばなんだ、ということ。
新CDメッセージ案
千葉LOOKへの惜別から沼田の音楽姿勢の基底態度表明へ
日記
2017/04/19 04:37 ・菅野完のツイキャス。草刈という緑の党の山形窓口案内のひと、これはひどい。統合失調症的な。話が、論理がまったくとおらないのだ。こういうレベルか。在特会のほうがずっと頭良いだろう。彼らはいちおうマジョリティを暴く、という反動がある。こやつは、単にマスメディアの情報のままだ。いうなれば。といえる。
まあ、ではここからどう思想的に深めるか、なんてないな。これは。しかし、こういう人間もいる。当たり前にいる。別にめずらしいとも思わない。「ばか」というのはいるし、別段そのバカと共生していく状況は希有でもない。
とか書いてもしかたない。ただこれは見世物としておもしろい、とおもって見ている。これ、見ていることがいいことでもないとしか思えないというか寝ようというか、
やめた。もう2017/04/19 05:02 時間の無駄だった。。。けれど、ライブの体験として、固有の人間像、運動の末端とはどんなものか。現実の一部がかいまみえた。これは、まあ、これも「自己表現」といえばそうなんだが。自己表現を政治にむすびつけて迷惑にしちゃうのが、つまり公共の利益に反しちゃうのがだめ。まあだから、アウト。このアウトであるということを、ぼくの思想に組み入れるというのは原則むずかしい。自明の理、をわからない層。そういう人間はいる。むしろたくさんいる。どう対処するか?もはや、わからせなくていい、とおもう。当人には。わかる能力だないのだから。当人もわかることを望んでもいない、場合もあるだろう。わかることが唯一いいことだということもない。当人にとってよいこと、場にとってよいこと、総合的に考えて判断することになるのだろう。こちらの言うべきことを言って、それでも言うこと聞かないのならば、そのとき「排除」は正当化されてしまうだろう。そうはありたくないが。 もう5時回った。常にイレギュラーな人間はいる。ぼくにとって、場の強度とは、音楽や芸術の全体性とは、こういったいささか常識外れな人間に対しても、排除しない、という場のことだ。いわばHWGの姿勢の、その可能性、、、。これは危険をはらむのだ。そこに向かい合いたい。思想をぶつけたい、とおもう。そういった問題を考えるきっかけにはなりそうだ。
2017/04/20 10:54 ・表現するにあたっての心理、不安とその解消、期待、征服欲。そこらへんのメカニズム。はっきりさせたいのは、俺の行動活動の、バランスにあたっての支えとなる理論。更に「誤配」に積極的になっていくための理論。
・SNSへの流通、市場への誤配を試みる意義。成功例:30才企画の後のツイート。あそこに写真あればなおよかった。らあめんさんに送った素案の実践をもっと。そのために、いま空白になっているところに理論が必要。実例も必要。 ・俺がどう文化的な影響を受けてきたか、その全体像をそのまま思い起こせば、それが理論の根拠になる。音楽をきく。映画をみる。ライブをみる。自分でもライブしてみる。さまざまな「経験」。 ・その経験を図にできたら。
・文化クオリアの伝達。今日のほぼ日の河野さんの話のようなこと。人文の素養の意味である。音楽においては、それはある種の共通嗜好というか。人種も越えてコミュニケーションできる素晴らしいもの。そういった音楽の利点をもっと確認したい。黒人から音で影響受けた、という意味も注目。そこにおける、むしろ「無文脈性」こそ、つまりローコンテキストこそロックにおいて重要。国や人種選ばないし問わない。 ・この「何言ってんのかわかんな」くても楽しめて興奮できて、というのが音楽。ハードル低い。動物性が高くて、故に知的に高度になってくるとあきたらなくのも当然だった(俺の場合)。しかしこれを見直すことがむしろ高度な知性の確保になる。 ・ここから、アフリカ的段階なんかも思い起こされる。原初への志向を確保しておく、ということ。吉本さんの言っていた町田康の「音楽より文学が高級と思ってやってたら、たいしたことない」という発言の意味わかる。つまり両方向性がだいじ。 ・これも図にしたら?
・細部を表現する。それが基本戦略となる。音楽家は表現者であり、ではもっと表現の裾野を広げるべき。バンド文化や音楽の場のダイナミズムがしぼんでいる。もっと拡張する。 ・音楽の音楽ゆえの強みももっと整理したい。無国籍性、ノンコンテキスト性だ。入り口を広げやすいのが音楽のはず。だから公園でライブできたりも可能なんだから。そこにメッセージ性が入り込むと化学反応はおこる。デメリットもある。 ・アフリカ的段階への志向性を保存しておく。そのために音楽する。原初性と文学性。それのあいのこ。
・細部(スモールワールド)をネット(スケールフリー)の世界へ投げ出す回路をもっと強化する。具体的にはツイートをもっと日常化する。俺のひっこみ癖をなおす必然性を理解する。 ・その際、必然的に生ずる不安をまた理解する。さいしょの図に書いた不安の情動の動き。期待と不安がセットである。期待や欲望が勝ったときは、スムーズにツイートや外出ができる。このバランスの秘訣はなんだ、というのが問題。 ・現状たまたま、調子の良いときだけそうできる。ライブのあとや、気持ちが上向きのとき。そういうときは不安を気にしないでいられる。あと、たとえばいまなら、山川さんに返事をしていないということが気にかかる。だから、そこをクリアしないままツイートはできない、という感覚になる。 ・といって、なかなか返信もできない。自分の未来に自信がない、ちゃんとライブに向かえる自信だ。だから返事もむずかしい。微妙なんだ。
・ひきこもりが外出するとき、一回性の問題にかかるのと一緒。一回性とは、要は一回外出して人目にさらされちゃえばもう怖くない、ということ。それまでのあいだが怖いんだ。あいさつもそう。いまでも、あいさつするまで、顔を合わすまでが怖く、さけるのだ。 ・こういう心性とネット出不精は通底している。これをなおしたい。なおさないとできない。治す必要があると、つよくかんじる。 ・対処療法的には一回外に出ちゃえばいいわけだ。人目にさらしちゃえば。そのあとは楽になる。でも、やはりそれまでは怖いはず。では、なぜ、不安は起こるのか?そのメカニズムをはっきりさせることで対処も見えてくるはずだ。 ・まず「自分がどう思われるか」という恐怖だ。そしてマイナスの印象を与えるに違いない、という自信欠如が原因にある。これはよくわかる話だ。だから、見た目を整えようと欲する。けど、見た目を整えるのにも消極的にとどまってしまう。これは、いまこしらえている外出の理念の必要性が、いままでははっきりしなかったことが原因かもしれない。少なくとも、見た目はもっと整えられる。それは人目にさらされないなかでも行うことが可能な行動だからだ。それもできないのはそもそもが内向きになっているからだ。 ・では、自信をもつことが解決方法だろうか。そうかもしれない。不安には欲望が反対についていて、それは「よく思われたい」という欲望だ。それが期待である。征服欲もあるだろう。 ・「よく思われたい」という期待が、自信のない場合不安になる。自信の有無によって不安と期待のバランスは決定されるのだ。とても単純なことといえる。それだけ、といってもいい。 ・では、「よく思われたい」として、「よく思われた」あとは?ここで、妙な罪障感を呼び出したりする。倫理的埋め合わせだ。「得してる俺はまちがってるはずだ」というやつだ。これは本心というより、ある種の倫理的型にはめるポーズをとることで、更に自身を筋の通った人間ととらえたい、という欲望じゃないだろうか。 ・つまり「人によく思われたい」のあと、「自分にももっとよく思われたい」のだ。外側の因子が内側の因子におきかわる。外よりも内を優先したがる。自立の精神といえばきこえはいいが、要はそれも不安のなせるわざかもしれない。つまり、外側の賞賛をあてにしていては、それがいつ裏返るかわからないからだ。そういった事態への事前対処ともいえる。 ・ここまでの自己分析の果てに、『震災の後で』の<光のエチカ>がある。精神的にはいろいろ力学がある。それは正しさやまちがいをいろいろに主張してくる。けれど、人が助かることがあるならいいじゃないか。もっと実利をみよう。ひらたくいうとそういう思想だ。 ・最終的にそういう態度をかまえることで、ほんとうなら様々な行動が可能になるはずだった。しかしそうならなかった。むしろ問いは後退し、もっと初歩的な不安との葛藤におちくぼんで今に至る。つまり<光のエチカ>が問題になったのはほんとうに震災の後だけだったのである。
2017/04/21 17:24 ・父、台湾から帰ってきた。 昨日は母と夜中にずいぶん話をした。カミングアウト的な流れになり、相当いろいろ思いを伝えた。 これがどうなるか。いいほうにいくきっかけになるか。それとも家族解散か。
・明日はアサイラムだ。まったく音楽的準備をしていない。家族のこと、仕事のことが大変だった。こういうときが最近多い、が、こういうときでもなかなかいいライブもできてきている。 だからこそ、それが油断になる。そうならないようにしたい。 ・明日しゃべることを煮詰めたい。まあ、そうやって予定してしまうと、偶有性は低くなるのかもしれない。実際脳のワクワク感より責任感が上がる。でも、これはやはり必要だ。演者側のお楽しみなんて、演者が期待しちゃだめだ。それこそ悪しきアマチュアリズム。プロは責任を果たすものだ。 ・プロであること。それは、必ず聞き手の期待を上回ることだ。あるいは場の期待を上回り、空気の更新をすること。いま、ループとギターソロの力でそれが可能になっている。それによる力はおおきい。それがなかったら、大分きびしいだろう。これはやはり音楽の力だ。純粋ギター一本の弾き語り、生身の勝負をこえている。だからひけめも、まあ感じないが、感じる人もいるかもしれない。インチキと思われるのはしゃくだ。けれどじゃあ音楽をハデに鳴らす必然性を押し出さなきゃいけない。 ・遠藤ミチロウがいる。聞いてはくれないかも知れないが。自分との勝負だな。そういうときでも、何が優先されるのかという。 ミチロウさんに吉本さんのこと聞いてみたい。それはぜひ聞きたい。彼に邪魔にならない隙をねらって。 ・吉本さんって、どういう人でしたか?どういうつながりでしたか。あ、まず僕にとっては、20代で最も影響された人です。彼抜きには考えられないし、おそらく音楽も、こういう形式ではやってない。自己表出主義になった。そこから自由になるのも、また大変だ。自分の気質に合うんですね。幸運でした。糸井さんにも感謝です。 ・ニートやひきこもりで、時間があったんですね。それでインターネットでコンテンツを見つけた。むつかしいような、ちょっと安易にわからないような、言葉はむつかしくないけど指し示す意味がピンとこない。これは経験が必要で、俺には足らないんだな、というかんじ。反対に、あ、言ってくれた、ということもありました。悪人正機とかね。糸井さんとのほぼ日の対談。ほんとによく読んだ。親鸞とかすごい。 ・ミチロウさんにとって、歌においてどういう影響ありましたか。吉本さん、きいて喜んでくれるんですか、どういう反応するんですか。彼、ライブハウスきたんですか。一人で?浮いてませんでしたか。マザースとか、やってましたよね。千葉なんですよ。
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