沼田謙二朗です。
年末年始に能登半島に行っておりました。
現地はいまだ震災と豪雨のつめあとも生々しく、安易に「復興は進んでいる」とも言えません。
かといって逆に「まったく復興していない」と断じることもできません。
じっさい、道は前回(2024年5月)に行ったときよりも回復してましたし、解体が進んでいる様子も確認できました。
12月30日に金沢に移動し、けっきょく1月5日まで石川県におりました。
およそ一週間の滞在。
一番感じたのは、現地の人の前向きさ、でした。
こう言うとあまりに簡単すぎるようですが、
現地の、とくに若い人(20〜40代)は、「これからの能登や地元をどうしていくか」に向いている。
その前向きさや自立心。
彼ら彼女らは「被災地=かわいそう」という等号をどこか嫌っているようにも感じました。(★1)
■
ぼくにとって2024年は「詩の消えた一年」でした。
能登半島地震があり、さかのぼる13年前の東日本大震災であふれた「詩」は、しずかな無意識に沈んだままのようでした。(★2)
これだけAIが進化し、ファミレスにはロボット配膳が進み、人間なんていてもいなくてもよくなっているのに、人間にしかできないことがやれなくなっているのでしょうか。
そのあたりに私は、不可思議を感じるのです。
年末年始に能登半島に行っておりました。
現地はいまだ震災と豪雨のつめあとも生々しく、安易に「復興は進んでいる」とも言えません。
かといって逆に「まったく復興していない」と断じることもできません。
じっさい、道は前回(2024年5月)に行ったときよりも回復してましたし、解体が進んでいる様子も確認できました。
12月30日に金沢に移動し、けっきょく1月5日まで石川県におりました。
およそ一週間の滞在。
一番感じたのは、現地の人の前向きさ、でした。
こう言うとあまりに簡単すぎるようですが、
現地の、とくに若い人(20〜40代)は、「これからの能登や地元をどうしていくか」に向いている。
その前向きさや自立心。
彼ら彼女らは「被災地=かわいそう」という等号をどこか嫌っているようにも感じました。(★1)
■
ぼくにとって2024年は「詩の消えた一年」でした。
能登半島地震があり、さかのぼる13年前の東日本大震災であふれた「詩」は、しずかな無意識に沈んだままのようでした。(★2)
これだけAIが進化し、ファミレスにはロボット配膳が進み、人間なんていてもいなくてもよくなっているのに、人間にしかできないことがやれなくなっているのでしょうか。
そのあたりに私は、不可思議を感じるのです。
2024年5月。福島県郡山にライブしにいったら
「俺たちの伝承館」あって
それみて 公共の伝承館との差異、落差、というか、その「分裂」をおもう
未来と過去。公共のほうは未来重視。それは原発事故が終わってないから。終わってれば、距離とって、成田の記念館のようにできるが
未来と過去を、感情の記憶を、人格分裂をもうちょっと統合する必要ある。それがいいたい。そこをやるのが表現者の役割かなとおもってる。
だから能登でやりたいのもそこ。原発誘致の記憶ある。
もっとさかのぼって、縄文の記憶も眠ってる。もっと悠久の、人間以前の土地の記憶もある。それは上記の福島の話よりもっとスパンがながい。つまりは人新世を相対化する、という意識になる。
そういうディープエコロジー意識も能登から発想できる。それは東京では生まれてこない自意識だ。だから能登に学ぶ有効性がある。
さらに、原発の話は「10万年後の未来」をイメージさせる。そのタイムスパンに対応するためには、むしろ「10万年前の過去」を知る必要がある。あの木化石はそのヒントになる。
あの木化石が 木が化石になるあいだの時間 原発のゴミが 地球の地層になる時間
それは人間のタイムスケールを越えている。東京は人間(のみ)に最適化されている。だから、辺境にいく。そこに意味がある。
■
あと、珠洲の人のパワフルさに接してほしい。ぼくらは知らず知らずに、東京中心主義に浸っている。そのことを自覚するきっかけもない。
日本のなかに、別の価値観がある。それを知るだけでも有意義なはずだ。
ぼくにとっては「こういうこと」が「おもしろい」。多くの人にとってはそうでないかもしれない、とも思う。
奥能登には、消費文化が届いていない側面はある。マクドナルドはないし、すき家もないし、コンビニは夜になれば閉まる。
それを「不便」だとか「なにもない」と表現するのが、都会の価値観だ。実際は、そこに人が住んで生きている。
そこに、これからの日本社会を考えるヒントがある。そう直観している。
■
珠洲市は、単純化していえば「原発を拒否して芸術祭を催したまち」だ。原子力発電に対しての、政治的な賛否は置いて考えたい(それはときにあまりに白熱しすぎる)。ここで大事なのは、珠洲市が「外から入ってくるカネ」をアテにするより、「自分たちの土地がもっている魅力や歴史や精神にフォーカスを当て、おもしろくなろうとしたこと」だ。
つまり、自分たちの地元はおもしろいよ、と信じようとした。内発的な輝きへと舵を切った。
その決断に、ぼくは賛意と敬意を持つ。
おなじようなことがしたいと、ぼくもずっと思っていた。
自分たちの足元に眠っている価値を掘り起こす。
それは、単なる地域おこしの話ではなく、人間そのものの話でもある。
みんながみんな、「どこかで保証されている価値をもってくること」のみをしはじめたら、その価値そのものが、最期は空洞になってしまうだろう。
価値あるものをもってくるのではなく、価値を誰かに認めてもらうのでもなく、自分たちで自分たちの価値を再発見し、その価値をつくっていくこと。
そんなことがしたいと思ってきた。
■
震災の復旧もままならない時期に、こういうことをあえて言い出すのはどうか、という意見もあるかもしれない。
というか、いま、「そういう意見」ばかりがはびこり、人々の意識に内面化されているといっていい。
ぼくは「能登はおもしろい」と思った。2023年11月に芸術祭にいって、そう思ったのだ。
それから、地震が起こり、豪雨にも見舞われ、能登は大変な状況がつづいている。
そして、東京≒関東からは、「能登はかわいそう」「政府はなにやってんだ」式の見方ばかりがある。
でもぼくは、「能登はおもしろい」と言っていきたいと思う。そうでなければ、復興の議論もおかしくなると思っている。
現に、「あんな僻地の過疎地を復興させる意味がどこまであるか。リアリズムで考え、都市に人口を集約し、コンパクトシティ化を進める機会にすべきだ」という意見はよく聞かれる。「税金でどこまで面倒みるのか」露悪的に言えばそういう声すらもある。その声と「政府はもっと金を出せ」という意見は裏表なのだ。これらの声は、多かれ少なかれいま人々の無意識に流れているように思う。
したがって、だからこそ、「能登のおもしろさ」を主張しなければいけない。率直にそう思う。
というか、なぜそうした発想がこんなに少ないのか。そのことのほうに困惑を覚える。★3
「能登を助ける」とか「能登を救う」という話ではなく、まず「日本にとっての能登の価値」を表現していくことが、復興に不可欠の過程なのだと信じている。
そしてそれは、能登に限定した話ではなく、「日本の未来」「日本の復興」にかかった話でもあるのだ。
▼能登の謎、能登のおもしろさ
「俺たちの伝承館」あって
それみて 公共の伝承館との差異、落差、というか、その「分裂」をおもう
未来と過去。公共のほうは未来重視。それは原発事故が終わってないから。終わってれば、距離とって、成田の記念館のようにできるが
未来と過去を、感情の記憶を、人格分裂をもうちょっと統合する必要ある。それがいいたい。そこをやるのが表現者の役割かなとおもってる。
だから能登でやりたいのもそこ。原発誘致の記憶ある。
もっとさかのぼって、縄文の記憶も眠ってる。もっと悠久の、人間以前の土地の記憶もある。それは上記の福島の話よりもっとスパンがながい。つまりは人新世を相対化する、という意識になる。
そういうディープエコロジー意識も能登から発想できる。それは東京では生まれてこない自意識だ。だから能登に学ぶ有効性がある。
さらに、原発の話は「10万年後の未来」をイメージさせる。そのタイムスパンに対応するためには、むしろ「10万年前の過去」を知る必要がある。あの木化石はそのヒントになる。
あの木化石が 木が化石になるあいだの時間 原発のゴミが 地球の地層になる時間
それは人間のタイムスケールを越えている。東京は人間(のみ)に最適化されている。だから、辺境にいく。そこに意味がある。
■
あと、珠洲の人のパワフルさに接してほしい。ぼくらは知らず知らずに、東京中心主義に浸っている。そのことを自覚するきっかけもない。
日本のなかに、別の価値観がある。それを知るだけでも有意義なはずだ。
ぼくにとっては「こういうこと」が「おもしろい」。多くの人にとってはそうでないかもしれない、とも思う。
奥能登には、消費文化が届いていない側面はある。マクドナルドはないし、すき家もないし、コンビニは夜になれば閉まる。
それを「不便」だとか「なにもない」と表現するのが、都会の価値観だ。実際は、そこに人が住んで生きている。
そこに、これからの日本社会を考えるヒントがある。そう直観している。
■
珠洲市は、単純化していえば「原発を拒否して芸術祭を催したまち」だ。原子力発電に対しての、政治的な賛否は置いて考えたい(それはときにあまりに白熱しすぎる)。ここで大事なのは、珠洲市が「外から入ってくるカネ」をアテにするより、「自分たちの土地がもっている魅力や歴史や精神にフォーカスを当て、おもしろくなろうとしたこと」だ。
つまり、自分たちの地元はおもしろいよ、と信じようとした。内発的な輝きへと舵を切った。
その決断に、ぼくは賛意と敬意を持つ。
おなじようなことがしたいと、ぼくもずっと思っていた。
自分たちの足元に眠っている価値を掘り起こす。
それは、単なる地域おこしの話ではなく、人間そのものの話でもある。
みんながみんな、「どこかで保証されている価値をもってくること」のみをしはじめたら、その価値そのものが、最期は空洞になってしまうだろう。
価値あるものをもってくるのではなく、価値を誰かに認めてもらうのでもなく、自分たちで自分たちの価値を再発見し、その価値をつくっていくこと。
そんなことがしたいと思ってきた。
■
震災の復旧もままならない時期に、こういうことをあえて言い出すのはどうか、という意見もあるかもしれない。
というか、いま、「そういう意見」ばかりがはびこり、人々の意識に内面化されているといっていい。
ぼくは「能登はおもしろい」と思った。2023年11月に芸術祭にいって、そう思ったのだ。
それから、地震が起こり、豪雨にも見舞われ、能登は大変な状況がつづいている。
そして、東京≒関東からは、「能登はかわいそう」「政府はなにやってんだ」式の見方ばかりがある。
でもぼくは、「能登はおもしろい」と言っていきたいと思う。そうでなければ、復興の議論もおかしくなると思っている。
現に、「あんな僻地の過疎地を復興させる意味がどこまであるか。リアリズムで考え、都市に人口を集約し、コンパクトシティ化を進める機会にすべきだ」という意見はよく聞かれる。「税金でどこまで面倒みるのか」露悪的に言えばそういう声すらもある。その声と「政府はもっと金を出せ」という意見は裏表なのだ。これらの声は、多かれ少なかれいま人々の無意識に流れているように思う。
したがって、だからこそ、「能登のおもしろさ」を主張しなければいけない。率直にそう思う。
というか、なぜそうした発想がこんなに少ないのか。そのことのほうに困惑を覚える。★3
「能登を助ける」とか「能登を救う」という話ではなく、まず「日本にとっての能登の価値」を表現していくことが、復興に不可欠の過程なのだと信じている。
そしてそれは、能登に限定した話ではなく、「日本の未来」「日本の復興」にかかった話でもあるのだ。
▼能登の謎、能登のおもしろさ
- 土地の色
- 木化石の謎
- 縄文の記憶
- 原発の物語
- 芸術祭の物語
- 拉致問題の側で
- 満蒙開拓団の記憶
- イルカの骨
- イカ漁
- 九十九湾
- 内灘闘争
- 見附島の神秘
- 折口信夫の目線——マレビトの能登
- あえのこと——柳田國男
- 祭り——キリコ祭り、あばれ祭り
- 宗教——浄土真宗、エホバ、天理教
- のとじま水族館
- 朝鮮——おもて道だった日本海(上下さかさまの地図)
★1 もちろん、限られた人にお話を聞いただけなので、「被災者」といってもいろんな立場がある。けどそもそも「被災者」というくくりを嫌う人もいる。発災直後に「ここはアトラクションなんだ」と崩れた町をある意味おもしろがるように自己形容していたという人にも出会いました。戦時中でいえば、空襲をあびながら「焼夷弾がとってもきれいで見とれてた」という証言はけっこうあったりする。人間のそういう側面を、昨今の「空気」は切り落としすぎているのかな、とも感じます。
★2 東日本大震災後の現代詩手帖の特集「東日本大震災と向き合うために」(2011年5月号)、能登半島地震後の同雑誌の特集は「パレスチナ詩アンソロジー」でした(2024年5月号)。
2024年の抱負で述べたことと関連しますが、触視的平面(@東浩紀)における「情報」は地理的条件、身体的条件をフラットにし、パレスチナの惨状も震災の惨状も等価に「表示」する。マスメディアの時代には、現地に「取材」して報道するジャーナリストが重要な媒介たりえていた。今日では、「報道」はSNSプラットフォーム上を等形式で流れるフラットな「情報」となり、おおむね、より視覚刺激の多い情報体にアテンションが集まる。
パレスチナの惨状は、その映像刺激においても突出しており、ひきちぎられた子どもの死体の映像も、ビルが砲撃される映像もあふれかえっている。対して能登半島地震の映像は、東日本大震災と比してもその刺激性においておだやかであり、これを視る人々の無意識をかき乱す比率は相対的に高いものとならなかった、とおもう(むしろ、「政府は対応がおそい」や「ボランティアは渋滞を引き起こすから迷惑だ」といったような、抽象的な次元でのコトバの応酬にとどまった)。
けっきょく、ぼく自身もそうだったが、かつての311では、押し寄せる津波の映像に自分が傷つき、それが詩を書く動機になったとおもう。くわえて、「東京も揺れた」こと。今回でいえば、熊本地震ではそうならなかった自分がこうまで反応しているのは、直近に奥能登を訪問したからにほかならない。そんなある意味「身も蓋もない」ような因のつらなりを思う。
もちろん、パレスチナの惨状は重大なものだ。ぼくもそう思うし、ああした虐殺は間違っている。そうとしか言えない。ただ、「ぼくらの身体の反応」について思ってしまう、ということが言いたい。
★3 ポスト311において、「大きな話」がたくさん出現した。いまそれらの議論はしぼみ、浮上しない。
★2 東日本大震災後の現代詩手帖の特集「東日本大震災と向き合うために」(2011年5月号)、能登半島地震後の同雑誌の特集は「パレスチナ詩アンソロジー」でした(2024年5月号)。
2024年の抱負で述べたことと関連しますが、触視的平面(@東浩紀)における「情報」は地理的条件、身体的条件をフラットにし、パレスチナの惨状も震災の惨状も等価に「表示」する。マスメディアの時代には、現地に「取材」して報道するジャーナリストが重要な媒介たりえていた。今日では、「報道」はSNSプラットフォーム上を等形式で流れるフラットな「情報」となり、おおむね、より視覚刺激の多い情報体にアテンションが集まる。
パレスチナの惨状は、その映像刺激においても突出しており、ひきちぎられた子どもの死体の映像も、ビルが砲撃される映像もあふれかえっている。対して能登半島地震の映像は、東日本大震災と比してもその刺激性においておだやかであり、これを視る人々の無意識をかき乱す比率は相対的に高いものとならなかった、とおもう(むしろ、「政府は対応がおそい」や「ボランティアは渋滞を引き起こすから迷惑だ」といったような、抽象的な次元でのコトバの応酬にとどまった)。
けっきょく、ぼく自身もそうだったが、かつての311では、押し寄せる津波の映像に自分が傷つき、それが詩を書く動機になったとおもう。くわえて、「東京も揺れた」こと。今回でいえば、熊本地震ではそうならなかった自分がこうまで反応しているのは、直近に奥能登を訪問したからにほかならない。そんなある意味「身も蓋もない」ような因のつらなりを思う。
もちろん、パレスチナの惨状は重大なものだ。ぼくもそう思うし、ああした虐殺は間違っている。そうとしか言えない。ただ、「ぼくらの身体の反応」について思ってしまう、ということが言いたい。
★3 ポスト311において、「大きな話」がたくさん出現した。いまそれらの議論はしぼみ、浮上しない。