いま朝。ぼーっとする。風呂にはいった。出来事を淡々と。それが詩のあわいになる。なにかを予測して事前に恐れるこころというのはなかなか離れない。それでも待っていれば時間がすぎていく。
------------------- 内向きのまま、外に出る、という姿勢がいいんだろうな、自分には、とおもうた。外に出る、外向きになる、と、外に合わせる姿勢になる。それはちがった。 たぶん、自分の「仕事」をストックさせていく意識でいければいいんだ。フローのなかで最大の効果を狙う、というのでなく。 昔のWEBはそうだった。おおむねホームページというのはアーカイブするものだった。「電脳的漫画論」とか(マンガ批評サイト)よく参考にしてマンガを買った。 いつしか拡散し動員するためのWEBばかり目立ってきたけど、本来もっと勝手にやっているというか、個人的なストックコンテンツを公開する、というところにおもしろさと自由度があったようにおもう。 昔のWEBは好きだったし、おもしろかった。いまはWEBも社会そのままというか、むしろWEBが社会というか、評価経済的な性質がとにかく全面的に前面に出ていて、それがつかれるし、異和する。 昔がよかった、という話ではない。昔の方法をいまやってみると、いまだからこそおもしろくなる、というアイデアの話だ。現状追認と先取りの競争だって、本来の倫理的な正当性が備わっているわけじゃない。わけじゃないのに、人はそれを正当だとおもいたがる。そこに関してはオルタナティブでありたいとおもうし、そうでなくてはならないだろう。 「自分に対する自己影響を第一義とする」という例の原則をやってみる、と。つまり、そのストックは自分のためのストックなんだ、ということが自由度をあげるミソなのだとかんじるようになってきた。妙に利他的な言説にひっぱられすぎてはいけなかった。それは方便であり、よくて片面の真実にすぎない。今上天皇がマニアックな動物の生態に詳しいような、そういうたぐいのこだわりがいいんだとおもうし、そこを主張してよい。 見いだしうるべき場所はある。やるべき余剰はつねにまっている。 東浩紀が言っていた「敵の似姿にならない」ということが、たしかにそうだな、とおもえる。 日記
2017/04/28 02:58 今日は新曲を練習した。16分の裏のノリで演奏させたい、とこだわっていたけど、どうももっと白玉で歌と曲全体の波を勘定して演奏したほうがよさそうだった。もう帰りたい時間だったけどはまってしまった。 演奏は、欲張ったら見失うものがあるんだとおもう。そう考えると、いつも欲張っている。あるいは単純に思い違っているだけか。もっと簡単で効果的な演奏があるのだ。 ニューズピックスの東浩紀と宮台真司の対談がおもしろかった。ゲンロン0も読んだし、東浩紀に共感率が高い。宮台の「なりすまし」も印象にのこった。ふたりの対談はおもしろい。 コメント欄のほうはふたりに否定的な意見もけっこうある。やはり、ビジネスパーソンらしい。 落合陽一のポストヒューマンぽい話は、やはり脅威を感じる。宮台さんは「主体」の話をしてくれるが、近代的自我のようなものはもうおしまいなのだろうか。 AIの時代になっても人間の実存は消えないし消せないだろう、とおもう。ただ価値観は変容していくだろう。その実存を手当するもの、と考えたって、高次的対応と低次的対応はちがう。結局ファストフード、サプリメントのようなものばかり増える。 ただメタ意識のようなものは一般化していっているような気はする。それとも、ネット社会に適応していてそうなっているだけか。 夜、吉本隆明の講演をすこしきく。質疑応答が本編より長いのが通例らしいが。若者?の質問を丁寧にきく吉本隆明は、すごいなとおもった。1987年ごろのもの。 |