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diary 夢,卵

5/9/2017

 
『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』
 生成。卵。流れ。なにか固有の止まった固定的記名、でなく流れ。僕たちは流れ。常に。「最終的になになにになるんだ」とりあえず吹聴できるステータス、固定的な状態、達成、のようなものを重視すると、今度は流れ、連続性を分断しがちになる。
 ポストモダン思想は役に立たないとおもっていた。それは破壊的で「人間」の諸価値を無化するようなもので、それだから敬遠していた。でもちがう。それはもっと時代の表現で、時代に応じたものの考え方のおおいなるヒントになる。そんなかんじに思えるようになってきた。ゲンロン0を読んだ効用で前提が整理できた感がある。それらは案外生き方を教えてくれる。つまり、無駄に怖がらなくていいし、こう考えれば前向きになれる、ここに突破口がある、みたいな風に。時代を先取りして、いま現れている問題、課題に答えようとしていた、そうともいえる。

 あとはアイデンティティの問題。これに答えるには、吉本思想やサルトルの思想のようなものが、役に立つといえる。
 僕は2012年まで糸井重里(ほぼ日)-吉本隆明のラインの言説に影響を受けてきた。そこでは左翼の内ゲバに至らないための自戒のようなものが強調されていた、ようにおもう。常に「いいことをいわない」とか、「無価値の価値」とかが言われ、「強いことを言ってみんなを従わせる」ことをさける注意みたいなものが常にあったように思う。それらは糸井さんの感性でありこだわり、あるいはトラウマ?に基づくものだった、たぶん。
 糸井さん、ほぼ日から切り離した単体の吉本隆明はどうか。それはけっこう、単純なじゃない。ある意味、矛盾してるんじゃないか、ということを言っているようにもおもう。読み手によってイメージが変わる。宮台真司らが特に言う吉本隆明のポストモダン状況への感度の鈍さ、は、確かにそうともいえるけれど吉本思想、あるいは吉本文学とか吉本世界の全体性の一部をあげつらってる、とも同時にいえてしまう。露出が多いのだ。別にテレビによく出てたとかではないけど。出した本が膨大で、特に90年代、00年代以降はばんばん出してたんじゃないか。



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#2017/05/09 13:08

 当事者としての自分は、弾き語りをやっている人間で、ライブをやる人間で、ということになっている。でも一般的な意味で批評意識は有意義だ、ということ。

 石川さんのNewsPick興味深い。うかつにはじめない、おわらない。まあうかつにはじめたりすることもあっていいんだろうとはおもうけど。ただ準備、ふりかえりはたいせつだ、ということ。

 生成すること。流れがたいせつだ、ということと、それでもやはり人間は区別しながら認知するはずで、その機能が意味を認識させてもくれるはずだ。まあ両方が大事ということになる。 


Picture
#2017/05/10 08:13
 ふりかえり。夢に尾崎がでてきた。なぜかキヨシさんのイベント?体育館で俺も出てあせってたのはその前の夢。
 尾崎は歌ってた。歌、つくってた。


 感性が理性に先行すると、実はよく書けなくなる。ことばが消える。それもいいかもしれないが、俺は拒否する。饒舌、それがいまは必要なんだ。言葉で不安をかき消す、そういうことかもしれない。いや、双方のバランスだ。そうだ。一方を選択して一方を消去してしまわないで。
 まったくもって、照れて、ことばをなくすのは、よくない。なにをいったらいいかな、はおかしい。


 それにしても、だ。愛はなにを救うか?瞑想なんてしても、理性に役立つのかよ、と、Nは思い始めた。ホリエだとか、オチアイだとかいうIT起業家,科学者、メディアアーティストなる人物たちがスマホの画面で対話している。なにかをけなしてる。Nは、いつでも攻撃されているような気持ちをなぜか内に醸成させて、それはたぶん劣等感と羨望の裏かえしであるはずなんだけども、彼らを憎むべき敵とみなした。その日の朝には夢にオザキが出てきていた。Nは、感性の力、詩の力、そういうものに寄り添ってセンシティブになって、目の前の他者に親切になって、それで言葉を失うならばそんな力はないほうがよい、もっと解放的で自己目的的で、そして無限循環可能な行為モデルを模索していたのだ。


 暴力。暴力の魅力。少なくとも、空想的な暴力の夢想が生きることに役立つ、そんな次元はあるし、それを否定できない。SM的生権力。ボクの生きる「ための」セカイ解釈。世界、世界は俺のために在る。俺が、世界のなかで在るんじゃない。俺が在ってはじめて世界が在るのであり、その意味で俺がカミなのだ。そんな風におもいなすのは滑稽だろうか?いやむしろ、それが俺の処世術だ!と地下室の一隅から吠えてみたい。そんなこと思ったって世界は在る。俺がいなくても世界は在るわけだ。でもまず、その事実を転倒することで、意図的にパワーを得たい。


 いくつかの文学作品にロールモデルを見ていた。ドストエフスキー『地下室の手記』はそのひとつだ。森達也『A』に出てくるオウム真理教信者もそのひとつだったかもしれない。なにしろ、彼らはいくらでも弱者の位置、社会から攻撃される位置、そうされてもいい位置にいて、そのことがむしろこちら側の救いになるのだ。彼らを蔑み、嘲笑しつつ、同時に彼らのシンパシーを抱き、状況次第では自分も彼らの一員になっていたかもしれない、などと想像可能であることが、不思議な解放感を与えた。蔑まれるものとの連帯。架空の連帯。連帯可能性の夢想。そういうことがあの映画の実存的意味だった。犯罪への距離の近さ、つまり<法>という社会を規定するルールからもまた自由である、という彼らに対する架空の視線が、Nにとっての生存の架空の筋道を構想することに役だった。もちろん、すべてはサプリメントにすぎない。Nは暇さえあれば、お菓子を食べたいとおもった。でもそれもそのうち、飽きるよね。


 アイスクリームたべたーい。キボンヌ。ソルボンヌ。Nはしかし、センズリこく態勢に入った。動画サイトは全てチェック済みだ。最適な動画を選択すること。それだけが課題だ。


 なんにもない。なんにもないな。ここにはなんにもない。結局虚無感に襲われる。こういうことならないほうがいい。道を歩む、ということがないほうがいい。だって虚無ならねえ。歩かないほうがいいっしょ。そうでしょ。そうっしょ。そうなんです。だからそうなんです。
 ネトウヨはウイルスみたいなもんだろうと思ったね。そのとき。ところで、安田浩一『ネットと愛国』は在特会に最後シンパシーを感じたことを告白していて、とても好感をもったよ。つまり、自分もウイルスなのさ。そのことを隠蔽して、あるいは気づかないふりして、いや、ほんとに気づかないほどどうしようもない鈍感さで、「悪」なるものを攻撃したってしかたがないのよ。それがわかって?なんとなく、いる位置がちがうというだけで、人は偉くなったり落ちぶれたりする。そのとき社会の目線を相対化したいと願う。その願いを成就させたい。社会を、ひいてはこの世界を、解放的で自由な空間にしたい。人間にはふたつの目がついている(片目、あるいは目のない人もいるが)。その目が物事をどういうふうに見るか、その集積が社会なら、俺はいまこう見る。見える世界が俺の世界だ。客観的に存在する<社会>と、俺の世界は対立するだろう。それともそれら全てがシステムの生成物にすぎない?予定説にしたがって、俺は川に入り、川魚と遊ぶか死んだ家族と再会したい。そうだ。一匹の魚のように、世界と共存したい。
 目線が交錯する。脳みそのエラーなのかもしれなかった。中途半端に脳みそがでかいんだ。超能力が足りないのさ。悩みを超越するにはね。でもそのうち、チップを埋め込んだりできるようになれば、解決解決。性の悩みも、VRやラブドールが解決をもたらしてくれるだろう。あと3Dプリンターだ。そしてショッピングモールで幸せになろう。結婚式は、ショッピングモール併設の、一律5万8千円の施設で行うのが平均ラインとなる。
 交錯する目線がしんどいから、とにかく快楽化を急がなきゃならない。そのしんどさ、交錯を快楽に変換するんだ。優れた人間にはそれができた。でもこれからは、誰もがテクノロジーの力によってそれが可能となる。宗教はあらかじめインストールされた脳チップによってイスラム教もキリスト教も仏教すらも入れ替え可能な精神モードの問題にすぎなくなる。神は創造される。実際に、ホログラムで。当然すべての行為と選択と位置情報と脳波信号はビッグデータに転送され蓄積されるのでいつ死んでも大丈夫だ。データだけ抜き出せば人生の再プレイは可能だ。別の個体で。そうしたらもう、この世界もゲームの世界も変わらなくなる。


 全てのことが可能になる。とにかく可能になる。けれどもひとつのことが可能にならない。私はいかに生くべきか。過去の死者が、こっちを見ている。可能だったのは過去だったのかもしれない。未来はなんにでもなれるのだとしたら、全ては不可能になっていくだけではないか。頭がふたつのラットがいる。脳は両方生きているらしい。彼らにとって世界とはなんであろうか?


 そんな世界、誰が生きたいとおもうのだろう。でもそうなったら、もうそれ以外はできなくなる。

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