歌の千羽鶴について
能登ノート
能登ノート、ということで、能登のことをつらつら書いていこうと思います。
一発目は、全体をざっくり振り返ります。
〜〜〜
こんにちは!
千葉在住シンガーソングライターの沼田謙二朗です。
現在、毎月第二月曜日に埼玉県越谷市の音楽茶屋ごりごりハウスにて「歌の千羽鶴」というイベントを開催しております。
この歌の千羽鶴、「能登でライブしたい」と銘打っております。
なにゆえに?
■
御存知の通り2024年元日に能登半島地震が起こりました。ぼくはその直前の2023年11月に「奥能登国際芸術祭」という現代アートのイベントを見るため、はじめて能登を訪れておりました。
はじめての能登で見た町並み、風景、風のてざわり、海の色あい、数々のアート作品、出会って交わした人の言葉……その思い出新たな時に、能登の町が地震と津波でめちゃくちゃになっている光景が伝わってきました。
同時に起こったのは、渋滞を理由にした「ボランティア自粛論」でした。1月5日には石川県の馳知事が「能登にこないで」とXに投稿。能登入りした政治家がSNSで炎上したりと、なにやらぎすぎすした空気が世間に流れていました。
たしかに、能登の少ない道は崩れ、渋滞は発生していた。緊急車両が立ち往生するのは避けなければなりません。渋滞が命取りになることはあるのだから。
けれど、そのことと、「ボランティアや能登に行った人を叩くこと」は別の次元のことだと感じました。
巨大な違和感をひきずったまま時が過ぎました。
■
5月、GWの休みを利用してふたたび能登に行きました。
そのときですら「行っていいのかな」という気持ちがくすぶっており、のと里山海道を走るときにびくびくしました。
芸術祭以来の能登は、とても静かで、さみしく見えました。
東日本大震災のあとにあったような「災害ユートピア」が、今回はなかったということなのだろうか。
■
能登から戻り、ごりごりハウスの主人のらぁめんさんに能登の様子を伝えました。それから「能登イベントをやろう」ということになりました。
イベントタイトルを考えているとき「そういえばいま、千羽鶴ってありがた迷惑の象徴のようになっているよなあ」と思い当たりました。
じゃあ、それを使おう。
「歌」の千羽鶴にしよう。
■
第一回歌の千羽鶴を2024年10月15日に、第二回を2025年2月10日にごりごりハウスで行いました。
いきなり能登でライブをするのは難しいから、まずは越谷でイベントを重ね、投げ銭で資金を溜め、能登とのつながりを徐々につくっていこうという計画でした。
投げ銭をたくさんいただきました。
「俺なんかが、こういうイベントを主催していいのかなあ」
と、イベント開催前は半信半疑だったのですが、フタを開けてみれば、そういう自分の自意識よりも集まってくれた人たちの熱意、気持ちを感じ、自分ひとりで抱えていたものがだんだんほぐれていくような気がしました。
■
2024年から2025年の年末年始に、三度目の能登にいきました。
現地の人の話をまた聞くことができました。
能登の観光スポットもめぐりました。
都合一週間の滞在となりました。
震災があったから、当然「被災地」なのだけれど、
震災以前から能登がもっていたおもしろさ、魅力、その価値を
なんとかもっと理解したい気持ちがありました。
(写真 観光 イカキング 水族館 UFO 遺跡 ケロン)
■
先ほども書きましたが、この10年から20年のあいだに、「千羽鶴」はありがた迷惑の象徴になってしまいました。
そんな時代に、「歌の千羽鶴」とは、
「役に立たないものを、どうして人間はつくったり、求めたり、表現したり、それを他人に届けたりしてきたのだろう」
という問いを投げかけるものでもあります。
ぼくは1986年生まれで、東日本大震災のときに24才でした。
あのとき、たくさんの芸術、音楽、映画やドラマ、漫画や詩歌や小説
あらゆる文化があの震災に対して応答するように表現していたのを記憶しています。
今回、そのような応答、表現が、こんなに少ないものなのかな
どこいったんだろう? あのときのあのエネルギーは
本音をいえば、一番感じていたのはそのことでした。
表現が、なくなった
そんなふうに感じました。
みんなが表現しているのは
「あいつが食った炊き出しは被災者が食べるはずだった」とか「俺が通ったときには渋滞なんてもうしてなかった」とか「売名ボランティアに気をつけろ」とか「初動が遅かった」「いや遅くない」とか
相手を論破するためだったり、自分の正しさを主張するためだったり、自分が他人より賢いと思うための言葉だけになりました。
いつのまにか、世界はすっかりかたちを変えていた
いや、人間が変わってしまった
そんなふうにも感じました。
けど、ほんとうはそうじゃない
「表現」されるべきだったものは、どこかに隠れて、ひそひそしてるんだろうと思いました。
それを、なんとか、表に出てきてもらえるように、説得して、耕して、どうにか見えるようにしていきたい
そう考えました。
■
こないだ、2025年のお正月、奥能登のとある本屋さんにお話を聞いたとき
地震のあと、めちゃくちゃになった町のなかで「これはアトラクションだと思おう、と思った」と言っていました。
「被災者とか、かわいそうな場所みたいなイメージにとらわれたくない」
と言っている人もいました。
もちろん話を聞けていない人がほとんどであるし、ごく一部の人の一部の話を聞いただけなのですが
そこには、「表現」と同じような、ある種の能動性があると感じました。
それは、生きる意志のようなものです。
■
能登はこれから、復興の話が前面に出てきます。
コンパクトシティの議論がそこに入ってきます。
「過疎地の住人を都市に集約してインフラを効率化しよう」と。
その議論は「正しい」としても、もしかしたら、それでも自分の街に残ろうとする人に対して、今度は外から「税金をどこまで使うんだ」という批判が起こるかもしれません。
そのとき、「迷惑」という言葉が、被災者に向けられるかもしれない。
人々が「千羽鶴」を「迷惑物」としか見なさず、そのようにしか感覚できなくなった世界で、過疎の土地や、そこに生きる(生きた)人々の暮らしが顧みられることはもうないんだと思いました。
ぼくは、「役に立つか役に立たないか」だけで物事の必要性をジャッジしようとする態度、それ自体が一種の罠であり、
ほんとうは、人間というのは、「役に立たないけど必要なもの」とか「役に立たないけどあったほうがいいもの」とか「役に立たないしなくてもいいけど、やむにやまれず出ちゃったもの」とかにどっぷり関わり合いながら、生きているもんだと思うのです。
■
守るべきものがあるから復興する。
復興でも復旧でも、「復」というのは、守るべきもの、帰るべきすがたがあるということです。
能登にはじめて行ったとき感じたのは、変わらない「ふるさと」の匂いでした。
ぼくの地元千葉は、戦争中には空襲があり、海は埋立地となり、つねに東京の隣で「首都圏」として開発されていく運命にあります。
房総半島には末端まで鉄道が敷かれています。
能登半島には、穴水から先に鉄道がなく、奥能登に行くのには車(あるいはバス)が必要でした。
その環境は、こちらの感覚からすれば「不便」だけれど、でもだからこそ昔のものが変わらず残っているということでもある。
それが新鮮で、かつ自分の地元を見つめ直す鏡にもなると思いました。
人の営みのみならず、天然自然が何百年、何千年とそこにあったことの連続性を、能登では感じることができた……
それは、いまを生きるぼくたちの、なにか抜けてしまった基本の感覚のようなものを与えてくれるもののようにも感じました。
(写真 自然)
〜〜〜
以上のような経緯、考えをもちながら、歌の千羽鶴プロジェクトを進めています。
能登ノート、一発目は以上です。
//
「おいおい、お前の気持ちはわかったけど、被災者の、当事者の視点はどうなったの?」
という声があると思います。
//
自分の考えばかり書き連ねても、独りよがりになってしまう気がしてしょうがないのですが、それでも自分がどう考えたかを表現しないことには、なにもはじまらない—--
そう思っています。
それぞれがそれぞれの視点で生き、感じ、考えている。
それぞれがそれぞれの当事者であって、そのそれぞれが、たくさん出てくればいいと思っています。
だから、ぼくはぼくの当事者性をしゃべるしかないんだよな……それがまずははじまりだと思っています。
そこからなにがつながっていくのかは、予想できません。
歌の千羽鶴プロジェクトをつづけていきます。
歌の千羽鶴は立ち入り禁止を超える
最後につけくわえると
大仏
迷惑ボランティアとは立ち入り禁止ということ
当事者、非当事者の区別をこわすもの
この文章そのものがそうなってる
▼次回予告(写真)
イカキング
縄文仮面
輪島ワイプラザ
九十九湾……
▼ネットの意味
インターネットとは「ふるさとがない」ということであり、拠点もなく税金もとられない。(非定住の思想。テクノリバタリアン。バーチャル)
このバーチャルな実存、経済、管理が推し進める未来は、優生思想のディストピア。
為政者は実験の欲望を隠さなくなった(プーチンへの憧憬、「俺達のほうがもっとうまくやれる」)。それが第二期トランプ政権の意味。
——トランプは金勘定、イーロン・マスクはテック設計主義の優生選民主義へ、バンスは「愛」(愛郷心からの異人への恐怖)をフックにした排外主義……
こうした〈現実〉に対して一般市民が対抗しなければ、人類にあかるい未来はやってこない。
そのために「ふるさととはなにか」「ふるさとをどう守るか」「ふるさとが変わるならそれはどういうありかたか」を考える。
……それが「バンスの提起した問い」に答えることでもある。彼は「ふるさとを守るため、これ以上壊されないために、移民を追い出せ」と言っている。
これに対抗するためには、人新世的な視点が必要だ。
そもそもアメリカは移民でできた国だった。
そして人間そのものが、地球に「移民」している種族ともいえる。
我々は、「先住民」たる天然自然に支配的な態度を取り続けている。
それがいつまでもつか。
我々は最終的に地球から「排外」されてしまうかもしれない。
そのリスクはある。
大切なのは、移民を「排斥」することではなく、どう受け入れ、かつ古いものをどう守るか、そのバランスだ。(訂正可能性の「古いものを守りながら変えていく、保守と革新を兼ね備えた建設」)

ふるさととはなにか。それは愛の感情のベースとなるものだ。それは共同体の土台となる。
さらにその先、奥を考えると、それは「宗教感情」というものと結びつくことに思い当たる。
デジタルネイチャーの世界で、データが支配し、AIが差配し、統治権力が司祭階級となり、市民は羊に成り下がる「家畜統治」の世界で
市民がモブになり、非人間になり、データのひとつにすぎなくなる世界で
わたしたちは、小さな共同体をつくり、守り、それを高度にしていくしかない。
そのささやかな規模のリアルな結びつきを、データ支配の為政者が見る世界よりも、豊かで複雑で、より人間的で普遍的で素晴らしいものに鍛え上げていくしかない。
それは「宗教共同体」ともいるし、「ふるさとの共同体」ともいえる。
外国人を排除するのではなく、どう共生していくか。障害者でも貧富や学歴の格差でもそうだ。
そのためにライブハウスを使う。音楽を使う。それが「歌の千羽鶴」の理念でもある。
【我々はなにでないか】
我々はデータではない。ユーザーではない。奴隷ではない。家畜ではない。
我々は人間であり、この社会の主役だ。
それを実感でき、相互に尊厳をもちあい、実存をつつみ、包摂していける場をつくる。
それがわたしたちのやるべきことだ。
【我々はなにであるか】
我々は人間である。人間はみな平等だ。
我々はこの社会の主役である。主権者である。
■
バンスがイーロン・マスクと組んでいる世界がまちがっているのだ。
彼にはあきらかに「ねじれ」「屈折」がある。彼は民主党支持者だった。トランプも支持していなかった。彼はリベラルだったのだ。じっさい、彼を貧困から救ったのはリベラルな政策だった。
だが、そのバンスがいまトランプ政権の副大統領となり、イーロン・マスクの進めるテクノ革命の一部となっている現実。
バンス(シャア・アズナブル的な人物)の上半身と下半身、そのねじれの意味を理解し、ときほぐさねばならない。そこに我々の未来がかかっているように思う。これは文学的な問題でもあるのだ。
能登のほうが三密
コロナ禍でいわれた「三密回避」は、デジタル支配の前提の構築を加速させてしまいました。
ぼくがいままで言っているのは、要は「三密を取り戻せ」ということです。
能登は過疎地といわれていますが、被災地でみたのは、都会や郊外よりも密な地元のつながりでした。
「過疎」なのはどちらなのだろう
大事なのは、デジタルではつくれない人と人の精神的な三密です。
それには身体レベルの共同感覚が必要です。わかりやすいのは学校の教室です。
おなじ空間に同級生たちがいる
その経験こそ、共同身体の感覚のベースです。
それが共感をつくります。
デジタル統治にいかに対抗するか
デジタルは共感をスルーし不問にする。
その結果、優生思想や選民思想のいいようになります。
デジタルテクノロジーはもうそれを可能にしています。
いままでそうならなかったのは、要は単に技術的な制約のゆえであるにすぎません。
人間は、それが「できる」「可能」となったら、必ずそれをやってみたくなってしまう生き物なのです。
イーロン・マスクがいい例です。
だから、これからの市民的生き方には、もう一段レベルの高い責任が必要とされます。
そうでなければ、もういままでのような「人間らしさ」は守れません。
この必然を理解しなければいけません。
もう性善説は通用しない。そういう時代になってしまいました。
これからどんどん「不都合なもの」「非効率なもの」「非生産的なもの」や「人」が削除されていくことでしょう。
そう、データをゴミ箱にいれて「空にする」ボタンを押すように、人間も削除可能な対象に見なされます。
そのような「感覚」が広まり定着したのです。
だから、そもそもそのような「感覚」そのものに対して、別の感覚を生み育て守ることで対抗する必要があるのです。
そうでなければ地球は為政者や権力者がプレイするゲームになります。
いま、そうなってきているのです。
これを放置すれば、我々は「ゲームのモブ」となり、ある一定の人々は「削除」されます。
それが現実的になにを意味するかは制約がありません。
じっさいに命の危険にさらされようとも、「ゲーム」の感覚からは痛みやブレーキは作用しません。
世界をそのような場所にしないためには、わたしたち一人ひとりが考え、共同していくしかない。
そのことを強くいいたいです。
ぼくらの活動も、すべてその目標にかかっています。
■
あまりにも陰鬱な世界の情勢になってきましたが、それでもぼくたちは人間の可能性、希望、可塑性を信じたい。
信じてやっていくしかない。
人間は、信じられないほどダメにもなっていくけれど、美しく、強く、気高くなることもできる。
人間の歴史は、後者がなんとか生き残ってきた歴史でもある。
力をあわせ、困難の時代をともに乗り越えていければと思います。
能登ノート、ということで、能登のことをつらつら書いていこうと思います。
一発目は、全体をざっくり振り返ります。
〜〜〜
こんにちは!
千葉在住シンガーソングライターの沼田謙二朗です。
現在、毎月第二月曜日に埼玉県越谷市の音楽茶屋ごりごりハウスにて「歌の千羽鶴」というイベントを開催しております。
この歌の千羽鶴、「能登でライブしたい」と銘打っております。
なにゆえに?
■
御存知の通り2024年元日に能登半島地震が起こりました。ぼくはその直前の2023年11月に「奥能登国際芸術祭」という現代アートのイベントを見るため、はじめて能登を訪れておりました。
はじめての能登で見た町並み、風景、風のてざわり、海の色あい、数々のアート作品、出会って交わした人の言葉……その思い出新たな時に、能登の町が地震と津波でめちゃくちゃになっている光景が伝わってきました。
同時に起こったのは、渋滞を理由にした「ボランティア自粛論」でした。1月5日には石川県の馳知事が「能登にこないで」とXに投稿。能登入りした政治家がSNSで炎上したりと、なにやらぎすぎすした空気が世間に流れていました。
たしかに、能登の少ない道は崩れ、渋滞は発生していた。緊急車両が立ち往生するのは避けなければなりません。渋滞が命取りになることはあるのだから。
けれど、そのことと、「ボランティアや能登に行った人を叩くこと」は別の次元のことだと感じました。
巨大な違和感をひきずったまま時が過ぎました。
■
5月、GWの休みを利用してふたたび能登に行きました。
そのときですら「行っていいのかな」という気持ちがくすぶっており、のと里山海道を走るときにびくびくしました。
芸術祭以来の能登は、とても静かで、さみしく見えました。
東日本大震災のあとにあったような「災害ユートピア」が、今回はなかったということなのだろうか。
■
能登から戻り、ごりごりハウスの主人のらぁめんさんに能登の様子を伝えました。それから「能登イベントをやろう」ということになりました。
イベントタイトルを考えているとき「そういえばいま、千羽鶴ってありがた迷惑の象徴のようになっているよなあ」と思い当たりました。
じゃあ、それを使おう。
「歌」の千羽鶴にしよう。
■
第一回歌の千羽鶴を2024年10月15日に、第二回を2025年2月10日にごりごりハウスで行いました。
いきなり能登でライブをするのは難しいから、まずは越谷でイベントを重ね、投げ銭で資金を溜め、能登とのつながりを徐々につくっていこうという計画でした。
投げ銭をたくさんいただきました。
「俺なんかが、こういうイベントを主催していいのかなあ」
と、イベント開催前は半信半疑だったのですが、フタを開けてみれば、そういう自分の自意識よりも集まってくれた人たちの熱意、気持ちを感じ、自分ひとりで抱えていたものがだんだんほぐれていくような気がしました。
■
2024年から2025年の年末年始に、三度目の能登にいきました。
現地の人の話をまた聞くことができました。
能登の観光スポットもめぐりました。
都合一週間の滞在となりました。
震災があったから、当然「被災地」なのだけれど、
震災以前から能登がもっていたおもしろさ、魅力、その価値を
なんとかもっと理解したい気持ちがありました。
(写真 観光 イカキング 水族館 UFO 遺跡 ケロン)
■
先ほども書きましたが、この10年から20年のあいだに、「千羽鶴」はありがた迷惑の象徴になってしまいました。
そんな時代に、「歌の千羽鶴」とは、
「役に立たないものを、どうして人間はつくったり、求めたり、表現したり、それを他人に届けたりしてきたのだろう」
という問いを投げかけるものでもあります。
ぼくは1986年生まれで、東日本大震災のときに24才でした。
あのとき、たくさんの芸術、音楽、映画やドラマ、漫画や詩歌や小説
あらゆる文化があの震災に対して応答するように表現していたのを記憶しています。
今回、そのような応答、表現が、こんなに少ないものなのかな
どこいったんだろう? あのときのあのエネルギーは
本音をいえば、一番感じていたのはそのことでした。
表現が、なくなった
そんなふうに感じました。
みんなが表現しているのは
「あいつが食った炊き出しは被災者が食べるはずだった」とか「俺が通ったときには渋滞なんてもうしてなかった」とか「売名ボランティアに気をつけろ」とか「初動が遅かった」「いや遅くない」とか
相手を論破するためだったり、自分の正しさを主張するためだったり、自分が他人より賢いと思うための言葉だけになりました。
いつのまにか、世界はすっかりかたちを変えていた
いや、人間が変わってしまった
そんなふうにも感じました。
けど、ほんとうはそうじゃない
「表現」されるべきだったものは、どこかに隠れて、ひそひそしてるんだろうと思いました。
それを、なんとか、表に出てきてもらえるように、説得して、耕して、どうにか見えるようにしていきたい
そう考えました。
■
こないだ、2025年のお正月、奥能登のとある本屋さんにお話を聞いたとき
地震のあと、めちゃくちゃになった町のなかで「これはアトラクションだと思おう、と思った」と言っていました。
「被災者とか、かわいそうな場所みたいなイメージにとらわれたくない」
と言っている人もいました。
もちろん話を聞けていない人がほとんどであるし、ごく一部の人の一部の話を聞いただけなのですが
そこには、「表現」と同じような、ある種の能動性があると感じました。
それは、生きる意志のようなものです。
■
能登はこれから、復興の話が前面に出てきます。
コンパクトシティの議論がそこに入ってきます。
「過疎地の住人を都市に集約してインフラを効率化しよう」と。
その議論は「正しい」としても、もしかしたら、それでも自分の街に残ろうとする人に対して、今度は外から「税金をどこまで使うんだ」という批判が起こるかもしれません。
そのとき、「迷惑」という言葉が、被災者に向けられるかもしれない。
人々が「千羽鶴」を「迷惑物」としか見なさず、そのようにしか感覚できなくなった世界で、過疎の土地や、そこに生きる(生きた)人々の暮らしが顧みられることはもうないんだと思いました。
ぼくは、「役に立つか役に立たないか」だけで物事の必要性をジャッジしようとする態度、それ自体が一種の罠であり、
ほんとうは、人間というのは、「役に立たないけど必要なもの」とか「役に立たないけどあったほうがいいもの」とか「役に立たないしなくてもいいけど、やむにやまれず出ちゃったもの」とかにどっぷり関わり合いながら、生きているもんだと思うのです。
■
守るべきものがあるから復興する。
復興でも復旧でも、「復」というのは、守るべきもの、帰るべきすがたがあるということです。
能登にはじめて行ったとき感じたのは、変わらない「ふるさと」の匂いでした。
ぼくの地元千葉は、戦争中には空襲があり、海は埋立地となり、つねに東京の隣で「首都圏」として開発されていく運命にあります。
房総半島には末端まで鉄道が敷かれています。
能登半島には、穴水から先に鉄道がなく、奥能登に行くのには車(あるいはバス)が必要でした。
その環境は、こちらの感覚からすれば「不便」だけれど、でもだからこそ昔のものが変わらず残っているということでもある。
それが新鮮で、かつ自分の地元を見つめ直す鏡にもなると思いました。
人の営みのみならず、天然自然が何百年、何千年とそこにあったことの連続性を、能登では感じることができた……
それは、いまを生きるぼくたちの、なにか抜けてしまった基本の感覚のようなものを与えてくれるもののようにも感じました。
(写真 自然)
〜〜〜
以上のような経緯、考えをもちながら、歌の千羽鶴プロジェクトを進めています。
能登ノート、一発目は以上です。
//
「おいおい、お前の気持ちはわかったけど、被災者の、当事者の視点はどうなったの?」
という声があると思います。
//
自分の考えばかり書き連ねても、独りよがりになってしまう気がしてしょうがないのですが、それでも自分がどう考えたかを表現しないことには、なにもはじまらない—--
そう思っています。
それぞれがそれぞれの視点で生き、感じ、考えている。
それぞれがそれぞれの当事者であって、そのそれぞれが、たくさん出てくればいいと思っています。
だから、ぼくはぼくの当事者性をしゃべるしかないんだよな……それがまずははじまりだと思っています。
そこからなにがつながっていくのかは、予想できません。
歌の千羽鶴プロジェクトをつづけていきます。
歌の千羽鶴は立ち入り禁止を超える
最後につけくわえると
大仏
迷惑ボランティアとは立ち入り禁止ということ
当事者、非当事者の区別をこわすもの
この文章そのものがそうなってる
▼次回予告(写真)
イカキング
縄文仮面
輪島ワイプラザ
九十九湾……
▼ネットの意味
インターネットとは「ふるさとがない」ということであり、拠点もなく税金もとられない。(非定住の思想。テクノリバタリアン。バーチャル)
このバーチャルな実存、経済、管理が推し進める未来は、優生思想のディストピア。
為政者は実験の欲望を隠さなくなった(プーチンへの憧憬、「俺達のほうがもっとうまくやれる」)。それが第二期トランプ政権の意味。
——トランプは金勘定、イーロン・マスクはテック設計主義の優生選民主義へ、バンスは「愛」(愛郷心からの異人への恐怖)をフックにした排外主義……
こうした〈現実〉に対して一般市民が対抗しなければ、人類にあかるい未来はやってこない。
そのために「ふるさととはなにか」「ふるさとをどう守るか」「ふるさとが変わるならそれはどういうありかたか」を考える。
……それが「バンスの提起した問い」に答えることでもある。彼は「ふるさとを守るため、これ以上壊されないために、移民を追い出せ」と言っている。
これに対抗するためには、人新世的な視点が必要だ。
そもそもアメリカは移民でできた国だった。
そして人間そのものが、地球に「移民」している種族ともいえる。
我々は、「先住民」たる天然自然に支配的な態度を取り続けている。
それがいつまでもつか。
我々は最終的に地球から「排外」されてしまうかもしれない。
そのリスクはある。
大切なのは、移民を「排斥」することではなく、どう受け入れ、かつ古いものをどう守るか、そのバランスだ。(訂正可能性の「古いものを守りながら変えていく、保守と革新を兼ね備えた建設」)

ふるさととはなにか。それは愛の感情のベースとなるものだ。それは共同体の土台となる。
さらにその先、奥を考えると、それは「宗教感情」というものと結びつくことに思い当たる。
デジタルネイチャーの世界で、データが支配し、AIが差配し、統治権力が司祭階級となり、市民は羊に成り下がる「家畜統治」の世界で
市民がモブになり、非人間になり、データのひとつにすぎなくなる世界で
わたしたちは、小さな共同体をつくり、守り、それを高度にしていくしかない。
そのささやかな規模のリアルな結びつきを、データ支配の為政者が見る世界よりも、豊かで複雑で、より人間的で普遍的で素晴らしいものに鍛え上げていくしかない。
それは「宗教共同体」ともいるし、「ふるさとの共同体」ともいえる。
外国人を排除するのではなく、どう共生していくか。障害者でも貧富や学歴の格差でもそうだ。
そのためにライブハウスを使う。音楽を使う。それが「歌の千羽鶴」の理念でもある。
【我々はなにでないか】
我々はデータではない。ユーザーではない。奴隷ではない。家畜ではない。
我々は人間であり、この社会の主役だ。
それを実感でき、相互に尊厳をもちあい、実存をつつみ、包摂していける場をつくる。
それがわたしたちのやるべきことだ。
【我々はなにであるか】
我々は人間である。人間はみな平等だ。
我々はこの社会の主役である。主権者である。
■
バンスがイーロン・マスクと組んでいる世界がまちがっているのだ。
彼にはあきらかに「ねじれ」「屈折」がある。彼は民主党支持者だった。トランプも支持していなかった。彼はリベラルだったのだ。じっさい、彼を貧困から救ったのはリベラルな政策だった。
だが、そのバンスがいまトランプ政権の副大統領となり、イーロン・マスクの進めるテクノ革命の一部となっている現実。
バンス(シャア・アズナブル的な人物)の上半身と下半身、そのねじれの意味を理解し、ときほぐさねばならない。そこに我々の未来がかかっているように思う。これは文学的な問題でもあるのだ。
能登のほうが三密
コロナ禍でいわれた「三密回避」は、デジタル支配の前提の構築を加速させてしまいました。
ぼくがいままで言っているのは、要は「三密を取り戻せ」ということです。
能登は過疎地といわれていますが、被災地でみたのは、都会や郊外よりも密な地元のつながりでした。
「過疎」なのはどちらなのだろう
大事なのは、デジタルではつくれない人と人の精神的な三密です。
それには身体レベルの共同感覚が必要です。わかりやすいのは学校の教室です。
おなじ空間に同級生たちがいる
その経験こそ、共同身体の感覚のベースです。
それが共感をつくります。
デジタル統治にいかに対抗するか
デジタルは共感をスルーし不問にする。
その結果、優生思想や選民思想のいいようになります。
デジタルテクノロジーはもうそれを可能にしています。
いままでそうならなかったのは、要は単に技術的な制約のゆえであるにすぎません。
人間は、それが「できる」「可能」となったら、必ずそれをやってみたくなってしまう生き物なのです。
イーロン・マスクがいい例です。
だから、これからの市民的生き方には、もう一段レベルの高い責任が必要とされます。
そうでなければ、もういままでのような「人間らしさ」は守れません。
この必然を理解しなければいけません。
もう性善説は通用しない。そういう時代になってしまいました。
これからどんどん「不都合なもの」「非効率なもの」「非生産的なもの」や「人」が削除されていくことでしょう。
そう、データをゴミ箱にいれて「空にする」ボタンを押すように、人間も削除可能な対象に見なされます。
そのような「感覚」が広まり定着したのです。
だから、そもそもそのような「感覚」そのものに対して、別の感覚を生み育て守ることで対抗する必要があるのです。
そうでなければ地球は為政者や権力者がプレイするゲームになります。
いま、そうなってきているのです。
これを放置すれば、我々は「ゲームのモブ」となり、ある一定の人々は「削除」されます。
それが現実的になにを意味するかは制約がありません。
じっさいに命の危険にさらされようとも、「ゲーム」の感覚からは痛みやブレーキは作用しません。
世界をそのような場所にしないためには、わたしたち一人ひとりが考え、共同していくしかない。
そのことを強くいいたいです。
ぼくらの活動も、すべてその目標にかかっています。
■
あまりにも陰鬱な世界の情勢になってきましたが、それでもぼくたちは人間の可能性、希望、可塑性を信じたい。
信じてやっていくしかない。
人間は、信じられないほどダメにもなっていくけれど、美しく、強く、気高くなることもできる。
人間の歴史は、後者がなんとか生き残ってきた歴史でもある。
力をあわせ、困難の時代をともに乗り越えていければと思います。
沼田謙二朗です。
年末年始に能登半島に行っておりました。
現地はいまだ震災と豪雨のつめあとも生々しく、安易に「復興は進んでいる」とも言えません。
かといって逆に「まったく復興していない」と断じることもできません。
じっさい、道は前回(2024年5月)に行ったときよりも回復してましたし、解体が進んでいる様子も確認できました。
12月30日に金沢に移動し、けっきょく1月5日まで石川県におりました。
およそ一週間の滞在。
一番感じたのは、現地の人の前向きさ、でした。
こう言うとあまりに簡単すぎるようですが、
現地の、とくに若い人(20〜40代)は、「これからの能登や地元をどうしていくか」に向いている。
その前向きさや自立心。
彼ら彼女らは「被災地=かわいそう」という等号をどこか嫌っているようにも感じました。(★1)
■
ぼくにとって2024年は「詩の消えた一年」でした。
能登半島地震があり、さかのぼる13年前の東日本大震災であふれた「詩」は、しずかな無意識に沈んだままのようでした。(★2)
これだけAIが進化し、ファミレスにはロボット配膳が進み、人間なんていてもいなくてもよくなっているのに、人間にしかできないことがやれなくなっているのでしょうか。
そのあたりに私は、不可思議を感じるのです。
年末年始に能登半島に行っておりました。
現地はいまだ震災と豪雨のつめあとも生々しく、安易に「復興は進んでいる」とも言えません。
かといって逆に「まったく復興していない」と断じることもできません。
じっさい、道は前回(2024年5月)に行ったときよりも回復してましたし、解体が進んでいる様子も確認できました。
12月30日に金沢に移動し、けっきょく1月5日まで石川県におりました。
およそ一週間の滞在。
一番感じたのは、現地の人の前向きさ、でした。
こう言うとあまりに簡単すぎるようですが、
現地の、とくに若い人(20〜40代)は、「これからの能登や地元をどうしていくか」に向いている。
その前向きさや自立心。
彼ら彼女らは「被災地=かわいそう」という等号をどこか嫌っているようにも感じました。(★1)
■
ぼくにとって2024年は「詩の消えた一年」でした。
能登半島地震があり、さかのぼる13年前の東日本大震災であふれた「詩」は、しずかな無意識に沈んだままのようでした。(★2)
これだけAIが進化し、ファミレスにはロボット配膳が進み、人間なんていてもいなくてもよくなっているのに、人間にしかできないことがやれなくなっているのでしょうか。
そのあたりに私は、不可思議を感じるのです。
2024年5月。福島県郡山にライブしにいったら
「俺たちの伝承館」あって
それみて 公共の伝承館との差異、落差、というか、その「分裂」をおもう
未来と過去。公共のほうは未来重視。それは原発事故が終わってないから。終わってれば、距離とって、成田の記念館のようにできるが
未来と過去を、感情の記憶を、人格分裂をもうちょっと統合する必要ある。それがいいたい。そこをやるのが表現者の役割かなとおもってる。
だから能登でやりたいのもそこ。原発誘致の記憶ある。
もっとさかのぼって、縄文の記憶も眠ってる。もっと悠久の、人間以前の土地の記憶もある。それは上記の福島の話よりもっとスパンがながい。つまりは人新世を相対化する、という意識になる。
そういうディープエコロジー意識も能登から発想できる。それは東京では生まれてこない自意識だ。だから能登に学ぶ有効性がある。
さらに、原発の話は「10万年後の未来」をイメージさせる。そのタイムスパンに対応するためには、むしろ「10万年前の過去」を知る必要がある。あの木化石はそのヒントになる。
あの木化石が 木が化石になるあいだの時間 原発のゴミが 地球の地層になる時間
それは人間のタイムスケールを越えている。東京は人間(のみ)に最適化されている。だから、辺境にいく。そこに意味がある。
■
あと、珠洲の人のパワフルさに接してほしい。ぼくらは知らず知らずに、東京中心主義に浸っている。そのことを自覚するきっかけもない。
日本のなかに、別の価値観がある。それを知るだけでも有意義なはずだ。
ぼくにとっては「こういうこと」が「おもしろい」。多くの人にとってはそうでないかもしれない、とも思う。
奥能登には、消費文化が届いていない側面はある。マクドナルドはないし、すき家もないし、コンビニは夜になれば閉まる。
それを「不便」だとか「なにもない」と表現するのが、都会の価値観だ。実際は、そこに人が住んで生きている。
そこに、これからの日本社会を考えるヒントがある。そう直観している。
■
珠洲市は、単純化していえば「原発を拒否して芸術祭を催したまち」だ。原子力発電に対しての、政治的な賛否は置いて考えたい(それはときにあまりに白熱しすぎる)。ここで大事なのは、珠洲市が「外から入ってくるカネ」をアテにするより、「自分たちの土地がもっている魅力や歴史や精神にフォーカスを当て、おもしろくなろうとしたこと」だ。
つまり、自分たちの地元はおもしろいよ、と信じようとした。内発的な輝きへと舵を切った。
その決断に、ぼくは賛意と敬意を持つ。
おなじようなことがしたいと、ぼくもずっと思っていた。
自分たちの足元に眠っている価値を掘り起こす。
それは、単なる地域おこしの話ではなく、人間そのものの話でもある。
みんながみんな、「どこかで保証されている価値をもってくること」のみをしはじめたら、その価値そのものが、最期は空洞になってしまうだろう。
価値あるものをもってくるのではなく、価値を誰かに認めてもらうのでもなく、自分たちで自分たちの価値を再発見し、その価値をつくっていくこと。
そんなことがしたいと思ってきた。
■
震災の復旧もままならない時期に、こういうことをあえて言い出すのはどうか、という意見もあるかもしれない。
というか、いま、「そういう意見」ばかりがはびこり、人々の意識に内面化されているといっていい。
ぼくは「能登はおもしろい」と思った。2023年11月に芸術祭にいって、そう思ったのだ。
それから、地震が起こり、豪雨にも見舞われ、能登は大変な状況がつづいている。
そして、東京≒関東からは、「能登はかわいそう」「政府はなにやってんだ」式の見方ばかりがある。
でもぼくは、「能登はおもしろい」と言っていきたいと思う。そうでなければ、復興の議論もおかしくなると思っている。
現に、「あんな僻地の過疎地を復興させる意味がどこまであるか。リアリズムで考え、都市に人口を集約し、コンパクトシティ化を進める機会にすべきだ」という意見はよく聞かれる。「税金でどこまで面倒みるのか」露悪的に言えばそういう声すらもある。その声と「政府はもっと金を出せ」という意見は裏表なのだ。これらの声は、多かれ少なかれいま人々の無意識に流れているように思う。
したがって、だからこそ、「能登のおもしろさ」を主張しなければいけない。率直にそう思う。
というか、なぜそうした発想がこんなに少ないのか。そのことのほうに困惑を覚える。★3
「能登を助ける」とか「能登を救う」という話ではなく、まず「日本にとっての能登の価値」を表現していくことが、復興に不可欠の過程なのだと信じている。
そしてそれは、能登に限定した話ではなく、「日本の未来」「日本の復興」にかかった話でもあるのだ。
▼能登の謎、能登のおもしろさ
「俺たちの伝承館」あって
それみて 公共の伝承館との差異、落差、というか、その「分裂」をおもう
未来と過去。公共のほうは未来重視。それは原発事故が終わってないから。終わってれば、距離とって、成田の記念館のようにできるが
未来と過去を、感情の記憶を、人格分裂をもうちょっと統合する必要ある。それがいいたい。そこをやるのが表現者の役割かなとおもってる。
だから能登でやりたいのもそこ。原発誘致の記憶ある。
もっとさかのぼって、縄文の記憶も眠ってる。もっと悠久の、人間以前の土地の記憶もある。それは上記の福島の話よりもっとスパンがながい。つまりは人新世を相対化する、という意識になる。
そういうディープエコロジー意識も能登から発想できる。それは東京では生まれてこない自意識だ。だから能登に学ぶ有効性がある。
さらに、原発の話は「10万年後の未来」をイメージさせる。そのタイムスパンに対応するためには、むしろ「10万年前の過去」を知る必要がある。あの木化石はそのヒントになる。
あの木化石が 木が化石になるあいだの時間 原発のゴミが 地球の地層になる時間
それは人間のタイムスケールを越えている。東京は人間(のみ)に最適化されている。だから、辺境にいく。そこに意味がある。
■
あと、珠洲の人のパワフルさに接してほしい。ぼくらは知らず知らずに、東京中心主義に浸っている。そのことを自覚するきっかけもない。
日本のなかに、別の価値観がある。それを知るだけでも有意義なはずだ。
ぼくにとっては「こういうこと」が「おもしろい」。多くの人にとってはそうでないかもしれない、とも思う。
奥能登には、消費文化が届いていない側面はある。マクドナルドはないし、すき家もないし、コンビニは夜になれば閉まる。
それを「不便」だとか「なにもない」と表現するのが、都会の価値観だ。実際は、そこに人が住んで生きている。
そこに、これからの日本社会を考えるヒントがある。そう直観している。
■
珠洲市は、単純化していえば「原発を拒否して芸術祭を催したまち」だ。原子力発電に対しての、政治的な賛否は置いて考えたい(それはときにあまりに白熱しすぎる)。ここで大事なのは、珠洲市が「外から入ってくるカネ」をアテにするより、「自分たちの土地がもっている魅力や歴史や精神にフォーカスを当て、おもしろくなろうとしたこと」だ。
つまり、自分たちの地元はおもしろいよ、と信じようとした。内発的な輝きへと舵を切った。
その決断に、ぼくは賛意と敬意を持つ。
おなじようなことがしたいと、ぼくもずっと思っていた。
自分たちの足元に眠っている価値を掘り起こす。
それは、単なる地域おこしの話ではなく、人間そのものの話でもある。
みんながみんな、「どこかで保証されている価値をもってくること」のみをしはじめたら、その価値そのものが、最期は空洞になってしまうだろう。
価値あるものをもってくるのではなく、価値を誰かに認めてもらうのでもなく、自分たちで自分たちの価値を再発見し、その価値をつくっていくこと。
そんなことがしたいと思ってきた。
■
震災の復旧もままならない時期に、こういうことをあえて言い出すのはどうか、という意見もあるかもしれない。
というか、いま、「そういう意見」ばかりがはびこり、人々の意識に内面化されているといっていい。
ぼくは「能登はおもしろい」と思った。2023年11月に芸術祭にいって、そう思ったのだ。
それから、地震が起こり、豪雨にも見舞われ、能登は大変な状況がつづいている。
そして、東京≒関東からは、「能登はかわいそう」「政府はなにやってんだ」式の見方ばかりがある。
でもぼくは、「能登はおもしろい」と言っていきたいと思う。そうでなければ、復興の議論もおかしくなると思っている。
現に、「あんな僻地の過疎地を復興させる意味がどこまであるか。リアリズムで考え、都市に人口を集約し、コンパクトシティ化を進める機会にすべきだ」という意見はよく聞かれる。「税金でどこまで面倒みるのか」露悪的に言えばそういう声すらもある。その声と「政府はもっと金を出せ」という意見は裏表なのだ。これらの声は、多かれ少なかれいま人々の無意識に流れているように思う。
したがって、だからこそ、「能登のおもしろさ」を主張しなければいけない。率直にそう思う。
というか、なぜそうした発想がこんなに少ないのか。そのことのほうに困惑を覚える。★3
「能登を助ける」とか「能登を救う」という話ではなく、まず「日本にとっての能登の価値」を表現していくことが、復興に不可欠の過程なのだと信じている。
そしてそれは、能登に限定した話ではなく、「日本の未来」「日本の復興」にかかった話でもあるのだ。
▼能登の謎、能登のおもしろさ
- 土地の色
- 木化石の謎
- 縄文の記憶
- 原発の物語
- 芸術祭の物語
- 拉致問題の側で
- 満蒙開拓団の記憶
- イルカの骨
- イカ漁
- 九十九湾
- 内灘闘争
- 見附島の神秘
- 折口信夫の目線——マレビトの能登
- あえのこと——柳田國男
- 祭り——キリコ祭り、あばれ祭り
- 宗教——浄土真宗、エホバ、天理教
- のとじま水族館
- 朝鮮——おもて道だった日本海(上下さかさまの地図)
★1 もちろん、限られた人にお話を聞いただけなので、「被災者」といってもいろんな立場がある。けどそもそも「被災者」というくくりを嫌う人もいる。発災直後に「ここはアトラクションなんだ」と崩れた町をある意味おもしろがるように自己形容していたという人にも出会いました。戦時中でいえば、空襲をあびながら「焼夷弾がとってもきれいで見とれてた」という証言はけっこうあったりする。人間のそういう側面を、昨今の「空気」は切り落としすぎているのかな、とも感じます。
★2 東日本大震災後の現代詩手帖の特集「東日本大震災と向き合うために」(2011年5月号)、能登半島地震後の同雑誌の特集は「パレスチナ詩アンソロジー」でした(2024年5月号)。
2024年の抱負で述べたことと関連しますが、触視的平面(@東浩紀)における「情報」は地理的条件、身体的条件をフラットにし、パレスチナの惨状も震災の惨状も等価に「表示」する。マスメディアの時代には、現地に「取材」して報道するジャーナリストが重要な媒介たりえていた。今日では、「報道」はSNSプラットフォーム上を等形式で流れるフラットな「情報」となり、おおむね、より視覚刺激の多い情報体にアテンションが集まる。
パレスチナの惨状は、その映像刺激においても突出しており、ひきちぎられた子どもの死体の映像も、ビルが砲撃される映像もあふれかえっている。対して能登半島地震の映像は、東日本大震災と比してもその刺激性においておだやかであり、これを視る人々の無意識をかき乱す比率は相対的に高いものとならなかった、とおもう(むしろ、「政府は対応がおそい」や「ボランティアは渋滞を引き起こすから迷惑だ」といったような、抽象的な次元でのコトバの応酬にとどまった)。
けっきょく、ぼく自身もそうだったが、かつての311では、押し寄せる津波の映像に自分が傷つき、それが詩を書く動機になったとおもう。くわえて、「東京も揺れた」こと。今回でいえば、熊本地震ではそうならなかった自分がこうまで反応しているのは、直近に奥能登を訪問したからにほかならない。そんなある意味「身も蓋もない」ような因のつらなりを思う。
もちろん、パレスチナの惨状は重大なものだ。ぼくもそう思うし、ああした虐殺は間違っている。そうとしか言えない。ただ、「ぼくらの身体の反応」について思ってしまう、ということが言いたい。
★3 ポスト311において、「大きな話」がたくさん出現した。いまそれらの議論はしぼみ、浮上しない。
★2 東日本大震災後の現代詩手帖の特集「東日本大震災と向き合うために」(2011年5月号)、能登半島地震後の同雑誌の特集は「パレスチナ詩アンソロジー」でした(2024年5月号)。
2024年の抱負で述べたことと関連しますが、触視的平面(@東浩紀)における「情報」は地理的条件、身体的条件をフラットにし、パレスチナの惨状も震災の惨状も等価に「表示」する。マスメディアの時代には、現地に「取材」して報道するジャーナリストが重要な媒介たりえていた。今日では、「報道」はSNSプラットフォーム上を等形式で流れるフラットな「情報」となり、おおむね、より視覚刺激の多い情報体にアテンションが集まる。
パレスチナの惨状は、その映像刺激においても突出しており、ひきちぎられた子どもの死体の映像も、ビルが砲撃される映像もあふれかえっている。対して能登半島地震の映像は、東日本大震災と比してもその刺激性においておだやかであり、これを視る人々の無意識をかき乱す比率は相対的に高いものとならなかった、とおもう(むしろ、「政府は対応がおそい」や「ボランティアは渋滞を引き起こすから迷惑だ」といったような、抽象的な次元でのコトバの応酬にとどまった)。
けっきょく、ぼく自身もそうだったが、かつての311では、押し寄せる津波の映像に自分が傷つき、それが詩を書く動機になったとおもう。くわえて、「東京も揺れた」こと。今回でいえば、熊本地震ではそうならなかった自分がこうまで反応しているのは、直近に奥能登を訪問したからにほかならない。そんなある意味「身も蓋もない」ような因のつらなりを思う。
もちろん、パレスチナの惨状は重大なものだ。ぼくもそう思うし、ああした虐殺は間違っている。そうとしか言えない。ただ、「ぼくらの身体の反応」について思ってしまう、ということが言いたい。
★3 ポスト311において、「大きな話」がたくさん出現した。いまそれらの議論はしぼみ、浮上しない。