2024年2月3日
「彼とぼくたち」
ぼくは彼をいじめていた。ぼく「たち」は束になって彼をいじめた。「いじめ」るのは愉しかった。「いじめ」ているあいだは、自分たちが、その彼(を代表する、ある虐げ可能な被差別民)よりも上位に位置すると無邪気に信じられた。自分たちの、ヒエラルキーを上位に固定するのは、快楽である。安心して、彼をいじめる。反撃はこない。心理的安全性を確保しながら、いじめる。
その「いじめ」のめぐり合わせによって、今度は自分たちが、いじめに遭う順番となった。ぼくたちはいじめられた。彼ではなく、彼から出た間接的な、彼のエネルギーに「いじめ」られた。
「いじめ」によっては、作用と反作用の往復は、単純な直線となってあらわれた。ぼくらは、いじめに飽きはじめる。いじめるのもいじめられるのも、同様に、無意味なことと悟るようになる。
いじめは止んだ。だが、「いじめがあった」という事実は残る。その記憶は残る。ぼくたちは、「加害者」であり、「被害者」でもあった。ぼくたちは、いずれにせよ、いじめの「当事者」だった。
「自分たちが当事者である」と、常日頃、意識して反省するのは難しい。たいていは、そのことを忘れて生きている。だが、考えるほかない状況はやってくる。彼がふたたび現れて、その無言のエネルギーによって、(あるいはこちらが勝手に言葉を捏造するように仮想して)ぼくらはメッセージをそれぞれに受け取った。そのメッセージは、自分の罪と向き合うことを強いるものもあれど、そのような内省がじっさいに起こることはまれだ。
ぼくたちは、もっぱら、「彼の加害を糾弾する」ことを選択する。
彼には、贖えない過去があった。しかし、彼自身もまた、その罪を軽んじて生きた。
ぼくたちは、彼に、その罪の重さをつきつけなければならなかった。そのような抵抗の障害として、彼にたいして現れなければならなかった。
同時に、そのとき、ぼくたちは、ぼくたち自身の罪を忘却する。「罪」とはっきり呼べるものが、ぼくたちにあったかはわからない。ただ、たしかに「いじめ」は存在していた。そのことを、ぼくも知っていた。その「いじめ」は、ともすれば、「たいしたことのない」「じゃれあい」に過ぎない、ともいえるかもしれない。だが、「いじめられたほう」からすれば、そんなことはいえない。
ここで、彼が「自分の罪を甘く見積もる」ことと、ぼくらが「自分の罪を甘く見積もること」は、奇妙なことに、対応する。
ぼくらと彼は、この点で、鏡になっているのだった。この構造から抜け出さないかぎり、ぼくらと彼の関係は、打ち消し合って発展しない。
彼自身が、こうやって生きてきたことの選択に、ぼくらも関わっていた。もしぼくらが、もっと真心をこめた公平な関係を彼と築いていたならば、ああした結果にはならなかったかもしれないのだ。
そのことの「責任」というものが、もしあるとするならば、ぼくはその責任を、どう背負うべきか。
そのことを考えている。いずれかの選択をしなくてはならない。態度をもとめられる。
「そして」
被災地には批評がない
現場には批評がない
匿名者には批評がない
「おまえはばかだ」
言葉が届かない
批評は
自分を自分で変えることだ
世界と素手でとっくみあう
素人の方法だ
「おまえはばかだ」
と言うとき
その「ばか」は自分自身でもある
生きた他人に素手でふれるとき
かならずその人を傷つける
だからこそ自分自身もまた
傷つかないではいられない
傷と傷がふれあう距離を
果たして許し合えるかどうか
それが目下
いちばんの困難な課題だ