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diary

4/29/2017

 
 しかし、悲観的なことばが必ず正しいとはかぎらない。むしろそれもバイアスがかかっている。現実がこうなったことへの反応としての悲観主義化という側面もあるか。現実を肯定しつつ道筋をみいだしていく類いの思想はいまありうるか。それはリバタリアニズムになっちゃうのか。

 マストドンはどうかしらないが、とりあえず自分の空間を広げるというのが目下やるべきこと。ツイッターはだから利用したい。HPとツイッター、かな、いまのところは。WEB空間はそれでいい。YouTubeもそろそろあげたい。サウンドクラウドもやらないとミュージシャンだと思われないな。
 そうするともっと野心的な作品もつくりたくなってくる。ちょいと前はそういった意欲もあったけれど、今年になってからは純粋に真面目に考えることが多い。


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 今日は仕事がイベントで、だからリズムがおかしい。帰ってきてからブックオフに行き3冊購入。「シリーズケアをひらく」の『当事者研究の研究』がよさそう。これは、ミュージシャンにも適用できる、というか自分にも。俺の当事者研究。
 「具体的な自分の実感をことばにすること」というくだり。そこに、ポエジーも宿るとおもえる。心の動きを記述。身体の反応をことばにする。

 自分がその場にいられない、なんとなく疎外されたような、胸のあたりが落ち着かなくって、ひとりにならないといけないけどひとりになりたいわけじゃなく、ほんとうは共有できればいいのだけど、共有はしたくないしできない。そういう場面がある。そういうとき、それはこらえ忍ぶしかないのだけど、その体験をことばにすることができたら、なにかの一歩にはなる。事後的な共有への一歩になるかもしれない。人間とは、表現することによってつながりうる存在なのだ。

 すべての本は表現だ。この文章もしかり。書き手はなにがいいたいか。なにを欲しているのか。メタメッセージとメッセージ、あるいは本音と建前。
 SNSやら、いまどきのべき乗世界、スケールフリー、資本のそれに向かいあってこちらの心がくらってしまうとき、そこにも具体的なことばの表現余地がある。それらはまだ表に出ていないかもしれない。SNSがむかつくんだ、なんて、言ってみてもいいはずだけどそれも紋切り型と受け取られる。紋切り型ではない通路を経なければ。

 いまビデオニュースの更新メールが入ったけど、ビッグデータに支配されないために、か。たとえばこうやって書く僕の文章によって僕の人格データが蓄積され、ネット履歴によって蓄積され、購入履歴、入力した単語、クリックしたいいねによって蓄積され、会社や政治?に利用される、というようなイメージだろうか。僕たちは動物だ。管理されている。こういう現実認識から「抵抗」のモチーフも生まれてくる。ただどこまで妥当かよくわからない面もおおい気がする。
 「肯定する思想」というもので、未来性ある議論は不可能だろうか。それは間違いの素だろうか。最小単位なら肯定できる、ものもあるとして、それを出発点にできるならば。
 歴史はかなり進んだ。人間社会は後期だ。というわけで、「ゼロ点」が見いだしづらい、ということはないか。当事者研究的方法でゼロ点が確認できるのでないか。べき乗でなく正規分布、ビッグデータではなく生身、そっちにもう一度ものさしを合わせなおす。
 こういったことも散々言われ続けていることにすぎないかもしれない。ただ実存(の安定継続可能性)に必要な現実認識は、そこにゼロ点が含有されてないといけないとおもう。骨がなく服を着てボロボロくずれる、ということがないように。

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