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diary 音楽機械

5/16/2017

 
 カオス。オウム。心の中が泡立って。

 て、て、て、て。

 カオスがやってくると、というか、カオスのなかに突入すると、そこはオウム的な、というかそれは単に連想のアレだけど、心が泡立つ。ようだ。言語を整理するのに時間がかかる。時間がかかるということは時間が要る。時間をつくるか盗まないといけないのだ。


 SMのかんがえのなかに、カオスははいってなかったなぁ。カオスになったらSMのような高踏的態度はとれない。余裕がSMには必要。カオスは退治することをかんがえる。が、創作にはカオスも必要。コントロール下でのカオスでないといけない。
 いちおう自分の文体があって、それは自分の安定して流通しうる意識体の一種のうつし身だから、大事にしてそこに自分の瞬間状況をいれこまないといけない。じゃないと自我を保てない。
 SMとは別にロウソクたらすとか縄でしめるとかじゃなくて、単に快楽のこと。快楽重視の選択が戦略的に必要だということ。それは効果の面でいってるのではなく、自己継続のためにいってる。
 カオス。これには様々な原因があって、ここに書き切れることじゃない。ほんとうのことは書けないのだ。メタファーの理由はそこにもある。うまいぐあいにぼかして、詩人はプライベートを語る。その間接話法がひっかかりをつくったりもする。嘘の私小説と本音の現代詩はちがうようで似ている。とにかく、意識的な表現はいろいろあやしいものなのだ。




 音楽は孤独を運ぶ。音楽をやってても、いまいち救われない。




 「対話」は重要だ。なにかを読んでいたり、人の話を聞いたり、そこに実存が入り込む隙間が生ずる。音楽は、実存を埋めない。別に表現されない。
 なにかそういうことがあるかもしれない。ゆうべ吉本隆明と坂本龍一の対談本『音楽機械論』を読んでいた。おもしろい。ためらい、、、否定、、、音節分節、、、。


 メトロノームのリズムで、パルスに点で合わせることを目安にして演奏する。このことにずっと良い悪いを感じてきたけれど、吉本さんという音楽およびピアノの「素人」が演奏した音には「ためらいがある」と。坂本にはそれがないと。西洋と東洋の音楽観の違いかな、とか。和音とメロディの関係づけで意味合いが変わる、とか、吉本さんが素人だからこそ原初的な意味合いが引き出されてる対談。坂本龍一の言語感覚、音楽を言語化してなされる説明がすごくよいなあ。
 パルス=点的=西洋の音楽観で、もっと領域的=幅のあるとらえ方は東洋に多い。点的のほうはロジカルに誤差なく計算できるので、一種グローバルに展開しやすい。データ化しやすい。流通しやすいし、転化しやすい。
 先進性と後進性といいかえてもいいけど、土着のかんじは後進性の領域的なとらえかたでないと出てこない感がある。置かれるコンテクストでもちがう。ブルースだったら、あの短3度のクォーターチョーキングが「気持ちいい」と感じるまでには耳の訓練が必要だった。ブルースはロックに発展していったわけだけど、文化的に見れば黒人のアイデンティティとの関係もあったろうし、その土着性はアメリカにとって受け入れる必然性のあるものだったはずだ。ブルース自体が黒人たち固有のリズム感覚と西洋の楽器?との出会い、あるいはクラシック音楽の蓄積との出会いがジャズになったり、とかだとおもう。
 そういう風に考えてくると日本固有の音というのはあるのかな、、、とかおもうけど。アップルミュージックに登録して、いろいろ聞けるけど、結局昨今のバンド音楽にはどうも興味が湧かない、というか聞けない。いろいろな角度であるけど、主に時代との兼ね合いで聞いてる、聞きたいとおもってるんだろうけど、時代に対して従順的であるというか、時代が主でこちらが従なんだ、という考えが前提に無疑問にあると、音楽に限らず限界を感じてしまう。
 この坂本吉本対談のように、西洋と東洋を対置して考えるとまた違ったとらえかたになるなと思った。一生懸命メトロノームで練習するわけだけど、確かにそうすると「ためらい」は録れない。でもためらいが重要だったり、、、ということも、その考え方では捨象してしまう。
 さいきん新設したHP内のMOVIEにて、YouTube動画をあげたのだけど、あれはぱっと思いつきで、やってるだけなので、練習もなにもないし、パルスもなにもないので、とても「素」の、あるいは画面のなかでどう映るかとか、そっちの効果に重点が置かれたものになってる。となると、じゃああれをもっと練習してうまく演奏して、、、とかいうことの、じゃあ「うまさ」ってなんなのだろう、と疑問になる。パルスを固定してそれに点的で正確になる?それがおもしろいのか?というと、別におもしろくはならないはずだ。
 バンドでやるのならパルスが固定していないと合奏で合わないからそれは必然なのだけど、一人だとそうじゃない。一人の利点はそれのはず、でもある。しかし「ためらい」を排除してしまう。僕らはもうそういう音楽観になってしまってるわけで。


 難しいハナシのようで、簡単なのは、いや簡単にとらえたいんだけど、まあ遊べればいいんだなと最近おもう。「音楽じゃ救われない」ともさっき書いたけど、それもたしかにそうで、一人で孤独に練習して、あるいは作曲して、それじゃ救われる感じにはならない。やはり、基本的に聞いてくれる人を求めるものだとはおもう。ただ、主従関係を意識していることも重要で、コンテキスト重視、つまり観客=聞く側が正当でなにもかもそこに合わせていく、ということじゃないだろう。あるいは裏切る、という自覚もおもしろいけど、そもそもずれている、コンテキストから外れちゃってる、という場合もありうる。千葉雅也的にいえば「ボケ」だ。まあボケとツッコミ=ユーモアとアイロニーのバランス、両輪で成り立ってる。
 ボケもユーモアもいいなあ、必要だなあ、と。「ゲスの極み乙女。」の新譜もちょっとだけ聞いて、やはり高度なんだけどその上手さはどうしてもパルス的な枠組みが絶対的にあるので、それを前提にしてるので、どうも聞き様によってはこっちが無視されているような感じもしてしまう、とおもった。東洋的、という音楽がありうるなら、そこの違いかもしれない。「ためらい」「ゆとり」「ずれ」を許容するというか、もっと呼吸的、瞑想文化というか、息のリズムなのかな。
 もちろんそっちを重視した音楽というのも、西洋文化圏で意識してやられてきているとも思うんだけど、自分の実感として、すこし考えを足したい。『音楽機械論』は1984年の出版ということだが、坂本龍一は近年アンビエント寄りな印象があった。個人的にもそっちに惹かれるものはある。
 結局、「否定」意識がリズムになってダイナミズムを生んで、メロディにも和音進行にも物語性や、つまり弁証法ということになっているのなら、その逆もある。音楽に肯定性を取り戻せるか?あくまで個人的な次元の話ですが、それだけじゃないかもしれないな、もしかしたら近年の音楽の兆候全般にいえることでもあるかもしれない。同時に、そうじゃない音楽もあがってきているわけだが、、、。どうなんだろう。
 とにかくDTMなどで音楽がつくられているわけで、これからもっとAIなどで音楽制作の過程は変化をするだろうし、じゃあそこにそもそもどういう意味づけがありうるのか、思想がありうるのか、哲学があるのか、ということが問われてもいい。
 「問われてもいい」、といったところで、同語反復してる人間が目の前にいて、そのような人間にそもそも論をぶつけたところで、その人間のアイデンティティにとって有害かもしれないので、人はみな繊細に生きている、ということは忘れないでいたい。戯画的になることも含めて一人での音楽表現を模索していく過程で、重要なものを発見したい。それは音楽のなかで孤独に陥らない領域だ。音楽で<もう一度>救われるためには、今度なにが必要か?ということ。
 この課題にこたえるということ。この課題にこたえるということでしかない。

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