恣意性(しいせい)について
・今日から毎週月曜日にこのコラムを更新していこうと思う。
「書きたいときに書く」ブログではない文章を、
少しでも発信し、蓄積していきたい。
邦人人質事件について
・今月(2月)、ISIL(イスラム国)の邦人人質事件に受けた衝撃から、
中東問題に関する本を買ったり、ネットで情報を見たりしている。
そしてその影響の延長線上で(たぶん)、先週月曜に熱を出して寝込んでしまった。
痛ましく、おぞましい気持ちを想像したり、
無慈悲な暴力と、それにまつわるネット上の「自由な」コメントや文章を読んでいると、
精神が打撃を負っていくのは当然のことだとも思える。
こういう事件のあとに何か発言すること自体が、どこか憚れるかんじもある。
事件をただニュースで見ただけの「無関係」な(この認識自体ひとつの「考え方」なのだが)
人間がいきおい何か言うことの滑稽さに直面したくない気持ちもある。
そういう意味では、それがなにがしかの「衝撃」だったという点と、
やはり饒舌にかこつけて語ってしまうことの「罪障感」と、
もっと矮小な意味での「こわさ」があるという点で、
まず、これは自分にとって、震災のときと似通った<経験>として感受された。
そうして書き出してみて気づくのは、
書けば書くほど、論を重ねれば重ねるほど、
実際に起こったことのどうしようもない残酷性と悲劇性に、
言葉だけが遊離して上ずっていってしまう側面があるということだ。
何を言ってもそれは「言ってるだけ」で、実際に現地に赴いて直接的活動をすることとは次元がちがう。
では切実に語れるのはけっきょく「自分の こと」しかないのだろうか。
思い起こせばそれが、『震災の後で』という以前僕が書いた曲の核となる問いだったように思う。
今回もその「問い」は継続してあるが、しかしそれの「解答」はかならず更新されていなくてはならない。
それが個人が背負える、背負うべき<責任>だと思うからだ。
・この事件といままでのテロ事件と、なにが違うんだろう?
たとえば日揮事件(邦人が殺された)のときは、リアルタイムだったはずだけど、
事件の印象は言われないと思い出さないものでしかなかった。
衝撃を受けることもなかった。
それが今回、ああいう映像を伴ってニュースが流れると、
視ている人間はさまざまな感情を想起してしまう。
そして悲劇的な最期がおとずれ、ショックを受ける。
「映像、画像」がなければこんなショックは生じなかっただろう。
どうしようもなく、<顔>を通じて、その人の気持ちを想像してみたり、
人となりを追ってみたり、「いい人だったのにな」とか考え感じてしまう。
まったく報道されない悲劇というのはある。
そちらについては、報道がないので、みんな関心を抱くことがない。
今回の事件で、確かにとても衝撃を受けた。
でも、この、「衝撃を受けた」という事実自体に、
なにか「自分勝手なもの」が現れている。
この<恣意性>は、たぶんいたるところにあるものだ。
特定の映画が観たくなるのも、特定の芸能人が好きになるのも、
「情報」が発信されて僕らがそれを受け取ったあと、
僕らがそれを「欲するようになる」ことで感情が生じる。
ニュースというのも同じだ。
だから、事件というものにもいつだって、
「有名な事件」と「無名な事件」がわかれることになる。
「情報」の度合いや重要性、インパクトでそれは決まってしまう。
・情報の深浅と量、またその新鮮さによって、
僕たちの「関心」と「興味」はどれだけ続くか左右する。
「関心」が「無関心」に変わる時間経過は、無慈悲で残酷なものといえるだろうか?
大多数の人にとって直面の課題でない中東問題を、
生活の中で思考することは、どういう意味ある行為だろうか?
「恣意的」であることは、ふつうの精神の、いちばん自然な、ふつうの状態なんだ。
「もっと様々な問題について知り、考えを深めよ」
と言っている団体や個人も、(それは良心的な人々として)存在し、活動しているが、
問題は どういう方向に人間をひっぱるのが、ただしいといえる方向なのだろうか
という問いであり、本来はまず、ここに解答を付与していかないといけないはずだ。
僕自身をひきあいに出せば、
ここでこういった文章を書くことが「いい」のか?
とりあえず演奏の練習をしたり曲をつくったりしたら「いい」のか?
それとも仕事に精を出して生活の基盤を、積み上げていくことが「いい」ことなのか?
はたまた、「音楽活動」の枠内での宣伝、告知、集客活動にいざ邁進することこそ「いい」ことなのか?
あるいはもっと別の、社会活動をしてみたり、隠れて募金をしてみたり、スポーツをしてみたり、、、
なにが「いい」ことなのかということの「正解」はなく、それこそ恣意的に自分で選ぶしかないわけだ。
しかし容易に判断できなくて、ためらいやおののきをいっぱい生じさせている。
こういう凡夫、愚息たる者にとって、「自分を変える」ことがまず直近の変革目標であって、
それはたしかに社会や世界のことについて考える「以前」の問題だ。
ただ、凡夫かそうでないかに関わりなく、
「現実を変える」とか「現実をつくる」とかいうことを想定しはじめたとき、
この世界(地球)に同時代に生きているもの同士として、
「パレスチナ問題」も「ISIL(イスラム国)」も、
それに対して決して無力でないという人間的信念を、
自分たちの生活の内部で範囲することは<可能>であり、
そうなるために自己を「ひっぱる」ことこそ必要なんだといいたい。
<恣意性>に関して、これを相対化しきった上で、
かつ何かを「選択」できれば、それが人間にとってほんとうの自由の条件になると信じている。
・なんにましても、なんにましても、
本気なのか?本気じゃないのか?
この問いを、常に自分に発し、課さないといけない。
2015/02/17 5:16 記
「書きたいときに書く」ブログではない文章を、
少しでも発信し、蓄積していきたい。
邦人人質事件について
・今月(2月)、ISIL(イスラム国)の邦人人質事件に受けた衝撃から、
中東問題に関する本を買ったり、ネットで情報を見たりしている。
そしてその影響の延長線上で(たぶん)、先週月曜に熱を出して寝込んでしまった。
痛ましく、おぞましい気持ちを想像したり、
無慈悲な暴力と、それにまつわるネット上の「自由な」コメントや文章を読んでいると、
精神が打撃を負っていくのは当然のことだとも思える。
こういう事件のあとに何か発言すること自体が、どこか憚れるかんじもある。
事件をただニュースで見ただけの「無関係」な(この認識自体ひとつの「考え方」なのだが)
人間がいきおい何か言うことの滑稽さに直面したくない気持ちもある。
そういう意味では、それがなにがしかの「衝撃」だったという点と、
やはり饒舌にかこつけて語ってしまうことの「罪障感」と、
もっと矮小な意味での「こわさ」があるという点で、
まず、これは自分にとって、震災のときと似通った<経験>として感受された。
そうして書き出してみて気づくのは、
書けば書くほど、論を重ねれば重ねるほど、
実際に起こったことのどうしようもない残酷性と悲劇性に、
言葉だけが遊離して上ずっていってしまう側面があるということだ。
何を言ってもそれは「言ってるだけ」で、実際に現地に赴いて直接的活動をすることとは次元がちがう。
では切実に語れるのはけっきょく「自分の こと」しかないのだろうか。
思い起こせばそれが、『震災の後で』という以前僕が書いた曲の核となる問いだったように思う。
今回もその「問い」は継続してあるが、しかしそれの「解答」はかならず更新されていなくてはならない。
それが個人が背負える、背負うべき<責任>だと思うからだ。
・この事件といままでのテロ事件と、なにが違うんだろう?
たとえば日揮事件(邦人が殺された)のときは、リアルタイムだったはずだけど、
事件の印象は言われないと思い出さないものでしかなかった。
衝撃を受けることもなかった。
それが今回、ああいう映像を伴ってニュースが流れると、
視ている人間はさまざまな感情を想起してしまう。
そして悲劇的な最期がおとずれ、ショックを受ける。
「映像、画像」がなければこんなショックは生じなかっただろう。
どうしようもなく、<顔>を通じて、その人の気持ちを想像してみたり、
人となりを追ってみたり、「いい人だったのにな」とか考え感じてしまう。
まったく報道されない悲劇というのはある。
そちらについては、報道がないので、みんな関心を抱くことがない。
今回の事件で、確かにとても衝撃を受けた。
でも、この、「衝撃を受けた」という事実自体に、
なにか「自分勝手なもの」が現れている。
この<恣意性>は、たぶんいたるところにあるものだ。
特定の映画が観たくなるのも、特定の芸能人が好きになるのも、
「情報」が発信されて僕らがそれを受け取ったあと、
僕らがそれを「欲するようになる」ことで感情が生じる。
ニュースというのも同じだ。
だから、事件というものにもいつだって、
「有名な事件」と「無名な事件」がわかれることになる。
「情報」の度合いや重要性、インパクトでそれは決まってしまう。
・情報の深浅と量、またその新鮮さによって、
僕たちの「関心」と「興味」はどれだけ続くか左右する。
「関心」が「無関心」に変わる時間経過は、無慈悲で残酷なものといえるだろうか?
大多数の人にとって直面の課題でない中東問題を、
生活の中で思考することは、どういう意味ある行為だろうか?
「恣意的」であることは、ふつうの精神の、いちばん自然な、ふつうの状態なんだ。
「もっと様々な問題について知り、考えを深めよ」
と言っている団体や個人も、(それは良心的な人々として)存在し、活動しているが、
問題は どういう方向に人間をひっぱるのが、ただしいといえる方向なのだろうか
という問いであり、本来はまず、ここに解答を付与していかないといけないはずだ。
僕自身をひきあいに出せば、
ここでこういった文章を書くことが「いい」のか?
とりあえず演奏の練習をしたり曲をつくったりしたら「いい」のか?
それとも仕事に精を出して生活の基盤を、積み上げていくことが「いい」ことなのか?
はたまた、「音楽活動」の枠内での宣伝、告知、集客活動にいざ邁進することこそ「いい」ことなのか?
あるいはもっと別の、社会活動をしてみたり、隠れて募金をしてみたり、スポーツをしてみたり、、、
なにが「いい」ことなのかということの「正解」はなく、それこそ恣意的に自分で選ぶしかないわけだ。
しかし容易に判断できなくて、ためらいやおののきをいっぱい生じさせている。
こういう凡夫、愚息たる者にとって、「自分を変える」ことがまず直近の変革目標であって、
それはたしかに社会や世界のことについて考える「以前」の問題だ。
ただ、凡夫かそうでないかに関わりなく、
「現実を変える」とか「現実をつくる」とかいうことを想定しはじめたとき、
この世界(地球)に同時代に生きているもの同士として、
「パレスチナ問題」も「ISIL(イスラム国)」も、
それに対して決して無力でないという人間的信念を、
自分たちの生活の内部で範囲することは<可能>であり、
そうなるために自己を「ひっぱる」ことこそ必要なんだといいたい。
<恣意性>に関して、これを相対化しきった上で、
かつ何かを「選択」できれば、それが人間にとってほんとうの自由の条件になると信じている。
・なんにましても、なんにましても、
本気なのか?本気じゃないのか?
この問いを、常に自分に発し、課さないといけない。
2015/02/17 5:16 記