2021年 11月
12月21日(火)
・連日、新松戸FIREBIRDに参上。この日はお客で。そんでもって、いいもんみた。おもしろかった。「愛こそすべて」というタイトルの日。YOSHIOさんや、大晦日でコラボする大久保真由さんらがいたんよ。そんでギザジュウもいたし、ライブペイントのひともいた。ライブペイント、大久保真由×佐藤加奈は、戦争画として見ちゃったんだな。最初、黒をがーっと描いてたのは、あれが虚無や、闇をつくってたんだな。黄色は人の死体で、中国人か日本兵の死体なんだ。それから海ができてくるが、これがまた古い蓄積した死体の集合なんだな。大分不吉な連想だな。まあ、そういう見方をぼくはしたのだった。大久保さんのピアノも、オリエントな音階でアジアを感じさせた。ライブペイント、過程がその都度の中身を示唆するからおもしろい。完成形が唯一の表現物ではなくて、過程の全瞬間が表現物なので、ぼくたちは内臓も骨格も知っている共犯者のようになる。そんで絵のつづきは、上部に黄色でお月さまができる。あ、そうか。月だったか。死体じゃないよねえ、と思ったが、死が光にメタモルフォーゼしたのだ、とも考えられた。死と光はおなじ色なんだな。そして、白がはいる。どんどんと、雲の位置だ。龍かしら。そしたらこれは、海に侵入して、一種の神なんだね。死体を神に昇華する。そんで白が左、真ん中、右とどんどんおっきくなる。画面がどんどん白っぽくなる。ずどでん、と、丸っこい白玉ができた。おお、これはミタマだ。みっつのミタマ。ミタマは死者をいっしょくたにするのだ。と、まるっきりスピった見方をしている。でもまあ本当にそう見たのだ。そして最後はその白のミタマに青で輪郭を。お、顔なんだな。人の、女性の顔らしきものが浮かびだした。……というところで時間終了。おう、未完成。でもよかった。すごい集中して見れたな。大久保さんのピアノが、ずっと緊張感を維持して集中をつくる。そうだよなあ。
あとになって思えば、ミタマがみっつなのは国籍をあらわしていたのかもしれない。中国人、日本人、アメリカ人……といったような。ま、そんなふうに見たぼくの想像・妄想ですが。。いやあ、おもしろく拝見しました。
最初の田中くんとtableさんは間に合わず見れなかったけど、YOSHIOと遊ぼうブラザーズ、ニシモトヒサオさん、ギザジュウ、→(Yajiruhsi)with大久保真由も楽しかったっす。お酒のんで、いい感じになりました。しかしギザジュウは、本当に自由で、啓蒙されますね。最近家の近所のコンビニで野良猫がじゃれあってるのを見て、「これが動物の本来の姿かな」と濃厚接触スキンシップを繰り返す猫に妙な啓蒙をされたのだが、ギザジュウも似た面白さをもっている。うっひぇーい。うぶしゃー、という感じだ。田中くんのはじけっぷりもすごいわけだ。なかなか、語る言葉のほうがついていかないな。音楽って本来こういうものなんか、と思った。音で遊んで、歌って楽しんでるもんね。そこでは楽しむために、おもしろく遊ぶために音楽があるのだった。
・大晦日の作戦も、練り始めて、どこまでできるかなあ、と塩梅をさぐる。どこまでいって、どこまでいかないか、線引がむずかしい。むーん。どきどき縄文土器である。
あとになって思えば、ミタマがみっつなのは国籍をあらわしていたのかもしれない。中国人、日本人、アメリカ人……といったような。ま、そんなふうに見たぼくの想像・妄想ですが。。いやあ、おもしろく拝見しました。
最初の田中くんとtableさんは間に合わず見れなかったけど、YOSHIOと遊ぼうブラザーズ、ニシモトヒサオさん、ギザジュウ、→(Yajiruhsi)with大久保真由も楽しかったっす。お酒のんで、いい感じになりました。しかしギザジュウは、本当に自由で、啓蒙されますね。最近家の近所のコンビニで野良猫がじゃれあってるのを見て、「これが動物の本来の姿かな」と濃厚接触スキンシップを繰り返す猫に妙な啓蒙をされたのだが、ギザジュウも似た面白さをもっている。うっひぇーい。うぶしゃー、という感じだ。田中くんのはじけっぷりもすごいわけだ。なかなか、語る言葉のほうがついていかないな。音楽って本来こういうものなんか、と思った。音で遊んで、歌って楽しんでるもんね。そこでは楽しむために、おもしろく遊ぶために音楽があるのだった。
・大晦日の作戦も、練り始めて、どこまでできるかなあ、と塩梅をさぐる。どこまでいって、どこまでいかないか、線引がむずかしい。むーん。どきどき縄文土器である。
12月20日(月)
・新松戸FIREBIRDにて「新松戸土壇場 DOGI MAGI NIGHT」でござった。土壇場、ちゅうことで、土壇場で決定したブッキングなわけです。そんな生き物じみたてんやわんやで、動いて生きているのがライブハウスの一形態です。おお。おうおう。おいは今日はドテラじゃい。おうおう。寒いもん気温。そんで一番手のPorcupinefishさん(ポーキュパインフィッシュと読むそうです)から、流麗なギターが炸裂、僕は教えを乞いたくなりましたが、その時間なく。曲、歌詞は"部屋"というものを意識させられました。部屋のなかに主体がいるのです。自分、ということです。僕もそうで、部屋のなかに主体がいることおおく、その点共感しました。二番手の金子TKOさん。最近よく、お会いになります。会うということは、対バンしてるわけなのです。そんな金子さんは、最終曲でハッスル、エモーショナルがエモい、それループのなかで、歌が踊って線を越えます。醍醐味。土壇場醍醐味です。ライブです。三番手、マリオさんは、ピアノ(キーボード)で弾き語り。Xの「紅」が、いきなりきました。基本、カバー曲での演奏のようです。Journeyの「Open Arms」久しぶりに聞きました。好きでしたこの曲。JourneyのESCAPE、高校時代に聞いたなあ。四番手、ツチハシノブユキさん。ツチハシさんはいつも、いい感じです。気分がいいんです。やわらかです。これは僕なんかは、ずっと硬いんですね。ポップさというのを、追求するセンスに欠けている。でもツチハシさんは、しゃべりも含めてポップなんですね。ジョン・レノンへの嫉妬も受け止め、ピースフルな世界を想像しました。五番手、藍風くじらさん。とても素敵なピアノ弾き語りでした。中島みゆきを思い出した、のです。このあたりで、僕は自分の出番が近づいてきたので、そわそわっとしてきました。どぎまぎか、そわそわか。もっとじっくり、集中して歌を聞きたかったところ、こちらの態勢が整わなくなってきました。六番手、幽霊会社みちづれ。かっこよく、ドンドンドン。店長のダイゴさんがドラムを叩いてました。ところが僕は楽屋にひきこもってしまい、充分に聞けませんでした。なんだか全てが申し訳なくなってきます。みちづれはこの日唯一のバンドで、煽情的なグルーヴが響いていました。もっと体を委ねたかった。そんなこんなでトリが僕でした。前日に誕生日だったこともあり、かっこつけて参上し、かっこつけることに失敗し、微妙な空気蔓延し、目を合わせたいけれど目を逸らしたい、繊細な駆け引きのゲームを無理やり楽しむ余韻の空間。MCで「命」などとぼそぼそ述べましたが、そんなのも含めて、その場にいた人が少しでも楽しめたならば幸いがあります。そしてMr.BLACKさんがライブ転換時の流れを選曲でつくってくれました。「ハッピー・バースデイ、自分」という曲、あれいいですね。まさに、という感じ。わっふっふ。
・「命」の字は生命だけでなく使命、宿命、天命、運命などなどさまざまな言葉に使われておる。なので、「生命守る」いうたときに、宿命やら使命やらはどうよ、と、こうなるこっちゃ。んなら、使命というのはね、なんじゃい。「命を使う」とな。守る守るで、守った生命を、どう何に使うんじゃって。守った生命を、守ることに使う……んなら、守り抜くことだけが目的かいな? ななななな。健康、ちゅうのが、キテますな。生命、健康。他者の健康を害するは罪悪なり。その「はかり」は、極めて厳格化してきており、人類は健康も幸福も数値化しようとしてるっちゅうねん。ほんなら、数値が劣るもんは災いやっちゃなー。くっそー。劣る側でいてるんか? 劣る、無視る、少なる、ゼロる、そっからの、詩。逆転した眼でみると、詩が、ぐぐぐっと、あることはわかった。で? あることわかったあとで、どないすんねんな。あはああらららん。
・さて、期待する/させるセロトニンが、「俺の人生これこそが必然の一本道や」「自恃や」とかなんとかわめいて突進、当然、理解をえられるものと期待を依頼し、するも向こうは「あ、そ」とヒロヒトフェイスで素っ気ない返事し、ヒエラルキーの彼我の差歴然たるや痛々しく、立ってられないよう。よう。は。こういうことってあるよね。自恃は結果的に自慰としてしか機能せず、それだから自虐の方法を選び取るのは、積極性ではなくこれたしかに受け身で。その屈折の理由がわかる人、わからない人で、うすぼやけた幻想の分断が成立、するかしないか、霧は晴れてくっきりした数値パロメータに置きかわり。それ、さみしいとおもうか、これ待望とおもうか、人それぞれの条件で。さてこのあたりのコース取りが、典型的な罠を構成する。アメリカの影、メジャーの影、上下階級の影ということだ。どういうこっちゃ? つまり、影、いわば幻想にほだされて熱中するうちに、本来のコースを逸れ、妙ちきりんなコース外コースを走っていることがある。そしてそれを自覚できないか、できても乱走を自己正当化するロジックを新たにこさえる。それだけが彼のアイデンティティを持続させる道かもしれないが、戦略として、はて、いや普遍として、採用できないもんは非採用だ。でもその後、彼の亡骸を誰か拾ったか??
・ステイホームとライブハウス。そう、「じぶんち」にいたくないから「よそんち」で遊ぶ。ただそれだけだって、それで生きた人がたくさんいる。その「事実」を、ないことにできない。お酒だって、深夜まで街にいることだって、そうだ。ああ、大人はまだいいんだ。一回かぎりの人生で、若い人が、はじめての経験をするとき、その選択をここまで強制的に変更させてしまった。飲み会が好きとか嫌いとか、どちらもあっていいことだ。大人は、経験しているからそれがわかる。でも経験していない人は、好きか嫌いかすらもわからない。なにも知らない。経験してみないことには、それが好きか嫌いかもわからない。補償があるとかないとか、そういう話ではない。金で時間は返ってこない。金を十全に与えるから、ひきこもっていろと、たとえ一ヶ月であっても言える人は、人間を機械のように考えているのかと感じる。その一ヶ月のあいだに、本来なら経験できたことができぬまま、死んだ人もまたいるのだ。若者だけの問題ではない。もう人生の終わりを自覚していて、最期に見たかったもの、行きたかった場所に行けぬまま、亡くなった人もまたいるのだ。「最期に桜が見たい」と、自分の願いを言う人がいたとして、その願いを否定する権利はぼくらにあるだろうか。そういう権利を所有する人物や機関は存在するのだろうか。ああ、病院はそれを否定するかもしれない。でも、自分の人生の最期を自己決定できない世界とは、いったい誰のための世界なのだろうか。なにもかも当たり前のように、何の痛みも感じずに、いまでも外国人を入国拒否しているわけだけれど、日本という国に来て、何かしたいと思う人がいるのだ。それがその人にとっての「大事なこと」なのだ。日本に来る/行くことが、自分の人生にとって大事だと思う人がいる。その「願い」もまた、極めて無痛なる感覚のまま、否定されている。そしてそのような姿勢は、ぼくたちの国の首相によって「慎重」な対策だとされている。そこで「慎重」の対象とされているのは、海外にいる“日本に行きたい”外国人なのだ。その人たちは、日本になにか用があるのだが、その当の日本の人々や政府によって、「ウイルスをもってくるかもしれないリスク」として扱われ、「慎重であるがゆえに排除」されている。むろんそれは「慎重」などではない。ただ冷酷で差別的な強権であるだけだ。言葉の欺瞞がはじまるとき、行為の異常が黙認されていく。どうも歴史は“どうしても”繰り返すらしい。この時代を、はっきり記憶していかなくてはならないと思っている。
・「命」の字は生命だけでなく使命、宿命、天命、運命などなどさまざまな言葉に使われておる。なので、「生命守る」いうたときに、宿命やら使命やらはどうよ、と、こうなるこっちゃ。んなら、使命というのはね、なんじゃい。「命を使う」とな。守る守るで、守った生命を、どう何に使うんじゃって。守った生命を、守ることに使う……んなら、守り抜くことだけが目的かいな? ななななな。健康、ちゅうのが、キテますな。生命、健康。他者の健康を害するは罪悪なり。その「はかり」は、極めて厳格化してきており、人類は健康も幸福も数値化しようとしてるっちゅうねん。ほんなら、数値が劣るもんは災いやっちゃなー。くっそー。劣る側でいてるんか? 劣る、無視る、少なる、ゼロる、そっからの、詩。逆転した眼でみると、詩が、ぐぐぐっと、あることはわかった。で? あることわかったあとで、どないすんねんな。あはああらららん。
・さて、期待する/させるセロトニンが、「俺の人生これこそが必然の一本道や」「自恃や」とかなんとかわめいて突進、当然、理解をえられるものと期待を依頼し、するも向こうは「あ、そ」とヒロヒトフェイスで素っ気ない返事し、ヒエラルキーの彼我の差歴然たるや痛々しく、立ってられないよう。よう。は。こういうことってあるよね。自恃は結果的に自慰としてしか機能せず、それだから自虐の方法を選び取るのは、積極性ではなくこれたしかに受け身で。その屈折の理由がわかる人、わからない人で、うすぼやけた幻想の分断が成立、するかしないか、霧は晴れてくっきりした数値パロメータに置きかわり。それ、さみしいとおもうか、これ待望とおもうか、人それぞれの条件で。さてこのあたりのコース取りが、典型的な罠を構成する。アメリカの影、メジャーの影、上下階級の影ということだ。どういうこっちゃ? つまり、影、いわば幻想にほだされて熱中するうちに、本来のコースを逸れ、妙ちきりんなコース外コースを走っていることがある。そしてそれを自覚できないか、できても乱走を自己正当化するロジックを新たにこさえる。それだけが彼のアイデンティティを持続させる道かもしれないが、戦略として、はて、いや普遍として、採用できないもんは非採用だ。でもその後、彼の亡骸を誰か拾ったか??
・ステイホームとライブハウス。そう、「じぶんち」にいたくないから「よそんち」で遊ぶ。ただそれだけだって、それで生きた人がたくさんいる。その「事実」を、ないことにできない。お酒だって、深夜まで街にいることだって、そうだ。ああ、大人はまだいいんだ。一回かぎりの人生で、若い人が、はじめての経験をするとき、その選択をここまで強制的に変更させてしまった。飲み会が好きとか嫌いとか、どちらもあっていいことだ。大人は、経験しているからそれがわかる。でも経験していない人は、好きか嫌いかすらもわからない。なにも知らない。経験してみないことには、それが好きか嫌いかもわからない。補償があるとかないとか、そういう話ではない。金で時間は返ってこない。金を十全に与えるから、ひきこもっていろと、たとえ一ヶ月であっても言える人は、人間を機械のように考えているのかと感じる。その一ヶ月のあいだに、本来なら経験できたことができぬまま、死んだ人もまたいるのだ。若者だけの問題ではない。もう人生の終わりを自覚していて、最期に見たかったもの、行きたかった場所に行けぬまま、亡くなった人もまたいるのだ。「最期に桜が見たい」と、自分の願いを言う人がいたとして、その願いを否定する権利はぼくらにあるだろうか。そういう権利を所有する人物や機関は存在するのだろうか。ああ、病院はそれを否定するかもしれない。でも、自分の人生の最期を自己決定できない世界とは、いったい誰のための世界なのだろうか。なにもかも当たり前のように、何の痛みも感じずに、いまでも外国人を入国拒否しているわけだけれど、日本という国に来て、何かしたいと思う人がいるのだ。それがその人にとっての「大事なこと」なのだ。日本に来る/行くことが、自分の人生にとって大事だと思う人がいる。その「願い」もまた、極めて無痛なる感覚のまま、否定されている。そしてそのような姿勢は、ぼくたちの国の首相によって「慎重」な対策だとされている。そこで「慎重」の対象とされているのは、海外にいる“日本に行きたい”外国人なのだ。その人たちは、日本になにか用があるのだが、その当の日本の人々や政府によって、「ウイルスをもってくるかもしれないリスク」として扱われ、「慎重であるがゆえに排除」されている。むろんそれは「慎重」などではない。ただ冷酷で差別的な強権であるだけだ。言葉の欺瞞がはじまるとき、行為の異常が黙認されていく。どうも歴史は“どうしても”繰り返すらしい。この時代を、はっきり記憶していかなくてはならないと思っている。
12月19日(日)
・35才になった。はて、よくいわれる35才問題。いままでの人生の分岐が恋しくなるらしい。そういうのあるかな。コロナ禍で、それもふっとんじゃった。
((日に日に、嫌な時代だなあと思う。なんぞ。なんぞ。岸田さん、サラリーマン風の顔。終電で帰りそう。と思ったら、悪いね。んで、マイルドな、あの入国規制。マイルドなのは口調だけで。マイルドなぶん悪辣で。それ感じるのはおれだけか? それ感じるのはおれだけ。でもちがう。秋篠宮殿下の、小室さんへの遇し方も、おれ、おかしいな、あれれ。差別の、身分の。というやつが、転がって、あれあれ。手に届かないんだ。そんなふうにしたら、ウクライナも、台湾も、動乱が、用意されてきたみたいな。そんなこと聞いたわ。でもわからん。ちんぷんかんぷん。なにがほんとだわ。でも、観念が、思い込みが、激しくて、ひとり怒って、気づいたらドーパミンまみれになってた。アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』。ドーパミンとセロトニン。対して、散歩と深呼吸。メトロノームで、ギター練習して。歌は、リズムに、合いつ外れつ。車のなかで、おれ、夜をふかし。薄い夜明けに、せまくるしい目覚めをして。散歩の街は、夜に迷って。丘で小走り。はしゃいで橋上、見下ろし街を一望。あれ、あれま、帰り道不明。行きつ戻りつ、あ、見覚えあるわ。そこいって、わかった家。その手前。いつもの通り過ぎるとこ。その部屋、隣のアパートの、ドアの前に三輪車。クリスマスと正月の飾りつけ。小さな自転車。子どもが、いるんだな。そうなんだ。ああそうだった。育って、子どもが、大人になる。それまでのあいだに、この街で過ごす。その時間は、代えられない時間だった。歩みが、おもしろく、ひとりでも、隣に家族がいた。その家族の隣人は、おれだった。街。アパート。変哲のない、中産階級の夢。平屋を否定した、一軒家の群れ。家、家、家の様式のなか、ジャングルの街は迷路だった。そのなかで、泉があり、野球場があり、アパートには家族が三輪車をかこっていた。道に迷って夜のさむさを知る。どこにたどり着くかわからない、方角不明の足取りで、目の前にひとりの人がおどりでて、自動販売機をすぎておれ反転する。夜の街は静かだ。詩を、見つけられるだろうか。いま、この街には、この世界には、この国には、足りない言葉がおおすぎるんだ。誰も、言葉を探そうとしなくなった。だから、ああやって、この世界を離脱した先で、見えなかった言葉を探そうとする。そんな運動たちを、どうやって止揚しようかと、おれ、また身の丈ちがいのこと思う。でもそんなことはない。いつだって0.1のなかに無限がある。0.1は、百でも、一万でもないが、けっしてゼロではない。ああ、そうやってまた価値にからんで、恥ずかしくなって蹴り飛ばすほどの空き缶をさがす。でもこの街にはそんな手ごろな空き缶すらも落ちてなかった。きれいで、無駄のない、あらかた交換可能なほどの、おれの心は、空虚な風をかんじてやまない。そうなんだ。見てるぞ、誰か見てるぞ。防犯カメラ、迷い込む浮浪者は、はなから存在しない世界で。空と、大地と、公衆トイレしかない公園で、タバコは禁止だと看板が告げる。そのときおれは、言いようのない徒労の予感をあじわうのだ。ああまだおれは疲れていない。まだ、まだもうすこし歩いていられるぞ。けれどじきに終わっていくだろう。その予感が、その予測が、繰り返し脳内にインプットされていく。公園の看板が住人を見張る眼となって、誰もかれもそのもとで、許されたかぎりの余暇を楽しむ。脳内をアップデートする掟がいうには、人相も格好も不文律で規定されている。ドテラとヒゲ面でおれが歩くとき、ほんのささいな逸脱の気分を味わっただけで、すべては圧迫され、精神は疎外され、みんな生きながら死んでいく。おい、みんな、死んでるぞ! おれは一人でさけんでた。声にならない声で。きっと変な人の気分で。そのひとめぐりの自己満足の果てで、自己嫌悪を乗り越える術、そして世界に打ち込むくさび、もう一度取り戻さないといけない。やり直さないといけない。でもいったいどこから? その答えに不満をおぼえ、でも足取りさえとめなければ、材料は確実に手に入る。世界の側に信を置く。世界がおれに信を置くかなんて、知ったこっちゃない。神社の神木に手をふれる。怒ったような風が吹く。祖父の墓前に車を停める。「お騒がせします」と言いつつ小唄をうたう。おれが主体で、この眼が主観で、それ以外にこの人生の視点はない。そう、だから、みんなもな。みんなも、そうだ。ああ。あああ。主観を保持して世界を歩けば、そのとき言葉が生まれてくる。みんなもな。そうなんだ。ああ。主観、元気かい? 君は、あんまり、指が器用じゃないみたいだ。おいひどいこというな。代わりにため息でも、貧乏ゆすりでも、サイクリングでもほふく前進でもして、収縮する世界に真新しい言葉をもってきてくれ。頼んだぞ! はああ勝手な。おれも、ああ。行きつ戻りつ、やっていくぞよ))
((日に日に、嫌な時代だなあと思う。なんぞ。なんぞ。岸田さん、サラリーマン風の顔。終電で帰りそう。と思ったら、悪いね。んで、マイルドな、あの入国規制。マイルドなのは口調だけで。マイルドなぶん悪辣で。それ感じるのはおれだけか? それ感じるのはおれだけ。でもちがう。秋篠宮殿下の、小室さんへの遇し方も、おれ、おかしいな、あれれ。差別の、身分の。というやつが、転がって、あれあれ。手に届かないんだ。そんなふうにしたら、ウクライナも、台湾も、動乱が、用意されてきたみたいな。そんなこと聞いたわ。でもわからん。ちんぷんかんぷん。なにがほんとだわ。でも、観念が、思い込みが、激しくて、ひとり怒って、気づいたらドーパミンまみれになってた。アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』。ドーパミンとセロトニン。対して、散歩と深呼吸。メトロノームで、ギター練習して。歌は、リズムに、合いつ外れつ。車のなかで、おれ、夜をふかし。薄い夜明けに、せまくるしい目覚めをして。散歩の街は、夜に迷って。丘で小走り。はしゃいで橋上、見下ろし街を一望。あれ、あれま、帰り道不明。行きつ戻りつ、あ、見覚えあるわ。そこいって、わかった家。その手前。いつもの通り過ぎるとこ。その部屋、隣のアパートの、ドアの前に三輪車。クリスマスと正月の飾りつけ。小さな自転車。子どもが、いるんだな。そうなんだ。ああそうだった。育って、子どもが、大人になる。それまでのあいだに、この街で過ごす。その時間は、代えられない時間だった。歩みが、おもしろく、ひとりでも、隣に家族がいた。その家族の隣人は、おれだった。街。アパート。変哲のない、中産階級の夢。平屋を否定した、一軒家の群れ。家、家、家の様式のなか、ジャングルの街は迷路だった。そのなかで、泉があり、野球場があり、アパートには家族が三輪車をかこっていた。道に迷って夜のさむさを知る。どこにたどり着くかわからない、方角不明の足取りで、目の前にひとりの人がおどりでて、自動販売機をすぎておれ反転する。夜の街は静かだ。詩を、見つけられるだろうか。いま、この街には、この世界には、この国には、足りない言葉がおおすぎるんだ。誰も、言葉を探そうとしなくなった。だから、ああやって、この世界を離脱した先で、見えなかった言葉を探そうとする。そんな運動たちを、どうやって止揚しようかと、おれ、また身の丈ちがいのこと思う。でもそんなことはない。いつだって0.1のなかに無限がある。0.1は、百でも、一万でもないが、けっしてゼロではない。ああ、そうやってまた価値にからんで、恥ずかしくなって蹴り飛ばすほどの空き缶をさがす。でもこの街にはそんな手ごろな空き缶すらも落ちてなかった。きれいで、無駄のない、あらかた交換可能なほどの、おれの心は、空虚な風をかんじてやまない。そうなんだ。見てるぞ、誰か見てるぞ。防犯カメラ、迷い込む浮浪者は、はなから存在しない世界で。空と、大地と、公衆トイレしかない公園で、タバコは禁止だと看板が告げる。そのときおれは、言いようのない徒労の予感をあじわうのだ。ああまだおれは疲れていない。まだ、まだもうすこし歩いていられるぞ。けれどじきに終わっていくだろう。その予感が、その予測が、繰り返し脳内にインプットされていく。公園の看板が住人を見張る眼となって、誰もかれもそのもとで、許されたかぎりの余暇を楽しむ。脳内をアップデートする掟がいうには、人相も格好も不文律で規定されている。ドテラとヒゲ面でおれが歩くとき、ほんのささいな逸脱の気分を味わっただけで、すべては圧迫され、精神は疎外され、みんな生きながら死んでいく。おい、みんな、死んでるぞ! おれは一人でさけんでた。声にならない声で。きっと変な人の気分で。そのひとめぐりの自己満足の果てで、自己嫌悪を乗り越える術、そして世界に打ち込むくさび、もう一度取り戻さないといけない。やり直さないといけない。でもいったいどこから? その答えに不満をおぼえ、でも足取りさえとめなければ、材料は確実に手に入る。世界の側に信を置く。世界がおれに信を置くかなんて、知ったこっちゃない。神社の神木に手をふれる。怒ったような風が吹く。祖父の墓前に車を停める。「お騒がせします」と言いつつ小唄をうたう。おれが主体で、この眼が主観で、それ以外にこの人生の視点はない。そう、だから、みんなもな。みんなも、そうだ。ああ。あああ。主観を保持して世界を歩けば、そのとき言葉が生まれてくる。みんなもな。そうなんだ。ああ。主観、元気かい? 君は、あんまり、指が器用じゃないみたいだ。おいひどいこというな。代わりにため息でも、貧乏ゆすりでも、サイクリングでもほふく前進でもして、収縮する世界に真新しい言葉をもってきてくれ。頼んだぞ! はああ勝手な。おれも、ああ。行きつ戻りつ、やっていくぞよ))
12月10日(金)
・やっとやりました。日記をサボる。いつかはやらなければなりませんでした。というわけで、前回11月24日から17日ぶりの日記です。まあ日記というか、日々考えたことの記録みたいな感じですが。
・まあぼちぼちやっております。こういうところで、無駄な文章を書いておかないとニブるものもあります。一人で無駄なことを書く。これは様々な方面における基本であります。無駄が大事。つくづくそう思う。無駄なんて“いらない”などと思うと、かえって遠回りしますな。無駄がないと、なんにもない、てなことにもなりかねない。
じゃあなにが無駄か? なにが必要か? そうやって峻別しようとすると、罠にはまります。
・社会的なこと。岸田総理が打ち出した「入国制限」は、理不尽だと思った。しかもその際「慎重すぎるといわれても自分の責任でやるぞ」てなことを述べており、「慎重すぎる」とはなんのことだ??と思わされた。慎重。日本に入国できなくて悲鳴を上げている留学生などの声は多い。署名もやっている。今回オミクロン株が騒ぎになる直前、入国緩和に向けた動きもはじまる気配があった。それからのこれ。
「慎重」とは、この場合、“外国人の私権を制限すること”に用いる言葉であるべきだった。それを岸田さんは、あくまで日本の国内目線で、外国人を「リスク」だとみなす位置で、これを述べた。そのことに、言いたいことがたくさん出てきてしまう。この言葉の使い方は、おかしい。
この言葉の延長線上に、どんなひどい差別や暴力も置くことができてしまう。その「入口」を明瞭に抱え込んだ、こういう言葉の使い方には、強い非難の言葉で応酬するしかなさそうだ。しかし他にこの点を突っ込んでいる人がいない。そう、いないのだ。「いない」という事実を、最近にわかに学習する必要を感じはじめている。
・真珠湾攻撃から80年。アジア太平洋戦争開戦から80年の12月8日が過ぎた。そのあたりの歴史、知らないことを勉強。
・このところ思うのは、日本の男性のいわゆるホモソーシャル性には敗戦体験が色濃く影を落としており、戦争=男性による殺し合いの現場を経た戦友会などに、なにか今日のジェンダー観を考えるヒントがある予感がしている。戦友会にかぎらないが、戦争とジェンダーの関係は実はとても大きいものがある気がする。どこかで誰かがこれについて何か書いているのかもしれないが。戦後サブカルチャー、ロボットアニメなどの歴史は明らかに男性敗戦体験者ゆえの表現だと思える。日本(だけじゃないだろうけど)は戦中も、戦後も、男社会だった。そう考えると、じゃあ女性はそのときどうしてた?と、男とは違うラインでの女性の戦中戦後の精神史があるように思う。また男女で区別したものの考え方に陥るが、おそらくこれはなにか考えるに値するもののように思う。現在のコロナ禍でもこのあたりの問題が絡んで出現しているように思う。
・まあぼちぼちやっております。こういうところで、無駄な文章を書いておかないとニブるものもあります。一人で無駄なことを書く。これは様々な方面における基本であります。無駄が大事。つくづくそう思う。無駄なんて“いらない”などと思うと、かえって遠回りしますな。無駄がないと、なんにもない、てなことにもなりかねない。
じゃあなにが無駄か? なにが必要か? そうやって峻別しようとすると、罠にはまります。
・社会的なこと。岸田総理が打ち出した「入国制限」は、理不尽だと思った。しかもその際「慎重すぎるといわれても自分の責任でやるぞ」てなことを述べており、「慎重すぎる」とはなんのことだ??と思わされた。慎重。日本に入国できなくて悲鳴を上げている留学生などの声は多い。署名もやっている。今回オミクロン株が騒ぎになる直前、入国緩和に向けた動きもはじまる気配があった。それからのこれ。
「慎重」とは、この場合、“外国人の私権を制限すること”に用いる言葉であるべきだった。それを岸田さんは、あくまで日本の国内目線で、外国人を「リスク」だとみなす位置で、これを述べた。そのことに、言いたいことがたくさん出てきてしまう。この言葉の使い方は、おかしい。
この言葉の延長線上に、どんなひどい差別や暴力も置くことができてしまう。その「入口」を明瞭に抱え込んだ、こういう言葉の使い方には、強い非難の言葉で応酬するしかなさそうだ。しかし他にこの点を突っ込んでいる人がいない。そう、いないのだ。「いない」という事実を、最近にわかに学習する必要を感じはじめている。
・真珠湾攻撃から80年。アジア太平洋戦争開戦から80年の12月8日が過ぎた。そのあたりの歴史、知らないことを勉強。
・このところ思うのは、日本の男性のいわゆるホモソーシャル性には敗戦体験が色濃く影を落としており、戦争=男性による殺し合いの現場を経た戦友会などに、なにか今日のジェンダー観を考えるヒントがある予感がしている。戦友会にかぎらないが、戦争とジェンダーの関係は実はとても大きいものがある気がする。どこかで誰かがこれについて何か書いているのかもしれないが。戦後サブカルチャー、ロボットアニメなどの歴史は明らかに男性敗戦体験者ゆえの表現だと思える。日本(だけじゃないだろうけど)は戦中も、戦後も、男社会だった。そう考えると、じゃあ女性はそのときどうしてた?と、男とは違うラインでの女性の戦中戦後の精神史があるように思う。また男女で区別したものの考え方に陥るが、おそらくこれはなにか考えるに値するもののように思う。現在のコロナ禍でもこのあたりの問題が絡んで出現しているように思う。