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11月23日(土)
- 少し早いが
- 今年はいろいろ変化のあった年だった。ワンマントークライブショーも、能登に行ったのも。
- そうして自分の限界にもあたる。これを、破らないといけない。破るとは、具体的に、蛇が脱皮するがごとく。
- 「自己を壊す」ようなこと。そうしないと、〝他人〟に伝わらないよ、と。
- 他人、か。ほかのひと。ほかに生きるひとら。自分の人生、この私、とはべつに生きるひと。それで…… そういうひとたちに、通じる言葉をもたない。いやそうじゃない。話を聞かなきゃなんない。わからないでしょう。知らないでしょう。話してみるまでは、ね。
- 「じゃああなたはここにくるのか」といわれれば、そこにいくのだった。ただ、それは、幻聴のようなもので…… 自分が自分を賦活する、その動力は、さまざまな欲望なんだとおもうけど、その欲望っていうのは、単純にひとつの因に還元できない。欲望、多種多様。でも自分の物語では、ひとつのもののみが採用されるだろう。その嘘と真実の、見せあいっこのポージング。
- あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる
- 欲望から人は生まれる。ではその欲望は、どうやって生み出されるのだろう? 誘惑する、される。人が人を、求める。じゃあその、根本の欲望はなぜあるのだろう?
- 生と性というのは漢字が似てますけどね。不要不急。命を守れ。恋愛。コロナ禍のとき、「生」と「性」はへだたれて、前者のみを死守しようと社会は動いた。性はどこへいったか。どこにもいきゃしない。生の問題だけを考えて、性の問題を考えなければ、人間の生涯につきあたることはない。あのときもいまも、またぞろ「少子化問題」などといって、実際は「生の語り口」しか持てないで、「性の語り口」を失ったこの社会では、人間のポテンシャルもまた半面化するのだと感じる。
- 同時に、コントロールを失った性の世界は、野放図に荒れていく。二重生活をこなせ、というメッセージが発せられ、統合された人間観をもちにくい。「告白」という制度が、文学にまだあったころは、生も性もふくんだものが人間の実存であり、またそれが表現されていた。現在、そういう方向性に歩を進めるならば、虚構と真実をないまぜにした、けれど人間の全体をよくあらわす表出の仕方をあみださないといけない。
10月16日(水)
- 歌の千羽鶴プロジェクトがはじまった。昨夜はごりごりハウス。投げ銭36,000円をいただいた。大感謝。いただいたお金は能登ライブの資金として使います。
- 音楽もアートも「不要不急」だ。非常時には、「プロフェッショナル」で「役に立つ」ものだけが通行を許可される。素人が動いても邪魔なだけ。それは、その通りの面があるかもしれない。けれどその「風潮」が全体化するところに、明るい未来をかんじなかった。
- 自分のなかにぬぐいされない、内面化された自粛の澱というか、ネットのバッシングが内面化されていますよね。言葉が精神にくいこんで。「不要不急の音楽やアートを被災地を舞台にやりにいく」という構図が、ネガティブなものにおもえてしかたないという。もちろん、豪雨災害がかさなった能登が大変な状況だというのは当然そうだろう。ただ、ぼくが出したいものは、シンプルな「復興支援」のようなものではなく、もっと、ある意味では震災以前のなにか、内面的ななにか、時代精神のようななにかに、タッチしたいようなことなのだ。
- このへんの思考の整理はなかなかつかない。逆にいえば逡巡や自問自答、葛藤がむしろ、必要であるという気もする。あらゆることや態度がシンプルにゼロか100か、後ろを振り返らないようなものになっていった果てに、決定的に間違ったときにブレーキのきかない悪夢がまちかまえている……そうかもしれない。だから、批判的に見る。
- 自意識の意味は、自分の加害性を中和するためだった。いまぼくはそうおもう。「震災の後で」「戦争の後で」、ぼくたちは、「戦う」まっすぐさより、「逃げ出す」情けなさ、女々しさ、弱さを手にした。それら敗者の価値を手にした。戦う前から、負けている。だから、戦わないんだ。武力を放棄して、別の可能性を追求した。ゴジラがあらわれ、ガンダムが登場した。巨大ロボットに、乗り込みたくない。戦争に参加したくない。ぼくもまた、家でごろごろして、なにもしない、無為の、不能のダメ人間にすぎない。その「不要不急の人間」像のまま、ぼくは、「歌の千羽鶴」を仕上げたいのだ。これは、よって、自分主観の物語めいた動機だ。「復興」という大文字は、ぼくには大きすぎるし、「復興」という言葉を意識して、あるいは意識せず言葉を使うことが、なにか小さいものを見落とす隙間をつくりやしないか。そんな予感がある。
10月14日(月)
- けっきょく「他者に出会う」という方法でしか、自分を確認できない……そういう「自分」の持ちようがある。相手にとってもそれはそうだ。だから、「対幻想」とはよくいったもので、対幻想の領域によって自己幻想が影響され変化していく。
- あかるい月がある あかるい月 真昼の月 照らされるわけでもなく ただぼんやり浮かんでる
- 音楽と人生。成熟と未成熟。世界とセカイ。往還と消失。
9月21日(土)
- 最近なにかんがえてるか。岐阜にいき、豊田にいき、帰ってきて、またライブをして……疲れがたまって、やっと普段の調子が戻ってきたかな、というところ。
- 今回の旅で見たこと感じたことは、後の自分の血肉になるだろう。
9月11日(水)
- 911。アメリカのペンタゴンメモリアル。ミート・ザ・ヒーローズ。
- ひめゆりの塔の、平和祈念館でみた、あのような構成。
- 日本で、犠牲者を「英雄」と呼ぶならわしはない。顔写真と経歴をHPにのせて追悼の場にすることも。
- 朝、思い出すことなど。「まるで戦時中の旧日本軍だ」、そう思ってしまって、体が硬直したこと。あのとき、孤立をえらぶのは必然だった。
- ある日の席――「なんで日本はこうなったんだ?」「敗戦のせいさ」「おおきな目標がないんだ。おおきな理念がないというのかな……目先の成功やおあつらえ向きの勝利で自足してしまって、全体性をそのまま背負うような握力がなかった。自分の周辺を観察していてもそうだったね」「だから、おおきな物語が敗戦によって禁止されてしまった。そのせいだろう?」「そう単純だろうか。もちろん、現実は複雑だ。日本人がスポーツで結果を出せるとしたら、それはルールがはっきりしてるからだよね。でもルールをつくることが苦手だ。いつも、空気で決まってしまうところがある。ルールをつくるには、公正さ、参加員の事情、社会との関係、さまざまなことがらに配慮しないといけない。原理原則が必要なんだ。それは、臨床的な実践とはべつの思考だよね。その不在をぼくは言っている」「きみの言い方は、いつも抽象的なんだ。よくわからないな。敗戦のときに、自分たちで決めて降参できなかったろう。あれは、なんなんだ。いまでも変わってないじゃないか。原爆を二発も落とされて。それで、今度はそのショックを、べつの方面の忘却につかっている。おれはそれが嫌なんだ。そう、自分たちで決めたら、自分のせいになっちまうもんな。自分のせいにしないために、みんな右往左往するわけよ。け。醜いもんだよ。もっとも、『醜い』だなんて口に出したら爪はじきされるだけさ。ま、それでもいい。自分のせいにしないためには、人々が犠牲になってもかまわないんだと。そうしたロジックが、いまでも生きて息している。おれは、そんな論理の息の根をとめにいくんだ。それがおれの活動だよ」
- 支配者たちの行動様式が、いずれ国民大の行動様式にトレースされる。
- いわゆる「自己責任」というやつだが、おれはむしろ、自己責任が正しく発揮されていないとみる。自己責任とは、「助ける責任」も有する。傍観者の責任も、自己責任の範疇なんだ。「自分になんの責任があるか?」それを問うことが自己責任だ。責任を外部化し、当事者に責任をもたせてデタッチメントするのは、自己責任じゃないんだ。たんに責任の外部化処理だ。日本では、これを「自己責任」と呼んでしまっている。
- 能登について。能登について、考える責任がある。「能登のことは、能登の人にまかせよう」それは、ごもっともか? そこで、国民の責任が抜け落ちる。いや、おれにとっては、一度行った者の責任かもしれない。勝手に感じる責任てやつだ。自己の責任において、なにをやるべきかを考えて、それをやるんだ。それしかないだろう。
9月1日(日)
- だから、そういうことなんだけど。
- スーパーにいくでしょ? 気ぃ狂わない? 気ぃ狂うでしょ。狂わないほうがおかしいんだよ。システム化された、洗練された、暴力の総決算、バンザイ、ってね。パック詰めされた、ラップで閉じ込められた、牛や豚や魚のバラバラにされた虐殺死体が値段をつけられて売ってるだろう。おい、あそこで、発狂しなけりゃ気違いなんだよ。だから俺にいわせりゃ、もう全員気違いよ。ありえないんだ。おかしいんだってね。おい、聞いてるか?
- 肉にされるために、生まれてくるんだ。「反出生主義」とか言ってる場合じゃないんだよ、くそが。管理して、生産して、家畜だなんだって、ああ、たいしたもんだよ、人間は。
- 全き「悪」さ。あんなグロテスクな。悪を意識させない、っていうのがシステムさ。ああ、こんなこと、古臭い議論だって思うんだろうが! 冗談じゃないよ。悪やら暴力やら加害やら、そこかしこにあるじゃねえか。どうなってるんだよ。可視化されて、同時に不可視化されて、被害「者」も加害「者」も、人間に限定されてるのさ。
- ち、そんなこと、当たり前だってね! いいさ。俺は一人でいってくさ。どんな「党派」にも「集団」にも同伴しないよ。誰にも、理解されなくってもそうだよ。たんに面倒くさい、脱落していく人間の一類型として、記憶の片隅からも排除されていく、そういう運命さ。
ーーー
- ああ、千葉は辺境じゃないね。郊外さ。マージナルな、そういう方向性もあるわけだけど。
- 千葉にはふたつの道があるとして。東京にいく道と、地方にいく道と。みんな前者の電車に乗るが、自家用車で後者にいく道もある。そうしてはじめて、「日本」が見えてくる。日本に出会うんだ。日本を再発見する、というのと、東京で「自分を発見してもらう」というのは、まるでちがうことだ。
- 自分の眼で日本を再発見する、というのと、東京にいて、自分を発見してもらう、というのは、まるでちがうこと。そうなんだろう。俺はいまそう思う。そう思うに至った。
- もちろん、そんな、被害者意識にまみれた……60年代のようなアイデンティティの持ち方、それが最高、ってわけじゃないよな。「千葉は東京に搾取されてる」、いいさ。アメリカと日本の関係と、東京と千葉の関係はマトリョーシカ人形のようになっててね。ああ、これは、悪い戦略だろうか? きっと、そうなるだろうか。沖縄のアイデンティティの持ち方を、ひとつの参照点にしたって。福島はどうなったろうか。千葉は、現状、「誘致」して得意になる文化にいる。知事が、SNSで、それを自慢する。昔から、戦前から、変わっていない。近代以降の千葉は、そうなのだと思う。国策の補完地域として、東京の隣県の立場をうまく使って、生き延びていく。それで、よかった。そうだ、俺も、その繁栄の恩恵をうけて育ちました。ほんとうにありがとう。ありがとうございました。感謝いたします。感謝しなくっちゃ。もっと、もっと感謝をあらわさなくっちゃ。東京、ありがとう。千葉、ありがとう。でもそうするとね、千葉も「千葉以外」を無視していくんだよ。千葉は、東京への隠れたコンプレックスのみがあって、他県への関心がない。なぜかっていうと、広がってないんだ。むしろ、犠牲者意識に自覚的になることで、日本の地方それぞれの犠牲性と連関が見えてくる。そうした、なにかしら透徹したビジョンの持ち方をもたないと、千葉だって独りよがりになっていく。俺が行ったところでも、福島の原発事故にも、能登の震災にも、つながっていく線が見えないと。鋸山に原発をつくれ、と過去に石原慎太郎が発言したことがあった。鋸山を核爆破して東京湾を埋め立てよう、という提案もあった。千葉県知事になる人がそう言ったんだ。それで、たんに、そうならなかった。俺自身そうだ。反省しなくっちゃ。関東に唯一ある原発が、茨城県東海村にあるんだ。俺は、エコロジー左翼じゃないよ。原子力の技術そのものに、反対してるわけじゃない。ただ日本の民主主義、市民社会、国策・行政と電力会社をはさんだ地域との関係、そこにあらわれた日本の姿に関心がある。関心が、高まってきた、というのかな。以前は、もっとイデオロギーのイメージでとらえていたんだろう。クラフトワークが「反原発」みたいにメッセージするとき、ああいうのとはちがう角度で見るようになった。エコロジー正義みたいなものとは、距離をとってきた。それより、NIMBY、そこにあるのはお誂え向きの言い方で言えば「構造的差別」ってやつだ。差別。これを、千葉に当てはめてみれば、千葉人は「俺たちは被差別民じゃないよ」ってなことを、自意識にもちたくって一生懸命なんだな。深層心理でそうなんだ。精神分析的に、そうだろうよ。知事が「〇〇を誘致しました」と言うとき、それは、「俺たちは勝ってるぜ」って意味さ。獲得してるんだと。搾取されてるんじゃなく、うまく立ち回って、利益をつかんでるんだぜと。でも、さっきも書いたが、それやってると、日本の全体への関心を失うんだよ。「自分たちだけ、うまくやれればいい」、このメンタリティに、堕していく。ああ、俺はそれを、脱しなきゃいけない。
- 日本で原発は、差別の問題になったんだな。テクノロジーの問題じゃなく。それは、なんだろう。海外の原発のありかたと、ちがうんだろうか。
ああ、地方の問題は地方の問題、当事者の問題は当事者の問題……。「国」「国家」「国民共同体」として、ことにどうあたるか。そうした視点を、キャンセルする方便として、文化の側からの、東京中心主義も片棒をかつぐ。そんなふうに言うのは、極端に批判的すぎるが、いったんそこまで思考を飛ばさないと、立場もはっきり見えてこないはずだ。いま、誰ひとりそういうことを言っていないから、とうとう俺が言わなきゃいけなくなっちまったってオチだ。
8月31日(土)
- 東京にあるアンダーグラウンドは、「東京のアンダーグラウンド」なんだよ。日本のアンダーグラウンドじゃないわけ。そこをあんたが言うような意味で、日本と東京を同一視して疑わない、って感性がこっちは信用ならないんだな。そこは高円寺もおなじなんだよ。あんな都心で、冗談じゃないよ(笑) 「アングラ」なんて気取っても、日本のアングラは地方にいけばいくらでもあるよ。そっちこそ真の日本のアングラなんだ。どうしてそうやって考えないのかな。
- しかし、アンダーグラウンドシーンは東京に形成されていて、人口のすくない過疎地では難しいですよね。そもそもカルチャーの場そのものがない。「過疎地こそアングラだ」と言ってみたところで、それは実質無意味に近い。
- だから、あんたはそこがわかってないんだよ。人口の問題じゃないんだ。「質」の問題なんだよ。東京にばっかり人が集まって、なにができるんだよ。なんにもない、たんに窮屈なだけじゃないか。俺はそういうのが嫌になったんだな。なにがアングラだよっ、て。そうやって、日本のアンダーグラウンドを、無視してるだけだってことに気づかない。俺はそんなのつまらないし、乗りたくないね。
- それは、東京ではない地方に可能性を見出す、という話ですよね。ではその地方の可能性というのはなんですか。東京であってできないことが地方で可能なのか。
- そういう話じゃないよ。日本の可能性の話だよ。みんな、あんたも、東京の可能性のことしか目に入っていないんだよ。東京の脳みそで考えてるんだな。それじゃあ日本がいつまでも見えないよ。日本を見つめてはじめて、世界が見えるんじゃないか。東京から見えるのは、ニューヨークとか、ロンドンとか、パリとかっていう国際的な大都市だけだよ。「東京のアングラ」と「ニューヨークのアングラ」はおなじだよ。そこだけを見てたら、世界の問題はつかめないし、「国から遊離する」よね。地方の特色をちゃんと知るのは、とても大事だ。その地方固有の、歴史があるだろう。東京の物語だけ、表象文化にあがってきてもしょうがないじゃない。もっと、日本は広いし、世界も深いんだよ。東京のダイナミクスに身をやつしていたら、自分の感性もまた限定されていく。世過ぎのために寄り集まっていくのは、否定はしないが、芸術家が本来やるべきことから外れてるとおもうね。
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- もっとがんばらなくちゃいけない。むなしいが、死ぬよりましだろう。といって、他人を食って生きているんじゃないか。まったく「冗談じゃない」よ。命の交換だなんて、調子いいこといって、命を「差し出す」つもりなんて毛頭ないじゃないか。ばかげてる。ばかげたことをやろうとしてるんだね。なんだろうこの徒労感は。って、まだ山も三合目というところかい。明日死ぬかもしれねえのにな。はは、ばかさ。死ぬわけねえよ。まんまと生きて、周りが死んでくだけだろう。しかし、死んだやつはみじめだな。たんに消滅するだけだ。それがちょうどいいのかもしれないな。そうとしかいえない。死んだらどうなるんだろうね。内臓を食われながら、まだ絶命せず生きているサバンナの動物がいるね。鹿だったり、牛だったり、馬だったりするようなやつらだ。「まだ生きてるとき」と「死に至る瞬間」の、その境界線というのは、どんなものなんだろうな。内臓が飛び出たまま、逃げる。そのうち、すぐに、死んじまうさ。そしてぶっ倒れたら、またハイエナに食われるんだ。もっと、がんばらなくちゃいけない。だから、もっと。……もっと? どう「もっと」なんだ? いいんだ、そんなことはいいんだ。自己責任だ。責任を背負う。それだから主体になる。加害を背負うんだ。表現は加害だよ。こうやって書いて、俺は加害をしてるんだな。「一生懸命加害者になろうとしてる」誰だか、そう評していたな。なにかの犯罪者について……。自分は被害者でもある。同時に加害者でもある。被害の言葉も、加害の言葉も必要だね。しかし、みじめだってときには、涙も出ねえんだ。もう涸れたっていうかね。ただ疲れてる。そうした状態のみがある。すぐ飛行機が戻ってくるから、ちゃんと整備しなくちゃ。特攻の飛行機、ちゃんと整備しなくちゃ。戦後、俺たちは、幸せになることを呪ったとおもう。あのころの記憶がまだ首の後ろにこびりついて、離れないんだ。ち、そんなの嘘。ははは、なにいってるんだろうね。
8月27日
- この日記スペースは、かつてのテキストサイトをイメージしてつくってるんだけどね。でも無防備にいろいろ書いてて、いつか後悔する日がくるんだろうか。そもそも、誰が読んでるのかもわからん。「誰も読んでないや」とおもいながら、たまに書く、みたいになってる。とはいえ、それでも書くのは、「いま自分が考えていること」を率直にのこすべきだという考えに従ってのこと。
- 高円寺の無力無善寺の件については、以前から注意して見ている。直近の『ノンフィクション』延期は、けっこうなおおごとで、SNSでの言葉の応酬もはげしくなっていた。
問題となっている性加害については、第三者からはよくわからない。ただいくつかのブログなどを読むと、店のトラブルは今回だけではないようだ。
Xの「うろじんけ」アカウントで書いているのは、この件を見て受けた感想のものがいくつかある。SNSの環境が不可避につくる敵味方の図式の強化。それが、やっぱりなんともいえない「嫌な感じ」を、見ているこちらの頭の奥のほうにのこす。
非難の言葉はやがて、人格否定の粗暴な言葉に近づく。 - しかし『ノンフィクション』延期の問題は、やはり分けて考えるべきだと感じた。なにかしらの形で、作品が発表されてほしいと願う。地上波がきびしいならBSや、あるいはネット放送や小規模な上映もありうるかもしれない。でも取材費はどうなるだろう。仮に編集をやり直したり、追加取材となると費用もかさむだろう。制作会社と局の関係からして、局(フジテレビ)の「延期」判断は「局側では責任を負えないから」という意味なんだろうか。二年がかりで撮影していたと聞くが、それがお蔵入りになってしまうのは、制作側だけでなく出演するはずだった側にとってもむなしい結果にすぎる。
- 「お前はなんの心配をしているんだ?」そんなことを言われて、そっちの方を振り向く。
- ノンフィクション制作側にとってはこれで「(取材した意味が)なかったこと」になってしまう恐れがあり、一方性加害を告発した側にとっては番組放送の既成事実が「(性加害を)なかったこと」にしてしまう恐れとなる。
- こうしたことを見て、自分はなにを考えるんだろう。「お前は敵か、味方かどっちか」と絶えず問いかけられている気がする。「どっちの味方にもならない」と答えたい、とおもう。すると、どちらからも非難されるような気がする。
- 小説家の星野智幸さんの朝日新聞の記事も話題になっている。そしてSNSで(主にリベラルからの)記事への批判も起きている。政治的正しさから文学へ。これは、とてもオーソドックスな展開だとおもう。その意味でぼくはまったく記事に違和感はない。ただ朝日新聞がこれを載せること自体がエクスキューズだろう、という批判はありうるかもしれない。
- 誰かの表現を止める。それは、表現者にとっては最後の手段を出されることだ。いままでも、さまざまな被害に遭ってきた方々が「泣き寝入り」して、加害者が活躍する姿を見ないように生きてきたのかもしれない。
ただ、やはり「放送中止」を求めるロジックに、なかなか賛同できない気持ちだ。 - いまこれを書いているのは、自分の正直な気持ちをのこしておきたいから。ぼくは無善寺には行ったことがない。「当事者」ではないがライブハウスに出入りする人間としては「共事者」ではある。性加害は繰り返されるべきではない。一方、加害当事者ではない人たちが、その余波を受けることもできるだけ最小であるべきとおもう。同時に、当然、「加害者」と言われる人が反論する権利も、認めねばならない。
- 「そんな〝正しい〟ことをただ言ってどうする?」
- 「いまこれを書いているのは、自分の正直な気持ちをのこしておきたいから」それだけか? 政治的なものを含めた立場、考えを表出して、なにか「難問」を前に、その跡をのこしておく。それで、自己都合を越えたなにかがあるか?
- 自分自身はどうだろう? 「あいつは許さない」という奴がいたとして、そいつが「活躍」する姿を、忌々しく感じながらも、無視する。「別におおっぴらに非難もしないけど、俺には絡むなよ」と思っている。
- 自分自身はどうだろう? ぼくは、誰かを傷つけたことがあるか。あるに決まっている。それはなにか? ひどいことをした、いや、〝こちらにそんなつもりがなくても〟相手を深く傷つけてしまった。ではそのあと、どのような内省があっただろう? 「いや、それは、君の取り方が悪いんだよ」そうしたコトバが、胸をかけぬけていく。
- まったく間違える。ぼくは、「正しい」なんて顔をしちゃいけないんだ。
- 「そんなエクスキューズをかまして、やり過ごすことになんの意味があるんだい」
- 上映中止や、登壇中止や、出版中止や、発売中止や、いろんなことがある。ケースバイケースだが、基本的に表現が縮小していくのは、いいことだという感想をもちづらい。右派のものも左派のものも。
まとまらない文章を書いているが、「二次加害」といわれるようなSNS上の言葉は、たしかにきつい。特に、出自や生活様式について揶揄する言葉はきびしい。よくない。実際の事件の問題に付加して、SNS上の二次問題がかぶさっていく。その、どうしようもなさ。止められなさ。「いつか戦争に至るんだろう」そう感じて、そのあとにのこるしこり。 - かつて関わっていた人、出演していた人からの「告発」に、店側がどう向き合うか、の問題でもある。その意味では、無善寺の「対応」というのはちょっとよくわからない。会ってみれば「ああ、この人はこういう人で、ここはこういう場所なんだ……」と納得できたりするだろうか。なにか非論理的な、政治的正しさとか現代的倫理とは別次元のなにかがありそうな雰囲気はある。この問題を解決できるスケールが、店になかったことも事実といえばいえるだろうか。この問題に注目してしまうオブセッションが、なぜかぼくにもある。不幸だとおもう。この不幸を転換できないものか、とおもっているのかもしれない。なにか、言葉が追い付いていない感がある。多くの人はまともに見つめて考えようとしないで、「我関せず」が正しい姿勢のように最適化する。デタッチメントが広がる。本当はそれが一番まずいことかもしれない。誰かが絶対善ということはない。誰かが絶対悪ということもない。現実は入り組んでいる。SNSの短文では、だめなのかもしれない。長文じゃないとやりとりできないルールにしたほうが、まだいいのではないか。時候の挨拶から入るべきだ、とか。とにかく、なんでこんなに荒れているんだろう。不毛じゃないのか。「関わりたくない」そうおもう。だけど考えてしまう。あきらかに不幸だ。放送中止も不幸だし、性被害も不幸だし、なんなら「加害者」扱いされている人も不幸かもしれない。いやきっとそうだろう。「悪か悪でないか」はわからない。が、不幸ではあるだろう。うまくいってない。なんでこうなるんだろう。もっとうまくいってよくないか。男性と女性の性差が問題なのだろうか。人間はうまくやっていけないのか。家族はうまくやっていけないのか。男女は諍いをさけられないのか。年齢の差、立場の差、そうしたギャップを、個人と個人は埋められないのか。ありえたはずの可能性。現実が突き付けた不可能性。傷つく。それでも、成熟するとしたらそれはどのようなルートか。
- 「間違った人」として、自分で自分を見定める。そうした視点からしか、ふれられないものがある。「正しさ」をもとに語る。それは、どの党派でもそうなってしまう。ぼくは、自分の葛藤に逃げ込んで、相手を見ないですまそうとした。「葛藤の繭」がそこにある。それは、内省を盾にした自己方便だ。そうだろう。自分で自分を攻撃するのが、たんなる趣味になっていく。それは、現実と向き合って解決するのをさける方便だ。だから、ますます、自己嫌悪する。自意識的になるのが、男性の癖だろうか? それは逃げ道だろうか。ジェンダーの問題をもちだすのは、危険だろうか。そうかもしれない。みんな一歩を間違えて、排他的な態度を飼いならす。そうじゃなくて、自分をみつめる手段はあるかな。父性の不能が共通する問題だった。たしかに、みんな「息子」になっていた。「子」は、そこで、被害者であり、犠牲者だった。「娘」と出会うが、娘もまた、被害者であり、犠牲者だった。「親」からの犠牲者だった。そのはずだった。しかし、出会いの後、「息子」は「娘」の加害者になった。男性だからか。攻撃的だからか。力が強いからか。「娘」は、親から離れて、出会ったはずの、自分と対等なはずの「似たもの」から受けた、攻撃に、深く傷つく。「息子」は、しかし、自分のしたことが、よくわからなかった。自分では、「普通に」していただけのつもりだった。「息子」と「娘」はわかりあえずに、別れるが、「自分が本当に生まれるべきだった家とその家族」を探し求めて、永遠の旅をつづける。その旅の途上で見つけた「よそんち」は、アジールのように見えた。そこでなら、自分と同じように、疎外された感覚をもつものがいた。そうおもえた。しかし、そこでもまた、集団と集団は別れ、罵り合いをはじめた。掟が支配する場において、その「掟」それ自体の支配権をめぐって、争いが起きた。掟は法の言葉で書かれていて、内臓がなかった。人間には内臓がある。「息子」は自分の内臓を見た。「娘」も自分の内臓を見た。おたがいの内臓を傷つけあうような、そんなやりとりをしましょう。とても古い時代の手紙が発見された。掟の正当性ではなく、内臓の見せあいを提案した。しかしそれ自体が掟によって禁じられていた。だから掟を「破って」、内臓を見せあうのだが、そこにどんな意味があるか。人間と人間が真に「わかりあう」だのといった「フィクション」は、現在の不幸を量産する間違った観念にほかならない。いっさい、そのようなものは排除すべきだ。掟と、掟を守る門番たちは、そう主張した。しかし、内臓の発する声を、自分自身で、聴けない。自分と自分が、どうもわかりあえない。〝ぼくの内臓は、ぼくのものだろうか?〟そう言えるためには、まったく条件が欠けていた。息子と娘は、内臓を見せあうことに決めた。まず、自分の内臓を取り出すことだった。
8月20日(火)
- ワンマントークライブショー「沼田謙二朗VS千葉」終わってちゃんと振り返りたい。おととい、昨日もライブだった。今日は書けるだろうか。
- おとといのCRUISING CHIBA 2024は、今まで以上の盛り上がりもあって、さらに街も親子三代夏祭りやってて賑わってた。ちょっといつもの千葉の雰囲気じゃないかんじ。思えば、ほとんど見たことなかった親子三代夏祭り。イベントのあいまに中央公園でやってた太鼓のショーをちょっくら見た。人がたくさんいたなー、出店もたくさんだったし。こういうふうに、千葉も賑いがあるんだなと確認。
- 昨日の下北沢CCOの唄夜会は、楽しい一日だった。良き四組。アコギのピックアップが外れたりイレギュラーもあったけど、直前にスタジオ(下北沢はスタジオたくさんあるなー)入ったりして気合いを出せた。終電まで目一杯に場を楽しんで、帰宅。
- ぼくのやりたいことっていうのを、どういうふうに形にして、どういうふうに伝えていくのか。なにを目指すのか。お金のことは後回しになっているけど、そこも考えつつ。
音楽をかこむあり方は、「人間」同士の場だ。だけど、それだけじゃつかめないあり方もあるはずだ。もっと「土地」を考えたい。じゃないと、けっきょくぼくらは「都市」しか扱えない。そんなことを最近考えている。
8月4日(日)
- 柔道ナショナリズム って、あるんだよなあ、とおもった。
- オリンピック。パリ。柔道混合団体決勝で、日本がフランスに負けた。「柔道」と「JUDO」はちがう、なる意見が出回る。日本人がXでJUDOを批判する。柔道の精神を理解しないなら、同じ競技としてやるなと。それに対して、「野球とベースボールはちがうから、日本人はベースボールやるな」と応じた人がいた。たしかに、それは、その通りだと感じた。
- 様々な見方。露骨な差別をするものもある。「日本人とアフリカ人の戦い」と述べている。
- 「競技」そのものより、「競技の周辺」の話題が盛り上がる。それが政治性になる。
- アメリカ人は「送りバントなんで邪道だ」とおもっているだろうか? たぶん、そんな気がする。日本人がMLBで活躍する。WBCで優勝する。イチローは「自分が外国人の立場になってはじめてわかることがあった」と、自身の引退会見で述べた。同じことを、ぼくたちは、フランス人に向けてやるだろうか?
- そういえば、前回のWBC決勝で負けたアメリカの監督は、試合後の会見でしきりに「大谷はすごい」と褒めちぎっていた。それが、あの国の文化なんだろう。考えたいのは、日本人が同じ立場になって、同じことが言えるか、ということだ。
- 寛容さ。それとともに、自分たちの誇り、美学、アイデンティティ。「フランス柔道の英雄」リネール選手は、ルールのなかで、頭を使って、「勝つための戦い方」を身につけたはずだ。そう考えると、イチローがたびたび言っていた「野球は頭を使うスポーツ」という言葉や、日本の「スモールベースボール」とだぶる。
- ここにあるのは、ナショナリズムで、そのナショナリズムが、排他性に向かうのか、寛容さを獲得するのか、という分かれ道がある。往々にして、残念ながら、前者に向かう。では「柔道の真の精神」はなんと告げるだろうか? おそらく、柔道に「精神」があるとしたら、勝つか負けるか以上に大事なものではないだろうか。つまりぼくが素朴におもったのは……。……「指導をもらいにいくような柔道はつまらない」という意見が出たようだが、「柔道のもつ精神性の美しさ」がもし本当にあるのなら、負けたとしても人を魅了するような内実をもっているのだろうとおもう。今回感じたのは、むしろ、「勝ち負け」にこだわっているのは日本人なのだろうな、ということ。その意味では、勝ち方よりも負け方のほうが重要なのかもしれない。いろいろなことを考えさせられた。
- ナショナリズムにからめとられて、負けてしまってはならないだろう。国際性。寛容さ。リベラルな、ナショナリズム……。
- 国家を代表しておこなわれる国際スポーツ。移民の問題に言及されることもある。「もし」オリンピックを改革するとしたらなにがあるだろう? 国家ではなく、アジアチーム、アフリカチーム、ヨーロッパチーム、アメリカチーム……のように、地域で区切って代表を選んで戦う。そのような形もありうるかもしれない。日本と韓国と北朝鮮と中国とマレーシアとシンガポールとタイとベトナムと……と、アジアにおいて合同チームを立ち上げて、戦う。サッカーだとたまに、チャリティマッチなどでやっている。
- そうすると、イスラエルとパレスチナが同じチームに入り、ウクライナとロシアも同じチームに入ることになるだろう。現状、急にそれをやることは考えづらい。ただ、こうしたスポーツの祭典が、政治を超えて、あるいは政治を脱したところで、意味をもちうるならば、国家を越えた編成をつくるのが良いのだろうとおもう。
- フランス。植民地。移民。その子孫たち……。今回、決勝の舞台で全員が「ブラック」だったことの背景に、政治的、文化的要因がきっとある。なぜ、移民の子弟であろう彼ら彼女らに「柔道」が選ばれたのか? それが「日本」のスポーツだったから、入りやすかったという背景が、なんとなくありそうな気がした。かつて「外国人」の立場だった移民のルーツをもつ彼ら彼女らにとっては、ヨーロッパが中心となるスポーツより、日本という(彼ら彼女らにとっての)「第三国」のスポーツのほうが、心情的にも政治的にも近づきやすかった。そのような背景が仮にあったとすれば、日本人の主張する「柔道の精神」というものも、いまぼくらが想定する以上のひろがりをもったものに、みえてくる。
- フランスにとっての「JUDO」のもつ社会的意味。
- これは実証的なエビデンスを根拠にした話ではなく、いまなんとなくぼくがおもったことにすぎない。事実がまちがっているかもしれない。でも、こういう風な「見方」をすることで、いまさかんに議論されていることとはべつの発想を得ることもできる。つまるところ、そう考えたときに、日本人がもつべきアイデンティティは、よりひらかれたものになるのだろうとおもうから。
https://www.quora.com/Why-are-native-French-people-almost-non-existent-in-the-world-of-sports-Why-do-they-rely-so-much-on-ethnic-minorities
7月20日(土)
- 素振りのブレス、やっと回復。というか取り戻した部分。環境変化でとり逃した面あり。負荷圧かけて出す。そのコントロールが肝。
- 現代社会、どこに向かう? 8・15の企画は、個人的なチャレンジ。調子が上がらず苦戦。やっとリズムに乗れてきそうな実感。
- 現代社会、公と私の区別、整理がおかしい? 五輪選手が飲酒喫煙で辞退の話題。コンプライアンスだの倫理規則だのいろいろ言うが、そうした「公」と「私」の領域の混同が地下で起きている予感。これは「新しい戦前」の主題。ああ、「新しい戦後」は? 戦争回避の言をつのる。理解はされない模様。
- コロナ禍(あるいはそれ以前から)は。「飲酒は悪」「ルール違反は悪」だ。さてじゃあその〝メタ上位のコンプライアンス〟はなに?
ああ、人間社会よ 高貴なれ 僕たちはどんな社会を望む? ああ僕たちの理想はいずこ どんな社会のイメージをする? しない…… イメージを「しない」ところに、ルール主義の陥没がある
「理想のイメージ」がねえぜ 想像力はいまいずこ? 人間には、想像力が必要だ ……おれがいいたいのはそのことだ……
「学」でもなければ「知識」でもない だが想像力だ じゃあ〝想像力〟はなにに由来する? それは現実体験だ エートス この土地のエートス 〝想像力〟に結実する流れ、その道を整備しないか、したか?
おお、詩よ おまえはいまどこにいるか 詩人は退散して、いまは洞穴のタイマツ整備しているらしい 遠くで 「ちくしょう」 の声が聞こえる でも空耳かな 気のせいはたくさんあって いちいち気にしちゃおれん
行き道と帰り道で いま人類は 帰り道を構想しようとする してるか? おおそのことに気づくか否か 行き道は戦争 帰り道はなに? 戦いの後で 平和を構想した はずだったが
- 「新しい戦後」とは「帰り道」のことかもしれない。いつか定常する世界はあるか。あるらしい。未来予想が人心を支配するとき、「ひとり」の「私」は疎外される。ああ、未来から疎外される。((おお、それじゃあぼくは、未来の向こうの未来へと自己疎外しよう))
死者の国への生前贈与 未来の死者へ手渡すデッド・レター……いや、地中に埋める配達不能郵便! そこでは個人が配達不能郵便になる おお、ここでふるさとが「配達不能郵便」にされている! 未来の未来にまで保留されて在る郵便物が、いつか配達される日は来るか?
7月17日(水)
- こうしちゃおれん。
- 大きな花があって……公の「正しいこと」があって……ああそれはそう、未来への責任じゃけえ……でも「戦慄」する……なぜ?
- 魂の、あれやこれや。
- 魂の深さが……。ああ、俺はどうなにを見たらいい? 未来の死者よ 未来の生者がスクリーンの上をすべっていく そのとき 死者たちは居場所をもつかい?
- 死者の居場所。
7月5日(金)
A 神宮外苑の問題。蓮舫氏は「いったん立ち止まる」と述べる。豊洲市場移転問題を想起する。
B 「移転」と「再開発」で問題はちがうだろう。
A 豊洲市場移転問題は、連日おおきな話題だった。もう8年ぐらい前か。結果的に、立ち止まることで混乱を招いたのではないか。
B おまえはいまそれが気に食わないわけだ。
A 「政治」にまつわる混乱が、現実にどのような影を落とすか。成田闘争の余波で千葉県の土地収用が支障をきたした話をこないだ知った。そうした話がきちんと周知されていないことは問題とおもう。
なにか、人々の頭脳のリソース、その使い道がおかしい気がするな。ああした議論をしている場合なのか。
B 神宮外苑のこと?
A 議論しなくていいことばかり議論して、ほんとうに議論しなくちゃいけないことは誰もふれない。そうかんじる。
B ちょっとむずかしいな。抽象的で。
B 「移転」と「再開発」で問題はちがうだろう。
A 豊洲市場移転問題は、連日おおきな話題だった。もう8年ぐらい前か。結果的に、立ち止まることで混乱を招いたのではないか。
B おまえはいまそれが気に食わないわけだ。
A 「政治」にまつわる混乱が、現実にどのような影を落とすか。成田闘争の余波で千葉県の土地収用が支障をきたした話をこないだ知った。そうした話がきちんと周知されていないことは問題とおもう。
なにか、人々の頭脳のリソース、その使い道がおかしい気がするな。ああした議論をしている場合なのか。
B 神宮外苑のこと?
A 議論しなくていいことばかり議論して、ほんとうに議論しなくちゃいけないことは誰もふれない。そうかんじる。
B ちょっとむずかしいな。抽象的で。
6月22日(土)
- 能登の海は神がいるようだった。鋸山の海も、永遠を感じた。能登の海は、より静謐だった。
- 超越。永遠。そんな領域がある。
- システムを改変する。境界線を再定義する。立ち入り禁止を越える。
- 東京都知事選挙のポスターの話題が、Xに多くあり。あれはシステムを超える……というより、システム=法のなかで、いかに悪ノリができるか、というゲームになっているように見えた。
- 「悪ノリ?」「昔いわれたことだ」「悪ノリの自由がある」「それはそうだったが」
- 公の選挙の場で。あれは「ルールを再定義する」ようなものだったか? 再定義したい「ルール」ってなんだ!? SNS以降の関心経済のロジックが、公の選挙の場にも浸食した。だからあれは、「境界線の内側の表現」でもある。半裸になっても、それは「法を超える主張」ではなかった。そもそもの、哲学がない! 法以前の哲学こそ、問われるものだった。
- そもそも、東京都の首長を決める選挙。あの場を使ってなにがしたかったか。
- 「表現の自由」論で理屈をこねる以前に、とにかく空虚だ!
- 関心経済の成れの果てが、あんなものだとしたら、そこから対極の……「関心の外」に目を向ける。現職は離島に一番乗りでポスターを貼った。本来は、対抗勢力がいち早く貼らなきゃいけないだろう。ネットで目立つことばかり気にかけていないか。自分のことのように考えなきゃいけない……関心経済の論理たちよ! 庶民の生活は「ネットの見栄えや承認や経済」と関係がないのだから。
■
- 「ルールの範囲ならなにしてもいい」というのは、ちがうだろう。そもそも法でもルールでも、言語がすべての行為の善し悪しを指定できるはずがない。
- 「不文律の常識がくずれた」ともいえるが、なにかのロジックに支配されているともいえる。関心経済においては「関心」が正義なのだから、彼らの戦略は一定の正しさを帯びている……かのように見えてしまう。ああ! ぼくなんかは、単なる選挙ポスター問題というより、もっと大きい問題意識をおぼえたのだった。これでいいのか? 「文化」の役目はどこいった?
- ああいうものは、「よそではめちゃくちゃなことやってんな~まあこっちは関係なくいこうぜ」というようなものでは、ない。対抗せねばならない……なんて気負ってもね。しょうがねえや。でも、同時代で、同一のシステムに運行されているのはたしかた。おれもおまえも。なら、こっちにも策がなくちゃいけない。なんてことはない。ただ状況をよく考える。
- 「文化」は、〈私〉の領域で展開する。公と私はちがう。〈公〉の領域で展開する「文化」もある……それは緊張度がちがう。現在の、ネット関心経済の論理を、そのまま公の選挙の場にもっていっても、「そのことによってなにがしたかったか」のメタメッセージが問題提起されなければ、意味がない。もしかしたら、N国党はそうした破壊的メッセージを発したいのかもしれない。というか、そういう趣旨のコメントを出している。しかしそんなものは「タテマエ」だろうとすぐに思う。彼にはルサンチマンがあるのかもしれない。そのルサンチマンには根拠があるのかもしれない。ただそれは社会を壊すだけなら、テロの論理に近似してくる。おお! 社会を壊す価値があるか? もうすでに社会は壊れ、なくなっているのに!!
- 今度やるワンマンのチラシに、「現実なんてなかった」と書いた。おれがいいたいのは、こういうことだ。社会なんてないんだ。なくなってしまった。消えた社会、死んだ社会。再生せよ! じゃないと困るって。都知事選があんなじゃ困るでしょう? 都民じゃないとしたって。どこから再生するんだろう。あれは、都民が反発しなきゃいけない。都民の大多数が怒れば、あれはできないと思うんだ。甘いかな? 社会をゼロからつくらないといけない。そういう段階にある。「壊す」より「つくる」だ。「そもそも、なんのために社会があって、みんなでどこに向かうんだ?」と。ビジョンがどこかにないといけないだろう。なにもない。理想も現実もなにも……実もふたもないエコノミーロジックで、人間性が縮小されている。もっと可能性があるだろう! なんて疲れるんだろう。でも、やらなくちゃいけない。
- 人間の重みを、すこし取り戻さないといけないね。計算機自然のデータ処理と等価の人間処理になってしまうんだ。つまりそれは「人間を扱ってない」ってことさ! ぼくらの根本の、天然自然との関係。そしてそこからつくった、人工自然。ぼくらに固有の歴史。守るべきもの。愛……。ぼくたちは、ぼくたちを愛せるか? いま、このようなぼくたちを愛せるか! 愛するに値する存在にならなくちゃいけない。それをつくらなくちゃいけない。
- 政治は、他者への責任を有する。おい、おまえがそんなこというかって! それでもいおう。人間の複数性だ。離島もふくめて日本社会だ。では、その責任の感覚はどこから生ずるのか? 関心経済の論理は、この問いに、答える術をもっていない。だから、経済の外の言葉が必要なんだ。それはべつの自然からやってくる。そのべつの自然とつながる道を再構築するのが、アートの責務だった。音楽の言葉を、そのように使って、ぼくはぼくのやるべきことをやる。うまくいかなくちゃいけないんだ!
■
- 社会をつくるには、それ以前に、人間をつくらなきゃいけない。文学よ! 文学が復活しなきゃいけない。詩よ! 詩を書くんだ。もっと書くんだ! そして宗教よ、祈りよ! 「人間を超越するもの」が、神であったり、仏であったり、大地であったり、花鳥風月であったりする。そうした感覚の、喪失感をまずおぼえよ。暗く、さみしい。かなしいんだ。もう誰とも話がつうじないよ。誰にもわかってもらえない。みんな、忘れたことすら忘れたんだからね! それで、おれは一人で話はじめるさ。みんな、なにいってんだかわからない様子だね! それでも、おれは話をつづける。そうするしかないんさ!
6月9日(日)
- ちょっと人間不信みたいになってきた。みんなに無視されている、と感じてしまう。いや、そうじゃない。実際、無視はされているんだし、こっちも無視をしているのだ。そのことにいままで無頓着で、鈍感で、おめでたくも無視を無視できていた。しかしいまはちがう。無視は無視だと厳密にカウントしよう。
- 「関心領域」という映画があって、それを今度みにいく予定だ。その用語でいえば、関心領域ほどおそろしいものはない。存在しない。関心領域の外なんだ。忘却。さいしょっから知ってもいない。関心の重量が、恣意的に重くなり軽くなり、その増減のたびに、気が狂う。
- 同じ国なのに関心がないことと、ちがう国で関心がないこと、どちらが気が楽だろうか? 同じ日本でも分断している。そして、そこに悪意はない。加害意識なんてとんでもない。加害ではない。ただ、関心領域の外でもって、無視してるだけ。そんなこと、ありふれてる。なにをいまさら。死ね。気づいたやつは死ね。なんで生きてるんだ。おまえは、生きているだけで、特権だろう? 無限の罪悪感を刺激して、おまえは今日も沈鬱な表情を演じる役者だ。下手くそな演技を貫けもせず、うろたえて悔やんでる。おまえの演劇がくだらないのは、おまえの精神が薄弱だからだ。おまえには魂が不足している。おまえは、「これでなくてはいけない」一言を、欠いている。その一言が手に入らない。獲得するにはまだ早いのだ。言葉を探究し、魂を装飾して、おまえはことたりる。その程度の満足感で、おまえはまた次にいく。次はしかし、どこにあるだろう? 次は解除できるだろうか。この表情を。
5月30日(木)
- 昨日は横田惟一郎くんといっしょに八柱のSUNLIT BURGERに食べにいった。アボカドバーガー食った。うまかった。ポテトもうまかった。
- 二人でおしゃべりした。Xのスペースというのもはじめてやってみた。なかなか、緊張。
- 横田くんの話もきけてよかった。10代のころの話とか。
- 学校と自分との関係とか、それは尾を引くだろう。人生において。あらためてそう思う。横田くんとの話だけじゃなく、あらゆるところで、けっきょくその話が背景に潜んでいる。要は、自分と社会との関係。そのひな形が、学校においてあらわれる。「クラスのなかでどういう存在だったか?」とかもそうだし、そもそも学校に行ったか行かないか、もある。共学なのか男子校、女子高のちがいもあるだろう。「異性」が問題になる時期がここにあたる。だいたい、軽音楽なんて浮ついた動機ではじめたやつがおおい、という現実はある。でもそれだけでくくれない。もっと孤独な世界もある。その意味では、バンド系とSSW系は異なる面があるかもしれない。僕は、両方またがって経験したけど、やっぱりSSW系の人の方が、パーソナルだ。そりゃそうだ、という感じだが。
- スペースとか、ああいう雑談。「他人が聞いてるよ」という環境でしゃべること。そうすると、聞き手を意識する。どうにかおもしろくしたくなる。聞き手の関心に向かってしゃべりたい。……とか。でも、こちらに雑談のネタがなかったりする。というか、日常をそういう目線で生きていない。たぶん、しゃべりを仕事にする人は日常をネタとして見ているとおもう。
僕が関心があることが、抽象的な哲学のように聞こえることが多いと思って、気後れする。無と有のバランスというが、意味の濃い話と意味の薄い話を両方ださないといけないんだろう。
それは「コミュニケーション」というやつだと思う。コミュニケーションをひらくというか。ネットでそれができる。対面でももちろんそうだが。ときおり、「ネットを敵視してる」ような議論になりがちだし、ある意味では距離をとろうとしていることは確かだけど、それはネットをうまく使いたい、という意味でもある。というか、そもそもインターネットはかつて、いまのような形でなく、もっと可能性を抱かせる場だった。うまく使いたい。
5月29日(水)
- 世界は石でできている。
- 土地は入れ替え不可能なのだ。人は、引っ越せる。そのことが、どれだけ理解せらるるか。
最近、音声入力で文章をよく書き起こす。
以下はそれ。
試しに誤字脱字もそのままにのせてみる。
以下はそれ。
試しに誤字脱字もそのままにのせてみる。
人が整形手術するのと鋸山をぶっ飛ばすのと核爆弾でそれはね通じてるそのまま通じてる。つまり人が天然自然を加工して、人為的な作為的な人工的な都市を作ったり、家を作ったり、科学を発展させたその流れの先に自分と言う身体と言う天然自然を加工して自分の好みの形に変えるってのはそのまま論理的に=で通じてる。
人はSNSを見て、計算機の自然で持って自分と言う身体すらも透明化してですね。自分と言う天然自然の身体とは違うアバターを作ったり、アイコンを作ったり、画像をAIで加工したりするようになった。それって幻想ですよね。自分の幻想を1つの自己幻想を使様に自由に資材に得ることができるようになってきています。それで怒っている事はそうやって加工された画像に近いように、実際にリアルの自分の身体買おうとかを整形する加工するってことができています。それはAIで加工された顔の画像に近づけるように、実際の顔面を整形するって言うようなことですね。この観念自己幻想に、実際のリアルの天然自然を近づけるって言うそういう欲望であって、これは人類の文明の必然的な発展の方向性に合致しているので、これを批判するってのは簡単ではないんです。
だからこの辺を考えることが1つの今ものを考える条件になってきてるんじゃないか人は自分と言う身体、自分と言う天然の自然の素材を当然人為的に作為的に加工したいと欲望します。それは人間の進化の方向から言って避けられないことなんですね。
▪️
それじゃ、あの山内真理子さんのここは退屈迎えに来てって言う昔の10年位前の小説がありました。あそこに書かれてあったのは冒頭のファストフードと呼ばれている風景でした。それは郊外のどこにでもある暮らしのショッピングモールのロードサイドの風景、つまりTSUTAYAがあって、西松屋があって、吉野家があってコメダ珈琲があって、IKEAがあってIKEAはないかあるのはアレですねニトリそういう風景があってすね。マクドナルドがあってそういう風景。郊外の風景。匿名の風景に僕も共感していた。それは日本中どこでもそうだし世界中ねすること。マクドナルドは世界中どこでもあってショッピングボールの入ってる外資系の企業どこも同じじゃないかってマレーシアでも、ベトナムでも日本でも中東のカタールでも全部一緒だ。ニューヨークでもドイツでも一緒だそうだと思う。それはグローバル化ってやつであって、それによってすごく便利になったと同じですね。人に対してこの入れ替え可能な虚無感っての広げている自分て言う人間だけじゃなくてこの場所とか地方ってのもどこでも入れ替え可能で、それは利便性のコストパフォーマンスによって選ばれているだけであって、単に数字的な経済的な根拠だけによってそうに存在してるって言う論理原理によって存在してる。そこに自分も存在してる。これは人に虚無感を与える。自分てのは入れ替えできないんだ。かけがえのない存在なんだと思うことをだんだん無理に不可能にさせる方向にそういう風景は非常にそういうメッセージを内包している。過剰に読みとけばそうなる。その過剰だってことではなく、人がやっぱり自分が掛け合いない存在だと思えるかどうかがポイントなんだと思うんですね。だから僕は地方の風景っていうのはカンボジアの人の幸福度は高いんだって聞いたけど、それは自分の地元土地、天然自然と自分との関係があるからじゃないかって言うふうな仮説を持ってそれなんか経済的な原理とは別のその天然自然と自分との関係結びつきって言う権利は、経済以前の権利なんで土地は引越しできないと同じように年と土地についてる自分もまぁ入れ替えできないんだ。人間が人間を評価するだけじゃなくて、人間が自分を見てるっていうことだけがメインの認識なんじゃなくて、土地が自分を見てそこの見つけ島と俺との関係見附島が俺を見てる。俺が見附島を見てる時、見附島も俺を見てるんだ。見附島が俺覚えてるんだってなってた時にその人は金沢に引っ越した時に見附島との関係をし、なんで見附島を失うんじゃなくて、見附島と自分との関係をなんで見附島も俺を失うんだって言うことがあります。
三島が俺覚えてるなら見附島から俺が金沢に引っ越したときに見附島は俺のことを自分を見捨てたやつだと恨むだろ。そういう感性は当然生まれてくるはずです。それは土地に根ざした自分の入れ替え不可能性ですね。それは許目的的なものとは違うことだと思う。人間ってなどっかにするもの持ったほうがいいと思う。そういう環境提供すべきだと思う。そういう環境を作るべきじゃないか。そしてそういうものはないんじゃないか天然自然が人工自然になり、そしてまた計算機の自然になり、バーチャル空間が広がってきて自分と言う身体すらも入れ替え可能になってきた。現在においで、入れ替え、不可能なもの自分と言う固有性それをどう作るのか、そのヒントが元にはあったように、僕はそこをそれをノートに読み取るというか、突きつけられるというか、傷つくというか脳に行ってそれを考えた仕事です。
人はSNSを見て、計算機の自然で持って自分と言う身体すらも透明化してですね。自分と言う天然自然の身体とは違うアバターを作ったり、アイコンを作ったり、画像をAIで加工したりするようになった。それって幻想ですよね。自分の幻想を1つの自己幻想を使様に自由に資材に得ることができるようになってきています。それで怒っている事はそうやって加工された画像に近いように、実際にリアルの自分の身体買おうとかを整形する加工するってことができています。それはAIで加工された顔の画像に近づけるように、実際の顔面を整形するって言うようなことですね。この観念自己幻想に、実際のリアルの天然自然を近づけるって言うそういう欲望であって、これは人類の文明の必然的な発展の方向性に合致しているので、これを批判するってのは簡単ではないんです。
だからこの辺を考えることが1つの今ものを考える条件になってきてるんじゃないか人は自分と言う身体、自分と言う天然の自然の素材を当然人為的に作為的に加工したいと欲望します。それは人間の進化の方向から言って避けられないことなんですね。
▪️
それじゃ、あの山内真理子さんのここは退屈迎えに来てって言う昔の10年位前の小説がありました。あそこに書かれてあったのは冒頭のファストフードと呼ばれている風景でした。それは郊外のどこにでもある暮らしのショッピングモールのロードサイドの風景、つまりTSUTAYAがあって、西松屋があって、吉野家があってコメダ珈琲があって、IKEAがあってIKEAはないかあるのはアレですねニトリそういう風景があってすね。マクドナルドがあってそういう風景。郊外の風景。匿名の風景に僕も共感していた。それは日本中どこでもそうだし世界中ねすること。マクドナルドは世界中どこでもあってショッピングボールの入ってる外資系の企業どこも同じじゃないかってマレーシアでも、ベトナムでも日本でも中東のカタールでも全部一緒だ。ニューヨークでもドイツでも一緒だそうだと思う。それはグローバル化ってやつであって、それによってすごく便利になったと同じですね。人に対してこの入れ替え可能な虚無感っての広げている自分て言う人間だけじゃなくてこの場所とか地方ってのもどこでも入れ替え可能で、それは利便性のコストパフォーマンスによって選ばれているだけであって、単に数字的な経済的な根拠だけによってそうに存在してるって言う論理原理によって存在してる。そこに自分も存在してる。これは人に虚無感を与える。自分てのは入れ替えできないんだ。かけがえのない存在なんだと思うことをだんだん無理に不可能にさせる方向にそういう風景は非常にそういうメッセージを内包している。過剰に読みとけばそうなる。その過剰だってことではなく、人がやっぱり自分が掛け合いない存在だと思えるかどうかがポイントなんだと思うんですね。だから僕は地方の風景っていうのはカンボジアの人の幸福度は高いんだって聞いたけど、それは自分の地元土地、天然自然と自分との関係があるからじゃないかって言うふうな仮説を持ってそれなんか経済的な原理とは別のその天然自然と自分との関係結びつきって言う権利は、経済以前の権利なんで土地は引越しできないと同じように年と土地についてる自分もまぁ入れ替えできないんだ。人間が人間を評価するだけじゃなくて、人間が自分を見てるっていうことだけがメインの認識なんじゃなくて、土地が自分を見てそこの見つけ島と俺との関係見附島が俺を見てる。俺が見附島を見てる時、見附島も俺を見てるんだ。見附島が俺覚えてるんだってなってた時にその人は金沢に引っ越した時に見附島との関係をし、なんで見附島を失うんじゃなくて、見附島と自分との関係をなんで見附島も俺を失うんだって言うことがあります。
三島が俺覚えてるなら見附島から俺が金沢に引っ越したときに見附島は俺のことを自分を見捨てたやつだと恨むだろ。そういう感性は当然生まれてくるはずです。それは土地に根ざした自分の入れ替え不可能性ですね。それは許目的的なものとは違うことだと思う。人間ってなどっかにするもの持ったほうがいいと思う。そういう環境提供すべきだと思う。そういう環境を作るべきじゃないか。そしてそういうものはないんじゃないか天然自然が人工自然になり、そしてまた計算機の自然になり、バーチャル空間が広がってきて自分と言う身体すらも入れ替え可能になってきた。現在においで、入れ替え、不可能なもの自分と言う固有性それをどう作るのか、そのヒントが元にはあったように、僕はそこをそれをノートに読み取るというか、突きつけられるというか、傷つくというか脳に行ってそれを考えた仕事です。
5月25日(土)
- SNSには人間の声しかない。「書く」とはそうなる。ここもそうだ。自分の声しかない。人間しかいない空間。それはとても抽象的、観念的だ。たくさんの人の「声」がひしめく。その異常性、偏り。あのような「実空間」はない。存在しない。
- 「承認をひらく」 「承認は我々の時代のキーワードになっている」 人間しかいない世界では、必然的にそうなる。
- 最近、自分の根っこのほうで考え方の転換が起きている。二回目の能登に行ってからだ。
- ミュージシャンこそが中央志向だ、と思う。これはほんとうに。「カルチャー」は中央を向いている。
- 天然自然との関係。Kindle Unlimitedで本を読み漁る。なかなか、ない。内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」。個としての生命ではなく、ひとつながりの連続体として。
- 現代人の空虚さ、孤独さ。この環境。
- 天然自然、人工自然、計算機自然。計算機自然で捕捉され表出されるのは、個としてのプレーヤー。そこに、「森」のようなつながり、集合、内輪、相互依存、生命の連続体はみえない。そこに、原因がないか。
- 土地には固有の歴史がある。土地こそ、入れ替え不能だ。むしろ人間はよほど入れ替えられる。土地こそ固有性をもっている。
- 風土。土地そのものとの関係。そこが抜け落ちている。能登で。なにを考えるか。その不足を感じた、ということだ。コンパクトシティの発想。合理性。それだけでは、こたえられない。人間の嘆きだけではなく、土地そのものへの関係性を勘定にいれないといけない。それがいちばん重要なことがらだと、いま考えるにいたった。
5月18日(土)
- 水俣曼荼羅をみた。原一男監督のドキュメンタリー映画。
- 2010年とか、そのへんです。ぼくがソロで自分の音楽で、ライブするようになったのは。そのとき、2曲、長い曲があった。ひとつは「星とおでん」。いまもときおりやってる。もうひとつ、「愛してた」という曲があった。これは、いまではまったくやっていない。
- 「愛してた」のほうの、方向。それが、途絶えてたというのはいえます。
- それは、近代、ポストモダンを、超えるなにかにつながっていて。それは、前近代だろう。前近代の、なにか無分別知ですよね。「たましい」という語句を、なるべく使わないようにしてきた思いがある。だが、コロナ禍で「いのち」という言葉が多用されたとき、むしろ捨象されたのは、魂だった。
- いのち いのち なんの いのちじゃ? どんな いのちじゃ?
- 使命、天命、運命、宿命 みな いのち の ことじゃ
- ぜんぶまとめて 魂 じゃ
- 近代の「疑う」心。その心は、自我の葛藤は、「星とおでん」にあったもので、「震災の後で」にもあった。ただ魂の邂逅、とでもいうもの。魂のことがどうにかならんかぎり、それにふれないかぎり
- 魂が笑う。そういうイメージ。どろくさい。土着の。土まみれの。
- 発達障害 という 言葉がある。 それは 能力 適応 をもとにしている。主眼にしている。その基準は時代によりうつりかわり。発達障害はふえる
- それは”正しいこと”だったろうか? ((ああもちろん近代の正義だった)) しかしそれで 魂 は 考えることすらできなくなった
- ……とかなんとか。能登を見て。その後、富津の岬を見た。そしたら水俣に関心が高まり、映画を見た。上記のようなことを考える。自分の思考の、もっと以前までさかのぼらないと、問題にふれられない思い。近代主義ではだめだと感じた。そこでは。むしろ近代主義が問われていた。近代を疑問する。自問する。疑う前に、なにかを信じることがなければ、疑いの先になにがあろうか。
- 愛 でも 魂 でも
5月16日
- 魂を癒す福祉
- 愛のない町、海、土地
- 富津の旧海岸線を歩いた。その印象を無視しない。
- のりを犯す。あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る。恋愛、がそうであったように。芸術は愛をつたえるなら、のりを犯す。
- 心の欲する所に従えども矩を踰えず。「矩(のり)」を、犯す。それではじめて「君が袖振る」。
- 孤独すらも交換可能な風潮。は、SNS以降……いくつかの分析。
5月11日(土)
- 昨夜は郡山PEAK ACTIONと千葉ANGAとの交歓イベント「ANGA ACTION」でした。
楽しかったわ。
5月6日(月)
▼
関東に戻ってきた。
いろいろとツイッター裏アカに書いた。
なんにしても(けっこう走り回ったとはいえ)二日間で一部しか見れていないわけだし、震災後に訪問したのははじめてだけど、能登の現状は見ることができた。
▼
珠洲製塩にもいけた。
例のスナックも見にいった。看板がつぶれていて、人がいる様子はない。
あのママの安否はわからなかった。避難所にいるのかもしれないが、そこまではいけなかった。
関東に戻ってきた。
いろいろとツイッター裏アカに書いた。
なんにしても(けっこう走り回ったとはいえ)二日間で一部しか見れていないわけだし、震災後に訪問したのははじめてだけど、能登の現状は見ることができた。
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珠洲製塩にもいけた。
例のスナックも見にいった。看板がつぶれていて、人がいる様子はない。
あのママの安否はわからなかった。避難所にいるのかもしれないが、そこまではいけなかった。
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通底して考えていたのは、
「こんなときに、芸術や宗教の役割ってなんだ?」
ということだった。
▼
「意味」を見出すのは人間の業だとおもった。
アートでも、大仏でも、人間が目にして、ふれて、想いを投影することによって「意味」が生ずる。
途中、見に行こうとした能登の大仏は、その入り口のところで、「立入禁止」のバーが設けられていた。
通底して考えていたのは、
「こんなときに、芸術や宗教の役割ってなんだ?」
ということだった。
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「意味」を見出すのは人間の業だとおもった。
アートでも、大仏でも、人間が目にして、ふれて、想いを投影することによって「意味」が生ずる。
途中、見に行こうとした能登の大仏は、その入り口のところで、「立入禁止」のバーが設けられていた。
5月5日(日)
▼
能登の旅、ひとまず終え……といってもいまは金沢でこれを書いている。
で、深夜バスにのった。
▼
無事に巡ることができてほんとよかった。
「行き」は、気負ったし、びびってた面はあった。「行っていいのかな?」と、いまだに思ってる感情はあった。そのことを、のと里山海道を走りながら気づいた。
そして帰りに、同じ道を走りながら、「ああ、行きのときは、怖がってたんだなあ」とおもった。
そんな感じで、そんな程度だ。自分は。自分の程度。
能登の旅、ひとまず終え……といってもいまは金沢でこれを書いている。
で、深夜バスにのった。
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無事に巡ることができてほんとよかった。
「行き」は、気負ったし、びびってた面はあった。「行っていいのかな?」と、いまだに思ってる感情はあった。そのことを、のと里山海道を走りながら気づいた。
そして帰りに、同じ道を走りながら、「ああ、行きのときは、怖がってたんだなあ」とおもった。
そんな感じで、そんな程度だ。自分は。自分の程度。
5月3日(金)
▼
スマホをやっと買い替えた。iPhoneが調子悪くなり、ずっと圏外病だったのだが、直すより買い替えた。
手続きしてたら最後に肝心の機種在庫がなかったりと難航したが、別のショップにいってなんとか買い替えられた。
いまこれを書いてるのもスマホからなので、これは革命的である。以前のiPhoneだとまるで編集できなかった……(すべてパソコンでやってた)。
▼
それというのも、能登にいくためだ。能登にいってスマホ圏外病はまずい。ただでさえ「迷惑かけるな」の意識が高いのに、道にすら迷ってしまう。
前回(昨年の11月)に行って以来、能登のことが気にかかる。もちろん震災のことだ。しかしそれだけでなく、芸術祭を見に行った際にかけられた言葉にもぶつかった。
「芸術祭に金かけるなら復興に金かけなさいよ」
能登の地震は、今年の元日だけでなく、昨年も一昨年も起きていた。ぼくはそれを知らなかった。知らないで、芸術祭に出かけていたのである。
それで、夜、街なかに食事できるところが見つからず、入ったスナックのママが言った台詞だ。
その台詞が、裏打ちされるように震災が起こった。
ほんの二ヶ月前に歩いた街並みがめちゃくちゃになった様子を、テレビやネットで見て、少なからずショックだった。
言葉になっていない無意識がある。
そこから色々と議論もうつり進んだ。
ボランティア迷惑論もあったしコンパクトシティ論もある。
しかしずっと違和感がある。
みんな「先のこと」を話す。でも、「失われたもの」はなんなんだろう?
人の命が失われた。建物、地面、見附島、ビル……かつてあった姿が様変わりしたこと。
「失われたもの」を云々するのは、抽象的なことではないだろう。
千葉から能登の報道に接していて、語られるフレームは、定まりすぎじゃないか。
▼
深夜バスは、富山をすぎた。
途中、激しく揺れて、「おお、こわいな」とおもい、硬直した。
いまぼくは自分の考えが定まっていない。
行ってなにを感じるかわからない。
誰かを、被災地を助けたい、という目的が際立ってあるのともちがう。
半年前に見た景色をもう一度見たい。できれば会った人たちにもう一度会いたい。
「復興」なのか、「復旧」なのか、「コンパクトシティ」なのか、という「未来」の議論が一方で進む。そこに、国民大の関心の方向性ものっかる。当事者たちの感じていることと、どこがずれて、どこが重なっているだろう。
ひらたくいって、文学が足りないとおもえた。
ぼくができるのは、「文学」しかない。
それは言い換えれば「自意識」であり、「無意識」であり、「感情」である。そこからつくられる論理である。
ここで「文学」とは、失ったものにひきずられていく、人間のどうしようもない心性の表現のことだ。
なんでこんなに、詩がないのか。散文がないのか。なぜ「どうしたらいいのか」ばかり語りあっているのか。
文学がなければ、復興も、未来も、人間の本性からはずれていく。
ぼくにはそう、予感された。
そんな予感も、傲慢な思い違いかもしれないが。
ぼくは、「文学」のために能登にいく。
文学が現実をつくると信じる。
「芸術祭に金かけるなら復興に金かけなさいよ」
迂遠な道を歩む。
「どうしたらいいのか」の前に、
「あなたはなにをどう感じてるんですか」その問いかけをし、答えてもらわなきゃならない。
それら全体が、傲慢な態度だと受け取られるとしても、いまのぼくには、それしかつながりうる方法がないのだ。
そうして実際、誰もつながりをつくらないまま、「議論は一方で」進んでいく。
それよりも、ぼくはぼくが傷ついたほうがいいだろう。それを見せものにしたい。そうしなきゃいけないとおもう。
スマホをやっと買い替えた。iPhoneが調子悪くなり、ずっと圏外病だったのだが、直すより買い替えた。
手続きしてたら最後に肝心の機種在庫がなかったりと難航したが、別のショップにいってなんとか買い替えられた。
いまこれを書いてるのもスマホからなので、これは革命的である。以前のiPhoneだとまるで編集できなかった……(すべてパソコンでやってた)。
▼
それというのも、能登にいくためだ。能登にいってスマホ圏外病はまずい。ただでさえ「迷惑かけるな」の意識が高いのに、道にすら迷ってしまう。
前回(昨年の11月)に行って以来、能登のことが気にかかる。もちろん震災のことだ。しかしそれだけでなく、芸術祭を見に行った際にかけられた言葉にもぶつかった。
「芸術祭に金かけるなら復興に金かけなさいよ」
能登の地震は、今年の元日だけでなく、昨年も一昨年も起きていた。ぼくはそれを知らなかった。知らないで、芸術祭に出かけていたのである。
それで、夜、街なかに食事できるところが見つからず、入ったスナックのママが言った台詞だ。
その台詞が、裏打ちされるように震災が起こった。
ほんの二ヶ月前に歩いた街並みがめちゃくちゃになった様子を、テレビやネットで見て、少なからずショックだった。
言葉になっていない無意識がある。
そこから色々と議論もうつり進んだ。
ボランティア迷惑論もあったしコンパクトシティ論もある。
しかしずっと違和感がある。
みんな「先のこと」を話す。でも、「失われたもの」はなんなんだろう?
人の命が失われた。建物、地面、見附島、ビル……かつてあった姿が様変わりしたこと。
「失われたもの」を云々するのは、抽象的なことではないだろう。
千葉から能登の報道に接していて、語られるフレームは、定まりすぎじゃないか。
▼
深夜バスは、富山をすぎた。
途中、激しく揺れて、「おお、こわいな」とおもい、硬直した。
いまぼくは自分の考えが定まっていない。
行ってなにを感じるかわからない。
誰かを、被災地を助けたい、という目的が際立ってあるのともちがう。
半年前に見た景色をもう一度見たい。できれば会った人たちにもう一度会いたい。
「復興」なのか、「復旧」なのか、「コンパクトシティ」なのか、という「未来」の議論が一方で進む。そこに、国民大の関心の方向性ものっかる。当事者たちの感じていることと、どこがずれて、どこが重なっているだろう。
ひらたくいって、文学が足りないとおもえた。
ぼくができるのは、「文学」しかない。
それは言い換えれば「自意識」であり、「無意識」であり、「感情」である。そこからつくられる論理である。
ここで「文学」とは、失ったものにひきずられていく、人間のどうしようもない心性の表現のことだ。
なんでこんなに、詩がないのか。散文がないのか。なぜ「どうしたらいいのか」ばかり語りあっているのか。
文学がなければ、復興も、未来も、人間の本性からはずれていく。
ぼくにはそう、予感された。
そんな予感も、傲慢な思い違いかもしれないが。
ぼくは、「文学」のために能登にいく。
文学が現実をつくると信じる。
「芸術祭に金かけるなら復興に金かけなさいよ」
迂遠な道を歩む。
「どうしたらいいのか」の前に、
「あなたはなにをどう感じてるんですか」その問いかけをし、答えてもらわなきゃならない。
それら全体が、傲慢な態度だと受け取られるとしても、いまのぼくには、それしかつながりうる方法がないのだ。
そうして実際、誰もつながりをつくらないまま、「議論は一方で」進んでいく。
それよりも、ぼくはぼくが傷ついたほうがいいだろう。それを見せものにしたい。そうしなきゃいけないとおもう。
4月28日(日)
- もっと週に一回程度は、ここを更新していきたい。
- なんのために? いや、記録していたい。
- 永久に残るようなもんじゃないよな。ウェブサイトなんて、契約が切れるか、大元の会社がつぶれたら終わりだ。データは儚い。
- 「現実をつくる」が2024年の抱負だった。現実をつくるために動く。練る。学ぶ。
4月19日(金)
千葉の
A 千葉には排他性というのか、いや「排他性」というんじゃないな、よそから来た人への「無関心」がある。
B ち、そうか。ときたま対バンの人に「千葉はむずかしいね。反応があまりない」と言われることがあるんだよ。どういうこっちゃ。
A 千葉駅前は空襲があったから、戦前と歴史が断絶している面がある。そのへんの影響もあるんかな。歴史意識、ひいてはアイデンティティがどうも希薄というのか、空虚さあるというのか。だから「よその人」を歓待できない。
B 地方都市。郊外のメンタリティ。「自分の街(千葉、地元)」と「東京」と「その他」の3つしかカテゴリーがない。県外から来た人の地域性とか、その人の暮らしぶりとか、興味がない。「東京か、千葉か。その往復」しか頭にないんだ。
A それは俺の自己批判、ないし反省でもあるかもなあ。若いころは、バンドで対バンした地方の人らにも、関心をもたなかった。自分のことしか頭になかったね。
B 本来は、まず地元意識を醸成するために、「千葉の固有の歴史性」をつくるべきなんだ。特にいまに通じる近現代の。空襲があったことは重要なことのはず。そういうことがらも、オミットされて、「千葉ってぱっとしねえなあ」みたいな、東京へのコンプレックスをぼんやりつのらせるだけの空気感なんだ。そのへんの内省をしていきたいやね。
A とにかく、「千葉はむずかしいね。反応がうすいね」とはいわれたくないもんだ。どうすればいいのかな。自分から率先して、空気をつくっていくことかな、まずは。
B お前みたいな野郎にそんな期待ができるかよ。ま、やってみせいや。
ブルース・スプリングスティーンがどうたら
A ブルース・スプリングスティーンって、好きなの?
B そこそこ聴いたさ。日本人ミュージシャンにも影響を与えてるしなあ。尾崎豊とか浜田省吾とか佐野元春とかあのへんだ。
A 「いまブルース・スプリングスティーンを聴く」って記事が一週間前くらいにネットにあがっていた。
それを読んで思ったのは、もし、労働者に主体性があり、俺がそれに該当するなら、ブルース・スプリングスティーンのようなミュージシャンを持ち上げるのはやめとこう、ということでした。
B ははは。なにを怒ってるんだよ。いいじゃないか、ボス。最高だよ。
A 俺はついていけない。だめだ……トランプが再選したら移住する、と書いてあったが、ほんとうにそうしてほしいと思うくらいだな。しかし、ブルース・スプリングスティーンの情報は日本であまり入ってこないので、よくわからない面もあるが。ただ、現在の政治性のひとつの象徴にように見える。
B チケット代のニュースは「おお」って感じだったからな。チケット価格が需要によって変動する仕組みって、すごいよな。
A なんにせよ、俺としては、共感しないんだ。俺たちはもっと草の根の、地道な活動をやっている。こっちのほうがよっぽど「労働者階級との繋がり」を、実質的にも思想的にももってるだろうって。俺がいいたいのはそこなんだ。これからもっとがんばんなくちゃな。
A 千葉には排他性というのか、いや「排他性」というんじゃないな、よそから来た人への「無関心」がある。
B ち、そうか。ときたま対バンの人に「千葉はむずかしいね。反応があまりない」と言われることがあるんだよ。どういうこっちゃ。
A 千葉駅前は空襲があったから、戦前と歴史が断絶している面がある。そのへんの影響もあるんかな。歴史意識、ひいてはアイデンティティがどうも希薄というのか、空虚さあるというのか。だから「よその人」を歓待できない。
B 地方都市。郊外のメンタリティ。「自分の街(千葉、地元)」と「東京」と「その他」の3つしかカテゴリーがない。県外から来た人の地域性とか、その人の暮らしぶりとか、興味がない。「東京か、千葉か。その往復」しか頭にないんだ。
A それは俺の自己批判、ないし反省でもあるかもなあ。若いころは、バンドで対バンした地方の人らにも、関心をもたなかった。自分のことしか頭になかったね。
B 本来は、まず地元意識を醸成するために、「千葉の固有の歴史性」をつくるべきなんだ。特にいまに通じる近現代の。空襲があったことは重要なことのはず。そういうことがらも、オミットされて、「千葉ってぱっとしねえなあ」みたいな、東京へのコンプレックスをぼんやりつのらせるだけの空気感なんだ。そのへんの内省をしていきたいやね。
A とにかく、「千葉はむずかしいね。反応がうすいね」とはいわれたくないもんだ。どうすればいいのかな。自分から率先して、空気をつくっていくことかな、まずは。
B お前みたいな野郎にそんな期待ができるかよ。ま、やってみせいや。
ブルース・スプリングスティーンがどうたら
A ブルース・スプリングスティーンって、好きなの?
B そこそこ聴いたさ。日本人ミュージシャンにも影響を与えてるしなあ。尾崎豊とか浜田省吾とか佐野元春とかあのへんだ。
A 「いまブルース・スプリングスティーンを聴く」って記事が一週間前くらいにネットにあがっていた。
それを読んで思ったのは、もし、労働者に主体性があり、俺がそれに該当するなら、ブルース・スプリングスティーンのようなミュージシャンを持ち上げるのはやめとこう、ということでした。
B ははは。なにを怒ってるんだよ。いいじゃないか、ボス。最高だよ。
A 俺はついていけない。だめだ……トランプが再選したら移住する、と書いてあったが、ほんとうにそうしてほしいと思うくらいだな。しかし、ブルース・スプリングスティーンの情報は日本であまり入ってこないので、よくわからない面もあるが。ただ、現在の政治性のひとつの象徴にように見える。
B チケット代のニュースは「おお」って感じだったからな。チケット価格が需要によって変動する仕組みって、すごいよな。
A なんにせよ、俺としては、共感しないんだ。俺たちはもっと草の根の、地道な活動をやっている。こっちのほうがよっぽど「労働者階級との繋がり」を、実質的にも思想的にももってるだろうって。俺がいいたいのはそこなんだ。これからもっとがんばんなくちゃな。
4月3日(水)
昨夜は千葉ANGAのバー営業で飲んでいた。三年前、店の元PAスタッフだった岩田豊さんが亡くなり、それから毎年四月二日に偲ぶ会をやっていた。僕が店長ナオミさんに「コロナ禍で亡くなり、お葬式にいけなかった人もいるきがする。なにかできないかなあ」と相談したのがきっかけだった。
おととい、お墓参りにいった。墓石をみつけ、地面付近に彫ってある日付をみると、命日は二日ではなく三日であることが判明した。どうもどこかで情報が間違ったままつたわったのか、勘違いがあったのか、とにかくそのまま命日がずれていた。やばいぞ、と思ったけどもう今年はしかたないので、来年からなおそう、ということにして、あとはこれをどう言おうかな……と悩んだけど、普通にツイッター(X)でつぶやいた。裏アカにしたけど、表アカのほうがよかったかもしれないなどとまた悩む。
とはいえ、飲み会自体は楽しかったし、きっと豊さんも笑ってゆるしてくれるとおもう。信じる。「沼田〜たのむよ〜」という声が聞こえてくる。すみません。
久しぶりの人と会えたのはよかった。十代のころを思い出した。だからか飲みすぎて、酔いつぶれた。
人がいて、つながりがあって、だから「ライブハウス」は素敵な場所だ。その「つながり」は、死んだ人になっても、つながりつづけるものなのだ。
そんなことが言いたくて、そう信じたくて、なかなか、毎回「どうすればいいんだろうなあ」と悩むところが多いんだけど、「なにもやらないよりなにかやろう、やったほうがいい」と思って、微力ながらイベントをさせてもらった。僕は言い出しっぺで、ブッキングふくめ多くはナオミさんの力だ。
でも、この日にイベントをやってたことで、豊さんを思い出す時間がつくれた。はじめて出会った旧ANGAの移転パーティのとき。いつも笑顔でしゃべってる、その声。四谷フォーバレーでPAしてもらったとき。思い出して、それが供養や弔いになるとおもうし、その時間を通じてライブハウスは、より紐帯を深めて、もっと「ライブハウス」「生きる場所」になる。
やっぱりもう一度、音を聞いてもらいたかった。もっと満足させられるような演奏を……それが心残り。同時に、いまから、弔いの関係があれば、音を届けられると信じたい。僕がそういう人間になれるかだ。それが自分の課題だ。「できている」から言ってるんじゃなくて、「できてない」から書いている。豊さんに、まだ返せていないきがするのだ。
おととい、お墓参りにいった。墓石をみつけ、地面付近に彫ってある日付をみると、命日は二日ではなく三日であることが判明した。どうもどこかで情報が間違ったままつたわったのか、勘違いがあったのか、とにかくそのまま命日がずれていた。やばいぞ、と思ったけどもう今年はしかたないので、来年からなおそう、ということにして、あとはこれをどう言おうかな……と悩んだけど、普通にツイッター(X)でつぶやいた。裏アカにしたけど、表アカのほうがよかったかもしれないなどとまた悩む。
とはいえ、飲み会自体は楽しかったし、きっと豊さんも笑ってゆるしてくれるとおもう。信じる。「沼田〜たのむよ〜」という声が聞こえてくる。すみません。
久しぶりの人と会えたのはよかった。十代のころを思い出した。だからか飲みすぎて、酔いつぶれた。
人がいて、つながりがあって、だから「ライブハウス」は素敵な場所だ。その「つながり」は、死んだ人になっても、つながりつづけるものなのだ。
そんなことが言いたくて、そう信じたくて、なかなか、毎回「どうすればいいんだろうなあ」と悩むところが多いんだけど、「なにもやらないよりなにかやろう、やったほうがいい」と思って、微力ながらイベントをさせてもらった。僕は言い出しっぺで、ブッキングふくめ多くはナオミさんの力だ。
でも、この日にイベントをやってたことで、豊さんを思い出す時間がつくれた。はじめて出会った旧ANGAの移転パーティのとき。いつも笑顔でしゃべってる、その声。四谷フォーバレーでPAしてもらったとき。思い出して、それが供養や弔いになるとおもうし、その時間を通じてライブハウスは、より紐帯を深めて、もっと「ライブハウス」「生きる場所」になる。
やっぱりもう一度、音を聞いてもらいたかった。もっと満足させられるような演奏を……それが心残り。同時に、いまから、弔いの関係があれば、音を届けられると信じたい。僕がそういう人間になれるかだ。それが自分の課題だ。「できている」から言ってるんじゃなくて、「できてない」から書いている。豊さんに、まだ返せていないきがするのだ。
3月30日(土)
- 口をひらいておかないと、そこに自分の気づきというのか、違和感というのか、自意識が生じてこないので、書かないといけない。書かないでいると、自分の主体性がそのうちに逃げていく感じがする。じっさい、言葉が煮詰まる、もたる、のろくなる。
- そういう自分の状態を感じると、「書こう」、となって、億劫でなければ、そうする。いまは、それほど億劫でないので、書く。
- 書く、ということと、歌う、ということの、そのあいだにある断絶。その問題。
- 書くほうは自分に向いていて、歌うほうは他人に向いている……ように見えているのかもしれない。
- 「自分の責任について考えてください」「はいわかりました」「ああいう歌をうたってるんだから、有責でしょう」「そういうことです」「歌は、役に立たない。それでも、歌わなければならない。有責だから、歌う。どういう風に考えたか。現実の事象について歌う。現実世界のなかで、他人の役に立つ実際行動をとろうともせず、ただ歌をつくってうたっただけ。それでなんになる? それが責任だ。そこには、自分の責任がある。自分が自分であるという責任だ」「おあつらえ向きのようだね」「ああそういうことだ」
- というわけなんで……
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
歌うだけじゃ世界はつくれない/好きなことをやるだけじゃ社会はつくれない/けど祈ることで人は自分をつくる/人間関係から解き放たれる/一瞬/平和をつくるにはなにが必要だ?/忘れることが必要だ/忘れるだけじゃ平和を維持できない/平和をつくることを忘れる/逃げるだけじゃ平和を守れない/その他もろもろ……
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
きのうのライブはどうだったろうな? さすがの対バンのパフォーマンスに刺激ももらった。自分は、「C」面についてもっと真剣に考えて表現に仕立てないといけないと感じた。考えるだけで終わらず、他人につたえる表現に昇華させないといけない。音楽やライブの演奏にとどまらず、さまざまな方法があるだろう。音楽に限定させないほうがいいなとも感じた。同時に、音楽そのものが「C」面にひらいていないとなとも思った。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
▼最近の考えるテーマ
- 「日本のチャイルディッシュ」について
- 日米の文化の比較
- 「C」の問題
- 階級の問題
3月23日(土)
- 久しぶりの日記になってしまった。なにかエナジーが分散してしまっているような……。「Xもそうだしな」「朝起きたらモスクワでテロが」「コンサート会場か」「痛ましい。すぐに映像がネットにあがる。SNSでそれを見る。これは、なんだ?」「一瞬でポルノグラフィーに堕ちる」「
2月26日(月)
ウクライナのドキュメンタリー番組をみました。寝て起きて、なんとなく重たい気分で、こないだ聞いた知人の話があまりにも重くて、それをひきずっていたのかな……とにかく、寝間着のまま、「後で見ておこう」とブックマークをつけておいたドキュメンタリーを数本みました。
あまりにも重い話です。わたしには想像もつきません。ですが、日本でも、みなが「平和だ」と言っていても、じっさいのところ、戦場はあるのですね。「地獄」はあるのです。ただ、知らないだけです。戦争報道は、報じられてそれを目にすれば、認識できる。でも、わたしたちの身近な「地獄」はなかなか認識できません。それどころか、一度も口にされないまま闇に埋もれたきり、表に出てこない。
わたしは、「平和」だったのは自分だけで、「日本」が平和だったわけでもなんでもないことに、いまさら気づきました。いや、その「自分の平和」というのもじつは仮りそめで、少しほじれば戦場にいきあたるかもしれませんが。わたしは自分というものもよくわからないのです。ただ自分の「地獄」を、アッピールしようとは思いませんでした。
本当に重たいことは、なかなか口にできません。言ったところで、どう受け取られるかもわかりませんし。嫌ですよね、ぞんざいに処理されたら。わたしは、その意味で、他人を信用していません。自分のことも信用していません。誰かの頼りになるとか、相談相手になるとか、大事な秘密を打ち明けるに値する人間だと思いません。そんな人間は、めったにいない。わたしはそんな立派な人間じゃない。
「言葉にする」ことの大事さをテーマにしたドキュメンタリーがありました。ウクライナで、『戦争語彙集』という本が出版されたのですね。全編は視聴せず、つまんでみただけですが、たしかに、自分の体験や思いを言葉にするのは大事なことです。気が楽になります。ささいなことのようですが、「そんなことはささいなことだ」とタカをくくれるのは、じっさい、平和な日常に暮らしているからかもしれません。きっとそうです。切実に言葉を求める人がいる。必死の思いを声にする。言葉をつくり直す。人間にとって、とても大事なことです。わたしにも、それはわかるような気がしました。
それから、軍に料理を届ける料理人の話。後方支援、うまい食べ物をつくり、食べてもらう。これも、自国の戦争への貢献なのですね。
こういうことを書こうとすると、「戦争協力」という語彙が、わたしのなかでひっかかってしまいます。案外、料理の話がいちばんむずかしいかもしれない。感想を書くのがむずかしい。
いいドキュメンタリーでした。戦争のドキュメンタリーは暗く重たいけど、あの番組は明るい印象をのこして、さわやかさがあった。日本のラーメンも出てきました。香川県でつくられたという製麺機も登場します。意外なところで日本とのつながりが出てきて愉快でしたね。
戦争は悪だ。戦争なんてないほうがいい。でも、起きてしまった戦争に、必死で抵抗し、戦い、仲間を助けるために動く人がいる。
こうやって感想を書くにも、言葉を流通させなきゃいけない。番組の感想も、まっすぐには書けない圧を感じる。それは、先行する価値観の存在だ。「戦争協力は悪だ」がある。日本の過去の戦争の記憶がある。
だから、じつはこうやって書いていても防衛的になっていて、料理と戦争の関係を案じるのです。たぶん、番組制作者もそれをわかって、「戦争の善悪」とは異なる視点から編集していたと思う。
「政治」ではなく、人間の暮らしや、人と人との関係にフォーカスする。料理は、苦しんで、ストレスに耐えて、ときに命を落とす軍人たちが、ひもじい思いをしないためにつくられる。そうやって考えると、あの番組の裏テーマは、「政治的正しさとは別の価値を伝えること」にあったかもしれない。
「食」は、国境も越えるんだろうなと思います。
……いま、想像を許されるとすれば、もしあの料理が、捕虜となったロシア兵に提供されたなら、その瞬間には、もしかしたら国家間戦争を越えた、もしくは忘れたような、ほんの一瞬がありうるかもしれないなあ……
そんな「生ぬるい」「甘い」想像をうながす効果が、たしかに料理にはあったようです。
あまりにも重い話です。わたしには想像もつきません。ですが、日本でも、みなが「平和だ」と言っていても、じっさいのところ、戦場はあるのですね。「地獄」はあるのです。ただ、知らないだけです。戦争報道は、報じられてそれを目にすれば、認識できる。でも、わたしたちの身近な「地獄」はなかなか認識できません。それどころか、一度も口にされないまま闇に埋もれたきり、表に出てこない。
わたしは、「平和」だったのは自分だけで、「日本」が平和だったわけでもなんでもないことに、いまさら気づきました。いや、その「自分の平和」というのもじつは仮りそめで、少しほじれば戦場にいきあたるかもしれませんが。わたしは自分というものもよくわからないのです。ただ自分の「地獄」を、アッピールしようとは思いませんでした。
本当に重たいことは、なかなか口にできません。言ったところで、どう受け取られるかもわかりませんし。嫌ですよね、ぞんざいに処理されたら。わたしは、その意味で、他人を信用していません。自分のことも信用していません。誰かの頼りになるとか、相談相手になるとか、大事な秘密を打ち明けるに値する人間だと思いません。そんな人間は、めったにいない。わたしはそんな立派な人間じゃない。
「言葉にする」ことの大事さをテーマにしたドキュメンタリーがありました。ウクライナで、『戦争語彙集』という本が出版されたのですね。全編は視聴せず、つまんでみただけですが、たしかに、自分の体験や思いを言葉にするのは大事なことです。気が楽になります。ささいなことのようですが、「そんなことはささいなことだ」とタカをくくれるのは、じっさい、平和な日常に暮らしているからかもしれません。きっとそうです。切実に言葉を求める人がいる。必死の思いを声にする。言葉をつくり直す。人間にとって、とても大事なことです。わたしにも、それはわかるような気がしました。
それから、軍に料理を届ける料理人の話。後方支援、うまい食べ物をつくり、食べてもらう。これも、自国の戦争への貢献なのですね。
こういうことを書こうとすると、「戦争協力」という語彙が、わたしのなかでひっかかってしまいます。案外、料理の話がいちばんむずかしいかもしれない。感想を書くのがむずかしい。
いいドキュメンタリーでした。戦争のドキュメンタリーは暗く重たいけど、あの番組は明るい印象をのこして、さわやかさがあった。日本のラーメンも出てきました。香川県でつくられたという製麺機も登場します。意外なところで日本とのつながりが出てきて愉快でしたね。
戦争は悪だ。戦争なんてないほうがいい。でも、起きてしまった戦争に、必死で抵抗し、戦い、仲間を助けるために動く人がいる。
こうやって感想を書くにも、言葉を流通させなきゃいけない。番組の感想も、まっすぐには書けない圧を感じる。それは、先行する価値観の存在だ。「戦争協力は悪だ」がある。日本の過去の戦争の記憶がある。
だから、じつはこうやって書いていても防衛的になっていて、料理と戦争の関係を案じるのです。たぶん、番組制作者もそれをわかって、「戦争の善悪」とは異なる視点から編集していたと思う。
「政治」ではなく、人間の暮らしや、人と人との関係にフォーカスする。料理は、苦しんで、ストレスに耐えて、ときに命を落とす軍人たちが、ひもじい思いをしないためにつくられる。そうやって考えると、あの番組の裏テーマは、「政治的正しさとは別の価値を伝えること」にあったかもしれない。
「食」は、国境も越えるんだろうなと思います。
……いま、想像を許されるとすれば、もしあの料理が、捕虜となったロシア兵に提供されたなら、その瞬間には、もしかしたら国家間戦争を越えた、もしくは忘れたような、ほんの一瞬がありうるかもしれないなあ……
そんな「生ぬるい」「甘い」想像をうながす効果が、たしかに料理にはあったようです。
2月10日(土)
- 裏アカでいろいろつぶやく。なぜこんなことをポストしてるんだろう? 自分で自分を見る。自分で自分がわからないから、と知る。自分がわからないんだな。それで、裏アカをつくっても、余計わからないわけだが。
- 自分の非実在感。自己の分裂。分裂させて、それで自分を新たにつくっていくような。自分の手で自分をつくる。そうしないと、勝てないぜ。勝つ?
2月1日(木)
- くだらないなあ、と思う。どうしてそうなった? 自分自身の、人間精神を失ってしまった。実存の精神を。重みを。重たい精神を。書くことを。書かないとだめだ。なんにせよ、なにかをごまかそうとも?
- 戦争のメタファーでどうも考えてしまう。専門的で知的でアカデミックな様式なんて、ぼくは知らない。そういうものを気に留めない。たまにつっこまれる。「つなげるな」と。そういうものか、と半ば驚く。自由に連想していく。考えることは、自由だと思っていた。
- 行ったばかりの珠洲の町がめちゃくちゃになっている様子は、ショッキングだった。正月から、災害報道を追った。そのとき起きている精神のありのままを、記述する責務を果たせていない。ありのままに書かないといけない。受け取られようは、第二義的なものだ。そういう態度こそ、容認されなくなっているが。
- つまりSNSは、「伝わりすぎる」。わかりやすすぎる。長文で、「よくわからない」ぐちゃぐちゃした文章(これのような)は、「わからない」から、自分にもわからないものへ接近できる。それだけが有意味のようにも思う。
- つまりSNSは、「伝わりすぎる」。わかりやすすぎる。長文で、「よくわからない」ぐちゃぐちゃした文章(これのような)は、「わからない」から、自分にもわからないものへ接近できる。それだけが有意味のようにも思う。
- ボランティアの問題は、ぼくには、「戦場」のように感じた。「ボランティア迷惑論」とは、「素人は戦場にくるな」というメッセージに翻訳されて聞こえた。じっさい、そのようになるんだろうと思った。戦争がもし、日本で起きたならば。人々は、「素人」と「玄人」をわけるだろう。玄人は上なのだ。「戦場」では、「素人」は怒鳴られようが罵倒されようが、かまってられないのだ。
- だからこそぼくは、それが嫌だった。これがぼくの感想だ。そう感想しているものはしかたない。「間違っている」と言われようが、なんのへちまもない。
- コロナ禍でも似たような感想が生じた。「専門家」というのは、要は司祭階級になる。司祭階級をつくるために、専門家の資格が要求される。ぼくらはそのような資格をもっていない。したがって勘所の議論に参加もできなければ従う以外にない。ぼくはそういうもの……そういう「体制」に調和したくない、とまず思う。
- これは「わがまま」だろうか? かといって「反体制」仕草に染まるのも、逆の意味で体制的はふるまいに思えた。
- だからこそぼくは、それが嫌だった。これがぼくの感想だ。そう感想しているものはしかたない。「間違っている」と言われようが、なんのへちまもない。
- 音楽家は「不要不急」のカテゴリなのだ。サブカルのルールを古色蒼然と守っていても、職人の技術を磨きつづけても、情のつながりを大事に調和を求めても、来るべきときが来れば、決定的な選択をせねばならなくなる。ノンポリもまた政治化される。それも含めて、現実をひっかくために、なにができるか。なにを考えればいいのか。
- 本気でやんなきゃだめなのだ。その「本気」が難しい。ルールの変更、時代の変化が、さまざまな局面で効いていて、結果、ひとびとの無気力とデタッチメントをうながす。「世界を変えるためになにができるか」と、いま、本気で問うことが可能か? そもそも、どこから、どのような場所を目指して、なにをどう変えればよいというのだろう。なにもかもが、宙づりだ。ぼくたちは、いまぼくたちがどんな地面の上に立っているか、それすらもあやふやな状況に生きている。
- SNSで空中戦は、無意味だ。かといって、現実にひきこもるのも、弱い。「現実にひきこもる」というのは逆転した言い方だが、実感にかなっている。ぼくらはもう、ネット上の情報のほうが「上位」の世界観に生きている。
- 「本気の出し方」を新たにせねばならない。どうすればいいか、不明だからこそ、考えつづけないといけない。Xに裏アカをつくった。今後、試験的に運用していく。
1月17日(水)
- こんなにコトバがあふれている時代なのだから、自分の言葉ではなく、他人の、匿名の言葉を引用して
- ヒント類。「自他の区別なく等価にならぶインターフェイス」大谷能生のツイッター論。斉藤斎藤の『人の道、死ぬと町』(これは傑作)。未読だが、山田亮太の『オバマ・グーグル』も。
- 匿名のコメントを拾う。匿名。だがそれは(その作り主は)〝匿名者〟ではないのだ。
- 新年抱負の、スマホ論、粘土やら平面の概念は、東浩紀の「触視的平面」論から発想を得ている。類似の議論はなかなか目にしないので、貴重な論考だ。「スマホ」というインターフェースを相対化し、対象化し、ぼくたちへの機械からの影響を意識化できれば、いま起きている問題、課題も見え方がちがってくる。
- 「引用」によって詩をつくる試み。これによって全体像を見せる。いまの時代の情報環境、言語環境の全体像だ。同時に、そこにおいて、自己自身がいちユーザーに過ぎなく、誰もが他ユーザーと等価の発信受信環境しかもたない。発信したら混じる。具体的には、Xならタイムラインに並ぶ「いちつぶやき」に混じる。ヤフコメでもそうだ。「書くこと」と「読むこと」が等価に近づく。これは大谷能生の指摘したことがら。
- このあたりが、とても重要に感じている。いまの震災にまつわる議論も、SNSの果たす影響はおおきい。いくら「SNSはしょうもない」と言っても無視できないのだ。したがって、別様に転換する試みが要る。
1月15日(月)
- 年明け一発目の日記になる。この間、ぼく個人のことでは、新年会イベント(千葉ANGA)があった。ぎりぎりまで詳細が煮詰められず、ひやひやしたが、結果的に成功した、とおもう。よかった。ほっとした。またやりたい。見てくれた人に感謝。出てくれたみんなに感謝。ANGA、今年もよろしく。
- 「新年の抱負」というのを書いた。正月で時間がとれたから、集中できた。なので、仕事がはじまってリズムが固まってくると、「書くこと」が後退していく。「書く自分」をなんとか維持しないといけない、とおもう。
- 2024年は、波乱の幕開けだった。能登半島地震。昨年11月に行ったばかりの奥能登が被災した。珠洲市の、アートを見て、海を見て、空いた時間にぶらぶら歩いた道が、めちゃくちゃになっている様子を見た。
- この半月のあいだに、すでにいろんなことがあったとおもう。ぼくは、被災者ではない。被災地にもいない。SNS(Xツイッター)で、様々な議論がある……ように見える。でも、二元論に基づいて単調な意見をぶつけあっているだけのようにも見える。こういうときに、なにをどう考えればいいのか。どういう構えでいればいいのか。
- いま、考えなくちゃいけない。整理づかないことを書き連ねよう。SNS(Xツイッター)の議論。「ボランティアは迷惑だ」論。即席的な言葉の応酬。
- ((なにさ。お前こそ即席の集体だろう))
- <<そうなんだ。それが気になっている。即席に応じて即席になったら、詩がなくなっている。詩のスペースが消えた。これが起きていることだ>>
- Xは現場と切れている。匿名の、共同幻想がそこにある。その共同幻想はアテンションの論理に画一化されている。なにを言おうと、どんなつぶやきをしようと、それは「アテンションの論理」に基づき数値化され、結果、損得勘定で受け取られる。一方、Facebookのほうは現場との情報接続が多くあるようだ。実名の閉じたSNSのほうが、災害時に現場活用されている。その現実がある。
- 誰もが、そのプラットフォームのユーザーとして使う限り、アテンションの論理から逃れられない。政治家のパフォーマンスは「政治パフォーマンスの有効性」として受け取られるより、「被災地を食い物に/利用している」との非難対象になる。コロナ禍で「Stay Home」で「なにもしないこと」が「善」だとする風潮が一時期支配的になったが、その影響も底にあるかもしれない。
- ((こういう語り口そのものが、なんの根拠もない、エビデンスのない、思いつきの主観の感想で、本来異なる事象を無理やりくっつけて、知的にだらしない、素人の陰謀論なんだ))
- <<そういうことを言ってのけるやつはいた。「自分の頭で考える」ことは、現在、非難の対象になるらしかった。しかし、現場性と「自分の頭で考える」ことは通じている。自分の主観で現場を見て、それで生じた自己内の感想、これが「考える」ことの重要な発火剤になる>>
- 中央に居座って官僚のもってくるペーパーを読んでいるだけでは、「判断」主体にはなっても一次情報から主観の感想を立ち上げる主体にはならない。伝言ゲームで係る媒介が多いほど恣意性のノイズは増える。みんな、自分の立場を無意識的にも意識的にも守るからだ。都合の悪いことは積極的に言いたくないし、後回しにしたい。でもそのツケはどこかに回る。たいてい低く、弱い場所にいる人々にかかる。
- 動くこと。助け合うこと。他人を信じること。その反対に、他人を疑うこと。不審者を疑うこと。デタッチメントを推奨すること、がある。
権威に寄り添って、弱者に寄り添わない……ということは、あることだろう。- ((寄り添う、ってのはなんだ?))
- <<それは依存する、ってのとはちがう。……人間は、権威にも、弱者にも依存することがある。寄り添うということがあるとするなら、それは依存とはちがう>>
- ((じゃあ依存「させる」ってことか?))
- <<いやそうじゃないが……>>
- パターナリズムが気になるんだ。勝手にやる人はいる。そのすべてを……そもそも自発的な他人を、コントロール可能だとする人間観が気になるんだ。俺はそうじゃない。そうじゃないとおもったね。
- 「〇〇は特権だ」とみんなが言い合ってる感じがあるね。
- ((俺の手元にはなにもなかった 俺は詩を失った……そんな感慨が、うざったい ばかいってんじゃねえ。こんなときに って 後ろを振り向いても誰がいるわけじゃない 誰もいない空間で みんな考えを交換しあってたようだ))
- ((俺の手元にはなにもなかった 俺は詩を失った……そんな感慨が、うざったい ばかいってんじゃねえ。こんなときに って 後ろを振り向いても誰がいるわけじゃない 誰もいない空間で みんな考えを交換しあってたようだ))