2022年 2022年 5月~12月 4月~3月 2月~1月 2021年 12月 11月
12月19日(月)
バースデーイベント、無事終わりました。来てくれたお客さん、出てくれた6組、どうもありがとう。
■
Rife on the Lockを見ていて、「やはりバンドというのは、信頼なんだなあ」と思った。関係がバンドなんだね。そういう音、そういうライブをしていた。いつもそうなんだけど、今回あらためて思ったな。ドラムのタカシさんが、歌ってるんだよね。「歌にあわせる」ってのは、ほんとはむずかしいんだ。イッペーくんのぶれない姿勢と、タカシさんの寄り添う姿勢で成り立っているふたり。俺が以前カバーした『オーディエンス』をやってくれたのもうれしかったな。「聴くひと」を見る、そんな視点の歌。
古木衆は、相変わらず、いいやつだった。『恋』はいい曲だなあ。終わったあと、歌詞について尋ねると、予想外の返答だったけど、やっぱり「歌を聴くってのは聴き手の思い込みでいいんだな」ってあらためて思ったよ。古木のステージ、10年近く見てきたけど、年々しっかりと、深く太くなっていて、すごいなと思う。自宅に防音室設けたのもすごいな。それでも核は変わらないあのままなのもうれしい。曲の解釈はひとそれぞれ。横田くんともしゃべったけど、『恋』の解釈もちがっておもしろかったなあ。
杏仁豆腐とおしるこ太郎は、いつも素敵なステージ。アンドウさんの白い衣装が映えている。中央の黒いトイピアノも風格を出している。「演出」を、こだわってやってくれるふたりだ。『白雪姫ごっこ』などの早い曲もかっこいい。冊子に書いた『月冴ゆる』をやってくれた。あの曲の透明感に、すくわれる。たぶん、歌のなかの「自分」の立ち位置に共感するんだと思う。冊子のほうにはあまり書かなかったけれど、アンドウさんの書いた、自意識のありようが自分の似姿に思えるんだね。
パキラはかっこよかったな。客席ももりあがっていた。バンドの力ってすごいよな。アンサンブルの相乗効果。ベース、ドラム、ギター、歌。どんどこどん。どんがらがっしゃん。きもちいい。きもちがあがる。そういう自然な高揚をもたらしてくれるってのは、えらいもんだ。パキラ、いいバンドじゃん! 知ってたよね。古木にめっちゃ刺激を与えたようでそれもうれしかった。蓑嶋の歌はうおうおだったし優子さんのベースはぶりぶりだったし民子さんのドラムはばかすかだった。
横田惟一郎の安心感ってあるのよね。俺にとって。彼がつくってくれる世界観が、この日も場に通路を設けていく。『ブルドーザー』のごとく……そう、表現する、歌うって、つくることでもあるよなあって思いました。それを聴くことで、受け取ることで、通路が〝とおる〟んですよね。なんだかそんなことばかり考えてきたきがする……とか、今回までの道程を想う。安心感とは、「似たようなことを思って歌ってるひとがいるぞ」と、その都度発見することか。同時代にそれぞれの視点で表現していく。
ジオラマアパートは楽曲がいい。冊子に書いた『フェイクユートピア』も好きだが『窓辺に住む妖精』も好き。ギターのヒサオさんはこの日2度目の出演。ポップなセンスが光るアレンジ。やもりちゃんがMCで語ってた「万葉集」は、覚えてる。彼女はいつも、力強い歌声。冊子に書いたことを反復して聴く。「監督」の所在、判明しただろうか? よくよく考えれば万葉集の時代には「監督」なんておらず、歌は自然に詠われた。「監督」がいる近代世界。「監督」代えるかクビにするか、自分が「監督」になるか?
あとは、俺。トップにソロ、ラストに定住ボーイズで出演。とにかく俺がいいたいのは、「やりたいことやりたいようにやれ」「いいたいこといいたいようにいえ」ってことだけど、それは自分にいってるんであって、自然とできてたらいってない。まだこの旅は、完結しない。すごろくは「あがり」ではない。何度振っても「1」しかでなくても、たまに「6」が出てうかれてしまったあとでも、サイコロを振りつづけるかぎりすごろくはつづく。「通路」も「監督」も、これからつくっていけるんですね。自然にできるはずのことが、なぜかうまくできないでとまどう。この世界に、まだ未踏の、監督されていない通路がある。さあ、その道をいく。歌いながら。道のとちゅう、迷うとき。あしどりが聴くひとに、わかるように。
■
ソロ活動をはじめて12年、自分が「この自分」になった場所。それは、千葉ANGAもそうだし、音楽茶屋ごりごりハウスもそうだ。千葉LOOKもそうだし稲毛K'sDreamも、下北沢Lagunaも、440も、北初富Handwired Garageもそうだ。ライブハウスというのは、さまざまな経験を、種を、あたえてくれる場所だった。そのなかで、自然と、「新松戸FIREBIRDで誕生日を迎えよう」ということになった。
俺がこれからやることは、すべて反面教師でもいいと思う。って、半分つよがりだけども。でも「監督」ないし「ルール」みたいなことを考えるなら、反発形成も必然なのだった。それ以前に、無視されないことを意識したほうがいいだろうけどな。
あんまり大げさにしてもしかたない。だけど、ちぢこまってるだけじゃあ無意味だ。それに、おそらく、あんまり、猶予もないんだ。
配った冊子、どう読まれたか、読まれないか、わからないけど、とにかくああいうものをつくって届けられてよかった。そう思えた。
■
最後に、さらに、ほんとうに個人的な背景ですが、書いておきます。
ちょうど6年前にやったおなじ新松戸FIREBIRDでの30才バースデーイベント。イベントおわり、無事30才をむかえ、翌日の朝。スマホでツイッターをみていると、訃報が目に入った。知人のミュージシャン、行司光くんが亡くなった知らせだった。
それ以来、俺は、「生きるに値する世界ってなんだろう」ってことを考えるようになった。また抽象的ないいかたをしてるけど、実際、そのことを意識するようになった。
偶然が人を生かすこともあれば、そうでないこともある。俺の場合、「この自分」になった場所が、ライブハウスだった。自分を生かす出会いがあって、変化することができた。
生きるに値する世界。「生きたい」と思える世界。ほんの小さなスケールでなら、その条件を、整えることはできるんじゃないか。そんな思いがずっとあった。
「具体的にはなにするの?」の部分が、いつでも問題ですけどね。でも、こんなマイペースであっても、やってきてよかったなあと思う。やりつづけていなかったら、これからできることの、その可能性もなかった。
冊子をつくったのもそうだけど、すこしちがう角度から、音楽に向き合うようなことも、これからやっていきたいと思っています。
さて、次はワンマソです。
来年は、より動いていきたい。
「生きるっておもしろいな」と思えたらいいなあ。そんな世界をみせられたらいいなあ。
そんな念願をかかえながら、やっていこうと思います。
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Rife on the Lockを見ていて、「やはりバンドというのは、信頼なんだなあ」と思った。関係がバンドなんだね。そういう音、そういうライブをしていた。いつもそうなんだけど、今回あらためて思ったな。ドラムのタカシさんが、歌ってるんだよね。「歌にあわせる」ってのは、ほんとはむずかしいんだ。イッペーくんのぶれない姿勢と、タカシさんの寄り添う姿勢で成り立っているふたり。俺が以前カバーした『オーディエンス』をやってくれたのもうれしかったな。「聴くひと」を見る、そんな視点の歌。
古木衆は、相変わらず、いいやつだった。『恋』はいい曲だなあ。終わったあと、歌詞について尋ねると、予想外の返答だったけど、やっぱり「歌を聴くってのは聴き手の思い込みでいいんだな」ってあらためて思ったよ。古木のステージ、10年近く見てきたけど、年々しっかりと、深く太くなっていて、すごいなと思う。自宅に防音室設けたのもすごいな。それでも核は変わらないあのままなのもうれしい。曲の解釈はひとそれぞれ。横田くんともしゃべったけど、『恋』の解釈もちがっておもしろかったなあ。
杏仁豆腐とおしるこ太郎は、いつも素敵なステージ。アンドウさんの白い衣装が映えている。中央の黒いトイピアノも風格を出している。「演出」を、こだわってやってくれるふたりだ。『白雪姫ごっこ』などの早い曲もかっこいい。冊子に書いた『月冴ゆる』をやってくれた。あの曲の透明感に、すくわれる。たぶん、歌のなかの「自分」の立ち位置に共感するんだと思う。冊子のほうにはあまり書かなかったけれど、アンドウさんの書いた、自意識のありようが自分の似姿に思えるんだね。
パキラはかっこよかったな。客席ももりあがっていた。バンドの力ってすごいよな。アンサンブルの相乗効果。ベース、ドラム、ギター、歌。どんどこどん。どんがらがっしゃん。きもちいい。きもちがあがる。そういう自然な高揚をもたらしてくれるってのは、えらいもんだ。パキラ、いいバンドじゃん! 知ってたよね。古木にめっちゃ刺激を与えたようでそれもうれしかった。蓑嶋の歌はうおうおだったし優子さんのベースはぶりぶりだったし民子さんのドラムはばかすかだった。
横田惟一郎の安心感ってあるのよね。俺にとって。彼がつくってくれる世界観が、この日も場に通路を設けていく。『ブルドーザー』のごとく……そう、表現する、歌うって、つくることでもあるよなあって思いました。それを聴くことで、受け取ることで、通路が〝とおる〟んですよね。なんだかそんなことばかり考えてきたきがする……とか、今回までの道程を想う。安心感とは、「似たようなことを思って歌ってるひとがいるぞ」と、その都度発見することか。同時代にそれぞれの視点で表現していく。
ジオラマアパートは楽曲がいい。冊子に書いた『フェイクユートピア』も好きだが『窓辺に住む妖精』も好き。ギターのヒサオさんはこの日2度目の出演。ポップなセンスが光るアレンジ。やもりちゃんがMCで語ってた「万葉集」は、覚えてる。彼女はいつも、力強い歌声。冊子に書いたことを反復して聴く。「監督」の所在、判明しただろうか? よくよく考えれば万葉集の時代には「監督」なんておらず、歌は自然に詠われた。「監督」がいる近代世界。「監督」代えるかクビにするか、自分が「監督」になるか?
あとは、俺。トップにソロ、ラストに定住ボーイズで出演。とにかく俺がいいたいのは、「やりたいことやりたいようにやれ」「いいたいこといいたいようにいえ」ってことだけど、それは自分にいってるんであって、自然とできてたらいってない。まだこの旅は、完結しない。すごろくは「あがり」ではない。何度振っても「1」しかでなくても、たまに「6」が出てうかれてしまったあとでも、サイコロを振りつづけるかぎりすごろくはつづく。「通路」も「監督」も、これからつくっていけるんですね。自然にできるはずのことが、なぜかうまくできないでとまどう。この世界に、まだ未踏の、監督されていない通路がある。さあ、その道をいく。歌いながら。道のとちゅう、迷うとき。あしどりが聴くひとに、わかるように。
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ソロ活動をはじめて12年、自分が「この自分」になった場所。それは、千葉ANGAもそうだし、音楽茶屋ごりごりハウスもそうだ。千葉LOOKもそうだし稲毛K'sDreamも、下北沢Lagunaも、440も、北初富Handwired Garageもそうだ。ライブハウスというのは、さまざまな経験を、種を、あたえてくれる場所だった。そのなかで、自然と、「新松戸FIREBIRDで誕生日を迎えよう」ということになった。
俺がこれからやることは、すべて反面教師でもいいと思う。って、半分つよがりだけども。でも「監督」ないし「ルール」みたいなことを考えるなら、反発形成も必然なのだった。それ以前に、無視されないことを意識したほうがいいだろうけどな。
あんまり大げさにしてもしかたない。だけど、ちぢこまってるだけじゃあ無意味だ。それに、おそらく、あんまり、猶予もないんだ。
配った冊子、どう読まれたか、読まれないか、わからないけど、とにかくああいうものをつくって届けられてよかった。そう思えた。
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最後に、さらに、ほんとうに個人的な背景ですが、書いておきます。
ちょうど6年前にやったおなじ新松戸FIREBIRDでの30才バースデーイベント。イベントおわり、無事30才をむかえ、翌日の朝。スマホでツイッターをみていると、訃報が目に入った。知人のミュージシャン、行司光くんが亡くなった知らせだった。
それ以来、俺は、「生きるに値する世界ってなんだろう」ってことを考えるようになった。また抽象的ないいかたをしてるけど、実際、そのことを意識するようになった。
偶然が人を生かすこともあれば、そうでないこともある。俺の場合、「この自分」になった場所が、ライブハウスだった。自分を生かす出会いがあって、変化することができた。
生きるに値する世界。「生きたい」と思える世界。ほんの小さなスケールでなら、その条件を、整えることはできるんじゃないか。そんな思いがずっとあった。
「具体的にはなにするの?」の部分が、いつでも問題ですけどね。でも、こんなマイペースであっても、やってきてよかったなあと思う。やりつづけていなかったら、これからできることの、その可能性もなかった。
冊子をつくったのもそうだけど、すこしちがう角度から、音楽に向き合うようなことも、これからやっていきたいと思っています。
さて、次はワンマソです。
来年は、より動いていきたい。
「生きるっておもしろいな」と思えたらいいなあ。そんな世界をみせられたらいいなあ。
そんな念願をかかえながら、やっていこうと思います。
12月12日(月)
- 歌を聴いて、その聴いた経験を文章に書く。そんなことなんだけど、それが「うまくいく」ときと「うまく入れない」ときがある。これも一種の修練で、毎日継続的にやっているとすぐ入れる。数日間を置いて入ろうとすると、うまく入れない。集中できない。聴く訓練。聴くことは、能動的な行為なのだ。聴いて、音と歌を自分のなかに入れて、その種を自分の土に植えて、水をやって育てた実を見つめる。その実の形を書く。この一連の作業が、うまく流れない。まず、種がうまくつかめない。ぼうぼうと、音だけが聴こえて、そのなかの感情や風景にうまくアクセスできない。感情も風景も、自分のなかに膨らまさないとだめなのだ。けっきょくは、自分の感想である。感想とは、自分のものなのだ。
- 成熟という言葉を久しぶりに聞いた。成熟への道。成熟を、意識すること。成熟社会。個人の成熟……。
- 成熟するには、全体性が必要だ。総合性だ。老いること。ちゃんと老いること。老いない、永遠に若い、永遠に未成熟……。
- 成熟に至る、それには……「言うこと/歌うこと」よりまず「聴くこと」が、復興されないといけない。聴きたい。聴くことを、欲望する。「聴きあう」世界を欲望する。そんな世界が、好きなんだ、っていう……。お尋ねする。聴く。言っていることを聴く。言っていない、沈黙の、だまったまんまのその人の、無口な言葉を、聴く。「言う世界」と「言わない世界」は、あなたのなかで、分断されているか。「分断されて、いるんだから、こっちにきて、くれないか」……つかめない、ようなのを、だんだんつかむ。だんだん、聴いて、その意味が、わかるような。聴いて、そこで聴いた言葉が、なんの意味なのか、ほんとうは、なんだったのか、あとになってわかるような。誰にでも、言えない言葉がある。その「言えない言葉」を、おもてに提示するために、歌うことがあったか。言葉以前の言葉を聴きたいので、あなたの歌を聴いた。しかしわからない。まだわからない。わかるのは、自分のことだけだ。自分の似姿を、そこに見つける。似姿は、わかるもののように思えた。しかし自分にふれているようなのは、あなたにふれていることと同じなのか、わからなかった。こちらにはまだ、育つ種が限定された土しかなく、あなたの種があなたらしく育ったかわからない。ただ自分が育てられるように育てたにすぎない。そのことを自分で気をつけながら、あなたの歌を聴く。あなたの歌わない言葉のほうが、あなたに近かったのでないか。それは自分もそうだったかもしれない。言いたいことを言ったときに、その言葉が自分をあらわさないあり方を、僕はしていたように思う。
11月18日(金)
- 人にはそれぞれ固有の方法があるんですよ。だからぼくにはぼくのそれでいい。あなたにはあなたの、っていう。
- お金を出して見に来てくれるのだから、まず最低限の対価は提供しなくちゃいけない。
- 「学校」じゃないんだ。「先生」でも「生徒」でもないし、「親」でも「子ども」でもない。
- ここらへんにあらたな壁が現出してあるよなあ……。
- いまいろいろ大変な時代じゃないですか。うかうかしてると、これは「まいったなあ」ってことになる。「うかうか」はあると思うんですよ。うかうかばっかりで。30年後とかに「あのころはまだなんとかなったのかもなあ」なんて歴史がぼんやり浮かんだりしないですかね。いや50年後とかかもしれない……。それは、身近なことでも遠いことでも。「遠い」っていうのも、なんだな。
- とにかく最近は、あらゆるものがバーチャルになっていて、実感と現実がかみあってない気がしてしまっている。「こんなに人が死んだ」「ふうん、そうかあ。じゃあ今度はこっちが有利になってきたんだなあ」。それは、現実の認識というより、ゲームの認識に近いような……。そういうことを、人がしゃべっているように見える。SNSの影響かもしれない。SNSは、ひとつのゲームかもしれない。そのゲームと、「戦争」のような現実が、組み合わさったときに、こういうふうになると……。でもそれって、かつても、新聞やラジオを媒介にして起こっていたことかもしれない。バーチャルになるほど、人は残酷になれるような……。
- 50年後。「遠いですね」。でも近いところからはじまる。やがて遠くなる。「あれ?」という感じを、おおくもつ。もはやなにも具体的に書かない/書けないわけだが、違和感は、ありますよね。いろいろな事象に。ただなにも言わないだけでもっている。「なんか変だな」と。ただそれを逐一指摘していても、どうにもならないし、なにかな……。「生む力」みたいなものに飛んじゃう。そうしないと、たしかになんにもならないような。
- コロナ禍はどうなるだろう。修学旅行にいっていたら陽性者が出てそのまま旅行中止になった、なんて話をテレビでやっていたが……。コロナという病気そのものが問題なのか、社会的影響のほうが問題なのか、そうした議論も、あるところで止まったまま現実は変わらずきてしまったような。つまり、思考停止して現実を変えないことを、選択したってことだよな。
- 具体的に、ライブの現場においても、「声出し」とか、そういうところにいまだ賛否がわかれている。やってるこっちとしても、コール&レスポンスをもとめるか否かって、いつも迷うんですよね。
- 個人的には、いやほんとうはそういう人がおおいと思うけど、「ご遠慮ください」ってのは、好きじゃない。遠慮をはずして自由になるためにライブハウスに入ったのに、遠慮しろとはどういうことだ、となってしまう。そういうことをつづけていると、根本的におかしくなる予感があったんですね。
- しかし、といって、選別してしまう状況も生みたくない。「遠慮するな」という強制もまた人を分ける。人を分けず、むしろ分かれていたものをつなげるにはどうしたらよいか。
- 「酒のもうぜ」「でもなんかあったら、あとあと大変だよなあ」……と、やりたいことができないままでは、だめになっていってしまう。みんな、自分のなかの倫理をもっている。正しさを。それは、ひとつの結論で統合できない。ばらばらである。ばらばらのまま共存するにはどうしたらいいか。
- 時短のときのように、「ライブは音楽が本質だから、酒はいらないよ」とすぐ帰ってしまうのは、いまでもひとつの正しさとしてあるんだろう。逆に、「打ち上げふくめてライブだ」というのも、ある。両者の立場を対立的にとらえるのでなく、共存的に、矛盾せず流すものとしてとらえる。そういうふうにしかならないだろうなと思う。「残りたい人は残ってくれ」しかないんだけど、でもそこには「残る理屈」もあるんだよとは言える。「そういう言い方のみができるよ」、という言い方には到達しないといけない。でないと、「生む力」とか、空理ですよね。いや、それができても空理は空理だけど、まだすがれる空理になるかどうかだろうか。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
- 「俺にしか書けないこと」ってあるんですよね。いや俺にかぎらず、どんなひとでも自分固有の体験がある。そうだし、俺の場合は、また俺の場合の、来し方があり、それを書くことは、なにか役割としての意味もあったり、なかったりとか。
- コロナ禍。2020年の3月4月5月に、ライブをやっていたのは限られた人だった。それに、やっているハコがなかった。新松戸FIREBIRDはやってたんですね。そこに出られたのは、幸運だったといえるし、ならそれについて書き残しておくことは、「役割」としてありうるよね、といえばいえる。
- バースデーイベントとワンマソで、なにを提供できるかっていえば、そこに音楽以外のことも含まれていく。「提供」という感じにとどまらかもしれないが、残さないと残らない。そんなことがたくさんある。現に残らず消えているもの。「別に残さないでくれていいから」みたいな、顔つきもわかる。とはいえ、むしろそれは後続世代にとっての有意味さに関わってくる。文化はあるのかないのか。そこに、なにかがあったのか、なにもなかったのか。「あった」と数えるほうに、身を置くならば、自分が数える人にならなきゃいけない。具体的に数えたものをつくり、残さなきゃいけない。しかしまあ、できることはささいなレベルにとどまるというか、考え方だけは立派になりそうだが、ささいなことを大仰に頭でっかちにやって、ああ、っていうね。
11月17日(木)
- いつも通りの書き捨て系です。
- ワンマンとかね。なんかそろそろ俺も自己開示してね。「自己承認」とかいらないじゃないですか。みたいな……。
- SNSでは「自分がどう見られるか」ばかりを意識させられちゃってね。こう、バランスを日常的に維持するには難儀です。まったく別種の時間が豊富にあったほうがいい。
- とにかくね、「生む力」みたいのにつなげないと、意味がない。なんかこう、自然に「自分に閉じ込められちゃう」感じがするけど、それは自分の特性なのか時代の傾向だからなのかわからない。「生む力」は他者との「お互いを変化させあう関係」からでてくるからね。まあ嫌われてもいいんで、「提供」しないといけないわけですよね。それはパターナリズムも肯定していくんでしょうか。で、反発形成もふくんだ「提供」じゃなきゃ、ちょっとあとになって自分で「話が違った」ってなことになるんで、はじめから「好きな女の子にふられる契機」を自分に飼っておいたほうがいい。……なんかいろいろ言ってますが、こう、いろいろ言っていきたいし、そうでなきゃ、意味がなくなっちゃうよって実感にまみれているわけですからね。
- 「好きな異性にふられる経験は神の契機だ」って話があって。それ好きな話なんですが、逆にふった側の異性は「野獣に近い」んだっていうんですね。
- 「自分で自分に思い違いすると後で痛い目をみるよ」ってことがある。若いうちでも。でもその「痛い目」も神の契機っちゃそうなんだけど。
- こういう、話にもならない話をたくさんね、言ってもしょうがないんだけど。なんの情報価値もないようなね。ことだからね。じゃあなんだって、書いて考えるために書いてるっていうような。
- ひらたくいえば、ワンマンは、「見る人がなんか役立った」ってものにしたいんですね。なんかおこがましいのかなそれも。なにを伝えるか、じゃないですか。で、沼田はいまなにを伝えたいのかと。いろいろあるんですよ。で、「いろいろ」ってなんなのかと。音楽だけじゃないというか、音楽と言いたいことがセットであるはずなんですね。それをセットにしていくとどんどんふくらんでいく。ワンマンだからできる、提供があるはずなんで、それをやりたい、というかやんなくちゃいけないわけですよ。それは「ぼくがいままで考えてきたこと」ってことになるはずで、コロナ禍のこともあるし、過去のバンド時代のこともあるだろうと。あとはもうちょっと具体的なというか、技術論めいた、「ぼくなりの音楽する方法」も提供して、邪魔じゃなければいいわけで。
11月16日(水)
- いやあ、昨夜のニューマツドロックショーね。楽しかったです。見にきてくれたかた、対バンしてくれたかた、ハコのスタッフ、ありがとうございました。定住ボーイズ、7回目のライブ、バンドがバンドになっていく。新曲もつくってて、もう、直前に送るんですね、ぼくが。それだから、メンバーからしたら大変です。そういうのも、今回はあえてやった。ちょっと、やっぱり、遠慮してちゃいけないなと。自分には自分の、役割があって、メンバーにはメンバーの役割がある。それを信じる、みたいなこととつながるのかもしれない。「信じる」ってのはなかなか高度な関係性だろうか。「信じる」が崩れて、バンドが離散する、そういうケースもおおくみた。バンドというのは、だから、人間と人間の関係する、ある独特の方法だ。そこには未だに可能性がある、とぼくにはおもえる。人間と人間が、関係しあいながら、どう共同の表現をやっていくんだろう。その方法の、その可能性みたいなこと。そういう「きれいな」理想みたいなことが、たしかにバンドにはある。いまみたいな時代には、特に、バンドがバンドとしてあること自体が、抵抗じみた発色があるああ。
- SNSもある。Twitterもある。だがこの、どうでもいいことを気ままに、自分勝手に書ける場所があることが、自分になにかの効用をもたらす。そんな感。それってでも、「毒」でもあるから、ますます無毒なこの現代社会の風潮においては、忌避されがちなスタイルかもしれない。でもって、忌避されがちなことも含んでやってかないといけないと思っている。「忌避されないこと」だけをさいしょからやろうと思ってたら、表現はそのうちやせほそっていく……だろうと。「だけ」だとね。どっちにしてもバランスって大事だよなと最近は思えてきたころ。
11月8日(火)
- 久しぶりに書く。書くこと。書いて反省意識を醸成しないとどうした、という意識があるわけなんですが。
- 今日対バンした日々かりめろさんもVERONICA VERONICOもよかった。よかったんですよ。「自分にはできない、素敵なことをやってるなあ」と思えて。越谷ごりごりハウスも、終演後の話の流れでも、「もっと貢献できるようにがんばりたい」と、思えて、やはり反省した。
- 自分のためなのか店のためなのか、なんの「ため」なのか、と考えるけれど、人を呼ぶ理由はその呼ぶ人のためが第一なはずなんだ、と思う。たぶん、ぼくとしては、替え玉するようなのが違和感があったのだ。替え玉とは、ここで、目的をつけかえることだ。
- 「俺のためにきてくれ」といいづらかった。「店のためにきてくれ」でもおなじだ。人に対して「他人のために生きてくれ」というようなのは。ところがどっこい、みみっちい。それらぜんぶが。「〇〇のために〇〇してくれ」。べつに人間、それでもいいのだ。
- ……
- 音楽、音楽、音楽。音楽を、見る聞く話す。もっと音楽に興味をもつには、どうしたらいいんだろう。それは俺の話だ。「音楽の周辺の話」ばかりになって、「音楽の中身の話」をしないでおわる。みたいなこと。単に、コミュニケーションではない、音楽の孤独なありようを、見つめてふれていればいいのだ。ライブはしかし、コミュニケーションだ。それは、悲しくなるくらいそうだった。なので、僕らはたんまりと、コミュニケーションにいそしむのた。それでこそ一人前のミュージシャン/バンドマンだ。
- いやあ、なんというか。リアルリアル。「よくできました〜」って、声が聞こえてくるよ。いま終演後のごりごりでこれを書いている。日記はだから日記なのである。音楽の人の話を聞いていると、「僕らはどこから来て、そして最後、どこへ向かってゆくんだろう」と感じるときがある。そこには根本的な問いがある。その問いには答えようとする気があるか、ないか。その問いに答えないかぎり、なにも解決しないじゃないか。そう思っている自分もいる。そう思っている自分に対して、じゃあお前どうすんだ、と問う。
- いやちょっと眠いな、いま……それにしても。それにしても眠いな。おかしいな。なにを書こうとしてるか、ようわからんが、なんか書きたかった。ねむい……。
10月4日(火)
吐きそうだ。いろいろやんなきゃならん。
9月22日(木)
寝た起きたそれでいまこうしている音楽とサブスクの関係ね……川本真琴氏のツイートに端を発して……音源だけをぽっとサブスクにあげてSNSで「聞いてください」といってもどれだけ聞かれるかフィードバックもない……自由というのはだから「ほっておく自由」だけではなくその逆の発想もできるだろう作り手が前のめりで。それ経済の問題でもあるし文化の問題でもある文化とはそれが人間の生活人生活力社会公共反公共ふくむ全体に関わるもの非常に人間的なものであるはずで、ここに「責任」という概念が重要な響きをもっていまぼくの頭に響いています。責任とは。責任がないとね聞く責任、歌う責任……なんじゃそりゃ。んなもんないよ。無責任だよ文化は人生は人類はってそういうことにはいかないんで人間は責任を請け負う。自動運転で事故したらAIは責任を請け負うかどうか自動車会社か運転手か。責任主体としての人間をどうもひっかかって考えたいとおもってるんですね。それはつまり、自分が歌うにいたった経験の時間を伝達するということに近づいてくるしそれは……いま一番考えるのは暴力と表現の話で。テロと芸術表現のあいだをわけないといけない。それは……あの、彼は自分の時間経験を表現しえなかったとみなす。自分の力で、自分の言葉で、そう言葉、言葉で自分を表現することを放棄し、暴力でこれを表現すること、それ自体が、その選択自体が、ぼくには敗北の風景に、敗北の人間像にみえた。ぼくはそう言って、そうじゃないことを、この言葉でもって、やろうとしているんだ。その自負自恃があるべきだ〝君たちなにをぼくに言っても〟そうだ自虐を迷惑だとみなす言説記事をこないだ読んだそれはそうした自恃をしりぞける態度にぼくにはみえるそうしたものじゃないものをぼくはたいせつにおもう
9月17日(土)
・暗さの自由が必要だ。率直にそうおもう。
・もっと自分を傷つけるべきだ。
・LEDのような明るさを、いくら設置していても、人間の暗さを照らさない。けどそれは顔面を照らすので、それで心も明るくなれると錯覚することはできる。そろそろ、それは、嘘だったと知るべきである。
・明るくないと、人の顔が見れないか。暗視しろ。心というのは、目をつむったほうがわかるのだ。
・いま、こことは別の日記を書いてたんだけど、昨日も稲毛K'sDreamでライブで、「俺はモテないなあ」と思った。そんなふうなことを書いていた。ライブをやってぼっちになることはよくあるんですね。それはそうなんですが、たとえばこれをSNSに「ライブだった。しかしモテない。ぼっち。さみしい」なんて書き込んだら「大丈夫だよ!モテてますよ!」とコメントがつき、「いいね」もつき、癒やされるのかもしれない。そうじゃなかったら(そこでも反応がなかったら)もっと絶望的な気分になるだろう。
ところが、そういうのがよくないきがした。共同体から逃れて、ひとりの空間にいくべきときに、安易にべつの(?)共同体にはげまされたりすることの。いや、けっしてそれは悪いことではないだろう。けれどやはり、それではなくしてしまうものもある。ひとりでずんずん、暗くなりつづけること。悩み葛藤しつづけ、考えること。他人から救われること、他人を救うことが、それが早すぎる場合、いいこととはかぎらない。ひとりで暗さのなかへ向かう勇気、時間、空間が重要で、それが実践され示されなければならない。逆説的に、思う存分暗くなる自由が、自分を嫌悪し否定しきることが、真の肯定にいたる回路なのだ(いいかえれば、「自己否定を肯定する」とか、そういうことね。ややこしいけど……)。てか、文学ってそういうもんだった。ぼくは別に文学者じゃないが、文学的であることは重要だ。それは人間性にとってとても重要だ。絵を描く人でも音楽やる人でもそうだ。誰にとっても、自分が人間であるかぎり、暗さはついてまわる。その暗さを、ネガティブにとらえすぎないでよいのだ。ただそれは「暗さを明るくする」という話ではない。暗いものを暗いまま、表現する自由。暗いなかにもぐり、暗視する眼を持つこと。人間というものをよく理解するには、そのような営みが必要なのだ。
・いまは、「暗さを否定する時代」じゃないでしょうか。それはぼくには、危険なことのようにおもえる。その兆候もあきらかだとおもう。
・あと、「モテる、モテない」とかはまさに嫉妬の問題だけれど、いまはこの嫉妬も簡単に「ああ、嫉妬ね」でしりぞけておしまいにしてしまう。そうではない。嫉妬、めちゃくちゃ深い。人間の歴史における嫉妬がはたした役割はすさまじい。なので、嫉妬といった感情も、もっと見つめないとしょうがない。いまからの時代は、全体的に、人間であることを守らなくちゃいけない。人間がもっと浅く、簡単に処理可能で、なんなら数値化可能な存在になろうとしていないか? そっちはまずい。いやだ。なので抵抗する。負け戦かな? しらんけど、おれはいやなんだよ。それしかない。そして、自分より若い世代、子や孫の世代が、どうであるかをおもう。人間らしさとは、なんだろうか。なんだとおもいますか? 人間らしい人間が、つづいてほしいとぼくはおもう。
・もっと自分を傷つけるべきだ。
・LEDのような明るさを、いくら設置していても、人間の暗さを照らさない。けどそれは顔面を照らすので、それで心も明るくなれると錯覚することはできる。そろそろ、それは、嘘だったと知るべきである。
・明るくないと、人の顔が見れないか。暗視しろ。心というのは、目をつむったほうがわかるのだ。
・いま、こことは別の日記を書いてたんだけど、昨日も稲毛K'sDreamでライブで、「俺はモテないなあ」と思った。そんなふうなことを書いていた。ライブをやってぼっちになることはよくあるんですね。それはそうなんですが、たとえばこれをSNSに「ライブだった。しかしモテない。ぼっち。さみしい」なんて書き込んだら「大丈夫だよ!モテてますよ!」とコメントがつき、「いいね」もつき、癒やされるのかもしれない。そうじゃなかったら(そこでも反応がなかったら)もっと絶望的な気分になるだろう。
ところが、そういうのがよくないきがした。共同体から逃れて、ひとりの空間にいくべきときに、安易にべつの(?)共同体にはげまされたりすることの。いや、けっしてそれは悪いことではないだろう。けれどやはり、それではなくしてしまうものもある。ひとりでずんずん、暗くなりつづけること。悩み葛藤しつづけ、考えること。他人から救われること、他人を救うことが、それが早すぎる場合、いいこととはかぎらない。ひとりで暗さのなかへ向かう勇気、時間、空間が重要で、それが実践され示されなければならない。逆説的に、思う存分暗くなる自由が、自分を嫌悪し否定しきることが、真の肯定にいたる回路なのだ(いいかえれば、「自己否定を肯定する」とか、そういうことね。ややこしいけど……)。てか、文学ってそういうもんだった。ぼくは別に文学者じゃないが、文学的であることは重要だ。それは人間性にとってとても重要だ。絵を描く人でも音楽やる人でもそうだ。誰にとっても、自分が人間であるかぎり、暗さはついてまわる。その暗さを、ネガティブにとらえすぎないでよいのだ。ただそれは「暗さを明るくする」という話ではない。暗いものを暗いまま、表現する自由。暗いなかにもぐり、暗視する眼を持つこと。人間というものをよく理解するには、そのような営みが必要なのだ。
・いまは、「暗さを否定する時代」じゃないでしょうか。それはぼくには、危険なことのようにおもえる。その兆候もあきらかだとおもう。
・あと、「モテる、モテない」とかはまさに嫉妬の問題だけれど、いまはこの嫉妬も簡単に「ああ、嫉妬ね」でしりぞけておしまいにしてしまう。そうではない。嫉妬、めちゃくちゃ深い。人間の歴史における嫉妬がはたした役割はすさまじい。なので、嫉妬といった感情も、もっと見つめないとしょうがない。いまからの時代は、全体的に、人間であることを守らなくちゃいけない。人間がもっと浅く、簡単に処理可能で、なんなら数値化可能な存在になろうとしていないか? そっちはまずい。いやだ。なので抵抗する。負け戦かな? しらんけど、おれはいやなんだよ。それしかない。そして、自分より若い世代、子や孫の世代が、どうであるかをおもう。人間らしさとは、なんだろうか。なんだとおもいますか? 人間らしい人間が、つづいてほしいとぼくはおもう。
9月4日(日)
- 宗教差別は、いけないって思う。普通に自然にそう思います。いまの社会の風潮はおかしい。
- ((で、その「おかしい」って声を、どうすんのさ……))
- リベラリズムを放棄したリベラルに存在価値はあるだろうか。
- 「いまの社会の風潮はおかしい。いきすぎてる」そうだ。毎日そう思ってる。で、それをどうしたもんか。ツイッターで見えるコトバの応酬に、自分を投じても、その先になにも見えないこと。
- テロ、政治、信じること……音楽とそれらは無関係ではない。政治に支配されないために、政治に言及する態度がある。政治に従属する音楽であってはならない。政治のシンプルさと、現場の複雑さは次元が異なる。音楽を信じることがなくては音楽はなくなっていく。テロや暴力を肯定すれば音楽の空間は守られなくなる。そういう当たり前のことが、どんどんと後退していることに、危惧をおぼえる……とかいう、悠長な言葉でいいのかわからないが。とにかく、普通に、やらなきゃいけない。無自覚のまま、自分の領域を破壊していることに、その当事者こそ気づかないことがある。そうして、気づいたあとは、責任をとらないことに重心がおかれる。無自覚な悪に対して、責任者であれるように、社会のなかの人間はできていないのかと、ここでうろうろして立ち止まるんだけど、なにやってんのかねえ。どうでもよかったのかもしれない。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
- ははは。まあ、そういうことでさ。
- 「立場」ってのは曖昧を許さないもんで、厄介ごとが度重なる。
- てか、普通に考えて、このページになにを書けるのだろう。アクセスだけなら誰でもできる。読もうと思えば誰でも読める。でもまあ、別に誰も読んでないだろう、と。とはいえ、そこの部分より、どこまで「公」でどこまで「私」なのかというバランスが、よくわからない。そのへんは曖昧なのだ。「場」によって内容は変わる。SNSならわかりやすい。
- なにに向かって書いているのか、はっきりわからない。日記ということになってるが、日記でもない。そもそも日記を公開したいとも思っていない。じゃあ考えてることが書いてあるのか。そうでもない。書いているうちに考えが進んでる雰囲気も希薄だ。
- ちょっと、無意味に書いてもしょうがないよな。緊張感がなく、「どうせ」の意識になっていることだ。つまり真面目になりきれてない。責任意識もはいりこまない。ひとことでいえば、気合いが入ってない。
■
- SNSでなにか意味のあることを言うことが、結果的に良い影響をもたらすのかどうか。そこのところに疑念が、以前にも増して湧いてきた。けっきょく対立を煽るだけではないか。いまの国葬や宗教団体の件も、「賛成」「反対」と二元論で短文投稿したところで、感情だけを刺激し、相互に考えさせるはたらきをもたないような。
- ほんとうは、だから、こうした旧来のHPやブログでもって、自分のまとまった考えをある程度表明しておきたいと考えた。このページがあるひとつの理由がそこだ。とはいえ、まっすぐに「政治的意見」なんて書いても、これまたどうもつまらないように思える。もっとこう、コンビネーションが必要ってことだろうか。素振りとか。無意味な素振りについての記述がないといけない。俺は素振りを毎日何回やってんだと。そんな情報どうでもいい。猫はかわいいね。猫の写真は万能だ。猫に頼る。
- 最近、びみょうに「書きもの」から遠ざかっていたので、そのへんのね、軽重の出し入れができにくくなってる。夏は暑い。でももう9月だ。季節も変わっていく。なにもしなくても勝手にうつりゆく。止めることはできないのです。
- なんというか、いくつも「罠」がはりめぐらされていて、イシューに言及しようとするとひっかかってしまう感じだ。「国葬、いいんじゃない、やれば」と賛成の意を示したなら、それは同時に付随した属性めいたものをひっぱってくる。めんどくさいね。重いんだだから。その「罠」が厄介な問題だ。ぼくたちは政治を普通に語りあえる環境をもっていない。政治を語ることが、即なにかのリスクに結びついている。あるいはメリットにも結びついている。
- 「政治」、というものが、そもそも厄介なので、反政治の立場から政治に言及しよう。そうか。それは、どんな感じなの? 現実は複雑だ。今日、そのことについて気づいた。遠近法だ。遠いものはだいたいしかわからない。近いものは余計なものまでわかる。遠いと単純、近いと複雑だ。その遠近を越えて、心のなかに住まうようになると、自己愛の対称的疎外としてイメージが立ち現れるようになる。政治は遠いところから、ひとりひとりの顔をぬりつぶす。「あいつは〇〇だから●●である」などといっしょくたにする。それは、文学や音楽の立場とちがうんだ、とぼくは思っている。その「政治と音楽」の関係を自分なりに考えておかないと、うっかり足をすくわれる。お気をつけ。
- やっぱり、導線をひかないとだめである。「具体的に誰か読む」緊張感が必要だし、顔をイメージできないと空虚になるばかり。となると、こういうずらっと書き連ねたページのつくりでは不適当になるが。
9月3日(土)
- ワタクシゴトがまるでだめなので、ワタクシゴトをおしすすめて。
- 世間の風潮は、これはわからない。「政治的意見」なるものが、ぼくのくちから出ようが出まいが、それがどうしたことだろう。
- 音楽は、それを信じることだ。まずそれが前提だ。でもこの前提が調達できない。いや、調達しづらくなった。「調達」は時代状況によりけり変わる。「信じる」こと。目に見えないこと。
- 目に見えないものを、信じること。
8月29日(月)
以下、下書きとして。
1
2
3
4
5
☆
——音楽を信じる、ってことが、ないといけませんね。音楽を「信じられる」環境を、どう構築するか。音楽を、信じるには、なにが必要だったのか。なんで、あんたは、音楽信じてたの?
——コロナ禍でもそうだし、そのあとの、暴力のあらわれでもそうだ。僕たちは、信じなきゃいけないものを、信じないふりをして、そうしてその後ほんとうに、信じられなくなってしまった、そんなような気がした。
——二項並立のうち、後退したのは、数値化できない、よすがであるはずの、言葉にできない精神のようななにかだ。まず、それがなくてはいけない。順番として、一番重みがあるのは、中核にあるのは、言葉にすることのできない精神のようななにかなんだ。
——残すことで文化になる。残らなくては文化も消えてしまう。仮に、日本からライブハウスが消え去っても、そこに生き、かかわっていた人々の息吹きの歴史が、後の時代からたどれなくなっては、いけない。そうやって消え、わからなくなった文化は、千葉にもある。77年前の千葉空襲以前の街の文化は、いまではよくわからない。当時は花街(芸者街)もあったらしい。「死ねば死にきり。自然は水際立っている」の精神で、たくましく生きていくこともいい。けれどそんな元気すらなくなってないか? コロナ禍以降、さらに加速して、僕たちは欲望を去勢する方向にすすんでいる気がする。ニヒリズムがまん延して、自分たちがあきらめきっていることもわからなくなって、こころのあり方すらもシステムに干渉されながら、そこそこ楽しい自由を満喫するだけの不自由に、疎外されて納得しているのか。そんなんが嫌なので、あらゆることが失効していくサマは、間違ってると思うので、ちがうことをやんなくちゃいけない。そして暴力が露出してきた段では、あろうことか暴力になびいている。媚びへつらい、その根本には、表現への不信があることに気づけない。そうしてしまいには、「信じる」という人間精神のありようそのものを馬鹿にするようになる。そのとき、そいつは、自分で自分がなにを言っているのかわからないだけでなく、表現者としての最低限の資格から失格している。あとにあるのは、悲惨な未来像だけで、僕にあるのは、そんな暗い未来を否定したい気持ちだ。なぜこうなるのだろう。世界認識が前提からおかしくなっている。時代のすがたに対してまったくもってずれ、古い認識のままつっこんで事故ってめちゃくちゃになっているのに、へこんだボディのまま高速道路をETCレーンで突っ走れる気分でいるのだ。走るな。申し訳ないけど、まずそこをきっぱりしたい。なぜなら、騙されるのはそいつだけじゃすまないからだ。
1
- 書き換え可能なネットの文章は、すべて「下書き」みたいなものだ。インターネットのインフラ、再生デバイス、サーバーありきのデジタルデータって、10年後に残ってるの? わからない。なんとなくの虚しさの理由は、この「一瞬で伝達され消えていく早さの時代」の心もたなさにも思う。
- 実際問題、10年前のバンドシーンを思い起こすとき、手がかりになるのはCD音源だ。千葉で活躍し、よく対バンしていたバンドの音源を聴く。そうすると当時の記憶も蘇る。そうした「手がかり」は、ネットにない。ネットの記録は10年ももたなかったりする。Twitterだって、10年後に存続しているかわからない。
2
- ライブって、音楽って、残らないんですよね。自分の今の活動が、このままやっていても、残らないだろうと思う。それは、ライブハウスごとにもいえて、20年もやっているライブハウスでも、その「記録」はアーカイブされているわけでもなく、歴史として振り返ることができなかったりする。
- 音楽は、その場に鳴り響くときだけの生命だ。じゃあどうしたら、せめてでも「残す」ことができるだろう。そもそも、なぜ「残す」必要があるか?
3
- SNS時代になって10年あまり。表現の時間軸は短くなった。すべてが「いま」に集約される。そして数値化される。そうした時代が長くつづくと、人のこころも変容する。
- なんだかずっとそこらへんの有りように抵抗をおぼえ、ぐずぐずしてきたわけだけれど、時代の変化のせいにしていてもしょうがなく、どう考えたらいいか。
- 「敗北は自分のせい」なわけだ。どうにも時代を相対化しつつ、距離をとりつつ、けれど全否定するのでもなく。二項対立より二項並立の精神でやっていく。では、「二項」のうち「後退し見えなくなった」ものはなにか。
4
- 順番が変わる。重みが、優先順位が変わる。表現の中身の重み。流通する際の伝播のしかた。
- 「残す」に値するものは、なんだ。「残す」と「いま伝える」は、ちがう。そのちがいの意味が、年々、身にせまって感じられるようになった。
5
- やむにやまれぬ思いを歌うことが、歌だった。歌うことで変化するのは、まず自分だった。自分のこころというのは、謎だった。それは有限であり、無限でもある。たどればいつまでもたどれる。終着点はある。けれどたどり着いた先にも、また道がある。
- そんな「歌」を「聞く」ということ。「歌」を「聞く」、相互の存在があってはじめて、表現は「残る」土台をつくる。ほんとうは、すべての表現は、もしそれがその人にしかできない表現ならば、残るに値する価値をもっている。
☆
——音楽を信じる、ってことが、ないといけませんね。音楽を「信じられる」環境を、どう構築するか。音楽を、信じるには、なにが必要だったのか。なんで、あんたは、音楽信じてたの?
——コロナ禍でもそうだし、そのあとの、暴力のあらわれでもそうだ。僕たちは、信じなきゃいけないものを、信じないふりをして、そうしてその後ほんとうに、信じられなくなってしまった、そんなような気がした。
——二項並立のうち、後退したのは、数値化できない、よすがであるはずの、言葉にできない精神のようななにかだ。まず、それがなくてはいけない。順番として、一番重みがあるのは、中核にあるのは、言葉にすることのできない精神のようななにかなんだ。
——残すことで文化になる。残らなくては文化も消えてしまう。仮に、日本からライブハウスが消え去っても、そこに生き、かかわっていた人々の息吹きの歴史が、後の時代からたどれなくなっては、いけない。そうやって消え、わからなくなった文化は、千葉にもある。77年前の千葉空襲以前の街の文化は、いまではよくわからない。当時は花街(芸者街)もあったらしい。「死ねば死にきり。自然は水際立っている」の精神で、たくましく生きていくこともいい。けれどそんな元気すらなくなってないか? コロナ禍以降、さらに加速して、僕たちは欲望を去勢する方向にすすんでいる気がする。ニヒリズムがまん延して、自分たちがあきらめきっていることもわからなくなって、こころのあり方すらもシステムに干渉されながら、そこそこ楽しい自由を満喫するだけの不自由に、疎外されて納得しているのか。そんなんが嫌なので、あらゆることが失効していくサマは、間違ってると思うので、ちがうことをやんなくちゃいけない。そして暴力が露出してきた段では、あろうことか暴力になびいている。媚びへつらい、その根本には、表現への不信があることに気づけない。そうしてしまいには、「信じる」という人間精神のありようそのものを馬鹿にするようになる。そのとき、そいつは、自分で自分がなにを言っているのかわからないだけでなく、表現者としての最低限の資格から失格している。あとにあるのは、悲惨な未来像だけで、僕にあるのは、そんな暗い未来を否定したい気持ちだ。なぜこうなるのだろう。世界認識が前提からおかしくなっている。時代のすがたに対してまったくもってずれ、古い認識のままつっこんで事故ってめちゃくちゃになっているのに、へこんだボディのまま高速道路をETCレーンで突っ走れる気分でいるのだ。走るな。申し訳ないけど、まずそこをきっぱりしたい。なぜなら、騙されるのはそいつだけじゃすまないからだ。
7月16日(土)
- 暴力を否定すること。存在倫理。
- もちろん、暴力を肯定する思想はある。ありふれている。問題は、二枚舌がありふれていること。
- ぼくはこの陰鬱は、この唾棄すべき現実は。
- 反権力が暴力を許容しがちなのは、昔からだ。反権力がガス抜きになるか。暴力がガス抜きになるか。
- 存在が否定されたものは、その後。
- A 言葉が信用……されてないんじゃないかな。ネット上には難しいね。無意味な触れ合いってのがもっとないとね。コロナ禍で必要と不要不急が区分けされ、その考え方の延長にじつは暴力がある。ジャンプするには暴力だ。それしか手段がなくなるからね。
- B その区分けは前からあって、だからコロナ禍の生活様式がすんなり受け入れられたんだろう。
- C おい、俺も山上といっしょなんだよ。俺も「ぶっ殺してえ」んだよ。誰を? しらねえよ。誰でもいいんだよ。
- A お前は山上でもないじゃないか。山上ほどの必然性もないよ。
- B そうやってテロリストの固有名を述べるのは、よくない。承認を犯人に与えてはならない……って話があったけどな。
- C 山上はすごい。あいつは義士だよ。なんたって安倍を殺したんだからな。安倍は当然大悪人だろ。あいつのせいで日本は落ちぶれた。みんなが苦しむはめになった。殺されて当然なんだよ。ああ、統一教会ね。よくしらんが、カルトなんだろう? ほんとうにかわいそうな境遇だ。同情するよ。みじめだなあ。俺も山上みたいになりてえよ。その勇気さえあれば……。
- A おいおいやめてくれよ。変なこというな。俺がいいたいのは、訴えたいことがあればまず言葉でいえ、ってことだ。いきなり人殺しするなよ。当たり前だろ。
- B まあ、その当たり前はもう通用しなくなった、ということだろう。誰も言葉を聞いてくれないじゃないか。それに言葉もあふれている。なにいったって無意味だし、どこにいえばいいのかもわからない。この絶望のなかに生きるのは苦しいね。
- C そうなんだよ! 真面目にやってらんないっしょ! 今回は鮮烈だよね。山上は、DIYで銃をつくって、元首相を仕留めた。そんであいつは一躍世界的有名人になってあいつの恨みも社会化された! 日本のみならず、世界中の関心を集めてんだよ。まったく「バズってる」どころじゃないさあ!
- A なにいってんだこいつ。暗殺犯を英雄視するなんてどうかしてる……。SNSやYouTubeの「いいね」「再生数」獲得競争じゃないんだぞ。現実に生きる人間の命だ。命を奪ったら再生産不可能なんだぞ。
- B ははは。まったく、真面目に生きてもしょうがないし、世の中変えるなんてできっこないし、閉塞感をうちやぶるには、暴力しかねえんだ、って話さ。
- A 世も末だな……。
7月15日(金)
- 憂鬱である。
- どうも、8日の事件の余波が自分の精神を暗く覆っているらしいことに気づく。暗殺そのものもショッキングだし、あの映像も脳裏に焼き付いてしまったが、それ以上に事件以降に示されたネットの反応が残念だった。それが憂鬱をつくっているようだ。
- ちょっとあまり言葉ない。
7月13日(水)
- 安倍元首相が選挙応援演説中に銃殺されたのは8日のこと。それから参議院選挙があり、旧統一教会の会見があり、世間の一部では(というか一部Twitterでは)「統一教会叩き」が加速している。それ一色となり、そもそも、白昼堂々に元首相が暗殺されるという大出来事に対する非難、暴力の否定が後退しているように見受けられる。ぼくは非常に心配である。テロが肯定される気分、理路が醸成されていないか。ネット上では一部、「安倍氏が殺されたのは自業自得」の声すらある。
- これがいっときの「波」であったら……と、ひとまずは願う。しかし、暗殺のあとにすぐさま犯人そっちのけでカルト(と自民党との癒着)叩きが盛り上がるのは、不気味な光景である。この不気味さは、人間的な弱さか愚かさにまみれている。安倍氏の暗殺の直後、「批判」の矛先は反省意識の実を結ばず、「あっちにいけ」とたらい回された。ぼくは、率直にいって、おそろしさとともに、もっと底暗い、憤りと侮蔑のいりまじった、憂鬱の念をいだいている。
- まず、いかなる理由があろうとも、暴力は否定されねばならない。……いやこの断言は、難しい。実際、この社会には暴力がまみれているではないか。しかし、暗殺は否定されねばならない。どんな恨みをもとうと、どんな背景があろうと、このような暗殺が肯定されるようなことがあれば、いままで当たり前に出来ていたことが出来なくなる。ぼくたちは大きな自由を失う。
- 安倍元首相には様々な評価がある。それはあまりにも極端に分かれていて、だからこそ存在が大きな人物であったといえた。その政治的評価は、ぼくがどうこういえるものじゃないけれど、少なくとも、白昼堂々に自作の銃で、個人的怨恨の向き先として殺されるなんてことはあってはならなかった。
- テレビにせよ、SNSにせよ、日本は……これで大丈夫かという思いを、正直にいって、抱く。みんな、もっと冷静に、静かに沈思黙考すべきじゃないか。なんかもう普通にそんなこと思う。
- 特定の誰かや団体を悪魔化したり、罵詈雑言を投げつけ合う光景そのものが、日本の政治文化を陳腐なものにしているのではないだろうか。新興宗教団体にだって、一般信者がいる。本当に様々な人、その関係があるだろう。安倍氏の事件後に、急に勢いづいて「カルトはけしからん」叩きが盛り上がるのは、副作用も大きいような予感がしてならない。かつてのオウム事件のような、ある種のマスメディアの熱狂のごとく。
- 自分の頭で考えたい。余白を大事にしていたい。そのためのスペースが必要だ。ここは、そうした場所ではある。誰に読まれるとか読まれない以前に、自分にとって有意味たる場所。そうした場所が、あらゆる歩みのとっかかりになる。そのへんを大事にしたい。
ーーーーーーー
- と、時事的なことを書いた。が、そもそも8日はバンド「定住ボーイズ」のライブだった。その日に安倍氏の事件が起こった。
- "国になにが起ころうと、小さな場所(ライブハウス)がちゃんと存在することが大事" そんなことを考えていた。部分があってはじめて全体がある。部分の幸福が全体の幸福に波及するのだ。そのような「回復力」をもちたかった。これは大事な考え方で、「日本はやべえ」かもしんないけど、自分の周辺の手の及ぶ範囲では、ちゃんとしっかりやってこう、ってことなのだ。まあ、こうやって口でいえるほどちゃんとできていないわけだけどね。
- ライブは、楽しくできた。聞いてくれた人も楽しそうにしてくれて、よかった。それに尽きる。よければいいのだ。また、次、もっといいものを見せたい。
7月5日(火)
- 選挙が近づいている。
- 音楽業界4団体の件。SaveOurSpaceの抗議。
- いろいろ考えさせられるけど、これ、ぼくは抗議の署名はしない。
- なんというか、そんなもんだろうし、批判はいいけど、否定してもしょうがない。別のことやるしかない。
6月22日(木)
- しかし。吉本鶴見対談読みおもしろい。すこし過去。それが以前を知らせてくれた。
- 虫瞰と鳥瞰。虫は、ぞろぞろいる。いたなあ。ダンゴムシはよく交尾している。あの影に、かたまる。今日のはそれほど無理やり感なかった。そこに愛はあるの問題。
- 外堀から攻めても、しかたない。しかたないからはじめる。
- それはつまり飲み会の必要性なんで。しかし「必要」というより「あったほうがベター」だといいますか、そんなややこしい話でなく。飲み会というか冗長性。
- つまり、社会っていうのは、そもそもおかしくなるようにしかつくられない。でもつくられる。だから、現実的に折衷案が。つねに必要で、その知恵。どこいった。
- 虫と鳥はちがったようだ。よく目をこらしてみると、水たまりの中ににょろにょろ、細いハリガネムシみたいのがうごめいて見えた。虫は、なんでか気持ち悪い。だが、それも不思議なので、見てみる。靴からのぼって、足の中に入り込んだら嫌だな、と身構える。ムカデがいた。
- ここで、世界とか他者とか、概念の言葉はいらなかった。ただそうして論理化してとらえる。内部を論理化してとらえる。生活実感を論理化してとらえるところに、虫の思考もあるということかしら。ならば、それをやんなきゃいけない。
- 飲み会は、鳥の話じゃなくて、虫の話だろうか。どうも鳥の発想でとらまえてしまう。そこがよくないって気がする。目的的に意識的に、それが弱さとなって先に現れてきた歴史があるって感じがする。どうしても避けたくなる。するとどうだろう、不自然になる。無自覚的に、どんどん身体がねじれるのは、外圧のせいだといえるか。
- いえた。そう、いえたところから……他人に求めるところから、言葉が生ずる。願望の成就めざして言霊発する。いろいろや形態があるね。テレビでも、ネットでも、容易ならざる言霊が見えた。
6月14日(火)
最近
虚空
……で、
- いやはや。最近、めっきり乱雑化しており、適切に出没することも稀、てな具合なわけですが。どうでしょう? まったく、怠惰、というよりか、けっこう疲労と自律の失敗、がたてこんでおる状況です。というわけで、復調していきたいわけですが、無駄に書いたりして、リズムと思案を無駄にすすめたりして、無駄に無駄をかけていきたい所存ですね。
- 真面目なことを、いろいろ考えなければならない。なんか、真面目な、コアの部分を、気を使って避けて通っていたら、おいそれ、急に、自体が転換したりして、急襲される事態におちいったりも、するわけです。そのような、不幸や、滑稽や、計算違い、みたいなものを、どうにかこうにか、しのぎながら、たくさん生きている。たくさん生きてきた人がいて、たくさんいて、これからもいるのだから、そのたくさんを、やっぱり連続するほうに、指差していきたい、とか。
- "自分を愛せなければ他人を愛せない" などと云う。自分を愛する、とはさて。向き合わなければいけない問題に対して、自分のなかで向き合っていく、ということのみを頼りにしたけれど、現実のほうを動かさなければ、問題の解決はされない。ただやりすごすのと、どう違うか。「処理」なんて言葉は、もったいなくて、おっかなかった。処理はできない。そこに、そのたびに、ふれるたびにのしかかってくる重量を、ひときわ感じたならば、無駄に無駄がかかるように、その無駄が自分のように感じられてくる。
- なにか、すごく世俗的なことを「考えて」しまうけれど、本当は、もっと考えるべきことがあったような、そんな気分もあるとして、けれどそこを抜けられないのは、まさに網にかかっている状態で、網にかかりながら縮んだりもがいたりしてみても、網の中は網の中で、風景は変わらない。風景を変えるには、網から出るしかない。網を切るか、かいくぐるか、網を「つけたまんま」歩き出すか。ところで、その際、目的地はどこだろう。そんなもの設定しなくても、ただここから歩いて別のところにいく、それだけで立派な気分転換だ、俺にはそれが必要だ、と云えば云える。けれどあんまり、かっこつけてもしょうがない。
- 目的地について真面目に考えなきゃしょうがないわけで、これは、駄目だから考えるのであって、わざわざ考えないでもいける人は、もうすでに立派さを体内に宿しているのだ。そんな立派さは、僕にはないので、立派そうなことを考えることで、ちっとも立派でない立派そうな人に近づこうとする。しかし、「偉い」と「偉そう」が違うように、ひとたび立派さを口にしたら、もう立派ではなくただ立派そうな、ぜんぜん立派ではない人になる。
- それでいい、というより、それしかないわけだから、そのことを自分で受け入れること。そうすれば、周囲の風景もまた、そんな自分に見合ったものになるだろう。そう自分が望むようになる。なんとなれば、動くときは自然に動く。そのときまでが辛抱だ。
虚空
- ライブハウスに、演者、というかたちで関わるようになって、20年近く経った。こまごましたことよりも、文化、と云えるような内実が、大事だと思うし、そう思いたい。これは、結局、やっている人間がどう考えるか、にかかったことがらだ。どのような「つもり」であっても、自負をもつこと。虚空に向かって歌い、演奏するわけではないが、もし虚空に人格があるなら、虚空のほうでも何か感じているはずだろう。その「何か」とは、それも結局、生きている人間の想像でしかない。だが、想像することをやめにしたら、虚空のほうも、何か感じることをやめるだろう。
- 文化ってなんだろうか。虚空にのみこまれた人たちに思いを馳せたい。ロマンチックな話しじゃない。これは、集団的な制作でもある。場所の記憶とは、たぶん。僕はなんだかそういうふうに思ってきた。歌をつくることは、ひとりの作業だ。けれど接続するもの、先があるから、そのためにやっている感覚も、どこかであった。そのあたりに、文化、と呼ぶべきものがあった気がした。ここで僕が思うのは、わかってくれるかわからないが、現実のほうに負けないでほしい、ということだった。いつもそれを思ったが、それは、傲慢な話しでもある。人の、未知なる現実、人生を、わからないのに、あるいは、わかったかのようにあれこれ云うとしたら、それは間違っている、と思われるのもわかる。または、もっと単純に、責任の話しが前提になれば、安易に口を出せないな、とみんなが口ごもるのも。
- ところがどっこい、虚空のほうでは、そんな現実のことはお構いなく、というより、それはもう何度も見てきたものでとっくに見飽きているので、興味を示してもくれない。僕が思うのは、この、誰も言及しないだろう虚空の立場である。それは、もはや現実ではないが、現実から生み出されたものなので、その「生のない生」が存続するためには、現実の支えが必要だった。
- はなればなれの現実を、ひとつの虚空が記憶した。僕は虚空への敬意を忘れないでいたい。そこに、もう見なくなった人の思い出も、いまを生きる人の思い出も、それから僕の思い出も、詰まっている。
……で、
- いやいや、ちがった。かっこつけて、いいこと言ってないで、自分には自分の、等身大があるのである。それもそうだし、おそらく、自分で思う以上に、小さな荷物しか持てない。抽象的な価値も、こころもとない。そもそも、何か大それたことができるほどの力もない。それよりも、意志と責任が足りてない。自負、とか云ってもなあ。
- と、これまた同じところをぐるぐる回るわけだけど、それでもやっぱり抽象的な価値をアテにするしかなかったりする。ただ、もうちょっと現実的なところに落とすと、人間と人間の関係や出会いの
5月11日(水)
・沖縄の人がどう感じてるのか、気になっていた……ということを、気になっていたら、「50年」ということで、そういう新聞記事も種々出てきており、ちらほら読むと、いや、そっちの話題はあんまねえなあ、と感じたのですね。
・なんか迂遠な言い方以外の言い方を、まるでできなくなってきた禁忌がここに記録されてる次第ですか?
・「そっち」は現下の戦争で。ウクライナと沖縄を重ねて見ている、沖縄の人は、どう感じますか、ってことを、尋ねたかったんですね。
・NHKで『ふたりのウルトラマン』というドラマをやってて、これ沖縄がテーマで、とてもおもしろかったのですね。
・「主権」といったような概念が。自己決定とか、民族の自立とか。ああいうのが、ウクライナに対して、呼応せられるときに、こっちの問題はどうなってたのかな、と感じるのですね。
・それこそ、マトリョーシカ構造になっており。
・こっちとは、本土、ということになりますか。
・こっちとは、いや日本ですか。
・アメリカ……のことは、まったくふれられなかった、そのドラマ。
・「内在」と「関係」ということでいうと、関係ばかりが先に立って、内在がなおざりになるのは、これどうも。反対に、内在ばかりで関係を無視するのもこりゃどうも。ふたつは、相互補完的にとらえられなければならない。そして「視座」は移動可変式にとらえられたらいい。いいな。でも無理なんだが。つまり、視座はここに固定されて、基本動かない。動かないものを、動いたふりするか、動いたような想像をするか、それだけで、そういう働きが、どっかにすこしでも役立ったり、あるいはなんらかのほのかな幻想を振りまいたりできるのならば、それはそれで有意味なんだ、という理屈は、いちおう成り立つ。〝自分が相手だったらどう思うか〟が基本になる。そこに出てくる思い込みを、肯定するか否かでけっこう変わってくるのですね。人間、思い込みが肝心……そう、排することは観念への見切りで、合理的になれば人間なんて、下劣にしか思えなくなるから。
■
・と、いうのはね。
・千葉公園の近くの護国神社。そう、こないだ行ったら移転工事中だったな。そうそう。あの場所からはもうなくなってしまうのだった。
・「戦争について考える」というのも、いまみたいに、「どこそこが占領された」とか、「誰それが戦死した」とか、「なんとか艦が沈没した」とか、そういうリアルタイムの戦況を追っかけて、頭を戦争漬けにすること……とはちがっていた。
・「戦争について考える」というのは、いままでだったら、それこそ、「記憶」の問題であり、「加害」と「被害」の問題だった。そして人間社会のメカニズムや、そこにおける「責任」論の問題だった。そうだった。つまり距離があった。それは「考える」というコミットだった。いま、戦争について考えると、戦況を追う、まるで「スポーツ」のような、傍観者の態度、あるいはサポーターの態度になってしまったり。
・当事者。自分は自分の当事者なんで。
・口ごもる。なにか言いたげに。なにも言いたくないしたくない……けれど、なにか言いたげに。
・自分の無意識が、内側が、なにを言いたいのか、聞いたり、ひっぱってきたり、そういう理路の整理だったり、耕すような行為がメインで、必ずしもこれは、完成形の、提出物なんだっていうわけにはいかないから。
・手作りで未完成。未成熟で、でも線形の、「成熟」みたいなイメージに向かうんだけれど、それは、どうも静的ではありえず、もっと動的なものかもしれない。
・なんか迂遠な言い方以外の言い方を、まるでできなくなってきた禁忌がここに記録されてる次第ですか?
・「そっち」は現下の戦争で。ウクライナと沖縄を重ねて見ている、沖縄の人は、どう感じますか、ってことを、尋ねたかったんですね。
・NHKで『ふたりのウルトラマン』というドラマをやってて、これ沖縄がテーマで、とてもおもしろかったのですね。
・「主権」といったような概念が。自己決定とか、民族の自立とか。ああいうのが、ウクライナに対して、呼応せられるときに、こっちの問題はどうなってたのかな、と感じるのですね。
・それこそ、マトリョーシカ構造になっており。
・こっちとは、本土、ということになりますか。
・こっちとは、いや日本ですか。
・アメリカ……のことは、まったくふれられなかった、そのドラマ。
・「内在」と「関係」ということでいうと、関係ばかりが先に立って、内在がなおざりになるのは、これどうも。反対に、内在ばかりで関係を無視するのもこりゃどうも。ふたつは、相互補完的にとらえられなければならない。そして「視座」は移動可変式にとらえられたらいい。いいな。でも無理なんだが。つまり、視座はここに固定されて、基本動かない。動かないものを、動いたふりするか、動いたような想像をするか、それだけで、そういう働きが、どっかにすこしでも役立ったり、あるいはなんらかのほのかな幻想を振りまいたりできるのならば、それはそれで有意味なんだ、という理屈は、いちおう成り立つ。〝自分が相手だったらどう思うか〟が基本になる。そこに出てくる思い込みを、肯定するか否かでけっこう変わってくるのですね。人間、思い込みが肝心……そう、排することは観念への見切りで、合理的になれば人間なんて、下劣にしか思えなくなるから。
■
・と、いうのはね。
・千葉公園の近くの護国神社。そう、こないだ行ったら移転工事中だったな。そうそう。あの場所からはもうなくなってしまうのだった。
・「戦争について考える」というのも、いまみたいに、「どこそこが占領された」とか、「誰それが戦死した」とか、「なんとか艦が沈没した」とか、そういうリアルタイムの戦況を追っかけて、頭を戦争漬けにすること……とはちがっていた。
・「戦争について考える」というのは、いままでだったら、それこそ、「記憶」の問題であり、「加害」と「被害」の問題だった。そして人間社会のメカニズムや、そこにおける「責任」論の問題だった。そうだった。つまり距離があった。それは「考える」というコミットだった。いま、戦争について考えると、戦況を追う、まるで「スポーツ」のような、傍観者の態度、あるいはサポーターの態度になってしまったり。
・当事者。自分は自分の当事者なんで。
・口ごもる。なにか言いたげに。なにも言いたくないしたくない……けれど、なにか言いたげに。
・自分の無意識が、内側が、なにを言いたいのか、聞いたり、ひっぱってきたり、そういう理路の整理だったり、耕すような行為がメインで、必ずしもこれは、完成形の、提出物なんだっていうわけにはいかないから。
・手作りで未完成。未成熟で、でも線形の、「成熟」みたいなイメージに向かうんだけれど、それは、どうも静的ではありえず、もっと動的なものかもしれない。
5月9日(月)
0
・あっはー。やらやら。あれでんなあ。やはあ疲れてんのか、さぼってんのか、だらけてぼーっとしてしまいまんがな。あかんでんがな。こりゃいかに。
・身も蓋もない世界は加速、強いものが強いんだっす。すすす。もちろん、おれは、(おれはおまえは)、弱いんす。
・弱いっすねえ……とりたてて、そこのところで、卑屈になったって、連帯なんてさもありなんで、いやあ、平常にいりゃいいんじゃないすか? って、平常、ねえ。平常がわからない、とき、に、それ言われても困るわ、なんてね。
・それでねえ。
・それで。
・いかんとも、しがたくて、ねえ。
1
・えー、4月もたくさんライブがあって(8本?)、GWも4本ライブがあり、あれがね、くたびれたっていうね。感じがあるんでしょうかね。これは。
・無心で。無心ですよね。かなり、ぼーっとしてるんですよね。割と。なんかこう、深いことも考えられてないし、なんかこう、まあまあ動物的な反応がね、主だってきてますけども。
・いやあ。
・いやあ、ゆっくりお茶でも飲んで。ゆっくり映画でも見て。ゆっくり……なんか誰かと会話でも、して?
2
・もう、いやですよね。こないだもどっかで話したけど(たぶんリンネ)、「真面目なこと」って、真面目ぶった顔で、もっともらしくて、なんかどうもね。なんかどうもね……ってんだけど、でもそれやんないのもどうもね、ってんで。
・真面目なことを話さないでおくと、後になって、その真面目なことに、復讐される。
・これは、俺も、悪い生活でそうなっていて、一方、表層的には、真面目な方が先に立っているので、ってんで。
・さてまたもや。
・よくわからない話しです。
3
・いまの自分の立ち位置……立ち位置? 立ってる座標。いやそんなややこしい言い方せんでも、自分の現状ですね。そこから、考えや行動を出発させんと、あかんねん。
・ノリがグルーヴが、損なわれるちゅうか、そもそもリズムに、ノってないねん。
・言葉がもたってるのは、むしろ、身体が先にきてて、無意識ちゅうか、なんかバランスが、ね。いや、ようわからんけども。
・なんか、いい匂いすんな。あ、いや、こっちの話しです。
4
・たくさんのライブが毎月あって、それをひとつひとつ、本当は振り返りたい(べき)なのだけども、これは俺の怠惰で、できてないっちゅうことで、それは、いいことではないんだってことを、ここで確認しておきたい。
・それで、ここから、未来のライブ。近未来のライブ。いわゆる直近のライブ。ライブライブライブ。ライブ以外にも、ほんとは音楽いろいろあるってんで、音源とかも、ほしいところだが、ほしくても、自分でつくんなきゃ、それ出来ないちゅうことなわけで、つくっていないんで、それないんですね。
・5月、12日は新松戸FIREBIRD唄酒場。17日は稲毛K'sDreamで古木衆と対バン。22日は新松戸でMUSIC & ART 3マン。29日は音楽茶屋ごりごりハウスで桃色ショッキングと対バン。翌日30日に新松戸でバンド「沼田謙二朗と定住ボーイズ(仮)」。
・見に来てほしい、って思いはあるんですよね。
・がんばらなきゃね。俺がね。
・22日、MUSIC & ARTでコラボするなかがわさん、ういりおさんはお二人とも凄い方。その二人と、同時にコラボするってんで、こりゃやっぱり凄いことなんですよ。世界観を、がちっと提出しなけりゃね。でもコラボなんで、予測不能な化学反応が、制限なくいい感じに広がってくれれば、と思いますよ。
・バンドも、いいカタチにしたいですね。