2023年 2023年 1月~5月 2022年 5月~12月 4月~3月 2月~1月 2021年 12月 11月
12月20日(水)
- ぼくたちは「加害者の末裔」だっていう自覚があるのね。戦後の日本人として。
- ZAZEN BOYSの新曲を聴いて、おもった。
- もうすぐ戦後80年を迎えようとしている。記憶は、薄れていく。……「少女」を視点にした、フィクションがおおくつくられるようになった。それ自体はいいことだ。
- でも、それとともに、「加害者」の視点が、どうにも見えづらくなったようにもかんじる。
- 戦場には、兵士がいて、兵士は、男性ばかりだった。日本で、「加害者であること」を背負っていたのは、主に、というか、きっとほとんど、男性だった。
- 被害があるなら、加害もある。加害をおこなった人間がいる。その「加害の記憶」が、いま薄れていってるのかもしれない。
12月12日(火)
- 歌う。自己表出。歌はフィクションだ。自分の思いを「外化」する。それで、自分の造形物を自分で「視る」ことがかなう。自分で自分の声を「聴く」ことがかなう。
- 自分の声を「聴く」ことがかなわなければ、他人の声を「聴く」こともかなわない。同時代的に、どのようなことを考え、思い、なにを表出しているのか。「この自分」をサンプルに、それを煮詰める。
- 政治社会経済情勢……身の回りのいざこざ。なにかを「思う」。家族の内部の、自己内部の風景の変化を受ける。それを、描写する。描写する——指示表出した——とき、はじめて外化された自己像と出会いを果たす。
- 対バンの歌を聴く。そのとき、その人の描写された自己像を、その人自身の視点に移動して、追認しようとする。つまり、歌い手になろうとしてみる。「歌の批評」というのは、ぼくにとっては、そういう行為のようである。ぼく自身が「リスナー」として、自らが主体で、安定した「聴取行為とその感想」を書き出すことではないようだ。つまり、ぼくは歌い手になりたい。歌ってる人、その人の立場になって歌を聴きたい、という欲望がある。
- それはひとつの対幻想だし、ひとつのエロスだし、なにかの情緒的な基盤をなす形態だろう。他者理解。他者を「わかろうとする」欲望は、愛と呼ぼうとも、一種グロテスクかもしれないし、毒でもある。「そんなの毒だ」「当然だ」 毒である、というところで、加害被害の二項対立にとどまり、停滞を受け入れるのが、昨今の表現界隈の悪しき慣習ではないか。なにかを表現することが悪であり、毒であり、加害であり、被害をもよおすのは、当然の帰結で、はじめから勘定にふくんでやる以外にない。だからといって、無限責任を要求されるのも不当だ。
- 芸術は毒だ。批評も毒だ。それは「ハラスメント」と非難される規範領域に接近している。そうなると、現在、表現が不可能に近くなる。いったいどのような心持ちで表現行為をすればいいんだろう? この問いに、適宜答えなくては一寸立ち行かない。
11月30日
- ここのページも「個人日記・メモ」という感じで、「他人になにか伝えるための文章」のための場を、ぼくはもってないなあ、とおもう。そういうの、つくりたい。
- これは謝らなければならないのだが、ワンマソで「夏頃に音源出します!」と言っておいて、けっきょくつくれなかった。来年にもちこしだ。いろいろ動くために準備を進めます。
- 「やりたいことをやる」ために、その準備をずうっとしてきているような日々だった。いままでずっと。「やりたいことをやる」にまっすぐ一直線に飛べないんだ。そこに向かうために整え、考え、地道に進んでいかなくちゃだめなんだ。それが自分だなあとおもう。……それで、ようやく、「やりたいことがやれ」ように、少しずつ向いてきたぞ、とおもう。来年は今まで以上に活発な姿を見せたい。そのためにがんばります。
11月20日
- 宗教というのは人類史にとって不可欠のもので、人間が人間になったのは宗教のせいだといってもいい。芸術も宗教も出どころはおなじだ。現在の日本では、「無宗教」という宗教がもっとも勢力がおおきく、その「無宗教」が「(有)宗教」を迫害するというかたちがもっぱらになっている。
- 宗教に対する差別偏見というのはつきもので、ヨーロッパにおいてユダヤ教徒が長年受けつづけた差別偏見からナチスの反ユダヤ人政策がまかりとおり、ホロコーストが起こされ、イスラエルが建国され、いまガザ地区での惨劇につながっている。差別・偏見というのは、おそろしいものだ。そのおそろしさが、ぜんぜん自覚されていないので、心底むなしくなっている。
- 「なにかを本気で信じる」というありかたは、「なにも信じていない」と信じている人にとっては、それだけで異邦人・異教徒あつかいするに足る異様さをはなつ。「なにも信じない」というありかたは、「なにも信じていないと錯覚したまま信じられる対象」を生み出す。それは「金」であったり「アイドル」であったり「コンテンツ」であったり「ギャンブル」であったり「ドラッグ」であったり「数字」であったりする。あるいは固有のイデオロギーや政治性であったりする。「ライブ」も「音楽」も芸術」も、そこに当てはまるものだ。
- ぼくは、人間に「ゼロ宗教」はないとおもう。個々の宗教団体に、それぞれ固有の問題があるだろうが、それ以前に、日本社会に固有の問題がある。つまり日本の宗教が生まれてくる日本の社会の土壌がある。「宗教が足りない」から、埋め合わせ的にさまざまな「宗教の代替物」があらわれる。人間から宗教性はなくせない。それがほんとうにできたら、そのとき人は人ではなくAIになってしまう。AIは死ぬのが怖くないし、神も信じないし、自分以外のなにかを愛したりしない。ぼくはむしろ、現在の日本、ないし世界は、あまりに世俗的になりすぎてしまって、人間の精神を安定づける根拠を喪失しているとおもう。
11月12日
・「毎日書く」っていうふうにしたいんだけど、なかなか、そうはいかない。このWEBサービス(Weebly)も、PCからじゃないと更新がきびしい。PCをさわらない日は更新できない。スマホアプリ版もあるけどあんまり使えない。
・「毎日ギターにさわって歌う」は最近やれるようになった。これも環境がほんとにきびしい。環境さえあればできる。音楽は環境ありきだ。練習とは騒音だ。迷惑だ。環境はきれいごとじゃない。
・「毎日発信する」もしなくちゃな。SNSもまた気を使う。ぜんぜん自由な気分では書けない。発信する文体みたいなものが、まだ未定形。とりあえず「音楽第一」だけど、音楽だけで音楽は成立しない。音楽の周辺もやらなくちゃいけない。そっちはできてないし、それを指摘もされるけど、どうにかこうにか努力しないといけない。
・「毎日ギターにさわって歌う」は最近やれるようになった。これも環境がほんとにきびしい。環境さえあればできる。音楽は環境ありきだ。練習とは騒音だ。迷惑だ。環境はきれいごとじゃない。
・「毎日発信する」もしなくちゃな。SNSもまた気を使う。ぜんぜん自由な気分では書けない。発信する文体みたいなものが、まだ未定形。とりあえず「音楽第一」だけど、音楽だけで音楽は成立しない。音楽の周辺もやらなくちゃいけない。そっちはできてないし、それを指摘もされるけど、どうにかこうにか努力しないといけない。
10月30日
・28日はごりごりでの太一祭、すごい日だった。みんな、やっぱすごいし、太一さんと村重さんのtoAもこれまたすごい。
・自分の音楽と向き合う日々なわけですが、がんばろう。
・明日は初のSHOJIMARUで、これも緊張。がんばろう。
・イスラエル・ハマス紛争で子どもの死者が増えているとの報。もうすでに去年の紛争における子どもの死者数を越えたそうだ。子どもに罪はない。戦争には反対するしかない。当たり前のことを云っても仕方ないな、と思いつつ、当たり前のことを想う。とはいえ、「どっちが悪者」と国をひとくくりにするのも危ない。とか云うと今度は「どっちもどっち論だ」と非難が浮かぶ。SNSの情報環境は、戦場を拡大しているように見えて仕方ない。
・そうやって考えても、所詮情報を間接的に受け取って考えてる、感想を抱いているだけなので、すべてが軽い。この軽さを、せめて自覚したい。ぼくは戦後生まれの日本人だ。戦中派ではない。戦争を知らない。「知らない」ということに、どれだけの意味があるかもわからないが、知らないことを自覚しないといけない。
・祭りは平和のために必要だ。不要不急、役に立たない、音楽は芸術は無力。そりゃそうだ。だから必要だと云わなければならない。銃やロケットは武力であって、実際に攻撃されたらひとたまりもない。音楽とはなんだろう。戦争の道具ではなく、戦争の失敗なのかもしれない。原始時代、天敵をびびらせるために大勢で大きな音を出した。それが音楽のはじまりなら、たしかに「武力のメタファー」ではあった。そう考えたら、戦争の手前で、戦闘しないための技術が音楽だった。ぼくは、そういう考えを大事にしたい。これから特に。そんなことを考えている。
・音楽はコミュニケーションだ。自己表現だ。芸術だ。エンタメだ。交流をうながすものだ。それとともに、暴力との距離が音楽の歴史に埋め込まれている。これは直感的な想像にすぎないが、現実に音楽のはじまりなんて誰にも証明できないのだから、想像するしかない。暴力を、暴力じゃないものに変形する。それも音楽の「力じゃない力」じゃないだろうか。この考えを、もっとなにかに使えないだろうか。
・第二次大戦で、敵兵同士が戦場でおなじ歌を歌った、という伝説がある。それが真実なのか、誇張された話なのかよくわからないが、そういうことはありうるとおもう。
・つまり、政治の次元と、人間の次元はちがうから、そこでずれるところに、文化ははいりこむ隙間が、きっとある。もちろん、ぼくは「知らない」から、それらをイメージのなかで考えるしかできないのだが。
・自分の音楽と向き合う日々なわけですが、がんばろう。
・明日は初のSHOJIMARUで、これも緊張。がんばろう。
・イスラエル・ハマス紛争で子どもの死者が増えているとの報。もうすでに去年の紛争における子どもの死者数を越えたそうだ。子どもに罪はない。戦争には反対するしかない。当たり前のことを云っても仕方ないな、と思いつつ、当たり前のことを想う。とはいえ、「どっちが悪者」と国をひとくくりにするのも危ない。とか云うと今度は「どっちもどっち論だ」と非難が浮かぶ。SNSの情報環境は、戦場を拡大しているように見えて仕方ない。
・そうやって考えても、所詮情報を間接的に受け取って考えてる、感想を抱いているだけなので、すべてが軽い。この軽さを、せめて自覚したい。ぼくは戦後生まれの日本人だ。戦中派ではない。戦争を知らない。「知らない」ということに、どれだけの意味があるかもわからないが、知らないことを自覚しないといけない。
・祭りは平和のために必要だ。不要不急、役に立たない、音楽は芸術は無力。そりゃそうだ。だから必要だと云わなければならない。銃やロケットは武力であって、実際に攻撃されたらひとたまりもない。音楽とはなんだろう。戦争の道具ではなく、戦争の失敗なのかもしれない。原始時代、天敵をびびらせるために大勢で大きな音を出した。それが音楽のはじまりなら、たしかに「武力のメタファー」ではあった。そう考えたら、戦争の手前で、戦闘しないための技術が音楽だった。ぼくは、そういう考えを大事にしたい。これから特に。そんなことを考えている。
・音楽はコミュニケーションだ。自己表現だ。芸術だ。エンタメだ。交流をうながすものだ。それとともに、暴力との距離が音楽の歴史に埋め込まれている。これは直感的な想像にすぎないが、現実に音楽のはじまりなんて誰にも証明できないのだから、想像するしかない。暴力を、暴力じゃないものに変形する。それも音楽の「力じゃない力」じゃないだろうか。この考えを、もっとなにかに使えないだろうか。
・第二次大戦で、敵兵同士が戦場でおなじ歌を歌った、という伝説がある。それが真実なのか、誇張された話なのかよくわからないが、そういうことはありうるとおもう。
・つまり、政治の次元と、人間の次元はちがうから、そこでずれるところに、文化ははいりこむ隙間が、きっとある。もちろん、ぼくは「知らない」から、それらをイメージのなかで考えるしかできないのだが。
10月14日
・音楽フェスは平和なものだ。人が集まる。そこがテロに狙われることはぜったいにあってはならない。
・「あってはならない」 ああ、そうですか? 「その通りですね」 それから?
・コロナ禍で、人が集まることはいったん否定されたとおもう。おもっている。「オンラインで不要不急だ」 それもいいだろう。だがリアルな場で、三密で、文化は生成されるのだ。で……
・時間をかけること。「9・11でアメリカが間違えたのは、悲しむ時間をとらなかったことだ。悲しむ時間をもち、そのあとで作戦を決めていたら、結末はちがっていただろう」 時間をかける? よし、芸術の出番だ。
・そして、「音楽フェスは狙われる」 戻ってしまった。身体をリズムにあわせて揺らし踊ること。共同身体。そこには、快楽がある。
・時間をかけて……なにをするか。悲劇、を見つめる。「人が死んだ。あそこで。すぐ近くの場所だよ。見えるじゃないか。そういうふうには見えていないから。気づかない? 考えていないのか。気づいていないのか。いやそれは無意味なんだ。不要不急なんだ」
・生きていない人は不要不急だ。死者はそう。不要不急に「寄り添う」のが芸術です、とな? そう言えるだろうか。
・単純に歩んではならない。しかしおっかながって、怠惰に流れるのもよくない。けっきょく、ナタで木を切るようなことになる。それ以外、えらべないだろう。「ナタはださいだろう。もっとよく切れる刃がいいな」とおもっても、カミソリしか買えやしない。カミソリで木は切れない。
・カミソリばっかり振り回してる。ナタが足りない。「あのナタはひどい。ぜんぜん鈍いじゃないか」と、そればかり他人に言っているような。問い返さなくちゃならない。それで、木は切れましたか?
・さて、「悲しむ時間を設けるために、いかなる準備が必要か」を。そんなことから問うていく。それは、体質の話なんだ。
・なぜ、すぐ報復するか? 慰霊の力より、怒りと懲罰の力のほうがおおきいから、だろうか? 「そんなことを言えるのか、お前さんにな」 いえいえ、とてもそんな……しかし謙譲するマネは生産を避ける免責にも値する。のだから
・慰霊の力や追悼の力はどこいった? 「柳田国男さん」がよく登場し、東北の民俗学的歴史を、説いてくれてました。ついこないだまでのことだ。そんな話はしかし、「バズ」らない。それで、宗教的な国家では、どうなっている? 「コロナ禍でもユダヤ教超正統派のかたがたは、集まっていました。礼拝。命より神のほうが、信仰のほうが重要なのです」 ぼくはそれに、畏敬の念すら抱かん勢いだったが。
・「命より神のほうが大事だ」「よし、相手は殺そう」「異教徒はいらない」そうなるか? ここからどんどん偏見が生成していくだろう。話は打ち切りだ。
———————————————————--
・平和? 無関心でいること。「おまえは興奮しているか」「ポルノがあふれるようなものだ」「身体が変形するとは」「グラフィックな刺激に慣れ親しんではならない」おそらく、実際に現地で悲惨な現場を体験するのと、SNSや映像メディアで切り取られた動画を「視聴」するのは、人間に(それが身体、視聴覚、意識、無意識を負った存在として)あたえる影響は、根本的な面で異なるだろう。「で、それは注意されていますか?」
・そこには裸体があり、血があり、脳髄があり、子どもが泣き叫ぶ。父親が叫ぶ。13才の少女がマイクに向けて平和を訴えるとき、「おまえは状況に興奮するのか?」という声が、あるのかないのか。
・犠牲者意識のナショナリズムにくるまれるとき、そうそのとき、「わたし"たち"は一体です」 一体となった国家体が、敵なる国家体に体当たりします。その結果。炸裂音。爆発にまきこまれました。わたしの祖父は死にました。祖母も死にました。だから私は「生まれていません」 そもそも存在していない存在として、架空の幽霊として、わたしはいる。わたしは「予定されて」はいたが、実際には誕生しなかったのです。命はとだえた。空爆。空襲。おなじことです。言葉づかいは時代によって妙に変形します。ゲリラ。テロリスト。抵抗。報復。テロ。奇襲。
・仮設トイレに銃弾を撃ち込むとき、どういう意識でしたか?「意識はない。加害の意識はない。被害の意識は百倍強いんだ。そう、だから……」 銃弾で人に当てる、弾が飛んでいって人に当たる、そのとき、弾の気持ちではないんですね。銃の気持ち……引き金をひけば弾が飛んでいく。弾は目に見えないしね。バン、といって、人が傷つく。一瞬さね。その「力」に少年は憧れた。正義、ってこれだ。これが正義なんだ。やるしかねえんだ。そう、だから、おもちゃの銃をピコピコ撃つ。本物は?
・間接的な暴力。「いよいよ、きなくさい言葉を率直に使い始めて、あやしさが増してきたねえ」 メディア、媒介。スイッチ、爆破。剣で人を斬りつける、のとはちがった。とおもう。「さあ、わからんね」 ぼくにはわからない。やったことはない。「通り魔殺人だ。ナイフを振り回したのさ。誰に、ってことはないのさ」 理不尽だったから、武器、間接的な、暴力の主体。メディア。俺のメディア。それは、この武器なんだ。ナイフなんだ。「おお、お前はギターをもってたね。それは武器の代わりかい?」 音楽は、太初において、天敵に立ち向かう「武器」技法だった。とすれば、ギターは非武力的な武力というのか
・芸術は、内省力だ。迂回する力だ。直接言わないことだ。「なに言いたいのかわからんね」 それで、すべての間接話法が、内省を経由する。「相手が憎い」「相手が間違ってる」「俺たちが正しい」 コミュニティにおいて、自分たちが主体となって、自分たちを内省する。その作業は、おもう以上にとぼしい。むずかしいんです。日本においても。内省のリーダーはいるか? 内省の習慣を、なくしてしまったようだ。おお、俺自身も。これじゃいけないねって、自明だと。さて
———————————————————--
・自分の現場のリアルを捨象するんですね。こうやって、それで、陳腐になる。ライブをやっている。平和な社会でやっている。そこでの課題は、「平和のなかでの戦争をみつめることです」か。この世界には、あらゆる社会問題がある。政治的紛糾もある。戦争もある。だがあえて書けば、それらはけっきょく最後は「忘れる」ような関心なのだということ。「そうだったのですね……失望しました」 露悪的なのではない。大きな問題にとらわれて、「人は、小さな苦しみを見過ごすようにできている」のだった。自分自身の問題を捨象した。隣人の境遇に注意を払わなかった。「そうです。それらはみな免罪符です」 自分で自分に発行するのだが、発行元は別の名前が書いてあるだろう。「しかしそれは幻視です」
———————————————————--
・やるべきことは、単純です。芸術の複雑性によって、政治の単純性を押し返すことです。日常生活からそれははじまっています。通俗的なんだよ、つまらねえ そう感じるはめになります。芸術には毒があり、ふつう、そう感じるはずです。政治は通俗的です。政治を芸術的に高度にする、それが「政治と文学」における夢でした。
・己と己が、複数となりマウントをとります。己が単一で、ひとり思い悩んでいるようなのは、それ自体単調なのです。己Aが己Bに対してマウントをとって、また己Bがそれにやりかえす。そのような上下運動が要求されます。己Aと己Bの対話や論争に、可能性を見てください。そこからはじまります。
・いまは、すべてが政治的になりすぎました。「政治的」というのは単純ということです。奥行きがなくなってしまった。芸術は「つくる側」も問題ですが「観る側」も問題なのです。芸術をとりまく、環境それ自体が不毛になっています。あらゆることに対して、ていねいに時間をかける体勢がなければ、なにごともインスタントで刹那的になっていきます。それを避ける必要があります。不要不急の思想とは、その意味で、「一瞬にして役に立つと判断できるものだけを優先せよ」というメッセージで構成されています。そして返す刀で、自分自身が傷つく。そもそも人間性の大部分は不要不急です。芸術とは、そのような不要不急の人間性から生まれ出るものです。宗教もそうだし、単純な善悪でくくれるものではありません。人間は善なのか悪なのか。こいつは正しいのか間違ってるのか。どちらとも言えるし、どちらでもないとも言える。「ある宗教がカルトで悪だ」とか、「反社会的集団だ」と声高に叫ぶのは芸術的立場と言えないでしょう。その種の懸念がずっとあります。政治的に単純に色分けされた、いわゆる党派的な思考に染まって自足できることは芸術家にとって恥です。
・「恥を知れ」 はい。知ろうとおもいます。「しかし、そんなことは不可能なのだ」「すべてを告白することはできないのだから、お前の恥はさいしょから限定されている。みえるもの、吐露可能性、それははじめから、決定的にデザインされている」
・「きみはなにもしらずに よりそうこともないようだ ひどい ひどいひとね しつぼうしました さよなら」「いんぼうろん で だまされないでね もう ばかのくせに さかしらなくちぶりばっか するからよ」
・自分で自分を傷つけることは言えなければ、相手を傷つける資格が得られないようです。三年前、失望したのは、ぼくの歌が安全な興奮を誘ったことだった。そのときに、ポルノ的な関心にとどまる歌の限界につきあたったとおもう。そこから、方途にくれたが、いままた踏み出さなければ。というか、自分自身が無に帰す。そうじゃなければ。傷つけるのは、自分とともに、世界そのものだろう。
———————————————————--
・現実は複雑だ。想像するしかないことがたくさんある。ゆっくり足跡をたどるような……旅。思いを馳せる。「政治と文学」の問題。戦争と芸術。アート的想像力とか、よく言うし、それは軽率なものと思われている。じっさい危機の際にそれはあきらかになる。ぼくは「芸術は無力だ」と、都合よく言う気になれない。ほんとうに無力だとおもうなら、いますぐやめなければならない。政治がすべての複雑なものを単純に色分けするとき、抵抗する立場をもたないといけない。芸術は、複雑さをあつかう技法だ。人間の複雑さ、社会の複雑さ。音楽の強みと弱みがある。ダンスする集団に属すれば、異なる出自のひととも、共感しあえるという思いを抱く。それは素晴らしく肯定的なことだ。三密を肯定し、集まることの可能性を信じる。それを、安易に否定してはならないとおもった。
コロナ禍。集まることの価値を否定しないでいるには、理念を新たにつかまないといけなかった。不要不急とは、きわめて戦争的な概念とおもう。集まることが禁止されるというのは、戦争的だ。「パレスチナ支持のデモは禁止する」ということをやっている国がある。集まることに、すでに政治性がある。
人間が、ひとつの空間に集まることは、共感の基礎をなす。学校の教室がそうだ。オンライン授業になれば、ひとつの空間にいる必要がない。感染対策とは空間を仕切ることだ。「ぼくとおなじように、あのこもここに存在していて、おなじ空気を吸っている」その感覚。風が吹けば、おなじタイミングで髪を揺らし、地震があれば、「揺れてるね」と同時に感じる。他人の「痛み」は、そういう場所性を基に育まれる。こうした認識は、感覚的な根拠にもとづいている。あるいは、偏っていると言われるかもしれない。一人部屋で不登校で育った子どもには共感性が薄いと? そうではない。教育論が言いたいのだろうか。「コロナ禍に抵抗する」という立場が、自己目的的になっているだろうか。
・「集まることを支持すること」にも様々に濃淡がある。宗教集団のなかには、命より神や信仰が大事だ、という立場もあった。その立場は、今度、戦争局面になれば、敵に対するどのような立場になるか。
「コロナ禍に抵抗する」とは、とどのつまり、「不要不急に抵抗する」ということだ。命を軽視せよ、ということではなく、「命」というなかには、「生命」だけではなく、「宿命」も「運命」も「使命」も「天命」もあるだろうということだ。「祭りに参加するのは、また来年にしようねえ」と言っているあいだに、別の病気で亡くなってしまうかもしれない。高齢者なら、「来年まで我慢しよう」という論理がそのまま通用するか。そうしたことの想像力。「不要不急」で否定されてしまうものは、おおきいのだ。そこにも、不要不急のなかにも、命がある。
・戦争は「SNS戦争」になった。流れる情報は、戦争の一部をなす。アテンション・エコノミー、関心経済のなか、より共感を集めた側が勝利する。そうしたゲームになった。ぼくは、そこに参加はしたくない。だが、強制的にさせられている。「いやいや、そうじゃないでしょ。喜び勇んで参加してるんでしょ? ほら、戦争好きなんだ、けっきょくさ」 ぼくはそうした「かこつけた」自意識を、排除しないだろう。これから先、自分で自分を傷つけないといけないと感じる。いや、それは事実、いままでの経験から言っても、自分を傷つけない表現は他人も傷つけない、と知っている。そして、そうなった表現者は、先細り、「あのひと、昔はよかったのに最近つまんなくなったよね」「初期のあれは好きだったなー」とか、そういう感想になっていく。そういう感想を抱く人物が複数いる。彼らは、いつのころからか、自分を傷つけなくなった。なにかの転機がある。東日本大震災の場合もある。コロナ禍の場合もある。そしてぼくもまた、そうして、自分を傷つけなくなり、「つまらなく」なったひとりだ。それを感じているのは、自分自身だ。
・「あってはならない」 ああ、そうですか? 「その通りですね」 それから?
・コロナ禍で、人が集まることはいったん否定されたとおもう。おもっている。「オンラインで不要不急だ」 それもいいだろう。だがリアルな場で、三密で、文化は生成されるのだ。で……
・時間をかけること。「9・11でアメリカが間違えたのは、悲しむ時間をとらなかったことだ。悲しむ時間をもち、そのあとで作戦を決めていたら、結末はちがっていただろう」 時間をかける? よし、芸術の出番だ。
・そして、「音楽フェスは狙われる」 戻ってしまった。身体をリズムにあわせて揺らし踊ること。共同身体。そこには、快楽がある。
・時間をかけて……なにをするか。悲劇、を見つめる。「人が死んだ。あそこで。すぐ近くの場所だよ。見えるじゃないか。そういうふうには見えていないから。気づかない? 考えていないのか。気づいていないのか。いやそれは無意味なんだ。不要不急なんだ」
・生きていない人は不要不急だ。死者はそう。不要不急に「寄り添う」のが芸術です、とな? そう言えるだろうか。
・単純に歩んではならない。しかしおっかながって、怠惰に流れるのもよくない。けっきょく、ナタで木を切るようなことになる。それ以外、えらべないだろう。「ナタはださいだろう。もっとよく切れる刃がいいな」とおもっても、カミソリしか買えやしない。カミソリで木は切れない。
・カミソリばっかり振り回してる。ナタが足りない。「あのナタはひどい。ぜんぜん鈍いじゃないか」と、そればかり他人に言っているような。問い返さなくちゃならない。それで、木は切れましたか?
・さて、「悲しむ時間を設けるために、いかなる準備が必要か」を。そんなことから問うていく。それは、体質の話なんだ。
・なぜ、すぐ報復するか? 慰霊の力より、怒りと懲罰の力のほうがおおきいから、だろうか? 「そんなことを言えるのか、お前さんにな」 いえいえ、とてもそんな……しかし謙譲するマネは生産を避ける免責にも値する。のだから
・慰霊の力や追悼の力はどこいった? 「柳田国男さん」がよく登場し、東北の民俗学的歴史を、説いてくれてました。ついこないだまでのことだ。そんな話はしかし、「バズ」らない。それで、宗教的な国家では、どうなっている? 「コロナ禍でもユダヤ教超正統派のかたがたは、集まっていました。礼拝。命より神のほうが、信仰のほうが重要なのです」 ぼくはそれに、畏敬の念すら抱かん勢いだったが。
・「命より神のほうが大事だ」「よし、相手は殺そう」「異教徒はいらない」そうなるか? ここからどんどん偏見が生成していくだろう。話は打ち切りだ。
———————————————————--
・平和? 無関心でいること。「おまえは興奮しているか」「ポルノがあふれるようなものだ」「身体が変形するとは」「グラフィックな刺激に慣れ親しんではならない」おそらく、実際に現地で悲惨な現場を体験するのと、SNSや映像メディアで切り取られた動画を「視聴」するのは、人間に(それが身体、視聴覚、意識、無意識を負った存在として)あたえる影響は、根本的な面で異なるだろう。「で、それは注意されていますか?」
・そこには裸体があり、血があり、脳髄があり、子どもが泣き叫ぶ。父親が叫ぶ。13才の少女がマイクに向けて平和を訴えるとき、「おまえは状況に興奮するのか?」という声が、あるのかないのか。
・犠牲者意識のナショナリズムにくるまれるとき、そうそのとき、「わたし"たち"は一体です」 一体となった国家体が、敵なる国家体に体当たりします。その結果。炸裂音。爆発にまきこまれました。わたしの祖父は死にました。祖母も死にました。だから私は「生まれていません」 そもそも存在していない存在として、架空の幽霊として、わたしはいる。わたしは「予定されて」はいたが、実際には誕生しなかったのです。命はとだえた。空爆。空襲。おなじことです。言葉づかいは時代によって妙に変形します。ゲリラ。テロリスト。抵抗。報復。テロ。奇襲。
・仮設トイレに銃弾を撃ち込むとき、どういう意識でしたか?「意識はない。加害の意識はない。被害の意識は百倍強いんだ。そう、だから……」 銃弾で人に当てる、弾が飛んでいって人に当たる、そのとき、弾の気持ちではないんですね。銃の気持ち……引き金をひけば弾が飛んでいく。弾は目に見えないしね。バン、といって、人が傷つく。一瞬さね。その「力」に少年は憧れた。正義、ってこれだ。これが正義なんだ。やるしかねえんだ。そう、だから、おもちゃの銃をピコピコ撃つ。本物は?
・間接的な暴力。「いよいよ、きなくさい言葉を率直に使い始めて、あやしさが増してきたねえ」 メディア、媒介。スイッチ、爆破。剣で人を斬りつける、のとはちがった。とおもう。「さあ、わからんね」 ぼくにはわからない。やったことはない。「通り魔殺人だ。ナイフを振り回したのさ。誰に、ってことはないのさ」 理不尽だったから、武器、間接的な、暴力の主体。メディア。俺のメディア。それは、この武器なんだ。ナイフなんだ。「おお、お前はギターをもってたね。それは武器の代わりかい?」 音楽は、太初において、天敵に立ち向かう「武器」技法だった。とすれば、ギターは非武力的な武力というのか
・芸術は、内省力だ。迂回する力だ。直接言わないことだ。「なに言いたいのかわからんね」 それで、すべての間接話法が、内省を経由する。「相手が憎い」「相手が間違ってる」「俺たちが正しい」 コミュニティにおいて、自分たちが主体となって、自分たちを内省する。その作業は、おもう以上にとぼしい。むずかしいんです。日本においても。内省のリーダーはいるか? 内省の習慣を、なくしてしまったようだ。おお、俺自身も。これじゃいけないねって、自明だと。さて
———————————————————--
・自分の現場のリアルを捨象するんですね。こうやって、それで、陳腐になる。ライブをやっている。平和な社会でやっている。そこでの課題は、「平和のなかでの戦争をみつめることです」か。この世界には、あらゆる社会問題がある。政治的紛糾もある。戦争もある。だがあえて書けば、それらはけっきょく最後は「忘れる」ような関心なのだということ。「そうだったのですね……失望しました」 露悪的なのではない。大きな問題にとらわれて、「人は、小さな苦しみを見過ごすようにできている」のだった。自分自身の問題を捨象した。隣人の境遇に注意を払わなかった。「そうです。それらはみな免罪符です」 自分で自分に発行するのだが、発行元は別の名前が書いてあるだろう。「しかしそれは幻視です」
———————————————————--
・やるべきことは、単純です。芸術の複雑性によって、政治の単純性を押し返すことです。日常生活からそれははじまっています。通俗的なんだよ、つまらねえ そう感じるはめになります。芸術には毒があり、ふつう、そう感じるはずです。政治は通俗的です。政治を芸術的に高度にする、それが「政治と文学」における夢でした。
・己と己が、複数となりマウントをとります。己が単一で、ひとり思い悩んでいるようなのは、それ自体単調なのです。己Aが己Bに対してマウントをとって、また己Bがそれにやりかえす。そのような上下運動が要求されます。己Aと己Bの対話や論争に、可能性を見てください。そこからはじまります。
・いまは、すべてが政治的になりすぎました。「政治的」というのは単純ということです。奥行きがなくなってしまった。芸術は「つくる側」も問題ですが「観る側」も問題なのです。芸術をとりまく、環境それ自体が不毛になっています。あらゆることに対して、ていねいに時間をかける体勢がなければ、なにごともインスタントで刹那的になっていきます。それを避ける必要があります。不要不急の思想とは、その意味で、「一瞬にして役に立つと判断できるものだけを優先せよ」というメッセージで構成されています。そして返す刀で、自分自身が傷つく。そもそも人間性の大部分は不要不急です。芸術とは、そのような不要不急の人間性から生まれ出るものです。宗教もそうだし、単純な善悪でくくれるものではありません。人間は善なのか悪なのか。こいつは正しいのか間違ってるのか。どちらとも言えるし、どちらでもないとも言える。「ある宗教がカルトで悪だ」とか、「反社会的集団だ」と声高に叫ぶのは芸術的立場と言えないでしょう。その種の懸念がずっとあります。政治的に単純に色分けされた、いわゆる党派的な思考に染まって自足できることは芸術家にとって恥です。
・「恥を知れ」 はい。知ろうとおもいます。「しかし、そんなことは不可能なのだ」「すべてを告白することはできないのだから、お前の恥はさいしょから限定されている。みえるもの、吐露可能性、それははじめから、決定的にデザインされている」
・「きみはなにもしらずに よりそうこともないようだ ひどい ひどいひとね しつぼうしました さよなら」「いんぼうろん で だまされないでね もう ばかのくせに さかしらなくちぶりばっか するからよ」
・自分で自分を傷つけることは言えなければ、相手を傷つける資格が得られないようです。三年前、失望したのは、ぼくの歌が安全な興奮を誘ったことだった。そのときに、ポルノ的な関心にとどまる歌の限界につきあたったとおもう。そこから、方途にくれたが、いままた踏み出さなければ。というか、自分自身が無に帰す。そうじゃなければ。傷つけるのは、自分とともに、世界そのものだろう。
———————————————————--
・現実は複雑だ。想像するしかないことがたくさんある。ゆっくり足跡をたどるような……旅。思いを馳せる。「政治と文学」の問題。戦争と芸術。アート的想像力とか、よく言うし、それは軽率なものと思われている。じっさい危機の際にそれはあきらかになる。ぼくは「芸術は無力だ」と、都合よく言う気になれない。ほんとうに無力だとおもうなら、いますぐやめなければならない。政治がすべての複雑なものを単純に色分けするとき、抵抗する立場をもたないといけない。芸術は、複雑さをあつかう技法だ。人間の複雑さ、社会の複雑さ。音楽の強みと弱みがある。ダンスする集団に属すれば、異なる出自のひととも、共感しあえるという思いを抱く。それは素晴らしく肯定的なことだ。三密を肯定し、集まることの可能性を信じる。それを、安易に否定してはならないとおもった。
コロナ禍。集まることの価値を否定しないでいるには、理念を新たにつかまないといけなかった。不要不急とは、きわめて戦争的な概念とおもう。集まることが禁止されるというのは、戦争的だ。「パレスチナ支持のデモは禁止する」ということをやっている国がある。集まることに、すでに政治性がある。
人間が、ひとつの空間に集まることは、共感の基礎をなす。学校の教室がそうだ。オンライン授業になれば、ひとつの空間にいる必要がない。感染対策とは空間を仕切ることだ。「ぼくとおなじように、あのこもここに存在していて、おなじ空気を吸っている」その感覚。風が吹けば、おなじタイミングで髪を揺らし、地震があれば、「揺れてるね」と同時に感じる。他人の「痛み」は、そういう場所性を基に育まれる。こうした認識は、感覚的な根拠にもとづいている。あるいは、偏っていると言われるかもしれない。一人部屋で不登校で育った子どもには共感性が薄いと? そうではない。教育論が言いたいのだろうか。「コロナ禍に抵抗する」という立場が、自己目的的になっているだろうか。
・「集まることを支持すること」にも様々に濃淡がある。宗教集団のなかには、命より神や信仰が大事だ、という立場もあった。その立場は、今度、戦争局面になれば、敵に対するどのような立場になるか。
「コロナ禍に抵抗する」とは、とどのつまり、「不要不急に抵抗する」ということだ。命を軽視せよ、ということではなく、「命」というなかには、「生命」だけではなく、「宿命」も「運命」も「使命」も「天命」もあるだろうということだ。「祭りに参加するのは、また来年にしようねえ」と言っているあいだに、別の病気で亡くなってしまうかもしれない。高齢者なら、「来年まで我慢しよう」という論理がそのまま通用するか。そうしたことの想像力。「不要不急」で否定されてしまうものは、おおきいのだ。そこにも、不要不急のなかにも、命がある。
・戦争は「SNS戦争」になった。流れる情報は、戦争の一部をなす。アテンション・エコノミー、関心経済のなか、より共感を集めた側が勝利する。そうしたゲームになった。ぼくは、そこに参加はしたくない。だが、強制的にさせられている。「いやいや、そうじゃないでしょ。喜び勇んで参加してるんでしょ? ほら、戦争好きなんだ、けっきょくさ」 ぼくはそうした「かこつけた」自意識を、排除しないだろう。これから先、自分で自分を傷つけないといけないと感じる。いや、それは事実、いままでの経験から言っても、自分を傷つけない表現は他人も傷つけない、と知っている。そして、そうなった表現者は、先細り、「あのひと、昔はよかったのに最近つまんなくなったよね」「初期のあれは好きだったなー」とか、そういう感想になっていく。そういう感想を抱く人物が複数いる。彼らは、いつのころからか、自分を傷つけなくなった。なにかの転機がある。東日本大震災の場合もある。コロナ禍の場合もある。そしてぼくもまた、そうして、自分を傷つけなくなり、「つまらなく」なったひとりだ。それを感じているのは、自分自身だ。
10月13日
・あれがあれであれだ。世界はたいへんだ。自分もがんばらねばいけないとおもう。
・映画『ガザの美容室』みた。
・政治と離れることができるかできないか。
・X(旧Twitter)でさまざまな意見、論争めいたもの。情報も戦争の一部をなす。 さかしらに
・支援する。お金を送る。でもそのお金がどう使われるかは、もらった側次第である。この構図は、いろんなところにあるだろう。
・情勢。自分は? 言えることはなにもない。言ってもしょうがない。最近、あるのは、無気力感だろうか。アノミー。「政治的鬱」と。ね。は。気取ってる。気取るのはよくないことだ。と言いつつ、帽子をかぶってポーズをとる。そうではなくてね。 日常に暮らす人がいて彼らはかわいそうだとおもっただからわたしはそっちに同情もしたのだが _| ̄|○ それで、おおきな見取り図。見落とすものがあっただろう。フォーカスする。虫の目。それで、「おまえはカブトムシだがおれはスズメバチなんだよ」と、スズメバチからの抗議がきて、「うっさいな」と耳を閉ざしたりだ。「AI。テクノロジー。ほらみろ。やっぱり管理抑圧のために使われてるじゃないか。ロクなもんじゃねえ。全部反対だ!」とな。となるだろうか? 短絡が生むつぎの無理解と混乱に警戒すべきだ。そうおもった。
・さかしらになるばかりだ。うんざりした。精神が劣化してるんだ。そうとしかおもえない。「いまはね、なんかね、やっぱ現実と縁遠いというんですかね、なんかネットでね、バーチャルで。すましてるっていうかね。それで悪はまあ悪だからね。会わなくてもわかるでしょなんて言うんですよね。それでいうとね、まだ昔のほうがまともだった気がしますよ」 アナクロニズムか? れっきとした老害として生きていこう。なんてなあ。そう気取れるほどには老いてもなく、老いを演じるほかないのだが。
———————————————————--
・この場所に「書く」ということが、困難になる。一応、誰でも読める場所だから。誰も読まない、自分しか開かないアナログノートになら、好きなことが書ける。そっちではある意味「くつろいで」いる。素直な感情も吐露できる。「HP」「ブログ」「SNS」 読まれる/見られることを前提に、かこつける。そこに自己ツッコミはあるか? それとも自己ツッコミ「過剰」か?
・書けない。だから書いている。言えない。だから言っている。
・辰巳台は京葉臨海工業地帯ができるとき、住宅地として整備された場所だと知った。戦後の団地。戦争による大量死のあとの大量生。傍らにある神社にいく。「祈る」ポーズをとっておもう。勇気が大切だ。
・映画『ガザの美容室』みた。
・政治と離れることができるかできないか。
・X(旧Twitter)でさまざまな意見、論争めいたもの。情報も戦争の一部をなす。 さかしらに
・支援する。お金を送る。でもそのお金がどう使われるかは、もらった側次第である。この構図は、いろんなところにあるだろう。
・情勢。自分は? 言えることはなにもない。言ってもしょうがない。最近、あるのは、無気力感だろうか。アノミー。「政治的鬱」と。ね。は。気取ってる。気取るのはよくないことだ。と言いつつ、帽子をかぶってポーズをとる。そうではなくてね。 日常に暮らす人がいて彼らはかわいそうだとおもっただからわたしはそっちに同情もしたのだが _| ̄|○ それで、おおきな見取り図。見落とすものがあっただろう。フォーカスする。虫の目。それで、「おまえはカブトムシだがおれはスズメバチなんだよ」と、スズメバチからの抗議がきて、「うっさいな」と耳を閉ざしたりだ。「AI。テクノロジー。ほらみろ。やっぱり管理抑圧のために使われてるじゃないか。ロクなもんじゃねえ。全部反対だ!」とな。となるだろうか? 短絡が生むつぎの無理解と混乱に警戒すべきだ。そうおもった。
・さかしらになるばかりだ。うんざりした。精神が劣化してるんだ。そうとしかおもえない。「いまはね、なんかね、やっぱ現実と縁遠いというんですかね、なんかネットでね、バーチャルで。すましてるっていうかね。それで悪はまあ悪だからね。会わなくてもわかるでしょなんて言うんですよね。それでいうとね、まだ昔のほうがまともだった気がしますよ」 アナクロニズムか? れっきとした老害として生きていこう。なんてなあ。そう気取れるほどには老いてもなく、老いを演じるほかないのだが。
———————————————————--
・この場所に「書く」ということが、困難になる。一応、誰でも読める場所だから。誰も読まない、自分しか開かないアナログノートになら、好きなことが書ける。そっちではある意味「くつろいで」いる。素直な感情も吐露できる。「HP」「ブログ」「SNS」 読まれる/見られることを前提に、かこつける。そこに自己ツッコミはあるか? それとも自己ツッコミ「過剰」か?
・書けない。だから書いている。言えない。だから言っている。
・辰巳台は京葉臨海工業地帯ができるとき、住宅地として整備された場所だと知った。戦後の団地。戦争による大量死のあとの大量生。傍らにある神社にいく。「祈る」ポーズをとっておもう。勇気が大切だ。
・「パレスチナが武器を捨てれば平和になる。イスラエルが武器を捨てれば消滅する」という言葉を聞いた。
・「はい。情報収集します。Twitter、あ、Xです。はいはい。YouTubeでみましたよ、その番組。むごい映像が出回ってますねーメンタルヘルスに関わるから、見ちゃだめですよ!」
・侵攻。「南へ移動してください」 歩いて? 無理だ。「国際法違反です」 なりふりかまわない。
・音楽フェス(レイブパーティ?)が標的になった。そのことについて、考える言葉がない。歌を歌うときにおもう。「これはここ(日本)でも起こり得ますか?」起こってしまってはならない。「外国ならいいですか?」
・「爆撃はしました」「中国でしました」「戦争犯罪はしました」「されました」「爆撃は受けました」
・千葉空襲の碑があって、それを見る。「戦争」で画期された歴史が堆積されている。
・「西側はああなのですか? あれでいいのか。一枚岩? パワーゲームだ」
・「日本人は、自信をもってください。力があります。先進国です。そして中立です。橋渡しができます」
・2009年の民主党マニフェストには、イスラエルとパレスチナ間の中東和平がふれられている。そうしたスケール感は、この10年で、どこにいったか。勇気? それはなんだろう。どこへ向かう勇気か? 方向性は、外だけではなく、内にもある。
・「世界と拮抗していますか?」
ーーー
・「統一教会です。あなたは、信仰の自由を守るつもりはありますか?」 わたしはそのことにふれていない。「とんでもない。政治と宗教の癒着ゆるせない。被害を、救済すべきだ」
・顕現された被害と、顕現されない被害。
・「自由を守る立場が、左派? リベラル? ねじれっちゃってねえ、むずかしくなったわい。そんな述懐も、かぎかっこのなかにくくられて。う」
・「はい。情報収集します。Twitter、あ、Xです。はいはい。YouTubeでみましたよ、その番組。むごい映像が出回ってますねーメンタルヘルスに関わるから、見ちゃだめですよ!」
・侵攻。「南へ移動してください」 歩いて? 無理だ。「国際法違反です」 なりふりかまわない。
・音楽フェス(レイブパーティ?)が標的になった。そのことについて、考える言葉がない。歌を歌うときにおもう。「これはここ(日本)でも起こり得ますか?」起こってしまってはならない。「外国ならいいですか?」
・「爆撃はしました」「中国でしました」「戦争犯罪はしました」「されました」「爆撃は受けました」
・千葉空襲の碑があって、それを見る。「戦争」で画期された歴史が堆積されている。
・「西側はああなのですか? あれでいいのか。一枚岩? パワーゲームだ」
・「日本人は、自信をもってください。力があります。先進国です。そして中立です。橋渡しができます」
・2009年の民主党マニフェストには、イスラエルとパレスチナ間の中東和平がふれられている。そうしたスケール感は、この10年で、どこにいったか。勇気? それはなんだろう。どこへ向かう勇気か? 方向性は、外だけではなく、内にもある。
・「世界と拮抗していますか?」
ーーー
・「統一教会です。あなたは、信仰の自由を守るつもりはありますか?」 わたしはそのことにふれていない。「とんでもない。政治と宗教の癒着ゆるせない。被害を、救済すべきだ」
・顕現された被害と、顕現されない被害。
・「自由を守る立場が、左派? リベラル? ねじれっちゃってねえ、むずかしくなったわい。そんな述懐も、かぎかっこのなかにくくられて。う」
9月27日
- いくつかメモ。関東大震災時の朝鮮人虐殺、その証言を朗読した催しの動画。毎日新聞がアップしている。とてもよい(という言い方がいいかわからないが)内容で、聴けてよかった。【証言朗読ノーカット】朝鮮人虐殺、若者らが独自の追悼式 「100年で終わりではない」 - YouTube
- ジブリが日本テレビの子会社になる、というニュースは映画(『君たちはどう生きるか』)の指し示したイメージどおりだなあ、という印象をうけた。
- ジム・オルークが石橋英子と語る、音楽を取り巻く「少し変」なこと。音楽体験を拡張する環境と文脈の話 | CINRA 批評がない。音楽家のリレーションシップがもっとあっていい。そうですよね、というインタビュー。文脈がない、という話は、音楽にかぎらずあらゆるジャンルでいわれていること。歴史、正史がない。いまと過去の区別、時代ごとの区別がない。サブスク文化、情報コンテンツ化が、副作用として消してしまったものがあること。このへんは、教育の話でもある。日本は特に、政治社会ふくめて過去を覚えて位置づけることが苦手な国になりつつある。
- 「県外リスク」強調、注がれた冷たい視線 医療人類学で考える境界:朝日新聞デジタル コロナ禍という直近の過去(というか、現在もまだ進行中の出来事)も、早速忘却している。忘却している、というより、忘却したいかんじだ。「忘れる」ことが「前を向く」ことと同義になっている。確かにその側面はある。忘れないとどうしようもない、というやつだ。じっさい様々なことば(コロナ用語、概念)を忘れつつある。クラスター、新しい生活様式、接触8割減、緊急事態宣言、まん延防止措置、ステイホーム、自粛、ソーシャルディスタンス、医療崩壊、第◯波、ワクチン、マスク、三密……。
忘れて前を向くことも、必要だろう。同時に、コロナ禍の検証や総括も必要だろう。凡庸だがそうおもう。このところ、その二項対立?について考える。未来か過去か、という二項対立は対立ではなく両立させるべきだと。 - 「消えた幕張新都心の謎を追え」幕張新都心まちづくりPR 楽しみながら幕張新都心の歴史と今を知ることができるコメディドラマです。#小島よしお #今城沙耶 #HAYATE - YouTube 先日幕張ベイタウンにはじめていった。埋立地の歴史にだんだんと関心が出てきた。動画は、小島よしおが過去からの使者みたいなかんじで、いまの幕張を呪おうとする、みたいな設定で、その問題設定はおもしろいんだけど、結論に違和感が拭えない。動画は、現在の幕張新都心の成り立ちを説き、そこに誇りないし自信をもたせたいのだろうけど、すこし、ナイーブすぎるんじゃないかとおもってしまった。「こんな海の上にできたなんの歴史もない街」という小島よしおのセリフは、埋立地に住む人々が無意識に感じている、過去からの声だろうと想像する。埋め立てにまつわる罪障感はどこかにのこるんだろうとおもう。ただ、それを善悪の問題にするのではなく、歴史として引き受けていくのがベターだし、未来の分厚さにもつながるんじゃないか。そんな簡単なことを考えてしまうのだった。もちろん、ぼんやりした関心とともに感じたことにすぎないけれど。
- 椎名誠さんが東京新聞に連載していた、幕張にまつわる記事はおもしろそうだ。失われた情景 何億もの命の音が消えていた:東京新聞 TOKYO Web リンク先は「消えた海の命」という内容で、さきの「罪障感」を為す要素の典型だろうが、他の記事では漁業者への補償金など、単純な善悪やイデオロギーには依らない内容で、おもしろい。
ちょい見せ【月刊埋立地】埋立地 1979 〜海の廃墟から始まる人工大地の物語〜(東 健一) - ちばみなとjp 『埋立地』というローカル雑誌があって、それを手に入れて読みたい。 - 総じて、近現代の過去をどういまにつなげ、未来につなげていくか。そこが課題になっているとおもう。だからぼくもそこの課題になんらか貢献したい。歌や音楽にできることは、じつはけっこうある。
- 目前のライブを通じて、少しづつそうした目標に近づいていきたい。より多くの曲をつくっていきたいし、それらを見てほしいとおもう。
- 補足。うえに「ナイーブすぎる」と書いたけど(幕張の動画について)、それは「負の歴史・過去(のようなもの」について、それをマイナスのものとしか捉えられない硬直、ともいえる。関東大震災の虐殺でも、戦中の加害でも、それをしっかり記憶することはいまや未来にとってマイナスにはならないはずだ。というか逆に、忘れて見ないでいるほうが結果的にマイナスになるとおもう。あと、コロナについてもだけど、「過去を振り返って立ち止まるな、未来に前を向いていこう」というのは半分正しいけどもう半分は、それだけだと「いま」も未来から切り捨てられるだろうということだ。その言い方もナイーブすぎるが。要はなにも歴史が積み上がらず、長期的には無気力感にさいなまれるハメになる。いま、そういう時代の空気を感じてもいる。それはさけたい、というのがぼくの立場だ。都合のいいことだけ記憶し、都合の悪いことは忘れる、みたいなことができるように人間はできてない。両方記憶しないとそもそも過去がなくなってしまう。それは長期的には絶望を招来することになる、というのがいまのぼくの考え方なのだ。
9月7日(木)
- いろんなことが、ある。ひとつどころにとどまって。あまり意味のないこと、意味の重いこと。表出できること、表出できないしたくないこと。
- 「それでお前はなんなんだ?」赤い帽子をかぶった男が訊く。男はコンビニの駐車場にしゃがみこんでいる。男はタバコを吸っている。缶コーヒーを地面に置いて灰皿代わりにしている。今どき野蛮な、昔ながらのスタイルで、ぼくは男の様子に違和感をおぼえる。お前はなんなんだ、と訊く以前に、あんたはちょっと時代錯誤だろう、と。
男は「なんなんだ、お前は?」としつこく訊いてくる。しかたなく、応えなければならない雰囲気になる。しかし、応えるべき内容がおもいつかない。ぼくは、なんでもない人間だ。いまここで、特に目立った行動もしていない。ぼくはコンビニにコーヒーを買いに来ただけなのだ。紙コップを買って、コンビニ内のコーヒーメーカーで自分で注ぐスタイルだ。
男の缶コーヒーはマックスコーヒーなので、過去から来た男なのかもしれない。きっとそうだ。そういうことがたまにある。それが街のおもしろいところだ。予想できないし、コントロールできない。 - 「赤い帽子をかぶった男」は、サリンジャー主義者である可能性がある。どこかで、誰かが、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドのかぶっている赤い帽子は、トランプがかぶる赤い帽子のルーツなのだ、と言っていた。そうなのか。アメリカという国が、戦後の日本のなかで、生きている部分がある。それはいわく言い難い。赤い帽子には愛国的なニュアンスがあり、ニセモノを嫌いホンモノを愛する志向があり、無垢なるものを守らんとする意志がある。マックスコーヒーは千葉のコーヒーだ。「赤い帽子をかぶった男」は、千葉を愛する男かもしれない。
- 千葉を愛する、ということが、わからなかった。長いあいだ、わからなかった。「愛する」には、「もともとのかたち」のようなものが必要ではないか? 千葉に、それがあるか。千葉の、「もともとのかたち」のようなものが、わからない。
- もともとのかたちを探す。それが、ルーツ探しっつうもんで。「ニセモノ」を指差すには、「ホンモノ」を見定められなくてはならないわけで。その「ホンモノ」のかけら、ピースを、探して、つぎはぎする。時代も位置も異なる、ばらばらのピースを、つぎはぎして、ある程度のおおきさ(人がみてそれがなにかわかるほど)のかたちにする。それって、ある種、半分は、創作であり、いま抱いている主観を投影したのものにならざるをえない。だが、それしかできないのだ。赤い帽子をかぶった男が苛立つのは、誰もそれをやらないからだ。
9月3日(日)
- 8月27日はサーキットフェスだった。CRUISING CHIBA 2023。よかったなあ。コロナ禍を経て、「あつまる」「しゃべる」「ライブをみる」「うごく」などなどが、また。
- 9月1日はニシキフェスだった。千葉をアツくする男、ニシキオリタカツグ。楽しかった。
- こういうイベントを大事にしていきたい。「お前ももっとがんばれ」と言われるだろうが、そのとおりだ。
- 適当なメモとして書くと、訂正可能性とはアメリカっぽさなのだとおもう。消費文化がアメリカっぽさで。ぼくら戦後生まれの日本人は、みな無意識下にアメリカっぽさの影響を受けている。
- そのアメリカという国の詩表現の源流に、ホイットマンという詩人がいて、彼は民主主義論者でもあった。「詩」が、「社会」をあらわし、それのみならず、「社会」を革新するツールとして用いられた。
- 日本は自然の国で、アメリカは人工の国で、といったらおおざっぱすぎるけど、両者のハイブリッドを意識しなければいけないんだろう。加藤典洋の『アメリカの影』を読む。川端康成が戦後「国破れて山河在り」をよりどころにしたが、高度経済成長を遂げ、自然を喪失し、よりどころもなくした。代わってそこを埋め合わせるのが、消費資本主義だが、日本人は、その「消費社会」の光景を「自然物」と同じように認識しがちだった。そうなると、いきおい、「自然物」を意識的に改築したり、維持したり、操作したり、これに置き換わるものをつくろうという意志力が弱くなる。天然自然だったら、それは人間の個体の生のスケールを超えて存続する。消費社会の人工「自然」はそうではない。そのあたりから、虚無感が胚胎し、閉塞感が生じ、時代は煮詰まり、となってくる。X(ツイッター)のほうに「ファスト風土」について書いたけど、最近考えているのはそのへんのこと。課題、それは「人工」意識。つまり、「いまある文化や風景や街は、人間の手によってつくられた。したがって人間の意志力によってメンテナンスされ、つくり替えつづけなければならない」ちゅうことだ。これを放棄したらいけないんだってことなんだけど、ぼくらがそもそも「人工」意識を忘れてしまって、どうしたらいいかわかんなくなってた。それじゃいけない。ということで、「アメリカっぽさ」に戻る。アメリカっぽさは、人工の意志の象徴。歌や詩は、そのとき、役割をもっている。
8月27日(日)
- 例の処理水問題について考えていた。もはやほとんどの人がこうした話題にふれない。民主主義が「自分にできることはなにか」と自己に問うことが基盤になるとすれば、いわゆる「風評被害」にたいしては「魚を食う」ことがひとつの行動になる。処理水を「汚染水」と呼ぶだけで、政治的立場を表明することになる。この問題は、わかりやすい政治的色分けに利用されたり、それに巻き込まれたりする厄介なトピックとなっているように見える。ぼくは、この情況のなかでなにがいちばん大切だろう、と考えたい。「対話」か? それとも、「粛々と物事を前に進めること」か? そのとき、音楽や文学は、政治からこぼれ落ちるものを扱う。現実から無視されるものを扱う。詩は、役に立つといえば役に立つ。役に立たないものの側にしゃがみこむことによって。そのとき、「役に立つ/役に立たない」といった言葉づかいは、もうしなくなっている。水の淵に立つ。水の底を覗き込む。そこに沈む人がいる。それは自分だった。そして見知らぬ人だった。いや人だけでもなかった。記憶が沈み込んでいた。記憶はいまはもう生きていなかった。生きていない記憶のノートを開いて、それを読む行為は、じっさいはそのノートに自分の言葉を書き連ねる行為だ。
- とにかく、もっと、よくなってほしいと思ってる。この国が。話すべきことを話さず、話さなくていいことばかり話してるような、そういう情況がある。それを、変えなくちゃいけない。そうしないと、希望なんてもてない。そっちの方向が必要なんだ。
- 中国の対応、韓国の対応。日本。ここから下手にナショナリズムを盛り上げてもしかたない。融和。平和。……平和というのは、あいまいさを許容させる。平和は、理屈より、親密さを成立させる。いま、平和の態度は難しい。SNSでは難しい。人と人が対面して落とし所をさぐるようなことが、平和への道だろう。非接触ではなく接触の、人間的な、古い動物的な感性、身体的な次元で成り立つようなものだろう。人質を解放させたアントニオ猪木を思い出す。なにかしらのマジック。人々の意識の変化は、平和を難しくもさせている。
8月19日(土)
▼ライブの感想
▼以下雑談。HPとかSNSとか、半開放とか空気とかWEB2.0とか
- ごりった。ゴリトラマン。町田桃子さんは集合写真には写っておらず、写真代役でロボさん。
- 町田桃子さん。フォーク。友川かずきさんのカバーで「ワルツ」。一曲目は「日本のいちばん長い日」にインスパイアされたと。MCもおもしろかった。ごりらの赤ちゃん。ぼくと好きなジャンルが似てそう。
- 鈴木大夢さん。一年前の七月に、稲毛K'sDreamで対バンする予定だったのがぼくの体調不良キャンセルで逃していた。ライブ、バリッと決まってて、流れも構成されていて、かっこいい。全体のデザイン。ラップっぽい歌詞も印象的でした。
- ツチハシノブユキさん。久しぶりに会えてうれしかった。相変わらずのポップおじさん。今日は立って歌ってらした。ビートルズ、オアシス。ツチハシさん、話すとシャイというのかおもしろい。つねに前向きなエナジーがあって好き。
- 今西太一さん。MC、トガッてますよね。年を重ねるほどにピュア。演奏も歌もばっちこいの気合い。気合いを充填されました。「俺を倒してからいけよ」ってね。で、「チャック・ベリーのセッションや」いうて、即興飛び入りセッション開始。ツイッター(X)に一部動画があがってた。楽しいね、ああいうの。感謝です。
- 沼田は 1.フェスティバル 2.金の切れ目(仮) 3.千葉の先生の歌(仮) 4.あなたが好き(即席ソング) 5.エンヤコラブルース 6.小さな歌 でした。もっとギターも歌もハーモニカも、日々向上したい。日々のルーティンが安定するように努力である。自分のアイデンティティというのはつねに更新しつづけるものなんだね。変化と持続。
- 新曲はぱぱっと書けるようなスタイルをつくろうとしている。作詞の方法論を開拓している。フォークにせよロックにせよブルースにせよ、肝心なところはそれがアメリカ文化から来ているということだった。そこらへんが、ようやく最近わかりはじめてきた。
▼以下雑談。HPとかSNSとか、半開放とか空気とかWEB2.0とか
- WEB上にも空気がある。ここ(個人HP)とツイッター(X)、note、Tumblrなんかもそれぞれちがう。このHPは一番隔絶できるし私的な領域。SNSはやっぱり、広場に近づく。
- 画像に吹き出しをつけてポップにしてみた。こういうの、恥ずかしいじゃないですか。なにやってんだろうって。自撮りだしね。
- ただこういうのも、空気を読んだ上での文体(スタイル)なんだなと。空気を読むって、なんか嫌な言葉だけどね。このHPで吹き出し画像のっけても、もともと「自分の部屋」みたいな場所だから、変なんだよね。半分自分に見せるような日記なわけで。外向きの広報と、半プライベートな文体がかみあわない違和感。
- 油断できるんですよ。意味ないこと書ける。そういう、いわゆる心理的安全性が高いともいえる。「半開放、半閉鎖」のあいまいな領域で、おもしろい表現が生まれてきたという感覚があるから、こういうスタイルを保ちたくなるんだな。もう、他に誰もやらなくなってしまったし。
- noteはいいけど、やっぱり前提がだいぶちがう。カクヨムとかもふくめ、ああいう創作系プラットフォームは、アルゴリズムが関与してるし、ユーザーに与えられた選択肢しかできない。無料ユーザーというのは、じっさい立場の弱いものだ。僕らは半分プラットフォームにタダで貢献しながら、その恩恵にあずかる……という意味で、共依存的だ。ツイッターがXになったように、オーナーの方針が変われば景色も変わるし、なんなら将来消滅する可能性もある。そのとき、あずけたデータも全部消える。僕らは、自分がツイートしたテキストデータすらもっていないのだ。なにも所有せず、情報を送り続けるのみのありかたを、僕らは当たり前のように選択している。WEB2.0は「個人がデータを所有せず、プラットフォームに依存する」時代だった、といえるかもしれない。
8月17日(木)
・ここはWEB1.0なんですね。SNSはWEB2.0で。noteとか、やってみたいけど、ああいう場所で書くのってちょっとぼく無理なんですね。苦手。なんだろう、雰囲気がね。昔の静かな感じならいざしらず。WEB1.0の静的なテキストサイト、ホームページ。やっぱこれが居心地いい。どうでもいいこと勝手に書ける、プレッシャーのない場所なんですね。
・でも、やるかもしれん。いまさらWEB2.0を毛嫌いしててもしょうがない。WEB3というのはまだよくわからないな。
・でも、やるかもしれん。いまさらWEB2.0を毛嫌いしててもしょうがない。WEB3というのはまだよくわからないな。
8月15日(火)
1
2
3
4
- 終戦、もとい敗戦記念日。1959年の映画『人間の條件』の第一部を見るなど。主体性あふれる主人公「梶」の造形。これは「戦中日本にこのような人間がもしいたならば」の意味があるのかな……と思いきや、原作の五味川純平の実体験がもとになっていると知る。梶は満州の鉱山工人の労務管理をする。つまりマネジメント。これも戦中日本の没論理、非合理からくる非人間性をつく意味合いかなとはじめ思った。
- アメリカの合理性。若い人工国家を束ねるには、強烈なナショナル・アイデンティティがつねに必要となる。それだからこその記念碑、博物館、追悼施設の充実。ペンタゴンの911追悼施設のウェブサイトを見ても、彼らはナショナルな想像力を臆面もなく前面に立たせる。国の団結のために歴史の物語が重要で、犠牲者はヒーローとされる。日本人からみると、いささかグロテスクにみえないこともない。しかし、本来はこのくらいのナショナルな力が駆動しなければ、国家大のことはなにも進められないと、いち日本人としては切に感じる。こう書くとまるきりの保守だが。
- 右とか左とかではない。『人間の條件』を少し見て感じたのは、主人公梶の主体性、意志力、行動力によって現実に働きかける態度は、もっぱら内省的な戦後文学のありようとは異質で、それもあって五味川純平は文壇から無視されたのかな、ということ。梶の「ヒューマニズム」は、どちらかというとアメリカ的なものに近いようにも見える。アジア的、ではない。日本ではみな「しょうがなかった」「言われたとおりやらなければ、俺が殺されていた」などと弁解する局面で、梶は具体的に反論もし、抵抗もする。軍隊ではなく、会社組織であることも大きいだろう。
2
- 14日は千葉で映画を三本も観た。一日に映画館でそんなに観るのははじめてだった。一本目は『アウシュヴィッツの生還者』それから『バービー』『クレヨンしんちゃん 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』と観た。
- 『アウシュヴィッツ』、原題「Tha Survivor」感動的だったなあ。当然、悲惨な内容で、ほんとうにこんなことが現実に……とめげてくるようなショックがあったんだけど、後半、親子のテーマにうつり、父となった主人公ハリーの、ずっとひきずっていた過去との、その向き合い直し、過去の訂正、そしてそこから、家族のありかたも変化していく——そうして、「サバイブ」の意味も縦にのびる。過去から未来へ。
- その直後に観た二作、『バービー』『クレヨンしんちゃん』も、ある種「子どもが大人になる話」だと言えたけど、『アウシュヴィッツ』にあるような縦の伝達の話が、いま観たかったと気づいた。つまり、自分=主人公が「娘・息子・子ども」だけではなく、「父・母・親」でもあるような話。
- 『クレヨンしんちゃん』の悪役の非理谷充も、ジョーカー的な生育を「生き延びる」。あのあと彼はどうなるだろう。「がんばれ」というセリフがネット上で議論になっているけど、彼のその後が気になる。そこからが映画だ、人生だ、といえばいえる気もする。
- 友だち、仲間。『バービー』で「ケンはあなたよ」と、「ぼくはぼくだ」と自己アイデンティティをつかんで、やっと前に進めるのは、横にいる共同体の仲間が贈ってくれる言葉によって。その「言葉」は、仲間からのものでもいいし、本を読んだものでもいいんだろうけど、大事なのはタイミングだよな。ケンにしても、めげてるときに言われたから効いた。挫折のタイミングで。そういうもんだろうし、調子に乗ってるときにはよそからなに言われても聞きゃあしない。
- 三作を観た。ばらばらの三作。そこにある、「年をとる」ことの描写。あるいは、年をとらないこと。バービーもケンもしんちゃんも野原みさえもひろしも年をとらない。だから、年をとる悪役=非理谷充への言葉が残酷に響きもする。しんちゃんは、永遠にあの姿のまま。キャラクターとは、幽霊のようなもので。現実に生きる我々のほうが、非理谷に近い。だから本当は、「がんばれ」と言った後の人生こそが、しんどいが、描かれなければ、もっとしんどいのだ。もちろんクレヨンしんちゃんは子ども向けの作品だから、あそこで終わる。
- 生きるとは、年をとるとは、汚くなることと同義だ。肉体的にも衰えゆく。それを避けることはできない。つるつると加工した見た目だけを手にしても、精神が老いているかもしれない。精神にも若さというものがあって、若さを保つには、精神の老いとはどのようなものか、知ることが必要となる。で、精神の老いって?
3
- 冒頭の写真は12日に行った市原湖畔美術館での高滝湖。展覧会『湖の秘密——川は湖になった』。
- 大岩オスカールさんの大きな絵。養老川のトンネルと、そこから覗くように小湊鐵道、そして工業地帯が描き込まれてる。大岩さんの絵の特徴なのか、人の姿はない。一枚の絵に、「市原」が表現されているようで、感じ入った。
- 土地の物語。そこに生きた「人」の物語。加藤清市さんの写真は、その「人の顔・姿」をとらえている。そうやって顔や姿が見えると気になるのが、その人の「名前」である。名前のほうまでは展示されていなかった。その人がどう生き、どういう家族構成で、なんという名前なのか、そこまで知れるようにするのは、踏み込みすぎだろうか、などと欲張ったことも思った。
- 近くにあったアジフライ料理屋で食ったミックスフライ定食、うまかったな。ごはんのおかわりをタダでしてくれた。「ごはんのおかわりはいかが」と。「おいしかったですか」「また来てくれますか」。「はい」と。
4
- 過去を、どうやって未来につなげるのか? 物語の力を、使うこと。さて我々は、物語を使えているだろうか。物語を、「いまここ」のスナップショットだけではなく、歴史的な厚みをもったスケールで……。
- 強者と弱者でいえば、『クレヨンしんちゃん』の非理谷は弱者で、野原ひろしはもはや中流というより強者側で、『人間の條件』の工人=中国人・朝鮮人は弱者で。それで、「正義の人」「正義の視点」というのは、梶のような、合理性でもって現場をマネジメントする人間の登場によって、やっと(いちおうは)果たされる。梶は介入する。上司に反論もする。工人の擁護もする。その「コミットメント」の意志力、主体性が、いま見ると、まぶしい。こういう戦争映画は、逆に、いまつくられないだろう。梶は加害者でもある。虐待の加担者でもある。梶は苦悩する。
- 非理谷充は、梶のような助けてくれる存在をもたなかった。だがしんのすけによって、はじめて仲間をえた。そこで非理谷は変わるきっかけをえる。ホアキン・フェニックスの『ジョーカー』では、最後まで救われない。母親すらも、自分を騙した存在だった。『クレヨンしんちゃん』のメッセージは、誰かを助けることで、その誰かの人生をいいほうに変えることができる、というものだったと思う。それは、しんのすけのように、意図的でないほうがいい。ただ、仲間だったから、たまたま、仲間になったから、たまたま、いじめられていたから、たまたま、自分がそこにいたから、助けたのだ。しんのすけは、無視はできない。「がんばれ」という野原ひろしらのセリフも、応援する気持ちの表明であって、そんなに悪い意味合いではなかったと感じた。
- 『アウシュヴィッツ』での収容所の描写は、「助ける」なんていう生易しい世界ではなかった。生き延びることは、他者・同胞が「生き延びられなくなる」ことと引き換えだった。主人公ハリーは、戦後の自分の生が信じられずにいた。生き延びた自分を肯定できないでいた。妻と子どもをえたが、荒れていた。その過去が癒やされるのは、同じ苦しみを味わい、戦後も同じ思いをもっていた元恋人との再会を果たして。そしてはじめて、息子に自分の経験を話すことを決心する。
- さて、非理谷充は、誰かに自分の経験を話すことができるだろうか。そこまで彼はどのように、歩いていけるだろうか。彼は、自分ひとりで抱えていた過去、苦しみ、痛み、そこからくる憎しみ、恨みを、しんのすけという偶然の他者に共有されることで、はじめて変わることができる。失敗し、間違え、加害者となった自分を、それでも「仲間」といってくれる人。しんのすけは、なにも考えていない。だからよいのだろう。
- 意味もなく、苦しみを受ける。収容所にいれられる。両親が離婚する。同級生にいじめられる。現実に裏切られる。「苦しみ」は同列ではない。だが、苦しみの無意味さを、べつの有意味さで埋めるのか。それとも、べつの無意味さによって埋めるのか。必然と偶然。運命。「いま」の出会いによって、過去の意味が、苦しみが、色を変える。
- 人間らしさとは「記憶」におおくかかっている。年をとらないバービーは、AIのようなものだ。人間になるとは、老いることであり、死ぬことである。そして「思い出す」存在になることである。その「記憶」は、「いま」によって意味合いを変える。養老川の意味も、沈んだ家々も、ダムの景色も、その物語を、どう語り、どう感じるかその色が変わる。過去を未来に活かすのは、現在を生きる我々次第なんだなと思うた。ぬ
7月13日(木)
・いじめる方にも、いじめられる方にも救いがなくちゃいけない。人が死んで、「自分が死ぬことでそれが抵抗だ、政治だ」ということもあるんだから、死を自己利用して政治をすることもできる。人が怒る。「人をいじめるな」と怒るんだけど、みんないじめをやっているし、いじめられてもいる。陰口で「あいつはやなやつだ」という程度のことをみんなする。そうした、昔からあった噂話や陰口が、集約されるツールがあると状況が変わる。人が人を怒ってなにが解決するだろう。「システムのほうがでかくなってしまった」「そうだろうか? ちがうだろう。お前はあきらめて冷たく他人を見放しているんだ。人間味がないんだ。温かい心がないんだ」「それは結構だが、俺は人間性というのは、みんな小さな悪を飼っているし、保身もあるし、権力も行使しているといいたい」「そんな現実を現状肯定してなんになるんだ。変えるんだ。間違ってるものは変えるし声を上げるんだ。あんたは単なる反動なんだ」
・勝手に、誰の期待もなく、書きたいことを書いて考えたいことを考えればいい。そんな自由から遠いとしたらよくないんじゃないか。参照点がないかとおもって、吉本隆明の講演を聞く。
いじめと宮沢賢治
https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a177.html
僕らの子どものときには、もっと乱暴があって、いじめ、せびりということでなくても、原っぱに行って石合戦をするとかと言って、石の投げっこをして、当たるとちょっとこぶができたり、血が流れたりするんですけれども、そのくらいのことというのはしょっちゅうやりましたし、そういうのを考えると、石合戦とか雪合戦とかという、そういう伝統の流れのなかで、ややそれを逸脱して、ちょっとこれはひどいけがができてしまったとかというようなことになることはあるわけですけれども、まあ、伝統の流れというのはおかしいけれども、そういう伝統の子どもの遊びのなかにそういうのがあって、これはある意味で残酷だけれども、ある意味で、やっぱりその程度の乱暴というのはやったなということは代々大昔からあると思います。その伝統の流れに気分から何からやることから全部入っていて、多少の逸脱があるということだったら、僕はいじめるほうも聖人だとは言えないでしょうけれども、いじめるほうも許されるんじゃないかなと、僕にはそういうふうに思えます。
ですから、それは一つの例なんですけれども、いじめるほうに救いがないかといったら、ないことはないんだと。それはやっぱり伝統の子どもの遊びとか、いたずらとか、悪たれとかということの流れのなかに入っていた出来事としたら、それはいじめるほうにも救いがあるというのはおかしいですけれども、許されてしかるべきところがあるんじゃないかというふうに、僕なんかはそういうふうに考えます。
これはなかなか難しい問題なんですけれども、大人の世界はもっと複雑ですから、いじめられているほうは正義ではなくて、いじめているほうは正義だというふうに、一見するとそう見えるんだけれども、本当はよくよく考えてみると、そうじゃない。いじめられているほう、つまり悪をしたというふうにいじめられているように見えても、こいつの言っていることのほうが、もしかすると合理的で妥当なのかもしれない、もしかしてこっちのいじめているほうのやつは、自分はそのことにかかわって責任を取るあれもないし、まったくの正義派になり得るものだから、いい気になっていじめているんじゃないかというふうに言われてしかるべきときもあるわけです。そういうことというのは大人の社会では満ち満ちているわけです。だから、やっぱりいじめられるほうにも救いがあるということは考えるに値するように、僕はそういうふうに考えています。
現代に生きる親鸞
https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a153.html
宗派、あるいは、党派の見え方、つまり、おれのほうから見れば、こう見えるから、こうじゃなければ嘘だよって、あいつは間違ってるよとか、むこうから見れば、逆にこっちがぜんぶ間違っているっていうような、つまり、宗派の理解によって、見え方が違ってしまう見え方、理想、真理の見え方とか、民衆の見え方っていうのは、結局はだめなんじゃないかなっていうふうに、ほんとは考えるわけです。
だから、誰がどう見たって、あるいは、どの宗派が、どういう信仰を持ってる人たちが、どういうふうにどういう思想を持っている人たちが、どういうふうに見たって、やっぱり、民衆っていうのは、同じ、こういうふうに見えるよって、同じように見える見え方があり、また、真理、宗教でいえば、神とか、仏ですけど、そういう見え方っていうのは、こういうのだよ、おんなじように見えるよっていう、そういう同じように見えるっていう見え方で見える場所っていうのが、どっかにあるんじゃないのかなっていうことを考えるわけです。
つまり、そういう場所っていうのは、何なのかっていうことを、あるいは、どこなんだっていう、たとえ話でも喩えるんですけど、その場所はどこなんだ、そのところで、ときっていうのはいつなんだって、そういう場所っていうのは、自分なりに見つけたいっていうのが、ぼくなんかの非常に中心的な考えのあるところなわけです。
そうすると、親鸞が、ようするに、正定っていうふうに言っていることっていうのは、そういうふうに考える場合に、示唆に富むような気がするんです。どっかから見ると、それぞれ信仰が違ったり、あるいは、思想が違ったりしたって、ここから見れば、おんなじように、人間っていうのは見えるよとか、おんなじように、真理とか、信仰とかっていうのは、見えるよっていう見え方をする場所が、どっかにあるんじゃないのかなって、それを見つけるっていうのが、いまの課題なんじゃないかなって、そういう場所は、いつ、どういうふうに見つかるのかっていう、その、いつっていうことを問うってことも、課題なんじゃないかなっていうふうに、おおげさにいえば、そういうふうに考えています。
・いじめが伝統にのっとって
・勝手に、誰の期待もなく、書きたいことを書いて考えたいことを考えればいい。そんな自由から遠いとしたらよくないんじゃないか。参照点がないかとおもって、吉本隆明の講演を聞く。
いじめと宮沢賢治
https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a177.html
僕らの子どものときには、もっと乱暴があって、いじめ、せびりということでなくても、原っぱに行って石合戦をするとかと言って、石の投げっこをして、当たるとちょっとこぶができたり、血が流れたりするんですけれども、そのくらいのことというのはしょっちゅうやりましたし、そういうのを考えると、石合戦とか雪合戦とかという、そういう伝統の流れのなかで、ややそれを逸脱して、ちょっとこれはひどいけがができてしまったとかというようなことになることはあるわけですけれども、まあ、伝統の流れというのはおかしいけれども、そういう伝統の子どもの遊びのなかにそういうのがあって、これはある意味で残酷だけれども、ある意味で、やっぱりその程度の乱暴というのはやったなということは代々大昔からあると思います。その伝統の流れに気分から何からやることから全部入っていて、多少の逸脱があるということだったら、僕はいじめるほうも聖人だとは言えないでしょうけれども、いじめるほうも許されるんじゃないかなと、僕にはそういうふうに思えます。
ですから、それは一つの例なんですけれども、いじめるほうに救いがないかといったら、ないことはないんだと。それはやっぱり伝統の子どもの遊びとか、いたずらとか、悪たれとかということの流れのなかに入っていた出来事としたら、それはいじめるほうにも救いがあるというのはおかしいですけれども、許されてしかるべきところがあるんじゃないかというふうに、僕なんかはそういうふうに考えます。
これはなかなか難しい問題なんですけれども、大人の世界はもっと複雑ですから、いじめられているほうは正義ではなくて、いじめているほうは正義だというふうに、一見するとそう見えるんだけれども、本当はよくよく考えてみると、そうじゃない。いじめられているほう、つまり悪をしたというふうにいじめられているように見えても、こいつの言っていることのほうが、もしかすると合理的で妥当なのかもしれない、もしかしてこっちのいじめているほうのやつは、自分はそのことにかかわって責任を取るあれもないし、まったくの正義派になり得るものだから、いい気になっていじめているんじゃないかというふうに言われてしかるべきときもあるわけです。そういうことというのは大人の社会では満ち満ちているわけです。だから、やっぱりいじめられるほうにも救いがあるということは考えるに値するように、僕はそういうふうに考えています。
現代に生きる親鸞
https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a153.html
宗派、あるいは、党派の見え方、つまり、おれのほうから見れば、こう見えるから、こうじゃなければ嘘だよって、あいつは間違ってるよとか、むこうから見れば、逆にこっちがぜんぶ間違っているっていうような、つまり、宗派の理解によって、見え方が違ってしまう見え方、理想、真理の見え方とか、民衆の見え方っていうのは、結局はだめなんじゃないかなっていうふうに、ほんとは考えるわけです。
だから、誰がどう見たって、あるいは、どの宗派が、どういう信仰を持ってる人たちが、どういうふうにどういう思想を持っている人たちが、どういうふうに見たって、やっぱり、民衆っていうのは、同じ、こういうふうに見えるよって、同じように見える見え方があり、また、真理、宗教でいえば、神とか、仏ですけど、そういう見え方っていうのは、こういうのだよ、おんなじように見えるよっていう、そういう同じように見えるっていう見え方で見える場所っていうのが、どっかにあるんじゃないのかなっていうことを考えるわけです。
つまり、そういう場所っていうのは、何なのかっていうことを、あるいは、どこなんだっていう、たとえ話でも喩えるんですけど、その場所はどこなんだ、そのところで、ときっていうのはいつなんだって、そういう場所っていうのは、自分なりに見つけたいっていうのが、ぼくなんかの非常に中心的な考えのあるところなわけです。
そうすると、親鸞が、ようするに、正定っていうふうに言っていることっていうのは、そういうふうに考える場合に、示唆に富むような気がするんです。どっかから見ると、それぞれ信仰が違ったり、あるいは、思想が違ったりしたって、ここから見れば、おんなじように、人間っていうのは見えるよとか、おんなじように、真理とか、信仰とかっていうのは、見えるよっていう見え方をする場所が、どっかにあるんじゃないのかなって、それを見つけるっていうのが、いまの課題なんじゃないかなって、そういう場所は、いつ、どういうふうに見つかるのかっていう、その、いつっていうことを問うってことも、課題なんじゃないかなっていうふうに、おおげさにいえば、そういうふうに考えています。
・いじめが伝統にのっとって
7月12日(水)
・ネットの誹謗中傷、それは、危険だ。事件が起きてから、しばらく、みんながその話題を話す。問題意識が醸成される。だけど繰り返す。
・批判といじめはちがう。どうちがう? 数の力。
・とかなんとか……をツイッターにつぶやく。そういうツイートをすると、直後に恥ずかしい感じがして、「あーあ、つぶやいちゃったか……」「やめときゃよかったのに……」と後悔のような感情をいだく。じゃあやるなよ、と思いつつ、これはなんだろうね、なにか不可避の感情だろうかとも思う。
・とにかく、大量の批判を処理する能力は、人間にはない。問題は数だ。かつての時代なら、批判と批判でやりあったりしたろう。誌面とか。知識人同士の論争とかね。でも、SNSになって、誰でも批判ができる。それは素晴らしいことだと思われた。が、現実は数の暴力が起こる。これはとめられない。規制する、システムを変えるなりするしかないだろうと思う。
・こういうことを、その直後に、いけしゃあしゃあと意見できるいまの自分がグロテスクに思う。「グロテスク?」「ちょっと、ツイッターのアプリを消した」
・批判といじめはちがう。どうちがう? 数の力。
・とかなんとか……をツイッターにつぶやく。そういうツイートをすると、直後に恥ずかしい感じがして、「あーあ、つぶやいちゃったか……」「やめときゃよかったのに……」と後悔のような感情をいだく。じゃあやるなよ、と思いつつ、これはなんだろうね、なにか不可避の感情だろうかとも思う。
・とにかく、大量の批判を処理する能力は、人間にはない。問題は数だ。かつての時代なら、批判と批判でやりあったりしたろう。誌面とか。知識人同士の論争とかね。でも、SNSになって、誰でも批判ができる。それは素晴らしいことだと思われた。が、現実は数の暴力が起こる。これはとめられない。規制する、システムを変えるなりするしかないだろうと思う。
・こういうことを、その直後に、いけしゃあしゃあと意見できるいまの自分がグロテスクに思う。「グロテスク?」「ちょっと、ツイッターのアプリを消した」
7月9日(日)
- なかなか、このへんてこな荒れた「日記」も、更新できなくなっていた
- だが復活を期して
- とはいえ、「ツイッターも終わるかも?」と騒いでいた時期に、この手製の「ホームページ」はあまりにアナクロだ
- 書くこと、書きたいこと、そういうことを、ちゃんと見つけてつかまえて、「伝えたい」と思っていかないと、むつかしいことは多々ある。「ああ俺なんてやべえぜ資格ねえぜ」と落ち込んで自己否定していては。
- 「加害者になってもやらなくちゃいけないことがある」。人は、生きていれば落ち度にまみれる。それでも、ある種の「開いてなおって」生きていこうぜこんちくしょうめら。そんなんでしか、ないんだ。
- 「お前は悪いことしたんだ」「いやいや、そっちこそが真の悪なんだ」裁判は傍聴人を欠いたまま、すすむ。するってえと善悪の基準ってのはなんだい。その都度、空気できまるかい。たがいの力関係で変化をこうむるかい。なんだい適当じゃないか。そうだよ適当なんだ。みんな適当だ。ちくしょうめら
- のこぎり山、ってのは、自然があっていいね海だね山だね石切りのあの断面ね。自然を目前にすると、身が清められる、ってなもんで。でも「自然と調和するなんて」と、人工の異物を構築するのが、物欲しい。そうおもった。
- 一年前は銃撃事件があった。「加害者になってもやらなくちゃいけないことがある」って、なにさ? そもそも、「加害者」なんかに、なるなよな。いやいや、そうじゃない。「加害」を、すんなよな。いやはや、そうは問屋が卸さねえ。加害しちゃうんだ。加害者に、なっちゃうんだ。そんな人間認識から、歩みをすすめること。みんながやんないことがありすぎる気がした。不可視化された危うさがある気がした。そんなら、お前が。「加害者になってもやらなくちゃいけないことがある」? 俺は加害者か。そうだ。そして、加害者は被害者でもある。「害」なるものが根絶やしにできないかぎり。そんなことはありえない。産まれた、生きた、殺した。間接的に殺した。そうやって、位置のうえに生きてんだろう。「加害者になってもやらなくちゃいけないことがある」とは、生きる責任だろう。自死したひとがいる。彼を知っている。老いさらばえて、「やっと死んだか」と嘆息されて死ぬひとらよ。人間は。のこぎり山を背にして海をながめる。波がうごく。うごきつづけて止まらないんだ。それをじっと。人間は、波の一部だ。ひとつ、ひとつ、ひとつずつがつらなっていっしょくただ。そんなふうかい? そのひとつになって海になる。ひとつ、なんだと思い知る。ひとつ、あっちにも「ひとつ」がある。「タマシイ」と口に出して恥ずかしがってみる。自死したタマシイは、海のひとつとなって、波のまにまに漂っている。
———————————————————--
- ツイッターで見たニュース記事
- ライブ本数の地方格差。そうかあ、と思う。
- 「関東エリアの公演数、動員数、市場規模は、コロナ禍前の2019年の数値を大きく超えました…(中略)コロナ禍以降はあらゆるエリアで、もともと公演の多い中核都市の公演が増加し、それ以外のローカルな公演が増えづらい傾向が続いています」
- これにかこつけて(引用リツイートで)つぶやいたけど、やめた。
- ローカルと中央の格差が、コロナ禍を機にさらにひらいた問題は問題だといいたかったが
- ライブができた者。それは「特権者」だといえばいえる。そうだ「お前はお気楽なんだ」「健康で同居人に世話もないから好き勝手な感覚でいられる」「おい、配慮がないのが透けて見えるんだ」
- 俺は、この問題にかんして、気楽にいえなくなっているし、それでいいやと。ここで書けばいいやと。
- 気楽さ。それは問題だ。むしろそこが問題じゃないか。
- コロナ禍の問題。ここでは、リモートや配信で東京やグローバルな情報やコンテンツが手に入ってしまうことの便利さと恐ろしさ。淘汰されるだろうから淘汰される。そして、淘汰はまずいんだ。長期的に多様性を損なうのはご覧のとおりだ。地方に文化があるべき。ローカルな機運が盛り下がるのは残念。
———————————————————--
- 新松戸FIREBIRDの体制が変わって以降、行くことも減った。定住ボーイズはFIREBIRDで結成された。その原点は忘れない。文化を考える、その考え方はいろいろだ。ダイゴ店長時代のFIREBIRDは、ぼくに出会いと文化、その場を与えてくれた。ダイゴ時代のFIREBIRDに関してなにか書いておこうと思っていたが、なかなかにそのままだった。「書いておく」というのは、自分の口を開いておくということだ。折にふれて言ったり書いたりしとかないと、そしてそれを公にしないと、いざというときに、口が開かなくなる。さもありなん。
———————————————————--
- ジャニーズの性加害の問題絡みで山下達郎氏が批判を受けている。ふと思うのは、(ぼく自身ツイートでBBCのドキュメンタリーをシェアしたが)ついこないだまで、この件を積極的に問題提起している人は、音楽家にかぎらずメディア人でもほとんどいなかったのではないか。ふと感じるのは、そうした「問題がおおっぴらに認定され、ある種のポジション取り表明のゲーム化」して以後、実際の被害者への被害、救済、二次被害うんぬんとは別に、みんながモードを切り替えすぎないか。そこに「それ以前」の忘却がある。そこが気になるし、なんというか、本当に山下達郎を批判する資格がある人間がどれほどいるか。ジャニーズのコンテンツを楽しんでた人は多くいるだろうし。それに、そこまで責任論を広げキャンセルカルチャー化させるのは危うい……などという感想。
- さて。こうした話題は、実際問題、ツイッターに書き込んだほうが楽しいのだ。その「楽しさ」がくせものだ。自制しここに書くに留める(とはいえここに書くのもネット上で公開しているわけだが)のがよいのかなあと最近感じる。SNSは、評価経済のゲームすぎる。それに、あの無料のビジネスモデル。下部構造が見えにくくつかみずらいが、自分の行為が何に加担しているのか自覚したい。批判精神もそうしないとずれていき、または死んでいく一方だ。
6月4日(日)
俺は俺で生ききるしかない散歩して 思う俺しかいない不審者と防犯カメラ
落ち葉見て落ち葉のようだねと思う 屈折した町の落ち葉、残念
・六月になりました。ここから二〇二三年も後半戦となります。がんばります。そうなんです。
「がんばるとはなにごとか」ということなんですが、ただ気合いを述べたまでです。意味はないです。
そういうかんじで、やっていこうと思うんです。なにをどうして? さあ。曖昧なまま。
・父性というのは大変だぜ……。ああ大変。だぜ。「演じる」っていうかね。モデル、っていうかね。そんなところで、はっきりとしたことは言わないまでも、そう、思うなら、息子と父、娘と父、ってのは、どうかね、大変じゃあねえですかねえ。「大変」ってのはね、じゃあ俺が父を演じるかっていうと、子どももいないけどね、架空に演じるにしても、まあ、大変で、砂を手で掴んで、えいや、って投げるようでね。うまくいかんですわいきようがないですわあ、うまく。うまくいきようがないんで、はなからあきらめる、ってな所作になります。どうでしょう?
落ち葉見て落ち葉のようだねと思う 屈折した町の落ち葉、残念
・六月になりました。ここから二〇二三年も後半戦となります。がんばります。そうなんです。
「がんばるとはなにごとか」ということなんですが、ただ気合いを述べたまでです。意味はないです。
そういうかんじで、やっていこうと思うんです。なにをどうして? さあ。曖昧なまま。
・父性というのは大変だぜ……。ああ大変。だぜ。「演じる」っていうかね。モデル、っていうかね。そんなところで、はっきりとしたことは言わないまでも、そう、思うなら、息子と父、娘と父、ってのは、どうかね、大変じゃあねえですかねえ。「大変」ってのはね、じゃあ俺が父を演じるかっていうと、子どももいないけどね、架空に演じるにしても、まあ、大変で、砂を手で掴んで、えいや、って投げるようでね。うまくいかんですわいきようがないですわあ、うまく。うまくいきようがないんで、はなからあきらめる、ってな所作になります。どうでしょう?