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5月23日(火)
- いつでも私は私から出発せねばならぬ。それを知っていて、深呼吸し、目前のテーブル、コーヒー類から打鍵するPCキーボードに手の位置を移す。このところは、体調を崩したりと、散々だった。この「散々」を、自らの内に繰り込むべく、単純な作業のほうに再び自己を追いやらねばならなかった。「散々」であることから、うまく再出発を果たし、私は、散らかったところを片付け直す。瞬間、一抹のさみしさがよぎる。だが、さみしさはすぐに消え失せ、次につかの間の充実と眠気の順番で意識を喪失する。無意識は、その間、やりたくもないことをやらされる不満を身体の各部所に伝達している。
- どうしようもないことは、どうしようもないんだから、考えるに値しない。そのようなクリアな態度を、僕は自分に許さないできた。それは戒律というより、欠落する寛容さをあらわしていた。もうすこし歩を進めなければ、なんともならない。事実、城壁は築かれず、人々は誰も手入れしない空き地がひらけていると、疑問もなく通りすぎる。その横顔を見てすぎても、僕は、通り過ぎる彼を責めることはしない。その責は、自分自身へと旋回し、罪の自意識を肥え太らせ、その脂肪分はさらに無意識下へとかいくぐってゆく。
- 固まりし 喉仏にある淀みにて 溺れ子に浮き輪投げる幻視線
- 平和をと 言いつつ殺める 心理棘あり 対話のページで骨折れる 魂支うは我の事業や
- 自分で自分が、罪人でないなどとは言えない。時節柄、様々な平和活動を映像等を通して知る。そこに見て取れる、明瞭な人格的成熟は、自分の位置と比して及びもつかない遠き距離を感じさせた。それは苦しいというより鮮やかで、絶望は、たしかに位置して、嘆きを忘れず客を歓待する。トラウマとは、そんなに簡単なものじゃないよ。そう言えば聞くだけの耳をもっているだろうか。この私は、息をつめて、何も考えないでいたいと願う。それはしばしば誤解されて「強さ」などと評される。しかし面と向かってあばら骨の貧弱なのを明かせない私のような者が、孤立の上に屹立し、確固として在るわけもない。ただ、こぼれ落ちるのが怖いから、どこかにしがみつきたい。それは甘えと人は言う。そして「弱さ」は遅れて私の背中に貼られて、今度はそれを自ら剥がすことはかなわない。そのまんまのレッテルを抱いて、次に私がすべきことは、それを書くことだ。
4月26日(水)
・また書くんですけどね。考えてることを書くんですけどね。 不要不急ってやつが、まぁ、みんなそれを否定するんですけどね。けど僕は音楽は不要不急だと思うんですね。そんな話を考えてました。 コロナの時にFIREBIRDだけ営業してて僕もすごい出たんですけどね。そこで思ったのは、聞いてくれる人、一緒に音楽をやってくれる人、そういう人や場所があるから自分の音楽は、自分が音楽やってるって事は、初めて意味を持つと。そう考えてそういうことを何回か言ったり書いたりしてますけどね。ただ同時にそもそも音楽には意味がないし、音楽をやってる自分にも意味がないんだ。そういう背中合わせの、自己嫌悪というか恥ずかしさみたいなものがセットであるんですね。そういうものがあるからこそライブハウスが余計に嬉しいってことがある。だからあんまりきれいなことばっかり言ってると嘘みたいに思われちゃうんでね。音楽には意味がない音楽をやってる自分にも意味がない。音楽は不要不急だ。それはそうだと思うんです。
・ その上で、だから、音楽の場所にありがたさを感じました。それは1つの共同体ですね。誰か知り合いとか友達とかそういうのがいるから自分の興味関心や自分の孤独ってものもそこで中和されて癒されると言う事はあります。でも同時に、そういう孤独ってものは 芸術には必要不可欠なものなんですね。孤独があるから芸術は固有の回路を開く。 そもそも、人間が不要不急です。友達だって不要不急かもしれない。そりゃそうだ、今、人間は不要不急だって言ったんだもんな。人間も友達も不要不急で、だからこそ逆に必要なんだ。歌って、自分自身も不要不急でそんな不要不急の自分が何か生きがいとか生きる意味とか自分が生きてきた痕跡とかそういうのを残すべく他人と出会う。他人と生きると言うことがあるんです。だからこの、孤独と友達というのはセットですね。孤独の深さと友達に伝えたいでも伝わらない、伝わってはいけないものの深さや量と言うのはセットですね。
・ そんなことを考えていました。そんなことを考えてもやっぱり特に意味はありません。人間が生きることには特に意味がありません。意味があるように思い込んでいられる様々な材料が溢れているだけで。そもそも本当は人間が生きる意味がないんだって言う身もふたもない真実を芸術は支えてくれます。生きる意味がないと言うところから始めて出発することのできる、何かがある。その何かに囲まれて今僕たちは生きている。だからその何かは大事に守って育てないといけないと思うんですね。
・ その上で、だから、音楽の場所にありがたさを感じました。それは1つの共同体ですね。誰か知り合いとか友達とかそういうのがいるから自分の興味関心や自分の孤独ってものもそこで中和されて癒されると言う事はあります。でも同時に、そういう孤独ってものは 芸術には必要不可欠なものなんですね。孤独があるから芸術は固有の回路を開く。 そもそも、人間が不要不急です。友達だって不要不急かもしれない。そりゃそうだ、今、人間は不要不急だって言ったんだもんな。人間も友達も不要不急で、だからこそ逆に必要なんだ。歌って、自分自身も不要不急でそんな不要不急の自分が何か生きがいとか生きる意味とか自分が生きてきた痕跡とかそういうのを残すべく他人と出会う。他人と生きると言うことがあるんです。だからこの、孤独と友達というのはセットですね。孤独の深さと友達に伝えたいでも伝わらない、伝わってはいけないものの深さや量と言うのはセットですね。
・ そんなことを考えていました。そんなことを考えてもやっぱり特に意味はありません。人間が生きることには特に意味がありません。意味があるように思い込んでいられる様々な材料が溢れているだけで。そもそも本当は人間が生きる意味がないんだって言う身もふたもない真実を芸術は支えてくれます。生きる意味がないと言うところから始めて出発することのできる、何かがある。その何かに囲まれて今僕たちは生きている。だからその何かは大事に守って育てないといけないと思うんですね。
4月24日(月)
・恥を忍んで、書かなけりゃあいけないんです。自分で自分を批判するんです。他に甘えて、好き勝手やってちゃあいけません。まず、自分は駄目でした。自分は負けました。自分に負けたのです。他と戦うって、勝つんだって、そんなこと言った覚えもないけど、無意識でだらしなく考えていた闘争が、敗北しているのだから、負けました、と言うほかないのです。
そこから、そこからです。そこからまたはじまります。まずは総括、です。やるべきことをやっていないのです。
・自分が、音楽をやっていて、ライブ、などをやっている。そのことは、流れによってそうなった、偶然そうなった面もあり、そのなかに必然の要素もあるわけです。その両面をふくみつつ、自分の全体を自分でつかみ、せめて、これ新しい前進のよすがとせねばなりません。いま、それができますか。それが、試されているのです。誰が? 形而上の存在が、ぼくに試すんですね。そう考えるよりほかありませんから。
・直近の総括をしなくてはなりません。バースデー企画、ワンマソ。それからマリオキングダムもありました。バースデーは「聴くこと」、ワンマソは「つぶつぶ」がテーマでした。マリオキングダムは、追悼の意もありますが、共同体をつくりたい意図がありました。
聴くこと、聴かせること、歌うこと、ステージに上がること。聴く人をつくること。相互につうじあう地底の回路。バースデーでは、サイレンなる冊子もつくりました。歌を「読む」こと。対話するように音楽を聴くこと。そうした時間をとりもどしたい。
イベントそれ自体は、ぼくの力量不足で、参加してくれる人=見に来てくれる観客が少なかった。文脈をつくり、より広く人々を巻き込む戦略が足りませんでした。そうしたことをおろそかにしたところで成功しない。演者のみなさんは素晴らしかった。問題は主催のぼくなのです。場づくりができていない。観客がいなければ成立しないはずのゲームを、前提としているのではなかったか。なにかそのあたり、理論的にもあいまいに逃げているきがします。
もっと「自分」を、この「沼田謙二朗」をさらし、それを文脈づくりに使って利用すべきとおもいます。使用できるネタは自分くらいしかないのです。そうしないとおもしろくならないぞ、と、ある種の限界につきあたっているのだけれど、この間、その限界にきちんと向き合わず、うまく敗北が自認できなかった。まずは、そうした認識をあらたにもつことから、はじめ直さなければいけませんね。
ワンマソについては、基本的にいい思い出となっています。けれど、それだけに課題がとりだせていない。中途半端に満足しているきがします。前述バースデーで配ったサイレンのような試みは、ここで自足して忘却されているか。お客さん、来てくれた、よかった、ありがとう、ありがとう、ちゃんと言えた? なにか、回収できていない、伏線のような、未然の状態が、いまにつづいていないか?
ぼくはぼくを背負い続ける責任のようなものが、足りなかったようにおもう。それがわからなかった。それを明示的にしめす、自分に対して、その作業、手続き、暗中模索……とは言いすぎだが、ワンマソのあとけっこうもがいた。その「もがき」の理由は、どのへんにあるか。
水の中にいた。水のなかに、もぐった。自分の傷と出会う作業。水の底に、しゃがみこんでる自分がいた。しゃべりかけても、反応しない。抱きしめることも、歓迎されなさそうだ。どうしたらいいか。もう、ぼくは、水の外に出たい。陸に上がりたい。でも、まだだ。まだだ。水の中にいる、底にうずくまってる、自分に声をかける。反応はない。でも声はとどいている。聞こえている。そのことを、信じて、声をかけること。かけるべき声を探しつづけること。
ワンマソのあと、どこを意識すべきだったか。ぼく沼田謙二朗は、なにがしたいのか。自分という存在を使って、おもしろいことをしなきゃいけない。自分がなにを考えているのか、自己開示しないといけない。「のっかる」だけじゃなくて、自分から土台をつくって仕掛けるような試みを、持続的にやっていくべきなんだ。サイレンもまたつくるべきで、そこには、ぼくが感じて書かなかったこと、コロナ禍のこと、いまの時代に思うこと、音楽のこと、ライブハウスのこと、人生のこと、書いていくべきなんだ。もっと人を、巻き込んでいきたい。こんな自分でも、自分がやらないと誰もやらないようなことがある。自分の場所で、有意味なことをやらなくちゃいけない。
・いまの時代にみなさん、どうおもいますか? どうおもいますかって、なにをおもいますか? 「テロの時代」みたいになってきました。とかって言うと、政治ばっているようにお感じかもしれませんが、実際、時代は物騒になっています。たとえば、ぼくは「フェスティバル」という曲をいつも歌っていますが、これをつくった6年ほど前には、テロは外国で起こっているイメージでした。欧米で起こっているテロが、日本でも起こったとしたら……という想像力の歌でした。ところが昨年以降、日本でテロが起きている。歌うたびに、時代の変化を実感します。こうした時代に、ぼくたちはなにを考え、どう生きるべきでしょうか。こう言うとまた、大上段すぎる、とか、そんなの関係ねえ、おれはおれの生活を生きるだけさ、といった反応がかえってきそうですが、ひろく方向性を見失っている、というのが、いまの日本の状態ではないでしょうか。ぼくはそう感じます。そこで、処方箋ではありませんが、とりあえずの結論として考えたのが、言葉をもう一度信じることです。他人に話が通じるかどうか、聞いてもらえるかどうか、そこであきらめるよりも、まず自分で自分の言葉を信じなくてはなりません。これは芸術創作上の、ぼく自身のポリシーとなってあらわれます。それから、身の回りの、身近な人と、さまざまな話をしてみることです。「言葉が届かない」といいます。「民主主義の機能不全」だと。そうかもしれませんし、実際そうだとぼくもおもいます。ところでそれは、「政治」だけが解決をたのまれるべきことがらなのでしょうか。「言葉が届かない」というとき、市民は、ぼくたちは、草の根として、やるべきことがあるのではないか。むしろ、「民主主義」という言葉は、議員より、選挙より、まずぼくたち自身がぼくたち自身の国、地域をどうしたいか、それを、ぼくたち同士で話し合うことを指していっているんじゃないか。いま、そう捉えなおすことが、いちばん必要なことであるきがするのです。「おれはテロしたいんだ」というやつが、テロする前に、話をする場があるべきとおもいました。テロする前に、ぼくに話せ、と。すこし、そういう場をつくることを試みたいなとおもいます。具体的な場と、もうひとつは、表現行為のなかに、そうした実存を込めることによって。
・沼田謙二朗。これから、バンドもやりつつ、ソロもやりつつ、けっきょく、どこへ向かうか。ぼくはぼくの考えてきた総体をあきらかにし、世界に、自分のえてきた「つぶつぶ」を還元しないといけないとおもいます。まずは、目の前のライブを全力で越えていくこと、ですが、問題は、そのあとです。直近だと、29日に四谷でのライブがあります。そこに向けて、「そのあとにつながるような越え方をもって」、自分をつくり上げ鍛えなければなりません。それがしたいのです。理想をいえば、新曲をつくり、やって、ミニ音源もその日にくばって、フライヤーも作成しくばり、久しぶりにやる曲もばっちり演奏し、来てくれたひとに、最高の時間を提供して、自分自身もいい時間をすごしたい。そのあと、さらに新曲をつくりつつ、アルバム制作に向かいたい。それをやりきらないと、自分はひとりだちできない。
((両国の打ち上げで話した話がひっかかる。おれは、低くなる、ってことを模範にしてたんだな。もちろん、そんなのできてない。高えよ。そんで、一番おれが低いんだって、なにに自慢するのさ。でもそれに近づこうというんモチーフならありえた。できてなくてもね))
そこから、そこからです。そこからまたはじまります。まずは総括、です。やるべきことをやっていないのです。
・自分が、音楽をやっていて、ライブ、などをやっている。そのことは、流れによってそうなった、偶然そうなった面もあり、そのなかに必然の要素もあるわけです。その両面をふくみつつ、自分の全体を自分でつかみ、せめて、これ新しい前進のよすがとせねばなりません。いま、それができますか。それが、試されているのです。誰が? 形而上の存在が、ぼくに試すんですね。そう考えるよりほかありませんから。
・直近の総括をしなくてはなりません。バースデー企画、ワンマソ。それからマリオキングダムもありました。バースデーは「聴くこと」、ワンマソは「つぶつぶ」がテーマでした。マリオキングダムは、追悼の意もありますが、共同体をつくりたい意図がありました。
聴くこと、聴かせること、歌うこと、ステージに上がること。聴く人をつくること。相互につうじあう地底の回路。バースデーでは、サイレンなる冊子もつくりました。歌を「読む」こと。対話するように音楽を聴くこと。そうした時間をとりもどしたい。
イベントそれ自体は、ぼくの力量不足で、参加してくれる人=見に来てくれる観客が少なかった。文脈をつくり、より広く人々を巻き込む戦略が足りませんでした。そうしたことをおろそかにしたところで成功しない。演者のみなさんは素晴らしかった。問題は主催のぼくなのです。場づくりができていない。観客がいなければ成立しないはずのゲームを、前提としているのではなかったか。なにかそのあたり、理論的にもあいまいに逃げているきがします。
もっと「自分」を、この「沼田謙二朗」をさらし、それを文脈づくりに使って利用すべきとおもいます。使用できるネタは自分くらいしかないのです。そうしないとおもしろくならないぞ、と、ある種の限界につきあたっているのだけれど、この間、その限界にきちんと向き合わず、うまく敗北が自認できなかった。まずは、そうした認識をあらたにもつことから、はじめ直さなければいけませんね。
ワンマソについては、基本的にいい思い出となっています。けれど、それだけに課題がとりだせていない。中途半端に満足しているきがします。前述バースデーで配ったサイレンのような試みは、ここで自足して忘却されているか。お客さん、来てくれた、よかった、ありがとう、ありがとう、ちゃんと言えた? なにか、回収できていない、伏線のような、未然の状態が、いまにつづいていないか?
ぼくはぼくを背負い続ける責任のようなものが、足りなかったようにおもう。それがわからなかった。それを明示的にしめす、自分に対して、その作業、手続き、暗中模索……とは言いすぎだが、ワンマソのあとけっこうもがいた。その「もがき」の理由は、どのへんにあるか。
水の中にいた。水のなかに、もぐった。自分の傷と出会う作業。水の底に、しゃがみこんでる自分がいた。しゃべりかけても、反応しない。抱きしめることも、歓迎されなさそうだ。どうしたらいいか。もう、ぼくは、水の外に出たい。陸に上がりたい。でも、まだだ。まだだ。水の中にいる、底にうずくまってる、自分に声をかける。反応はない。でも声はとどいている。聞こえている。そのことを、信じて、声をかけること。かけるべき声を探しつづけること。
ワンマソのあと、どこを意識すべきだったか。ぼく沼田謙二朗は、なにがしたいのか。自分という存在を使って、おもしろいことをしなきゃいけない。自分がなにを考えているのか、自己開示しないといけない。「のっかる」だけじゃなくて、自分から土台をつくって仕掛けるような試みを、持続的にやっていくべきなんだ。サイレンもまたつくるべきで、そこには、ぼくが感じて書かなかったこと、コロナ禍のこと、いまの時代に思うこと、音楽のこと、ライブハウスのこと、人生のこと、書いていくべきなんだ。もっと人を、巻き込んでいきたい。こんな自分でも、自分がやらないと誰もやらないようなことがある。自分の場所で、有意味なことをやらなくちゃいけない。
・いまの時代にみなさん、どうおもいますか? どうおもいますかって、なにをおもいますか? 「テロの時代」みたいになってきました。とかって言うと、政治ばっているようにお感じかもしれませんが、実際、時代は物騒になっています。たとえば、ぼくは「フェスティバル」という曲をいつも歌っていますが、これをつくった6年ほど前には、テロは外国で起こっているイメージでした。欧米で起こっているテロが、日本でも起こったとしたら……という想像力の歌でした。ところが昨年以降、日本でテロが起きている。歌うたびに、時代の変化を実感します。こうした時代に、ぼくたちはなにを考え、どう生きるべきでしょうか。こう言うとまた、大上段すぎる、とか、そんなの関係ねえ、おれはおれの生活を生きるだけさ、といった反応がかえってきそうですが、ひろく方向性を見失っている、というのが、いまの日本の状態ではないでしょうか。ぼくはそう感じます。そこで、処方箋ではありませんが、とりあえずの結論として考えたのが、言葉をもう一度信じることです。他人に話が通じるかどうか、聞いてもらえるかどうか、そこであきらめるよりも、まず自分で自分の言葉を信じなくてはなりません。これは芸術創作上の、ぼく自身のポリシーとなってあらわれます。それから、身の回りの、身近な人と、さまざまな話をしてみることです。「言葉が届かない」といいます。「民主主義の機能不全」だと。そうかもしれませんし、実際そうだとぼくもおもいます。ところでそれは、「政治」だけが解決をたのまれるべきことがらなのでしょうか。「言葉が届かない」というとき、市民は、ぼくたちは、草の根として、やるべきことがあるのではないか。むしろ、「民主主義」という言葉は、議員より、選挙より、まずぼくたち自身がぼくたち自身の国、地域をどうしたいか、それを、ぼくたち同士で話し合うことを指していっているんじゃないか。いま、そう捉えなおすことが、いちばん必要なことであるきがするのです。「おれはテロしたいんだ」というやつが、テロする前に、話をする場があるべきとおもいました。テロする前に、ぼくに話せ、と。すこし、そういう場をつくることを試みたいなとおもいます。具体的な場と、もうひとつは、表現行為のなかに、そうした実存を込めることによって。
・沼田謙二朗。これから、バンドもやりつつ、ソロもやりつつ、けっきょく、どこへ向かうか。ぼくはぼくの考えてきた総体をあきらかにし、世界に、自分のえてきた「つぶつぶ」を還元しないといけないとおもいます。まずは、目の前のライブを全力で越えていくこと、ですが、問題は、そのあとです。直近だと、29日に四谷でのライブがあります。そこに向けて、「そのあとにつながるような越え方をもって」、自分をつくり上げ鍛えなければなりません。それがしたいのです。理想をいえば、新曲をつくり、やって、ミニ音源もその日にくばって、フライヤーも作成しくばり、久しぶりにやる曲もばっちり演奏し、来てくれたひとに、最高の時間を提供して、自分自身もいい時間をすごしたい。そのあと、さらに新曲をつくりつつ、アルバム制作に向かいたい。それをやりきらないと、自分はひとりだちできない。
((両国の打ち上げで話した話がひっかかる。おれは、低くなる、ってことを模範にしてたんだな。もちろん、そんなのできてない。高えよ。そんで、一番おれが低いんだって、なにに自慢するのさ。でもそれに近づこうというんモチーフならありえた。できてなくてもね))
4月8日(土)
・時代も変わる。俺たちも変わる。みなさん、ご機嫌が、よう!
・なにかをやっていれば、それについて評価がわかれるということはあります。昨日も、ぼくがやってきた音楽のありようについて、貴重なご意見をもらいました。それについては自分で了承をあらたにしたというか、自分の方針を再確認するにいたりました。要は、ぼくは音楽を「敵と、味方」にわけるためにつかいたくありません。あなたは味方で、あいつらは敵だ、こっちはマイノリティで、だからこの言葉には意味があるんだ……というようなことを言いたい局面はぼくにもあります。ありますが、そこでとどまってしまったらいけないような気がして、それより後のこと、言い換えれば「その後の未来に起こる問題」を想像し見つめつつ考えたい、とおもってきました。
・昨日、「屈折」という言葉が話題になった。いま付け足せば「妥協」という言葉も重要でした。なにかに「挫折」し「屈折」して、なおも生き延びるとは、どこかでなにかを「妥協」しているということです。ぼくのなかにあるその「屈折」や「妥協」が、自分を「純粋無垢なもの」とへだてる免疫の壁のようになっている……そんなイメージがもしかしたら言えるかもしれません。純粋——イノセンスな自己というものは、自分の、その水の世界の奥底に位置している。そいつは、たしかに現存しているし、このところ(特に今年の一月以降)は、その「水の世界の奥底にしゃがみこんでる自分」にかかずらって、あるいは自分がその位置にすっぽりおさまって、生きてきました。その「イノセンスな自己」にとっては、屈折も妥協も、すべて自分の「傷」となって感受されています。屈折や妥協は、陸の世界の自分が採った選択なのですね。それによって、たしかに自分は傷ついた。その傷を、普段は自分は意識しないですごしている。だが確実に、それは水の世界の自分に影響をおよぼし、彼は傷を忘れることなく、傷つきつづけているのです。
・敵と味方。屈折や妥協。水の世界、陸の世界……。またもやとりとめもない話をしていて、こういう話をどうまとめたらいいのか、自分で書いて困惑します。自分が言いたいことは、こうでしょうか。つまり、「屈折や妥協」を否定すると、世界を「敵と味方」にわけがちになる。それはたしかに「純粋無垢」に見えるけれど、反面、不安定な情況をもたらし、長期的な平和から遠のく。それよりも、一見「不純」そうに見える妥協策を採る。それは「わかりづらい」かもしれないが、情況が安定する方向を指差す意志をもっている。そして、後者の採る道において、決して「純粋=イノセンス」な自己が、疎外されているわけではなく、それは水の世界にしっかり鎮座している。それは見えないけれど、たしかにそこにいる。それを感じるんだ。それを意識する耳を、触覚をもつんだ。だから課題としていうならば、陸の世界と水の世界との往路、通路が存在しないことが、もっぱら問題なんだ……こう言えるでしょうか。
・純粋でまっすぐな道……にしか到達、実現できないこともある。ただぼくは、もうちょっとくねった道をいくんだ、ということです。あるいは、「純粋でまっすぐな道」が挫折してしまうところ、その後のことを考えて、迂回路を歩くんだ、ということでもあります。どちらがいいというより、道の歩き方には複数の方法があるよ、ということでもありましょう。
((こりゃ言葉で説明するのは、しんどいわい。表現手法もね、多様な回路があって、いいんよねー))
・なにかをやっていれば、それについて評価がわかれるということはあります。昨日も、ぼくがやってきた音楽のありようについて、貴重なご意見をもらいました。それについては自分で了承をあらたにしたというか、自分の方針を再確認するにいたりました。要は、ぼくは音楽を「敵と、味方」にわけるためにつかいたくありません。あなたは味方で、あいつらは敵だ、こっちはマイノリティで、だからこの言葉には意味があるんだ……というようなことを言いたい局面はぼくにもあります。ありますが、そこでとどまってしまったらいけないような気がして、それより後のこと、言い換えれば「その後の未来に起こる問題」を想像し見つめつつ考えたい、とおもってきました。
・昨日、「屈折」という言葉が話題になった。いま付け足せば「妥協」という言葉も重要でした。なにかに「挫折」し「屈折」して、なおも生き延びるとは、どこかでなにかを「妥協」しているということです。ぼくのなかにあるその「屈折」や「妥協」が、自分を「純粋無垢なもの」とへだてる免疫の壁のようになっている……そんなイメージがもしかしたら言えるかもしれません。純粋——イノセンスな自己というものは、自分の、その水の世界の奥底に位置している。そいつは、たしかに現存しているし、このところ(特に今年の一月以降)は、その「水の世界の奥底にしゃがみこんでる自分」にかかずらって、あるいは自分がその位置にすっぽりおさまって、生きてきました。その「イノセンスな自己」にとっては、屈折も妥協も、すべて自分の「傷」となって感受されています。屈折や妥協は、陸の世界の自分が採った選択なのですね。それによって、たしかに自分は傷ついた。その傷を、普段は自分は意識しないですごしている。だが確実に、それは水の世界の自分に影響をおよぼし、彼は傷を忘れることなく、傷つきつづけているのです。
・敵と味方。屈折や妥協。水の世界、陸の世界……。またもやとりとめもない話をしていて、こういう話をどうまとめたらいいのか、自分で書いて困惑します。自分が言いたいことは、こうでしょうか。つまり、「屈折や妥協」を否定すると、世界を「敵と味方」にわけがちになる。それはたしかに「純粋無垢」に見えるけれど、反面、不安定な情況をもたらし、長期的な平和から遠のく。それよりも、一見「不純」そうに見える妥協策を採る。それは「わかりづらい」かもしれないが、情況が安定する方向を指差す意志をもっている。そして、後者の採る道において、決して「純粋=イノセンス」な自己が、疎外されているわけではなく、それは水の世界にしっかり鎮座している。それは見えないけれど、たしかにそこにいる。それを感じるんだ。それを意識する耳を、触覚をもつんだ。だから課題としていうならば、陸の世界と水の世界との往路、通路が存在しないことが、もっぱら問題なんだ……こう言えるでしょうか。
・純粋でまっすぐな道……にしか到達、実現できないこともある。ただぼくは、もうちょっとくねった道をいくんだ、ということです。あるいは、「純粋でまっすぐな道」が挫折してしまうところ、その後のことを考えて、迂回路を歩くんだ、ということでもあります。どちらがいいというより、道の歩き方には複数の方法があるよ、ということでもありましょう。
((こりゃ言葉で説明するのは、しんどいわい。表現手法もね、多様な回路があって、いいんよねー))
3月14日(火)
・「悪いことをした」という自覚は、「悪いことをされた」という被害の自覚がないところに、生まれるのは難しい。被害と加害。能動と受動。主体と客体。自由と不自由……。なにやら、そんなことを考えつづけている。この世界には、さまざまな「悪いこと」がある。戦争も、犯罪も、暴力も、いじめも、みんないつでも、現実世界に起こっている。過去もそうだし、未来でも起こる。「悪」ということに対して、どう感覚できるか。それが、たいせつなんだとおもった。「あれは、昔の話だった。だからもう水に流して、それでいいんだ」それじゃあすまない、水に流れないことがあるだろうとおもった。そういうものを、「水に流れないもの」を、あるいは、「水中に沈む、普段は見えないもの」を、見ないように生きてきただろうか。そういうひとが、ぼくをふくめて、多いだろうか。もし、そういうひとが、多いんだとしたら、悪は、見えないままに、くりかえされ、はびこるだろう。「悪」と言うと、抽象的だ。だがこの言葉には中身がつまっている。その中身を、いかにイメージできるかは、個々人の経験や認識にかかっている。昔、自分がかかわった悪。気づかなかった悪。いまやっと、それが悪だとわかったような悪。さまざまな悪がある。時間差でやってくる悪もある。「あれは悪だったんだ」とわかったとき、悪がただよってボールのように跳ねて、ひととひとを傷つけたことを思う。ささいな悪。ささいだと思って、でもそれは見方をかえればけっしてささいじゃないような悪。いや、やっぱりおおげさだよ、そんなふうに考えてるのはきみだけさ、というような悪。
3月1日(水)
・2023年、ひきこもりまくりながら、はじまっていってます。水の中に住まっているような毎日がすぎています。
・んで、そろそろ「浮上」しなけりゃな……とそろそろっと陸にあがろうと……
・精神の旅があって、それをやらなければだめなんだ、ちゅう事情も、人間あるもんです。中年のふたこぶらくだ。いまいちど、人生をふりかえって「棚卸し」するような時間です。といっても、そんなに機能的にできるわけじゃなく、ぐちゃぐちゃ、ぐじゃーっとしながら、自分で自分をあらたにとらえなおす。
・これはけっこうきつい。「きつい」というより、望んできつくなってるような。自我が更新される。それで……脱皮せねばならない。けれどまあ、「期間が長いほど、深く潜れるぜ」なんていうんで、言われたとおりやってたら、窒息しそうにもなる。「ああそろそろ、やばいなあ」と思いながら、外を散歩して、気楽に道をながめるような余裕を、取り戻せたり、しなかったり。それで今日、今日です。
・んで、そろそろ「浮上」しなけりゃな……とそろそろっと陸にあがろうと……
・精神の旅があって、それをやらなければだめなんだ、ちゅう事情も、人間あるもんです。中年のふたこぶらくだ。いまいちど、人生をふりかえって「棚卸し」するような時間です。といっても、そんなに機能的にできるわけじゃなく、ぐちゃぐちゃ、ぐじゃーっとしながら、自分で自分をあらたにとらえなおす。
・これはけっこうきつい。「きつい」というより、望んできつくなってるような。自我が更新される。それで……脱皮せねばならない。けれどまあ、「期間が長いほど、深く潜れるぜ」なんていうんで、言われたとおりやってたら、窒息しそうにもなる。「ああそろそろ、やばいなあ」と思いながら、外を散歩して、気楽に道をながめるような余裕を、取り戻せたり、しなかったり。それで今日、今日です。
1月29日(日)
・いっやあ、じっくり。考えた。昨年の年末バースデーから今年のワンマソにかけて、濃い毎日で、その反動からか、一月の後半は方向性を見失い、いまいち気合いがはいっていなかった。そう……で、「音源つくるぞ。八月くらいに出すぞ」という目標だけセットしたんですが、で、どうしたもんかねえ、と。じゃ、内容を構想しよう、となって、テーマを整理したりするうちに、様々な振り返りの時間を通過してね。それは必然なんで、来し方を振り返る。やはりそれは、常に必要だね。企画前は「ライブハウスで育った自分」の来し方を意識しつつ振り返っていた。それよりもっと個人史的な、プライベートな振り返りもある。企画前後は「見てくれる人にどうなにを伝達するか」を主眼においた。その感覚が、企画後しばらく経ち、もうすこし内面にとどまるようになる。ああ、引っ張り出されないとだめだな。俺は、そういうタチだ。外からの強制力があって、はじめて動くタチだ……というのはある。ワンマソのテーマだった「つぶつぶ」も、そこと関係してた。自分の場合、誰かと出会って、偶然の影響のなかで「この自分」になっていった。それは、ライブハウスの場の力だった。いまのこの自分には、過去、出会った人々の「つぶつぶ」がはいっている。もういないひと、もう解散したバンドの「つぶつぶ」もまた……。そんな意味合いだった。それはいいのだが、じゃあひとりでほっとかれると、自分でひとりを望んでいるようでいて、じつは「望んだ自分になっていかない」ようでもある。このひとりの「閉ざされ」とみんなとの「開かれ」のバランスが、むずかしい。ひとりになるとたんに閉じていき、開きづらくなることを繰り返す。それが俺のパターンなのだ。
・そんなこんなで、いまこうして、いわば方向性を再確認しつつあるわけだった。つぶつぶ……の……伝達者。これを広くとれば、人間……の……その人間「らしさ」の、伝達者。俺が? さあ。でも、そういう気負いも悪くない。自己批判や自己ツッコミは、いつでもやれるのだが、ボケをかますことはおっかなびっくりで遠慮したりする。そうではないだろう。気ままに書くと、ツイッターをみると、よくロシア兵がドローンで殺されている映像が流れてくる。なぜか、俺がそれに興味あるということなのか、タイムラインに流れる。それを見ると、ゲームのコントローラーのようなもので、部屋の中から、ドローンを操作して、現実の戦場で歩くロシア兵を、爆薬などで狙い撃ちにし、殺している。人が、死ぬ。テレビゲームで敵キャラが倒れるのとまったく同じ映像の速度、解像度によって、人が死んでいる。モニターから通じてくる情報は、ドローンの映像も、ゲームの映像も、等価にしてしまう。……そんな現実をみる。それは、いやですよね。おそろしい。おかしい。まちがっている。なんでこんなことが? そういうものをみて、そこに示されている、想像力の圧倒的な欠如、まったくの非対称性と、同時にそれへの批判の欠如を考える。ドローン攻撃はイラク戦争のときも問題になったが、あのときはもっと批判の対象となっていた。だが今回はどうだ。たしかにプーチンロシアの「悪」に対抗する手段だ。それは、正当化されているのだ。……いや、そういう「理屈」が提出されているなら、まだいい。だが実際は、たんにドローンでロシア兵が殺されている映像に、奇妙に陽気な音楽をつけて、それに「ザコだな」「自業自得」「哀れよな」などといった軽いコメントがつけられ、つまりは「消費」されているだけなのだ。この映像は、なんなのだ? なんで俺はこんなのをみているんだ? 俺もまた、同様に死を「消費」しているのか?
・世界、おかしいじゃないですか。いろんな問題がありまくる。あ〜、そんなの無視して、身の回りの幸せだけ考えて、追求すればいいのさ! こんちくしょうが!……それはそうかもしれない。だが俺は、そういう意味では、バカなんだ。「バカ」というのが自惚れなら、「意識が高い」と自嘲してもいい……いや、逆説を逆にいってしまって、わけわからないな。とにかく、いま、自分の足場から、なにを発信して、なにを表現すればいいんかな? そんなことを、検索していたんですね。もっと身近な、自分が当事者のことでいえば、ソロとバンドの差異の話もある。人間が複数であることの、その表現が、なにを保っていないといけないんだろう。「バンド」ってなんだ? あらためてそのことを考えると、「愛なんだよなあ」みたいな話になる。「疑似家族」といういいかたもあるが、もっと誤解ある言い方をしてしまえば、同性愛だ。「友情」といってもいいが、異性愛と相対する概念として、同性愛といういいかたに意味があったりする。……それはともかく、「バンド」という可能性を、俺はみたい。だから、よくいわれる能力主義的、あるいは才能主義的な忠告のごときものを、吹き飛ばしたいと思う。ソロではできないことがバンドにはできる。
・それで、周囲のひとたち、お客さん、関わるひとびとと、共有したいんだな。なにか、価値を共有したい。そのために、ライブもあるし、音源もつくるのである。その原点を、はっきりつかみつつ、進まなければなるまい。だから、ここには、自由の価値もあるし、平和の価値もあるんだね。平等という、むずかしい価値もある。自由、平和、平等。この三大テーマだよなあ、やはり。そしてこの三つとも、いま危機にひんしている……という常套句に浸っちゃまずいかもしれないが、ひとまず率直にそう思う。このとき、具体的な現状認識において、落差が生じるのだが……その落差。自分が高いのか低いのかしらないが、他人から学ぶ姿勢は大事だろう。つまり自分は、自分のことしかわからない。相手のことは、その相手のほうがよくしっている。そんな当たり前のことだ。自分が知っていることを表現する。知らないことは、いえない。いや、でも、想像力によって想像したことを、表す。それもいい。知らないはずのことも、人間は、想像できる。そのはたらきをなくしたら……
・自由、平和、平等。この三大テーマをつらぬく鍵は、想像力だ。それから、根底にある理念も重要だ。けっきょく、人類は、どこに向かっているんだろうなあ? 二十一世紀において、神のごとき問いに、真剣に向き合う必然性が出てきている。それはそういえる。大きな物語が出てくるとき、おなじスケールの想像力がなければ、それを批判し対峙することもできない。俺は、ライブハウスで育った。その「小さな物語」は、どんな意味をもつか。この二十一世紀において。……そういう問題設定があるべき問いのかたちじゃないか。「定住地」と名指したそれは、根拠地、足場ともいえる。俺たちが、安定して生活し、再生産できるひとつのかたち……といえるだろうか。様式。大小ふくめて、様々な難問がちらちら横切っている。それらを目で追いかけ、つぎにまた、目をつむって集中する。想像力で、内奥にはいってゆく。〝こころ〟をたずさえて。人間は、こころをもっている。こころとこころは、響き合う。それが、ドローンやAIとちがうところだ。アナクロな人間たちが、それでもこの地球に存続する意味を、俺は考えたい。これからおそってくる現実に対して、防波堤となるような「考え」があるならば、それを提出したい。俺がしたいことはそれで、俺が「すべき」こともそれだろう。あらためて気合いをいれ、がんばっていく。ぞ!
・そんなこんなで、いまこうして、いわば方向性を再確認しつつあるわけだった。つぶつぶ……の……伝達者。これを広くとれば、人間……の……その人間「らしさ」の、伝達者。俺が? さあ。でも、そういう気負いも悪くない。自己批判や自己ツッコミは、いつでもやれるのだが、ボケをかますことはおっかなびっくりで遠慮したりする。そうではないだろう。気ままに書くと、ツイッターをみると、よくロシア兵がドローンで殺されている映像が流れてくる。なぜか、俺がそれに興味あるということなのか、タイムラインに流れる。それを見ると、ゲームのコントローラーのようなもので、部屋の中から、ドローンを操作して、現実の戦場で歩くロシア兵を、爆薬などで狙い撃ちにし、殺している。人が、死ぬ。テレビゲームで敵キャラが倒れるのとまったく同じ映像の速度、解像度によって、人が死んでいる。モニターから通じてくる情報は、ドローンの映像も、ゲームの映像も、等価にしてしまう。……そんな現実をみる。それは、いやですよね。おそろしい。おかしい。まちがっている。なんでこんなことが? そういうものをみて、そこに示されている、想像力の圧倒的な欠如、まったくの非対称性と、同時にそれへの批判の欠如を考える。ドローン攻撃はイラク戦争のときも問題になったが、あのときはもっと批判の対象となっていた。だが今回はどうだ。たしかにプーチンロシアの「悪」に対抗する手段だ。それは、正当化されているのだ。……いや、そういう「理屈」が提出されているなら、まだいい。だが実際は、たんにドローンでロシア兵が殺されている映像に、奇妙に陽気な音楽をつけて、それに「ザコだな」「自業自得」「哀れよな」などといった軽いコメントがつけられ、つまりは「消費」されているだけなのだ。この映像は、なんなのだ? なんで俺はこんなのをみているんだ? 俺もまた、同様に死を「消費」しているのか?
・世界、おかしいじゃないですか。いろんな問題がありまくる。あ〜、そんなの無視して、身の回りの幸せだけ考えて、追求すればいいのさ! こんちくしょうが!……それはそうかもしれない。だが俺は、そういう意味では、バカなんだ。「バカ」というのが自惚れなら、「意識が高い」と自嘲してもいい……いや、逆説を逆にいってしまって、わけわからないな。とにかく、いま、自分の足場から、なにを発信して、なにを表現すればいいんかな? そんなことを、検索していたんですね。もっと身近な、自分が当事者のことでいえば、ソロとバンドの差異の話もある。人間が複数であることの、その表現が、なにを保っていないといけないんだろう。「バンド」ってなんだ? あらためてそのことを考えると、「愛なんだよなあ」みたいな話になる。「疑似家族」といういいかたもあるが、もっと誤解ある言い方をしてしまえば、同性愛だ。「友情」といってもいいが、異性愛と相対する概念として、同性愛といういいかたに意味があったりする。……それはともかく、「バンド」という可能性を、俺はみたい。だから、よくいわれる能力主義的、あるいは才能主義的な忠告のごときものを、吹き飛ばしたいと思う。ソロではできないことがバンドにはできる。
・それで、周囲のひとたち、お客さん、関わるひとびとと、共有したいんだな。なにか、価値を共有したい。そのために、ライブもあるし、音源もつくるのである。その原点を、はっきりつかみつつ、進まなければなるまい。だから、ここには、自由の価値もあるし、平和の価値もあるんだね。平等という、むずかしい価値もある。自由、平和、平等。この三大テーマだよなあ、やはり。そしてこの三つとも、いま危機にひんしている……という常套句に浸っちゃまずいかもしれないが、ひとまず率直にそう思う。このとき、具体的な現状認識において、落差が生じるのだが……その落差。自分が高いのか低いのかしらないが、他人から学ぶ姿勢は大事だろう。つまり自分は、自分のことしかわからない。相手のことは、その相手のほうがよくしっている。そんな当たり前のことだ。自分が知っていることを表現する。知らないことは、いえない。いや、でも、想像力によって想像したことを、表す。それもいい。知らないはずのことも、人間は、想像できる。そのはたらきをなくしたら……
・自由、平和、平等。この三大テーマをつらぬく鍵は、想像力だ。それから、根底にある理念も重要だ。けっきょく、人類は、どこに向かっているんだろうなあ? 二十一世紀において、神のごとき問いに、真剣に向き合う必然性が出てきている。それはそういえる。大きな物語が出てくるとき、おなじスケールの想像力がなければ、それを批判し対峙することもできない。俺は、ライブハウスで育った。その「小さな物語」は、どんな意味をもつか。この二十一世紀において。……そういう問題設定があるべき問いのかたちじゃないか。「定住地」と名指したそれは、根拠地、足場ともいえる。俺たちが、安定して生活し、再生産できるひとつのかたち……といえるだろうか。様式。大小ふくめて、様々な難問がちらちら横切っている。それらを目で追いかけ、つぎにまた、目をつむって集中する。想像力で、内奥にはいってゆく。〝こころ〟をたずさえて。人間は、こころをもっている。こころとこころは、響き合う。それが、ドローンやAIとちがうところだ。アナクロな人間たちが、それでもこの地球に存続する意味を、俺は考えたい。これからおそってくる現実に対して、防波堤となるような「考え」があるならば、それを提出したい。俺がしたいことはそれで、俺が「すべき」こともそれだろう。あらためて気合いをいれ、がんばっていく。ぞ!
1月18日(水)
・年初から忙しい日々がつづき、なかなか一休みする間もなくきた。きのう17日はぼやーっとしたな。
・15日はてし企画。16日はごりごりでサナダブッカーの日。
・バンドはもっと進化して、やっていきたいね。「欲」は、やってるうちに、新しくでてくる。つぶつぶする。人との出会い、つぶつぶ、人前に出て、ライブして、反応もらって、それでさらにつぶつぶ。そういう感じなのだが、内的つぶつぶね。土壌のたがやし。こっちも重要。そう、メンバーつぶつぶ。「バンド」って、複数人表現じゃん。集団であること、人間が複数いることで、表現も変わるはずじゃん。「言葉」の使い方も、そうだよね。俺のモノローグ(独白)じゃ、なんかバンドの意味合いを、活かしきってる感じがしなくって。おお、当然、演奏集団なのだから、もっと煮詰めて、やっていきたいんです。荒削りでここまできた。新しい表現にもトライしつつ、つぶつぶを豊かにしていきたい。
・15日はてし企画。16日はごりごりでサナダブッカーの日。
・バンドはもっと進化して、やっていきたいね。「欲」は、やってるうちに、新しくでてくる。つぶつぶする。人との出会い、つぶつぶ、人前に出て、ライブして、反応もらって、それでさらにつぶつぶ。そういう感じなのだが、内的つぶつぶね。土壌のたがやし。こっちも重要。そう、メンバーつぶつぶ。「バンド」って、複数人表現じゃん。集団であること、人間が複数いることで、表現も変わるはずじゃん。「言葉」の使い方も、そうだよね。俺のモノローグ(独白)じゃ、なんかバンドの意味合いを、活かしきってる感じがしなくって。おお、当然、演奏集団なのだから、もっと煮詰めて、やっていきたいんです。荒削りでここまできた。新しい表現にもトライしつつ、つぶつぶを豊かにしていきたい。
1月8日(日)
・新年あけました。おめでとうございますです。寅年は終わり、うさぎなる小動物の時代がやってきたようです。わたくし寅年の人間たちは後景にしりぞき、白いうさぎの跳躍をみまもります。
・あたたかい気持ちで。ワンマソ無事にできました。みなさんありがとう。それにしても、緊張したなあ。年末年始、気が気でないといいますか、たいへんにナーバスな気分で、毎日はせっつかれておりました。それでも、当日、やって、過ぎて、よかったなあという感慨にひとしきり浸りました。浸っていたのでワンマソ後、ぼやっと、ふやっと、回復に時間は、すこしかかりました。うさぎのリズムなら、もうすこしテンポも早そうです。でもわたしは寅でした。でかいばかりでいまいち俊敏性に欠けるのか。いやそんなことはない。ちゃんと寅は早い。けれどもわたしは、なまけ寅でした。黄色いばかりで、威厳もありませんでした。へらへらとして、もう8日ですか。
・あしたはタテタカコさんと、ツーマンライブで。ツーマソといいそうになりますが、ツーマンです。失礼のないようにしたいです。タテさんを初めて観たのも、もう20年ほど前になりましょうか。そのときは千葉ANGAでした。eastern youthの吉野さんとのツーマンだっと思います。そのあとにも一度、日比谷カタン、石橋英子とのスリーマンを、都内のハコに観に行ったことがありました。いずれも、だいぶ前の話です。その後時間が経って、koshigaya ASYLUM関連で再び観る機会をえました。わたしにとっては、対バン相手というより、こちらが「リスナー」として対する方であります。大丈夫でしょうか。不安がつのります。わたしのような、たよりない非力なぼんくらがツーマン相手とさせていただく時点で、失礼の領域に踏み込んでいる感をぬぐえません。慇懃になっているのではなく、かなり本音です。とにかく、精一杯やります。
・音楽茶屋ごりごりハウスにはいつもお世話になっております。そうですね、ASYLUMというのはわたしにとって影響のおおきいフェスでした。こう捉えてよければ、「音楽」をある種の媒介として、音楽の向こうの領域へつながる手段とすることができる。音楽が「純」音楽としてのみならず、音楽を使って街をほぐし、再構築し、深いコミュニケーションをとりもつ言語として用いることができる。さて現在のような時代情況においては、なおさらそのようなアイデアがどこかに役に立つ予感が、わたしのなかにはあります。が、それを具現化する手段はまた、藪のなかから引っ張り出さないとなりません。
■
・さて、ワンマソを振り返って、終わってから再度ワンマソのイメージを浮かべます。だいたいいつも、終わってから「ああ、こんなこと言いたかったなあ」「こうやりたかったなあ」というイメージが浮かんでくるものです。遅いです。このディレイのもと、反省的イメージを浮かべます。
・「つぶつぶ」の授業は、いかかでしたでしょうか。ご覧になったかたの感想も自由にください。あ、あと音源も配りましたね。あれは聴かれているのでしょうか。さっぱり反応がありません。たぶん、CDもといコンパクト・ディスクはもはや化石フォーマットで、誰も再生機をもっていないか、聴いてものの内容がいまいちで捨て置かれているにちがいありません。そう思うと、自分が哀れに思えてもきます。これも、獲得したワンマソの経験のうちでしょうか。そうやって数えれば、悲哀もまた次に向かう糧、原材料になりそうです。つぶつぶ。
・つぶつぶ、をあれこれ応用して考えます。一番イメージしたのは、つぶつぶの相互性です。送り手と受け手が、完全にきれいに役割分担しているわけではなく、送り手もまた受け手からのフィードバックでたえずつぶつぶを受け取るはずなんです。これがなくなると、送り手は“自分が変わる”ことがなくなります。だめでしょうか。たぶん、それは停滞を意味します。けれど、安心安全かもしれませんが。自分が変わる可能性がないなかで、予定可能な「送りもの」をする行為は、むしろ流行っているのではないでしょうか。ライブハウス。定住地。そして、ステイホーム。
・もうひとつは、「ライブハウス」と「ステイホーム」の対義性です。はしょっていいましょう。ライブハウスは、よそん家(ち)です。ステイホームは、自宅です。じぶん家(ち)です。ライブハウスは、よそん家だからこそ、偶然にひらかれている。じぶん家は、家族がいます。家族は固定されています。血縁関係の家族は固定的です。ライブハウスは、それでいうなら疑似家族的です。わたしは、『俺の定住地はここだ』といいました。ある意味でそれは、家族というものの再創造でもあります。偶然にひらかれた(疑似)家族というものが、ステイホームの時代に対するひとつの解毒剤になりうる……わたしは、そのことを考えていました。そしてそれは、おそらくコロナ禍に限定した話ではなく、これからの時代に対するひとつのアンチテーゼでもありうるかもしれません。(ところでステイホームを裏返すとホームステイですが、コロナの時代にホームステイはできないものとされましたね。ライブハウスの思想は、こう考えればホームステイの思想と近いものがあります)
・それで、偶然にひらかれているということは、すなわち“自分が変わる”可能性にひらくということです。想定していない他者との出会いを肯定するということです。予測できないコミュニケーションを受け入れるということです。偶然の「つぶつぶ」を肯定すること。それなしには、「この自分」もまた、固定的で変化のないものとなる。それを、良いと考えるか悪いと考えるか。その地点でひとの選択はわかれています。オンライン/リモートの思想、飲み会忌避の思想は、同時に「自分を変えない」傾向を帯びる。わたしは、ウイルスうんぬんよりも、むしろそのことのほうが気になる。わたしの立場は、偶然を肯定する側にある。それは、「この自分」は、まさに偶然の出会いによってつくられていて、この身体、この精神には、いままで出会った無数のつぶつぶが宿されているからです。偶然の出会いを否定することは、そのままいまのこの自分を自己否定することとなる。そして、もっといえば、未来の自分——自分とおなじような人間、似姿の再生産——を否定するか肯定するか、です。人間には、可能性がある。それぞれに個性がある。その可能性というのは、個人の資質のみによって決定されるのでなく、環境や他者との出会いによって可変するものじゃないか。個性もまた、変化します。自分自身の来し方をおもうとき、必然的に、偶然の肯定へと到達します。これが最終地点ではないでしょうが、現時点での主だった考え方は、このようなものです。
・人間を固定的にとらえるか、可変的にとらえるか。ここにちがいが出てくる。「〇〇は野蛮だ、悪だ、だから……」と考えるか、ひとは変わるもんだ、と考えるか。それだけでも、そこから提出される答えの選択はおおきく変わる。ひとは、変わる。教育とは、ひとと向き合って、相互に変わり合うことでもあるだろう。「変わる」ということを肯定する。相手にどう接するか。どう対するか。こちらがかたくなになれば、相手もかたくなになる。「変わる」あるいは「変える」ということを勘定にいれなければ、これからの世界は暗いだろうなという予感が、この年始から感じるところであります。
・安全椅子に座って、金だけ送っても、なにも変えられないかもしれない。俺が変わるから、お前も変わってくんねえか。そっちのイマジンを、絶やさないこと。
・あたたかい気持ちで。ワンマソ無事にできました。みなさんありがとう。それにしても、緊張したなあ。年末年始、気が気でないといいますか、たいへんにナーバスな気分で、毎日はせっつかれておりました。それでも、当日、やって、過ぎて、よかったなあという感慨にひとしきり浸りました。浸っていたのでワンマソ後、ぼやっと、ふやっと、回復に時間は、すこしかかりました。うさぎのリズムなら、もうすこしテンポも早そうです。でもわたしは寅でした。でかいばかりでいまいち俊敏性に欠けるのか。いやそんなことはない。ちゃんと寅は早い。けれどもわたしは、なまけ寅でした。黄色いばかりで、威厳もありませんでした。へらへらとして、もう8日ですか。
・あしたはタテタカコさんと、ツーマンライブで。ツーマソといいそうになりますが、ツーマンです。失礼のないようにしたいです。タテさんを初めて観たのも、もう20年ほど前になりましょうか。そのときは千葉ANGAでした。eastern youthの吉野さんとのツーマンだっと思います。そのあとにも一度、日比谷カタン、石橋英子とのスリーマンを、都内のハコに観に行ったことがありました。いずれも、だいぶ前の話です。その後時間が経って、koshigaya ASYLUM関連で再び観る機会をえました。わたしにとっては、対バン相手というより、こちらが「リスナー」として対する方であります。大丈夫でしょうか。不安がつのります。わたしのような、たよりない非力なぼんくらがツーマン相手とさせていただく時点で、失礼の領域に踏み込んでいる感をぬぐえません。慇懃になっているのではなく、かなり本音です。とにかく、精一杯やります。
・音楽茶屋ごりごりハウスにはいつもお世話になっております。そうですね、ASYLUMというのはわたしにとって影響のおおきいフェスでした。こう捉えてよければ、「音楽」をある種の媒介として、音楽の向こうの領域へつながる手段とすることができる。音楽が「純」音楽としてのみならず、音楽を使って街をほぐし、再構築し、深いコミュニケーションをとりもつ言語として用いることができる。さて現在のような時代情況においては、なおさらそのようなアイデアがどこかに役に立つ予感が、わたしのなかにはあります。が、それを具現化する手段はまた、藪のなかから引っ張り出さないとなりません。
■
・さて、ワンマソを振り返って、終わってから再度ワンマソのイメージを浮かべます。だいたいいつも、終わってから「ああ、こんなこと言いたかったなあ」「こうやりたかったなあ」というイメージが浮かんでくるものです。遅いです。このディレイのもと、反省的イメージを浮かべます。
・「つぶつぶ」の授業は、いかかでしたでしょうか。ご覧になったかたの感想も自由にください。あ、あと音源も配りましたね。あれは聴かれているのでしょうか。さっぱり反応がありません。たぶん、CDもといコンパクト・ディスクはもはや化石フォーマットで、誰も再生機をもっていないか、聴いてものの内容がいまいちで捨て置かれているにちがいありません。そう思うと、自分が哀れに思えてもきます。これも、獲得したワンマソの経験のうちでしょうか。そうやって数えれば、悲哀もまた次に向かう糧、原材料になりそうです。つぶつぶ。
・つぶつぶ、をあれこれ応用して考えます。一番イメージしたのは、つぶつぶの相互性です。送り手と受け手が、完全にきれいに役割分担しているわけではなく、送り手もまた受け手からのフィードバックでたえずつぶつぶを受け取るはずなんです。これがなくなると、送り手は“自分が変わる”ことがなくなります。だめでしょうか。たぶん、それは停滞を意味します。けれど、安心安全かもしれませんが。自分が変わる可能性がないなかで、予定可能な「送りもの」をする行為は、むしろ流行っているのではないでしょうか。ライブハウス。定住地。そして、ステイホーム。
・もうひとつは、「ライブハウス」と「ステイホーム」の対義性です。はしょっていいましょう。ライブハウスは、よそん家(ち)です。ステイホームは、自宅です。じぶん家(ち)です。ライブハウスは、よそん家だからこそ、偶然にひらかれている。じぶん家は、家族がいます。家族は固定されています。血縁関係の家族は固定的です。ライブハウスは、それでいうなら疑似家族的です。わたしは、『俺の定住地はここだ』といいました。ある意味でそれは、家族というものの再創造でもあります。偶然にひらかれた(疑似)家族というものが、ステイホームの時代に対するひとつの解毒剤になりうる……わたしは、そのことを考えていました。そしてそれは、おそらくコロナ禍に限定した話ではなく、これからの時代に対するひとつのアンチテーゼでもありうるかもしれません。(ところでステイホームを裏返すとホームステイですが、コロナの時代にホームステイはできないものとされましたね。ライブハウスの思想は、こう考えればホームステイの思想と近いものがあります)
・それで、偶然にひらかれているということは、すなわち“自分が変わる”可能性にひらくということです。想定していない他者との出会いを肯定するということです。予測できないコミュニケーションを受け入れるということです。偶然の「つぶつぶ」を肯定すること。それなしには、「この自分」もまた、固定的で変化のないものとなる。それを、良いと考えるか悪いと考えるか。その地点でひとの選択はわかれています。オンライン/リモートの思想、飲み会忌避の思想は、同時に「自分を変えない」傾向を帯びる。わたしは、ウイルスうんぬんよりも、むしろそのことのほうが気になる。わたしの立場は、偶然を肯定する側にある。それは、「この自分」は、まさに偶然の出会いによってつくられていて、この身体、この精神には、いままで出会った無数のつぶつぶが宿されているからです。偶然の出会いを否定することは、そのままいまのこの自分を自己否定することとなる。そして、もっといえば、未来の自分——自分とおなじような人間、似姿の再生産——を否定するか肯定するか、です。人間には、可能性がある。それぞれに個性がある。その可能性というのは、個人の資質のみによって決定されるのでなく、環境や他者との出会いによって可変するものじゃないか。個性もまた、変化します。自分自身の来し方をおもうとき、必然的に、偶然の肯定へと到達します。これが最終地点ではないでしょうが、現時点での主だった考え方は、このようなものです。
・人間を固定的にとらえるか、可変的にとらえるか。ここにちがいが出てくる。「〇〇は野蛮だ、悪だ、だから……」と考えるか、ひとは変わるもんだ、と考えるか。それだけでも、そこから提出される答えの選択はおおきく変わる。ひとは、変わる。教育とは、ひとと向き合って、相互に変わり合うことでもあるだろう。「変わる」ということを肯定する。相手にどう接するか。どう対するか。こちらがかたくなになれば、相手もかたくなになる。「変わる」あるいは「変える」ということを勘定にいれなければ、これからの世界は暗いだろうなという予感が、この年始から感じるところであります。
・安全椅子に座って、金だけ送っても、なにも変えられないかもしれない。俺が変わるから、お前も変わってくんねえか。そっちのイマジンを、絶やさないこと。