震災から4年が経って
|
震災から4年が経った。
もうそんなかあと思う。 復興復興といってあまり進んでないのだろうなあと思う。 でももとからそんなに心配してたのかなあ俺と思う。 とにかく、節目だから考えなきゃいけないと思う。 でも毎日のなかでほんとに思い返さないよなと思う。 けっきょく何書いていいかわからんと思う。 なんで文章なんて書いてるんだろうなんのためにだろうと思う。 せめて歌でも歌っていたほうがまだ意味があるのではと思う。 なんで震災について考えてんだろうと思う。 あれ、あのころ俺なに一生懸命考えてたんだっけと思う。 そういえば「これは絶対重要だから絶対考えてかなきゃいけない」と思ったことがあったよなと思う。 てことはそれについて考えることをこの4年全然してこなかったんだなと思う。 てゆうか考える事の分量がだんだん少なくなっていってるのかなと思う。 あの日、どこかにさまよい流れてった魂がたくさんあるんだよなと思う。 でもそんなこと書いていいのかなと思う。 それはいま書く作業のなかで思いついただけじゃないかいつも思ってるわけじゃないじゃないかと思う。 けれども考えるということはそういうことなんだと思う。 考える資格や、発言する権利を許されるのを待たず、勝手にいっちゃうものなんだと思う。 でもそんなのも開き直りにきまってるじゃんと思う。 だったらなにを表現すればいいの?と思う。 表現すること自体が罪なんだよ、と思う。 いやいや、そんな「罪」だなんて、へ、それこそ一種の誇大妄想、ナルシシズム、過大評価のこけおどしだよと思う。 まさにその通りだろうと思う。 そうやって自分自身に自己充足してくのだろうなと思う。 おいおい4年前から一歩も進んでないじゃないかよと思う。 そうだよだから「一歩も進んでいないのだ」ということを痛感するためにいま自問自答してるんじゃん。素晴らしいことだよこれと思う。 なんで自画自賛しだすの?と思う。 ほら、ほらこうやって、充実してゆく。自分ひとりの世界だけで充実してゆく。これがさ、いいことだと思ってるんですか?これを罪と呼ばずしてなんと呼ぶのですか?気持ち悪い上に恥ずかしいことだと思いませんか?本気で、考え変えた方がいいんじゃないですか?と思う。 自問自答だよ。これがさ、足りないんだよ。だから、だめだったんだよ。それが反省なんだよと思う。 じゃあいつまでも自分と自分で向き合って、他人に向いていかないの?と思う。 ああ一歩も変わってないと思う。なんにも進んでないと思う。 ああそう。でさ、震災震災っていってさ、実際被災した方々に対してお前はどんな行動したの?何を想像したの?と思う。 なにも行動していないし、なにも想像すらしていないんじゃないの?なんにも共感できていないし、悲しんでない。そもそも、なにも感じてない。それなのにあなたは、なにかを「表現」するの?そんなことができるの?しちゃっていいの?と思う。 しちゃっていいし、するんだよ。しなきゃいけないんだ。わかるだろ。そうだよ、なにも、感じていないかもしれない。想像していないかもしれない。行動なんてなんにもしていないし、自分のことしか考えちゃいない。でもだからこそ、そういう、低俗な人間のコトバを表現して残すということは、有意義なんだ。大切なんだ。だって、そいつらは「いる」んだもの。表現ていうのは、一種の存在証明なんじゃないかな。自分が、自分とおなじような人が、生きて「いる」んだってことを証明するために、表現てあるんじゃないかな。立派な人や、立派な考えだけがこの世に「いる」んじゃない。はるかにもっと数多くの「立派じゃないこと」によってこの世界は出来てるんだ。だったらそいつらにこそ語らせなきゃいけない。じゃないと、立派でなきゃいけない、自分はなんて罰当たりでどうしようもない人間なんだろう、なんて悩みがますます増えちゃう一方だよ。それに歯止めをかけなきゃいけないね、と思う。 そんな大層「ご立派」な理論をお持ちで、じゃ実際あんたは、どんぐらいの表現をしてきたんですか?結局あなたが言ってることは、免罪符をかかげることで、そもそもの責任とか罰というものを、はじめから背負うことを拒否している。あんたみたいな、ええかっこしいのボンクラは腐るほどいるんだよ。そいつらほんとに腐ってさ、いま向かいの公園にいっぱい積み重なってんだけど、あんたどうにかしてくれよ。あんたみたいな奴らのせいだよ。こっちはみんないい迷惑だよ。具体的なことはなんにもしないくせに理屈ばっかりこねくり回して言葉の上だけでエラくなっちゃってさ。イタいね。腰をあげるよ。体を汚せよ。汗をかけよ。さっさと片付けろよこの野郎と思う。 結局これが、僕の見てるもの。結局これが、僕の考えてること。考えれば考えるほど、どぶにはまってゆく。見る対象を、変えるしかないんだ。自分とばかり、内側でばかりじゃないか。無限の、自慰のような、SとMのような、問いかけ。考えることを、やめたほうがいい。もう書かない方がいい。いやちがう。いやそうだ。書いてもなにも変わらない。公園の掃除をしたほうがいい。そしたら場所が、きれいになる。そうだ。どこか別の場所で、もっと離れたことろでなにかする。それは、他のなにかと近くなることだ。いろんな死骸がおちている。自分と似たような顔をしたものもいる。隣の公園ではそうだろう。東北の公園ではきっとちがうのだ。結局自分の置かれた環境に釘付けにされているだけならば、これ以上誰とも出会わないだろう。そうして身近の世界だけで、愛をつくりだすのもいい。けれども少し待ってくれ。僕の知らない世界がある。僕の関与しない世界がある。いつでも世界には、数えきれない、知りきれないことがあり、それらはそれらの場所で起こり、それらはそれらの場所で過ぎ去ってゆく。世界は、他者で満ちていて、だから互いに関与しないもの同士が、同時代に生きているということだ。僕は、僕に関与する。でも誰が僕に関与するというのだろう?そう思ったとき、越境者の顔がおぼろに浮かぶ。彼らは、敷居をまたいで、落しものをしていった。それらの芽が、いま僕の場所で草となってのびている。実際に体ごと越境してきた人間もいるし、表現されたものを通じて越境してきたものもあった。それらが、僕の場所の草花をつくっていた。草花に倫理も善悪もない。でもそれは、あったほうがいい。人間が人間に、受け渡してきたものがここにある。意味よりももっと、価値よりももっと、否定よりももっと、ただ存在するということを、肯定するものがここにある。僕は、手を持ち、描くことができる。僕は、足を持ち、歩くことができる。どこかに出かけてゆくことも、その場にとどまることもできる。紙ひこうきは、風にのって飛んでゆく。この手はなにかをつかむことができる。手を合わせて祈ることもできる。僕は、僕の場所にある草花を信じる。だから、あなたの場所にある草花も、信じる。そう思う。 |