ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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震災から4年が経って その2

Ⅰ

先週ぼくは「震災から4年が経って」を書いた。
そこでぼくは、けっこう、「悩んで」「葛藤」して「考えて」いる風だった。
というか、なんとかがんばって、「考える」ことをしたのだ。

そのあとで、小田嶋隆さんのコラムを読んだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20150312/278612/
小田嶋さんは、
「東日本大震災から数えて4回目の3月11日を迎えて、自分の中にさしたる感慨が湧いてこないことに当惑している。」
「で、私たちは、震災関連の話題に対して、実際には感じていないことを感じているかのように話したり、考えてもいないことを考えているかのように語る圧力に直面している。
これは、不自然なことだと思う。」
などのように書き、震災以後、新聞各紙や世の空気が「意見をはっきりと出す」ことを重視するようになったのでは、と書き、でもいまそのことの危険性が出てきてるんじゃないか、と書いたりしている、とおもう。
正確には、本文を読んでいただきたい。

ぼくは小田嶋さんのコラムを読んで、
「あー俺もまさに、なんか考えなくちゃいけない、なんか書かなきゃいけない、と思って考えて書いたりしたけど、なんか、根っこにのらない気分がたしかにあった。それでもようやく書いて、だけどのらない気分があった、ということも、意味あることだったよな」
とおもって、すこし反省したのだ。
「考える」ことをすることによって、結果的に「考えない」ことを隠蔽してしまった。
考えたくない、と思っていることを、白状しきれなかったとおもった。
なにか考えて、それを言ったり書いたり、また歌ったりすることが、いいことだと思いすぎていやしないだろうか。
と、こんな風に「反省」するのも、「反省するのがいいこと」だとおもっているから、かもしれない。

でも、それと同時に、
「文章が切迫感をもつとしたら、それはどういう文章だろう」
ということも、気になる。
どうせなら、書いたものは、読んでもらいたい。
書いたものが恥ずかしくて、あまりおおっぴらにはしたくないときも、でもやっぱり読んでもらいたい、読んで、褒めてもらえたらうれしい。
褒めてはもらえなくても、よかった、と思ってもらえたら、満足できる気がする。
それは、自分を認めてもらえた、という気分になる。
表現物のなかに、自分をいれればいれるほど、その評価は自分自身の評価のようにおもえてくる。
だから、傷つきもするし調子にのったりもするのだ。

ほんとうは、切迫してばかりいても、つかれてしまう。
よくよく考え直してみると、もっと気楽に楽しいものを目指したほうが、気に入ってもらいやすいのではないか、ともおもえる。
けれど、それだと、その表現と自分自身との関係が、薄まってしまう気もする。
もっと、自分に、関係するもの。
それを、もっと身の回りに置きたいとおもっているようだ。
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((生きがいってなに?))



「ん、それは、生きてる甲斐。まあ、充実した時間、みたいなものだよ。」



((充実した時間て、どんな時間?))



「そうだなあ。・・・他人のためになったり、夢中になったり、、、人それぞれだろうけど、その時間が、<これが自分の生まれた意味だ>ということの表現になっていたら、それこそまさに<充実した時間>だといえそうだね。」



((ねえ、そんな時間て、みんな、どのくらいもっているものなの?))



「それはねえ、どうだろうねえ、あんまり、たくさんもってはいないものなのかなあ。もちろん、もう毎日がそんな時間さ!みたいな人もいるだろうけどねえ。そんな人は、運命に恵まれていたのか、ものすごく努力したのか、どこかでかしこかったのか、しらないけど、でもたいていの人は、まあそこそこ充実した時間と、もう意味なんてあるのかないのかわからないみたいな時間と、両方のあいだをいったりきたりしながら、生きているんじゃないのかねえ。」



((ふうん。じゃあぼくは、充実した時間を多くゲットしたいから、意味がなさそうなことはしないことにするね。))


「ははは、それができたら、とてもかしこい人だといえるよ。けどね、ほんとうに難しいのは、果たしてそれが意味あることなのか、意味のないことなのか、などということは、ほとんど、死ぬ間際ぐらいにならないとわからないものなんだよ。」


((ふうん。じゃあ死んじゃったらどうなるの?))


「死んだらどうなるかって?それはほんとうにわからない。それがわかっていたら、ほんとうに、この世界は悩まなくてすむんじゃないかと思うね。いやいやほんとうに。
でも、死ぬ間際に、みんなその答えがわかりそうになって、答えをぼくたちに伝えようとしたかもしれない。けど、伝えきらずに、そのまま逝ってしまう。ぼくたちが見ることができるのは、もっぱらその人の遺体だけだ。遺体はなにも、語ってくれない。その魂は、もう向こうがわへ行ってしまってるんだ。」


((死んだ人の声が聞けたらいいのに。))


「うん。そう、だから、お墓参りに行ったり、お仏壇に手を合わせたりするんだ。
でもね、死者になにか求めちゃあいけないんだ。その声を求めるのも、その存在を求めるのもだめなんだ。
死者には、ただ、<ありがとう>って、祈るんだよ。」


((なんだかお行儀がいいね。))


「そう。行儀のよさは、大事だよ。」




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Ⅱ

このコラムコーナーをはじめたきっかけは、ISIL(イスラム国) の邦人人質事件だった。
今日でちょうど一ヶ月たったことになる。

月日が経つ。流れる。
そうして僕たちと「事件」は、遠いものになってゆく。

一月半ほどでも、意識の変化は如実に現れる。
いま、ISIL(イスラム国) に対する関心の高まりは、徐々に落ち着こうとしている。
あれは、「パニック」のような状態だったともいえる。



・僕は、なにについて書こうとしているのだろう?
ISIL(イスラム国) について?震災について?
それとも、「流れる時間」についてか?

そのどれでもあり、そのどれでもないこと?
「考えること」「思うこと」そのものについて?


・ぼくは思ったり、書いたりする。
いま、この場では、ぼくは、書く。
ライブでは、歌をうたう。
歌を、つくるということは、とても、集中のいることだな。

歌は、「作品」になる。
それをライブで、披露する。
演奏は、身体表現だ。
さまざまな技術が、そこに動因され、
なんとか表現になったり、ならなかったりする。

歌と、書きものは、まるで違った作業だが、通底するものがある。
その通底するものに、更なる深い関与がしたい。
自由な、関与の仕方がしたい。
<表現>を、もっと<自由>にしたい。
その欲求は、単なる欲求であるだけではない。
ぜんぜん耳に聞こえない、目に見えない、
たくさんのもの、いろんなものが、世界にあふれているし、
自分のなかにも、あふれている。
人間には、あふれるものがある。
それを読み取りたいとおもう。
それを記したいとおもう。
誰でも、あふれている。
あふれている人と、あふれていない人に分かれているのではない。
誰でもが、あふれているが、それを知らなかったり、
表現する方法が、なかったりする。
<印象>がそうして、決定づけられる。
みんな<印象>をアテにするしかないので、
「この人はあふれている」とか
「この人はあふれていない」とか感じることになるが、
それは、間違った事実をつくることになる。




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ーーーいちばんだいじなものは、なんじゃら?


===そうやって考えてもさ、その都度、その都度で、答えが変わっちまうんじゃぜ。ぬ。だから、いいかげんなんじゃぜ。ぬ。しんようするなべし。



ーーーぬい。わい。わかったわい。ほい。いや、しんよう?しないべし。だから、もういちどきく。。。いちばんだいじなのは、いったいなんじゃあい?



===わっはおい。これ、これ、これ、これだ。「たましい」って言っとけばいいかな??まあさ、あれだよ、いまおもうのは、えーと、とりあえずさ、君がそう聞くっていうこともさ、あれだけどさ、つまり、だいじなことが、その、「一番大事なこと」が、あまり「大事に」されてない、って思ってるってことでしょ?まあそう、かんじる??



ーーーああ。ああ、そうだ。そうだと。そうだといい。そうだといいたい。いいたかった。と。いいたいよ。いまでも。え。いいたいんだよ。ただ。いいたいだけかもわかんない。だから、ないようがどっちだ。あとかさきかしらん。



===あ、、、なに??え〜、「一番大事なこと」が、「大事に」されてない。そういうふうに、感じる。感じることが多々ある。ふだん。せいかつのなかで。世の風潮。ネットでも。なんでもかんでも。そうだってことでしょ?ちがったか??



ーーーそうです。まったくそれは認めるとおりです。わたしは、過去にもいいましたとおり、そうです。不満を抱えています。爆弾を投下したのは、以下の理由からです。つまり、てんでんばらばらの事実から、あるひとつのデタラメをつくりだしてるんだね。それは、犯罪でした。犯罪を長くつづけていると、唖になります。



===なにが、なにがぁ???



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Ⅲ

なんでもいい。ピンボールでもマジックでもTVゲームでも書道でもサッカーでも。
「自由」になるには、なんだっていい。
そのとき、あなたがたが、「自由である」と感じていただけるならば、なんだってかまわない。

しかしそれにしてもひとつの疑問は、
はたして自由が先にあったのか、
それとも不自由が先にあったのか。
いったい人間の歴史的発展において、
いかなる意識形成によって「自由」なる概念が生じたのか。

いったい、どこのだれが、そんな「概念」を人間にふきこんだんでしょうね。

かなわなきゃいけないから
かなわなきゃいけない。
本気さが足りない、というハナシになる。


現実に関わって活動することになるけど、
現実に強制され、従っていると、なくしている。


なくしたらだめだ。
もちながら活動しないと。


ああもうどうでもいい。
どうでもいいものは、どうでもいい。
どうでもよくないものがあるのに、どうでもいいことを気にしたり、
興味していたり、それはちがっている。
どうでもよくないこと、のために、どうでもいいこと、を、払いのけなくてはいけない。


震災について考えるということは、
僕らには負債が山のようにある、ということを考えること。
中東を見て思うのは、
解決しなければならない課題が永久にのしかかっていて、
人間というのは、それを解決するなんていうことが、できるのだろうか、ということ。


自分の魂を解放することは、その人の責務として設定されていることだ。


魂に、やさしくなること。


たったいま、それがいちばんだいじと、おもうております。





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