読み書きできぬネアンデルタール人
・コラムがなかなか書けない、という状況がけっこうつづきました。
なかなか書けない、というのはつまり 「筆を執ってもいっこう気乗りがしない」 という例の急性フタバテイシメイ症候群のことです。 この病気にかかると、 なにか書こうとしてもまったく自分の思いを 言葉にできなくなる感覚に襲われ、 大変苦しい状態におちいります。 この状態から抜け出すひとつのヒント、それは ですます調で書き出す という明瞭な方法であります。 たとえば 「うーんなんだかなにも書けず。どうにもならん。どうしたものか」 や 「どうしたって書けないのはなぜだろうか。天気が悪いな。俺も方途がつきたよ」 など、 こういう書き方はどうしたって独り言くさくなります。 そうすると、いつまでたっても自己循環するばかりで、 出口のない道を歩いているようなのです。 純粋な哲学者、あるいは思索者なら 「それでこそ」なのでしょうが、 僕は凡庸な生活者にすぎませんでした。 そのことにやっと気づいて、 低きに徹する気持ちで、新たにまいりたい所存でございます。 ・さて、ではなにを書こうかと、、、。 考えあぐねますね。 なんというか、正直に申し上げて、 巨大なトピックが存在しないのです。 コラムも最初のころは、勢いがありまして、 といっても今回が7回目で まだ始めてから2か月くらいしかたっていないのですが、 早くも挫折の契機に瀕しているのはあきらかです。 いや、「でした」と言い直しておきましょう。 僕は乗り越えました。 悟りを開いたといっても過言ではないでしょう。 人間は、成長するのです。 僕がその証明です。 、、、おっと、 これは、冷静にいえば、 「人間は、堕落するのだ。 僕がその証明だ。」 ともいえますね。 というか、そういったほうが実態に近い気がします。 考えるべきことを忘れ、 戒めるべきことを放置し、 永遠に記憶に留めなくてはいけないものを、 享楽的なものに置き換え上書きする。 そういうことをし続けている気がします。 ただ、こういうことを書くと、 もうそれだけで偽善的な鼻白む気配が漂う、 という気もいたします。 ((ちなみにですます調で書いていると、 内容と関係ない体裁を整えるための語句が頻出するのですが、 それがけっこういい具合に作用するようです。 たぶん、他者を意識するような文体、 自分がへりくだった語法なのだからかもしれません。 自分の場合には、それでやっと流れがうまれます)) ひとつ、ここで、とあるところで聞いたお話をしてみたいとおもいます。 ・天井にみえるシミがだんだん大きくなってきたので、 寝るのをやめて立ち上がり、そのシミに包まれてみました。 すると薄青色の世界は、近くにあったテレビ、 布団、玄関、庭先の盆栽、 周囲のいたるものを停止させました。 (といっても、それらのものはもとから動作していなかったので、 止まったことはわかりずらかったのですが) その状態で、しばらく気持ちよかったのでぼーっとしてたら、 呼びかける<声>のようなものがあり、 (音声といえるほどはっきりしたものではありませんでした) それは祖母のものだとわかった後、 しかし祖母というのは二人いるなあ 両方死んだけど などと思っていると、 二人の祖母の顔が融合し、 一人のネアンデルタール人になりました。 ネアンデルタール人はいいます。 「わっほい、えごまっは、しんこらべーしょは、せっこいべへもっほ」 ああ、おばあちゃんの声だ、 と思っていた<声>は もはや識別不可能なものになってしまいました。 ・と、いうお話でした。 どうでしょうか。 不思議なはなしです。 ネアンデルタール人というのは、 いったいどんな顔なのでしょうか。 なにか原人のたぐいだったと記憶していますが。 ちなみに上記のはなしは 地元のサイゼリアで男子3人、女子4人のグループが 「私の知ってる不思議なおはなし」 というテーマでおしゃべりしてるのを 盗み聞きしたものです。 カリメロみたいな男の子が一生懸命おはなししてました。 ほんとうですよ。 と、いうわけで、 このコラムはこんなかんじで テキトーに書きます。 もっと本気のときも、あるとおもいますが、 テキトーさを許容しないと、やっていけないです。 それでは今日はこのへんで。 |