・なにを書こうか。こないだのワウパン企画では、時代を考える時間が多くありけり。
「お前が売れてなにになるのか」
と問うたら、みんななんと答えられるか。
表現する。歌は、社会とかかわる行為だ。
情はととのえられて、歌になる。
「お前が売れてなにになるのか」
と問うたら、みんななんと答えられるか。
表現する。歌は、社会とかかわる行為だ。
情はととのえられて、歌になる。
表現することを肯定する。
・人前で表現することはやましい。あいつ、あんなこと言いやがって。さも良いこと言っちゃってさ。
そう思うことも、実際ある。自分自身、ステージで歌を歌い表現しているけど、なんとなく、「表現しちゃって」いることに、引け目を感じる部分があった。
「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」という言葉がある。僕は「震災の後で」という曲を書いたことがあるが、ある意味で、この言葉のような歌でもある。
この、極限の状況下で、人が死につつあるなかで、自分は安全圏にいながら、詩を書くのだろうか。それは、果たして、いいことと言えるのだろうか。
バンドで音を出し、それがメンバーに伝わる。バンドだってまず、メンバーに向かって表現してるのだ。第一の聞き手は、となりにいるやつだ。
表現を否定することは、メンバーと、つながることを否定することじゃないか。
なぜ、表現はやましいのだろう。
いま、ネットを見ると、表現はあふれているが、同時にもっとも排斥され虐げられているものも、また同じ表現であるように見える。
表現すること自体が、果たして悪なのだろうか。
誰だって、お父さんとお母さんが、互いにその心と体を表現しあって、生まれた。
表現しなければ、誰にも通じない。それは自分だけの宝物として、一生大事にできるかもしれないが。
表現する前段階で、留保しつつする表現が増えた。
「こんなことは取るに足らないことですが」「自分のことを棚にあげて言うのもなんですが」
その留保表現を、削除しても成り立つ文章であることがおおい。
表現するのは、悪いことじゃない。目の前にいる人に、自分のおもいを伝えることは、悪いことであるはずがない。
けれど僕らは抵抗を感じながら、それでも羽ばたかなくてはならない。
そしてよく抵抗をかんじたものだけが、高く飛翔することができるのだ。
\\空を飛ぶには、空気抵抗がいる。
\\自分のなかにある、ほんとうのおもいを伝えるまでには、様々な抵抗があり、それらをくぐり抜けてはじめて、自分以外の他者に伝わる「もの」としておもいは表出される。
\\表現がなければ、おそらくその「もの」は、「愛」と呼べるものにまで結実しないのだろう。
表現することに吹く風に、僕らは決して負けてはならない。
表現することを否定することは、自分のなかにある「おもい」を、否定することに他ならない。
いま現在に生きるものは、みな空を飛ばなくてはならないのだ。