2015/12/05 個人的に |
・深呼吸して。クリックする指を停止して。
パソコンは、ネットは、スマホは、 (だんだん、どんどん、時代がくだるにつれ、機能があがるにつれ) 情報摂取を身体化させてゆく。 自分のしてることがなんなのか気づけないまま、 時間をふいにするのは、 暇つぶしという意味では最高だ。 自分がだっれにも気にされていないとか、 敬われていないとかんじたら、 恐怖にとらわれるけど、 それは、こういう<速度>の産物でもある。 そしてくだらない自分のプライド、 とるにたらない見栄、 つまらなすぎる失望、 それらが邪魔をして、 自信をもちたいけどもてず、 自信過剰か過小にしかなれず、 そのどちらでもほんとうは間違いである、 ということもわかるが、 自分でも自分がどうにもできず、 どうしたらいいかもわからず、 途方に暮れているのだけれど、 日常の惰性で平気をはみ出すこともできず、 「ほんとうにやるべきこと」が、 考えたらわかるが、 考えてわかったことを実際に実行できないことだけが確かなことらしかったとき、 自分のなにがいけなかったか? なにをどうすればこの<無限ループ>から抜け出せるか? という問いをようやく奪取し、 その問いに答えるには、 <心>という問題を、 解いてゆかなければならないのだと、 それは静かな時間の中でだけ、 知れた。 「心という問題」が、 どこからやってくるのか、 それは「生物はみな生まれた瞬間から異和を抱えているのだ」 という知見に根ざしているのか、 それを言った吉本隆明の著した 『心的現象論』を読めばなにかしら書いてあるか、 初期仏教の説くクリアーな説明を深く理解すべく、 瞑想修行にいそしめば直観できてくるのか、 いまは、わかったとしても、もっぱら知識の上で、 という感じがする。 いま経験していること、 これは一体なんなのだろう? 何度も思い返して、 とり憑くイメージがある。 失敗を隠した罪悪感、 侮辱された抵抗感、 いつも抗えない、巨きな存在の圧迫感。 救済され癒され、それゆえに執着する存在への渇望感。 色いろ(この言葉は、カラフルに、という意味合いなのだ) な感情が流れることは、 悪いことではないけれど、 その都度その都度、 川に溺れているのだ。 (赤い水に溺れ、黄色い水に見とれ、青い水に沈み。) 明日のためにすべきことが今日できない。 俺は「今を生きている」のだから! しかしそれは皮膚的な生き方であり、 昆虫的な生き方だ。 人間は観念を使って、 (そう、心を使って) 大それたことをイメージできる。 現実はずれのことさえも。 「愛」と「欲」は、切り離せておいたほうがいい。 そして、自分にとって最も高級だと思っていたイメージが、 根源的な生命の欲動と不可分であるか、そうではないのか、 ということを突き詰めることは重要だ。 たぶん、裏側から見れば命の弱さの表れに見えるところが、 別の角度から見ると人間の美しさの表現になっている、 ということだろうが、 そこのところを、 はたして芸術は克服できるだろうか? つまり、人間は克服できるだろうか。 人間が、人間を語らなくなったら、 神が神の言葉をしゃべり、神が神の言葉を聞くだろうか。 今日において「人間」というカテゴリーは縮小傾向だ。 じゃあ、 「人間」というカテゴリーを復活させるのか、 神のような言葉を口ずさむのか、 徹底的に動物化し、知的存在に操作されながら生を全うするのか。 もちろん、人間にとって、 幸福であり、豊かであるほうがいいにきまっている。 だけど、じゃあ、 この掛け違えたボタンはなに? ・なにも感じなくなっている。 なにも深く感じなくなっている。 後から、何年後かに思い返してみて、 深く刻まれたような瞬間が いまどれだけあるだろう。 いまから、どれだけもてるだろう。 俺は欲張っているだろうか? なにかを捨てなきゃならないだろうか。 (だとしたら)捨てるものは、なんだろう。 大事なものを、捨てなければ、ならないだろうか。 そしてなにか、「どちらか」選択すべきようなことを、 選ばなければならないだろうか。 もう何年も、その選択の札は目前にせまっていて、 なおかつ俺は、 「なにも選ばない」という選択をしたんじゃなかったろうか。 なぜ、そのような選択ができたんだろうか? 俺は、許されていたからか。 だとしたら、なぜ、許されていたんだろうか? 小さなとき、もっと小さなとき、 といっても、小学校くらいか。 「許される」ことに関して、 それにまつわる思い出がいくつかある。 過剰な、(それは、ある意味では) 自制心に欠けた、 「母性」(のごときもの)が俺を(一方的に)助け、保護した。 しかし俺はそこにあるエゴイズムを見落とせなかった。 そして拒否した。それは「よくない」ものだとおもった。 結果として、それは悪いものを呼びこむ効果しか及ぼさなかった。 「善意」と見なされるような行為が、 なぜ、拒否の反発をくらってしまうのか。 なぜ俺は「拒否者」であるのか。 自分で自分を許すということが、俺にできるだろうか。 俺は許された存在だった。 単に、それ以上でも以下でもなかった。 どうしようもない輩、と見られるときも、 だから居直っていた。 だらしなく、自分を肯定していた。 「許される」ということは本来、 もっと緊張を強いるものだとおもう。 なにかを越えなければいけなかった。 観念的に「超え」られても、 実生活でなにも「越え」られない。 ほんとうの意味でお金を稼いだ経験は、ないとおもう。 それはバイトして時給をもらうということとも違うとおもう。 音楽の場で、お金のやりとりが発生するのを見ると、 いまでもおどろく。いまでもよくわからない。 お金というものが、よくわからない。 その意味が、よくわからないのだ。 「理由もなく許された存在」は、 理由がないことに怒るのかもしれない。 理由は、モノサシ(倫理、道徳、規範)をかたちづくっていく。 自分で自分を許すには、まずモノサシが必要だ。 もちろん他人を許すのにも。 そうしないと、ほんとうの意味で、 他人と関わることができない。 こんなことを考えるのは、 他人と関わりたい、 と思っているからだ。 「そうしなければいけないから」 ではなく、そうしたいと、 思っているからである。 |