アイデンティティとはね
あれだね、どういうことか。
2023年8月になった。今年は年始にワンマンやり、スタートはよかった。3月いっぱいでダイゴ退職。そこから、うまくまわらなかった。
そもそも、ワンマン後、ネクストステップが曖昧だった。そもそも自分の自己アイデンティティが未熟だった。独り立ちしていなくて、FBといった場所に依存があったんだ。
それに気付かされ、なんとか悪戦苦闘する日々だったといえる。
このところ、新しいスタイルがわかってきた。
FBはライブハウスで、あそこで気づいたことはいまも重要だ。コロナ禍の不要不急の声。自由の抑圧。結論を言えば、音楽をやる以上、自由は大事だし「金にならない金より大事な精神」が大事。
そして、FBにあったのはコミュニティだ。「わたしたち」というアイデンティティ主体があった。その主体が、ダイゴ退職後は消え、みな不安になったと思う。そういう声もきいた。少なくとも僕はそうだ。
そういうことを、情けないとか思わない。当然のことなのだ。むしろ、傷ついたこと、不安になったことを認めたほうがよい。そうだ、不安だったし、傷ついた。そのことを、認めないように、どこか伏せようとしていたが、なんとなくではなく、たしかに傷ついていた。
※こういうことを書くとややこしいのは、有害な男らしさとか、いや有害な男らしさなどという概念がなおさら男性をこじれさせるのだとか、そういうのに騙されるなとか、男らしさを捨てるとしっぺがえしがくるよとか、いややっぱり有害な男らしさはあるよね……とか、様々な論議があるのは知ってるが、僕としては、「自分が傷ついたこと」も言えるようであったほうがいいと思うので、言っていきたい。(僕はそれを「水の言葉」と呼んでいる)
さて、ワンマンでは「音源を夏頃出す」と言って、言ったわけだが、できていない。結局、バンドで出すのかソロで出すのかも曖昧にしたけれど、バンドではドラムダイゴの新事業準備(くわえて事故の怪我もあった)があり、じゃあソロでは……となったときに、自分のコンディションをつくることができなかった。もう一度、自分の音楽のアイデンティティをはっきりさせなきゃならないし、それを共有しなきゃならなくなった。それでこの文章を書いている。
さて、コンディションがつくれなかったことには様々な要因があるけれど、そもそも自分の音楽に対する信念が、どこかまだ足りなかったことはある。くわえて、外に向かって表現する以上、「自分のアイデンティティ」だけでなく、それと同時に「自分“たち”のアイデンティティ」も見すえていなくてはならない。要するに、どういう場所でどういう活動を自分はするんだろう、なにを目標に?という問いに答えをもたなきゃならない。新松戸FIREBIRDをホームのようにしていた時期は、なんとなく、あそこで密なる時間をもつことを無意識の目標にしていた。そこから離れ、思った以上に「無意識の目標」が消失した虚無感をいだいた。
……と書いたが、そもそも、自分のなかで自立した音楽へのアイデンティティが確立されていないことに気づかされたわけだ。ライブをやっている。ライブに誘われる。オファーを受ける。出演する。その日を盛り上げる……そのなかで、「自分の音楽のアイデンティティ」はかたちづくられた。世の中的には不要不急の、しかし自分たちには必要であるという場所のアイデンティティが。
自分のなかで、単独で「自分たちのアイデンティティ」をもたなきゃいけない。そこにはどうも、さみしさもある……かもしれない。たとえるなら、文化祭のような楽しいモラトリアムが終わったような気持ちかもしれない。逆に言えば、これからが本当のはじまりといえる。……いやいや、遅すぎだろう、というツッコミは多々あるだろうが、「遅すぎることはない。早すぎる冬よりも」の精神は、間違いではないと思っている。大事なのは、魂の若さだから。
⭐というわけで、新しいことをやっていきたい。トピカルソングをネットに出すとか、歌詞を出すとか。三行リードを充実させるとかの原則をもつとか。
普段のライブも、三行リードがつくだけで(あと終わりのフォロー)変わってくる。入り口と出口をつくる。
2023年8月になった。今年は年始にワンマンやり、スタートはよかった。3月いっぱいでダイゴ退職。そこから、うまくまわらなかった。
そもそも、ワンマン後、ネクストステップが曖昧だった。そもそも自分の自己アイデンティティが未熟だった。独り立ちしていなくて、FBといった場所に依存があったんだ。
それに気付かされ、なんとか悪戦苦闘する日々だったといえる。
このところ、新しいスタイルがわかってきた。
FBはライブハウスで、あそこで気づいたことはいまも重要だ。コロナ禍の不要不急の声。自由の抑圧。結論を言えば、音楽をやる以上、自由は大事だし「金にならない金より大事な精神」が大事。
そして、FBにあったのはコミュニティだ。「わたしたち」というアイデンティティ主体があった。その主体が、ダイゴ退職後は消え、みな不安になったと思う。そういう声もきいた。少なくとも僕はそうだ。
そういうことを、情けないとか思わない。当然のことなのだ。むしろ、傷ついたこと、不安になったことを認めたほうがよい。そうだ、不安だったし、傷ついた。そのことを、認めないように、どこか伏せようとしていたが、なんとなくではなく、たしかに傷ついていた。
※こういうことを書くとややこしいのは、有害な男らしさとか、いや有害な男らしさなどという概念がなおさら男性をこじれさせるのだとか、そういうのに騙されるなとか、男らしさを捨てるとしっぺがえしがくるよとか、いややっぱり有害な男らしさはあるよね……とか、様々な論議があるのは知ってるが、僕としては、「自分が傷ついたこと」も言えるようであったほうがいいと思うので、言っていきたい。(僕はそれを「水の言葉」と呼んでいる)
さて、ワンマンでは「音源を夏頃出す」と言って、言ったわけだが、できていない。結局、バンドで出すのかソロで出すのかも曖昧にしたけれど、バンドではドラムダイゴの新事業準備(くわえて事故の怪我もあった)があり、じゃあソロでは……となったときに、自分のコンディションをつくることができなかった。もう一度、自分の音楽のアイデンティティをはっきりさせなきゃならないし、それを共有しなきゃならなくなった。それでこの文章を書いている。
さて、コンディションがつくれなかったことには様々な要因があるけれど、そもそも自分の音楽に対する信念が、どこかまだ足りなかったことはある。くわえて、外に向かって表現する以上、「自分のアイデンティティ」だけでなく、それと同時に「自分“たち”のアイデンティティ」も見すえていなくてはならない。要するに、どういう場所でどういう活動を自分はするんだろう、なにを目標に?という問いに答えをもたなきゃならない。新松戸FIREBIRDをホームのようにしていた時期は、なんとなく、あそこで密なる時間をもつことを無意識の目標にしていた。そこから離れ、思った以上に「無意識の目標」が消失した虚無感をいだいた。
……と書いたが、そもそも、自分のなかで自立した音楽へのアイデンティティが確立されていないことに気づかされたわけだ。ライブをやっている。ライブに誘われる。オファーを受ける。出演する。その日を盛り上げる……そのなかで、「自分の音楽のアイデンティティ」はかたちづくられた。世の中的には不要不急の、しかし自分たちには必要であるという場所のアイデンティティが。
自分のなかで、単独で「自分たちのアイデンティティ」をもたなきゃいけない。そこにはどうも、さみしさもある……かもしれない。たとえるなら、文化祭のような楽しいモラトリアムが終わったような気持ちかもしれない。逆に言えば、これからが本当のはじまりといえる。……いやいや、遅すぎだろう、というツッコミは多々あるだろうが、「遅すぎることはない。早すぎる冬よりも」の精神は、間違いではないと思っている。大事なのは、魂の若さだから。
⭐というわけで、新しいことをやっていきたい。トピカルソングをネットに出すとか、歌詞を出すとか。三行リードを充実させるとかの原則をもつとか。
普段のライブも、三行リードがつくだけで(あと終わりのフォロー)変わってくる。入り口と出口をつくる。