2018年05月23日の夜に書いた日記。 つれづれ書きます。無目的に、なんのためでもなく。 1.日大アメフト部の問題を見て、自分の経験に重ね、考えを及ばせる。 価値観が転換している最中の今の時代。 過去の時代の価値観のまま、古いOSで走っている人間たち。 そういう比喩で言うことはおおざっぱかもしれない。 けれどおおざっぱのままに言うと、そういう古いOSの人間たちと、 どう今これからの時代に、共に生きていく素地を用意できるだろうか。 「社会」や「政治」から離脱し、「ビジネス」や「IT」の世界で生きている若い世代は、 古いOSの人間たちではなく、自分たちの新しい世界を用意することに集中している。 その先にあるのは、世代のギャップを広げたままの、包摂なき未来かもしれない。 つまり、年長世代が切り捨てられる。 そういう世界を、厭わない空気を(若い世代に)感じる。 もちろん新しい世界がつくれることが優先だろうと思う。 ただそのとき過去の世代との折り合いはどうなるのか、 それは考えないでもいいのか、 ということも、気にかかりつづけている。 ・あと、こういう時、「石を投げる」ことに対する自制、冷静さも重要だ。 勝間和代氏が「こうなったら、大衆は悪者を求める」というようなことを述べたらしい。 (といってもあれもこれもネットソースにすぎない。 何次情報だかよくわからない情報に日々接している。) 社会の義憤に同一化、共感して、感情的になることは、 あまりいい結果を残さないことが多いように思う。 もちろん事件からなにかを考えることはあっていい。 けれど、自分の発言が敷衍したらなにをもたらすか、 ということも頭にとどめておくべきと思う。 2.SNSに投稿する、コミュニケーションを求めていくことと同時に、 孤独の世界を保持し、またそれを表現する場所も確保したい。 現代詩のような意味不明瞭な言語や、孤絶的な感情を表出するような場が。 音楽や表現の底力ってなんだろう。 とあるツイートを契機に、考えをはっきりさせる必要にかられた。 バンドやってる人たちが身の回りのバンドばかり聴いていたり、やたら持ち上げあったりする風潮はマジで好ましくないと思う。ストーンズやジョイディヴィジョン、フガジでさえ好き嫌いが分かれるだろうに君の周りに都合よく良いバンドばかりが集まるわけないでしょ。 切断的に批評、または批判することは、そんなに難しいことではない。 けなすのは楽だ。ダメ出しは誰にでもできる。 だけど批評というものの原点の役割は、批評家の自己主張をかなえるためのものではないと思う。 素人ながらに思うのは、批評は作者のためにあってほしい。 語り口が褒めていようが、辛辣だろうがどちらであっても。 そして、批評というものが一つのサンプルになって、 リスナーの聞き方をリードする補助線になるはずである。 そういう機能を果たせるものが増えてほしいと願う。 詩くさみ 近いよ うな\うで 遠いよう な 気がするかもしれなかったああ ああこれ、あんときのあれといっしょな\感情 気分 赤く 赤いのは未熟な ピンクの感情と 叱咤と激励 愛情はかすめとられる 空隙の吹き抜け きい きい コンクリートの 匂いが 黄昏と共にやってきた! だから\ なんだ と 腕ふり 腕ふり やってくる\感情! U字カーブ曲がる シグナルが点滅して なんだかやっちまったらしいよお 噂話 加速して あれ こんなはずじゃあなかったのにね まずいなあ こまったなあ あれ 気づいたら一人じゃわい 一人っていいねえ 気楽だねえ 誰も守ってくれないし どこにいっても悪者じゃわい 気分がいいわあ 晴れるわあ あのときあんなに曇り空だったのに いまは晴れるわあ 限界までいった いかしたら 強くなれる気がしたね 別に 自分の経験じゃねえよお 他人に強制さすのが好きなんじゃ マウント が 好き で ここまで生きてきた 褒められたよ 生きてきてよかった マウント得意で 人をふみつぶして生きられた なんでもよかった あんまり興味もないし 関心もないし やることなかった なんでもいいじゃん ただ 本能な 自然な欲求な これが一番 一番が一番 いっちばーん が いちばん気持ちいい ねえ そんで 一人は いいもんだよ きみにも勧めたい こっちこいよ そしたら二人だ 二人もいいよね 一人を知ってる 二人はいいよね
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・成熟ってなんだろう。
僕は作者がいて、受け手がいて、 その両方が「傷つき」「何かを乗り越える」ことじゃないかと思っている。 20代までは、曲を書くとき、それを念頭に置いていた。 曲を書く過程でなにかに出会い、わかり、違う景色を見れていること。 そう望んで書いていた。 曲を書くことで成熟したかったんだ。 そうやって、長い曲ができる。 別に本来、結論だけ書けば短くてすむはずだけど、 「過程」のところも残すと、どうしても長くなる。 結果的に過程は必要なのだ。 じゃないと、ビフォー・アフターがわからなくなる。 それじゃ意味がない。 吉本隆明は文学には「転換」が必要と説いた。 たとえば主人公が女性に嫌われていて、 物語の途中でなにかのきっかけで女性と恋仲になる。 そうやってビフォー・アフターがつくことで「ドラマ」になる。 なんだ、じゃあ、必ずしも「自分」が主題にならなくてもいい。 そう。別に他人の歌を書いてもいいし、架空の物語でもいいんだ。 ふと見た桜の花の美しさでもいいし、友達への手紙でもいい。 なんだかでも僕は、一生懸命自分の成熟を果たそうとしていた。 それは何らかの意味での代替行為だったかもしれない。 「震災の後で」も「星とおでん」も「空の梯子」もそうだ。 大体「自分ひとりの世界」から「他者」へ手を伸ばそう、という動機に動かされている。 いまは、もっと思いつきで、流れで曲を作ろうとしている。 それは耐性がなくなったからかもしれない。 それとも「俺も自然を知れたよ」、ということかもしれない。 それに、そもそも前提として音楽は身体表現であり、 音の流れとしても身体の動作としても気持ちいいポイントがあるから、 そっちの要素をだんだん重視していくようになったからかもしれない。 ・いま、歌うべき歌はなんだろう。 自分に問うてみる。 「自分が」歌うべき歌なのか、「世界にとって」歌われるべき歌なのか。 そのふたつの方向性で。 成熟を自らに課す。 毎日のなかで、 そういう純粋時間を、 設けないと、やはり つかめないものがあるのだ。 書きながらそう思った。これもビフォー・アフターだ。 吉村志保さん。 千葉で10年以上活動しているミュージシャンなら知っている名前かもしれない。 最近吉村さんのCD「ハイビスカス」をまた、聞いている。 閉じこもらなくちゃ 閉じこもらなくちゃ 届かない 届かない 届かない 届かない どうしようもない気持ちのフラストレーションや、 ディスコミュニケーション。 「価値」や「結果」に結びつかない内面性。 そんなものを、表現して受け取れる環境が、 あの頃と比べても、ずっと少なくなってしまったように思う。 いや、たしかに、それまで「暗かった」こと、 マイノリティだったことがらも、シェアしやすい世の中にはなったと思う。 でも、「シェアできない」こと、 自分一人でしかもっていられないことを、そのまま持ち続けるには、 いま、タフでなかったら、きっとなにかに負けてしまう。 この歌たちを本千葉JAMの野口さんが愛し、応援した気持ちがわかる。 ”これは世に出てほしいな” と思わせるものっていうのは、つまり 「こういうものが世に出てくれたほうが、こういう話が通じやすいほうが、俺は生きやすいよ」 そんな風に思わせる世界をもったもの、なんだと思う。 たぶん、彼女はずっと前に音楽をやめて、どこかで暮らしている。 いつかまた聞きたいなあ。 いや、それもそれでいいってことなんだろうな。 ・表現するってむつかしい。なにがむつかしいって、「ふうん、なるほど。で、それがどうした?」というツッコミ、受け手の疑問があるからですね。
疑問なんてないですよ、表現されたものに素直にいいとか悪いとか感じるだけっすよお、と思う方もいるかもしれないが、こっちはこっちで勝手に想像してしまうのを止めることはできないのだ。 だから、ここでよく「考えるな。やれ」というシンプルな思想を打ち出す人たちが現れる。とにかくあれこれ考えてたって仕方ない。とにかく動くしかない、と。 しかし、そういう人たちは、僕が感じている「表現のむつかしさ」をスルーする。結果的に、その表現は僕から見たら、一番届いてほしい部分に届いてくれない表現、に見えてしまう。 つまりそれは、第一に僕自身のむつかしさなのである。しかし話はそれだけじゃないのだ。それは僕自身のむつかしさであると同時に、時代のむつかしさでもあるのだ。 ・日記でもなんでもいいから、とにかく毎日、書きたいですよね。自分のために書くので、読まれるために書くのじゃなくて、でもこうして読まれることを待ってもいるというバランスが、我ながらちょろいもんです。
と、そういうことでもないんで。まったく、しっかし、「表現する」ってのはやっかいで、失敗ばかりです。きょうも、久しぶりにHPを点検してね、へんてこな動画とか、文章とか、とりあえず見えなくしました。なにをやっても、座りが悪いというか、バツが悪いのはね。こういうところなんで。と、と、と。 ・ライブをやってます。音楽してます。なんの話題をしようかね。ま、なんでもひとりごとですね。 北朝鮮がかまびすしいですね。っていう話題ですか?選挙ですか、解散? 話題はね、こちらのね、都合なんですよね。 荒野を、ゆく気分でね。発話が、伝える、が、そもそも不可能な気分におちいってね。 誰ァが炎上してますね。私、私、私をね、正しく出力しないとね、誰それジャあ、いけない。。。 ・人に読んでもらうこと。そのために整理すること。務。最近ビラをつくったんです。それの画像をあげよう、とおもったけど、やめた。 特別だったり、特別じゃなかったり、凡庸、変なだけ、そういう隘路におちいっては、罠、を社会側のポイントに見立て、それも誤謬で、いやんなる、またもやブルース、するね。 でけっこうそういうのが、あれなんです、循環、を催すというか。 「おもしろい」というのは、嘘なんですね。それは、自分、個人的に、ワタクシ的に、やっていくしかないしそうすべき。 だからその、手前、手前が問題だったんです。常に、表現の、そのする手前、手前に、全部あったんです的なオチでいこう。と。オチでいこうと思うんです。 悪意を、投げつける、と決め込んで立ちあったら、それなりに、強い、悪臭のするものは、できるかもね。いいんです。そのことはいいんです。 でもでもでもね、その人の文学の問題は、ずれこんで、ずれこみながら、だから演じ間違えながら、ジャンルをね、間違えてんだけど、でもその人なりに一生懸命、一生懸命としかいいようがない、ぐらい滑稽、なかんじの姿って、けっこう出力されんのよね。 それはけっこう残念だな。 ・もうちっとね、真面目な話がしたいです。だから北朝鮮の話ね。戦争よ。もう、なんだろう、俺たち監視されてる?みたいな。どこまでほんとでどこからデマかわからない。てね。それが、ポストモダン感覚じゃん?ちがう。 ちがう、というなら、ちがう、という根拠を合わせて提出しなきゃだね。元気にいくには、やっほう、いい気分が必要さ。 元気、いっぱい。 真面目な話か。推敲する気はないんだけ、まったく、緊張感なく、たれながすよね、だから、むしろ続かないのね。フォーマットが自堕落で、それが気分爽快の序説だとかなんとか、屁理屈ごねやがってちきしょう。 しっかし無意味な、ことしか書けない、書かないそればっか、というのも、一種の特技として、どこかの公的な機関に登録されうるとしたら、俺はそれを登録申請するか?として、その答えはNOだ。ノー。「ノー」と言えるのって、自由でタフガイ。 それはどうでもよく、 でもまあアグレッシブにすべるのは、必須だ。 ・久しぶりの更新。内にこもっているようで、単に外に表出しなかっただけの期間でいたかもしれない。その反省で、むしろ内に内に、自己内省をえぐりはじめた。そもそも、そうやって内側から取り出したものがなければ、どんな表現も根拠をもてなかったのに、その作業をしばらく甘くみなしていた。コクヨのA4の青いノートにボールペンでぐねぐねと書き連ねていく。
・書く過程で、書く前は思いついていなかったいくつかのことがらが行き当たる。震災のとき、周囲のバンドマンで何人かが、音楽をやめようとした。逆に、震災で奮起して、募金をつのったりしていた人物たちもいる。僕は、そのどちらにもならなかった。後者のような良心的な振る舞いに、憧れながらたじろぐ感覚はあったかもしれない。が、より違和感をおぼえたのは前者の「音楽をやめようとする」人々に対してだった。僕は、いま歌うべきなにものも見いだせないとしても、それを探そうとしつづけるべきだとおもっていたし、それができないなら他のなにをやっても同じことだとおもっていた。今にして思えば、気負いがほとんどで、まだなにもやっていない者の言い分だったかもしれない。たぶん、いまもしあのときと同じようなことが起こったとしたら、同じ反応は抱けない気がする。 ほんとうに批判したいものがあったとしても、まだ僕には、それを言う資格がない。絶望も希望も、ただしくもつには、自分の来し方をただしく認識するしかない。ただ茫洋と過ぎる時間に、「望み」を溶かしてしまわないために。 ・現実から逃避するために、文章を書くのか。それとも対決するために書くのか。 音楽について書くことがためらわれるのは、具体的な活動を、総括する視点をうまく設定しえてないからだ。そしてそれは、現実とどう切り結んでいくか以前い、現実を見たくないという欲求のあらわれだ。さらにいえば、それを他人の目に届く衆目の場にさらすことの恥辱感へのおそれが抜きがたくある。それこそ、絶望的なひきこもり的心性かもしれない。(現代社会においてはますます発信しない者は透明な無存在になる) ブログを書く、とかツイッターに投稿するとか、そういうネット上のいちいちの振る舞いにも、僕はハードルを感じてしまう性質なのだ。それはメールの返信でもラインのやりとりでも同様で、たびたび迷惑をかける所以になってしまっている。 逆に、かえって表現し出すと過剰に表現しつづけてしまうときもある。連続してブログを更新したり、ツイッターを連投したり。 そこらへんが、僕のただいまの実存的風景の一部だ。そして自分のやりたいことを改めて考え直すと、この「実存」の「自由」をもっと増やしたい、「実存」の置かれてる状況をカイゼンしたい、という思いがあることに行き当たった。 少なくとも、「実存の平等」ということは、僕たちは考え得ることなのでないか、想像できることなのではないか、とおもうのだ。「生命の平等」と言ったとき、どうしても空疎に響いてしまうのは、地球上の生命を自己都合で摂取しているニンゲンがやはり自己都合でヒューマニズムを説いてるだけになってしまうからだ。存在倫理として、存在者として、人間の実存は平等である。 こういった次元に近づくために、むしろ薄汚いものも厭わずに露出すべきだと、僕はおもっている。自分に突きつけて、違和感を覚えるものに、その根拠を表明することは必要だ。自分がもっているたったひとつの実存を深く表現することなしに、他者の実存を尊重する態度は見いだせないから。 ・さて、僕は無学で無知なひとりの昭和終年世代の男にすぎないが、自分で見知った見識をもとに、考えつくったイメージを表明する権利はある。当然そんなことは言う必要もないことだが、何に対しても相対主義的な無力感を覚えるのは僕たち世代に顕著な傾向かもしれない。何かをする前に、もうそれに対する結論は出てしまっているような、そういう無力感が。 とすると、ただひたすら恥をかかないように、無難を有効策を打ち続ける方向を向きがちである。ただこれも僕には不満である。「承認」が一義的になってしまう行動様式は、最終的に被抑圧的に感じてしまうから。それよりもっと自由な空間を望みたい。それをつくるには、まず自分がやってみるべきなのだ。 消費者社会以後の論理じゃ出てこない、戦後間もないコトバの強度に学んで、そこから違った「戦後のルート」を想像し、これからの70年を反省的に見通してみたい。すなわち、『この世界の片隅に』ではなく、『野火』のルートを。 『この世界の片隅に』で、戦後は報われた。率直にそう感じた。馬鹿にも利口にもなりきれない僕なりの感想である。ただ、『野火』の方が残っていると感じるのだ。それも僕なりの感覚だ。この感覚を実際に推し進めるには、どうしたって「俺は勝手にやるんだ」という気概が必要である。それはある種の自己目的性だ。そのために、非承認をおそれる心を克己しなくてはならない。 『この世界の片隅に』で報われた戦後は、大衆としての戦後で、そこで大衆化できなかった問題が『野火』のルートにあるのだとおもう。 ・なにを言うにしてもツッコミに対する弁護を用意してしまう心性は、現在のネット社会が後押ししている心の様式のはずだ。このことに、窮屈さを感じるのは自然なことだとおもう。僕たちは特に、まだネットが普及しきる前に人格形成している世代だ。僕たちは社会がだんだん窮屈になってきているように感じるし、若者に流行っているサービスなどにももう疎くなっている。ネットが要求する様々なSNS的価値観や流儀に、疎外感を感じながら実存をもてあます機会が多くある。 かといって、じゃあリアルな空間、スモールワールドで自足した人間関係をもてるかといえば、僕の場合はそれもおぼつかない。結局、まずもって僕がもちうるのは、自分ひとりとの関係だった。それが基点になるし、それ以外に足場にできるものはなかった。だからこそ、思い切ってこの足場を確認しなければならない。 ・こうやって書いていて、音楽やライブや身の回りのライブハウスやミュージシャンに触れないことが、不自然じゃないかといつも気にはかかる。そこが切れているというのは、僕の課題かもしれない。書くことと歌うことが、互いに逃避関係として機能してしまっているとしたらまずいのだ。ただあまり具体的なことは、迷惑になるかもなあ、という経験からもくる忌避感はある。何かを書くということは、それ以外の何かを書かない、ということでもある。書かなくても考えてること、ノートにだけ書いていることもある。意識的に考えていなくても、思っていることはある。 |