カオス。オウム。心の中が泡立って。
て、て、て、て。 カオスがやってくると、というか、カオスのなかに突入すると、そこはオウム的な、というかそれは単に連想のアレだけど、心が泡立つ。ようだ。言語を整理するのに時間がかかる。時間がかかるということは時間が要る。時間をつくるか盗まないといけないのだ。 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』
生成。卵。流れ。なにか固有の止まった固定的記名、でなく流れ。僕たちは流れ。常に。「最終的になになにになるんだ」とりあえず吹聴できるステータス、固定的な状態、達成、のようなものを重視すると、今度は流れ、連続性を分断しがちになる。 ポストモダン思想は役に立たないとおもっていた。それは破壊的で「人間」の諸価値を無化するようなもので、それだから敬遠していた。でもちがう。それはもっと時代の表現で、時代に応じたものの考え方のおおいなるヒントになる。そんなかんじに思えるようになってきた。ゲンロン0を読んだ効用で前提が整理できた感がある。それらは案外生き方を教えてくれる。つまり、無駄に怖がらなくていいし、こう考えれば前向きになれる、ここに突破口がある、みたいな風に。時代を先取りして、いま現れている問題、課題に答えようとしていた、そうともいえる。 あとはアイデンティティの問題。これに答えるには、吉本思想やサルトルの思想のようなものが、役に立つといえる。 僕は2012年まで糸井重里(ほぼ日)-吉本隆明のラインの言説に影響を受けてきた。そこでは左翼の内ゲバに至らないための自戒のようなものが強調されていた、ようにおもう。常に「いいことをいわない」とか、「無価値の価値」とかが言われ、「強いことを言ってみんなを従わせる」ことをさける注意みたいなものが常にあったように思う。それらは糸井さんの感性でありこだわり、あるいはトラウマ?に基づくものだった、たぶん。 糸井さん、ほぼ日から切り離した単体の吉本隆明はどうか。それはけっこう、単純なじゃない。ある意味、矛盾してるんじゃないか、ということを言っているようにもおもう。読み手によってイメージが変わる。宮台真司らが特に言う吉本隆明のポストモダン状況への感度の鈍さ、は、確かにそうともいえるけれど吉本思想、あるいは吉本文学とか吉本世界の全体性の一部をあげつらってる、とも同時にいえてしまう。露出が多いのだ。別にテレビによく出てたとかではないけど。出した本が膨大で、特に90年代、00年代以降はばんばん出してたんじゃないか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー #2017/05/09 13:08 当事者としての自分は、弾き語りをやっている人間で、ライブをやる人間で、ということになっている。でも一般的な意味で批評意識は有意義だ、ということ。 石川さんのNewsPick興味深い。うかつにはじめない、おわらない。まあうかつにはじめたりすることもあっていいんだろうとはおもうけど。ただ準備、ふりかえりはたいせつだ、ということ。 生成すること。流れがたいせつだ、ということと、それでもやはり人間は区別しながら認知するはずで、その機能が意味を認識させてもくれるはずだ。まあ両方が大事ということになる。 今日は休日であるからして「ちはら台ユニモ」にて本を物色。さまざま興味深いことがらを立ち読む。一冊も買わず。
サド、マゾ。変態。欲望。享楽。俺ってどう見られてんのかなー、てゆうかあいつまじキモい、なに息してんだよハゲ、、、こういった循環のなかの人間の関係性のトリック、とりこ、享楽の循環の自己解釈をわがものとし、もっと平易にがんばってこう。とおもった。 「どう遊ぶか?」「いかに楽しむか?」「自由になれるか?」「そこでリスクはどう見積もるか?」、、、などといったテーマがあり、それらについて、いまの感触だとかなり無責任になってきている。どうでもよい。どうでも、よい、と言えることはかっこいいね、とか感じていられるとしたらそれも享楽の一種だ。立派なんだ。なにを言っても立派。 なにを言ってもやってもぼくたち結果中途半端、という題名。なのだから、気張らず、半端さを折り込んでいこう。本は半端にしか読めない。つまみ食いしかない。道は極まらない。上には上がいる。そして下にも下がいる。横にもいろいろいる。失過した、とかいちいちおもうな。 一番の思想とそれ以外の思想。肯定的になるために二重構造を利用しよう。元気の出る思想。サルトルの実存主義を勝手に自己解釈して元気になろう。元気になれることが重要だ。とりあえずそれは正しい。 そんなことを考えていたら、もっと積極的な自由=パロディも問題になってきた。ソローキンという人は過激に実在人物(スターリンとか)をパロってた。さて、いま、安倍さんと、誰でもいいけど稲田朋美、櫻井よしこ、長谷川三千子、、、などといった人物、こういう人たちが乱交したりSMプレイしたりする、みたいな文章を書いたらそれは炎上するだろうか。そもそも、そういう種類の文章はわりと使い古された文学手法かも。とおもうけど、逆に、そういう文学も許されないとしたら状況としてどうだろう。少なくとも、そこには勇気か野蛮か無謀かがないとできない感じのなにかがある。 状況は非常に細かく、面倒な次元にまでおよんでいるように見えて、公人か私人かとか(稲田朋美はいいけど櫻井よしこ、長谷川三千子はNG?)、名誉毀損の問題、人権、それから表現の自由などなど、ぶつかりあって矛盾して落としどころが見つからない。筒井康隆の慰安婦像についての筆致など、炎上するとそこに「問題」があるように思えてくるが、本来たいしたことじゃなかったのかもしれないともおもう。(東浩紀は日本語圏だけで読まれる場合と、韓国語圏でも読まれる場合で意味合いがちがう、ということを宮台との対談の質疑応答でちらっと言っていた。つまりコードの差異で表現のアリナシは変わる、ということだろうか。) 当然、ほんとうに何をしても何を言ってもオッケー、許される、ということではない。たぶん。いや、文学の世界の内側においては何を表現しても自由なはずだろう。けれど公共的には異なる。そこで異なる次元が重なり合っている、ように見るか見ないかの立場でも変わってくるだろう。 ではどう線引きすればいいか。というか、線引きはどうなされるか。線引きするのは世間であり大勢だ。じゃあ個人の表現者はどう自分の表現をチェックすればいいのか。ということは当然気になる。そこを何も考えないとなると、無謀になるか、コードの範囲内で無難になるかしかない。 無責任になる。いっそ無責任になる。最終的には、無責任。それも一種の決断主義か?まあ考えても埒あかぬからやっちゃえ。やってみよう。いってみよう。 加害がある。被害もある。そして加害や被害にセンシティブになりすぎると、観光はできない、というのも現実である。人は人に迷惑をかけないと生きていけない。そもそも生きていくのに他の生命体を食している。命を奪って我が命を延長しているのだ。ただそういう加害は目に見えない=無意識化されている。 千葉雅也『勉強の哲学』
これもおもしろいなー。 p29 読んでて思いついたのは、バンドやめる人間って要は「そもそも音楽やってない」人間なんだ、ということ。つまり「結婚相手の家族に自分のやっていることを説明する言葉をもたない」ということが根本的な問題。再帰的な意識から自分のやっていることを見つめ言語化し、加えて市井の人が理解できる大衆的なことと接続しわかりやすくするのだ。脱コード化がまずないとお話にならない。 こういう本が出てくる背景には、SNSおよびネット時代においていろんなことを考えなきゃいけなくなっていて、だけど人文知はそれに答えを与えてくれなかった、という状況がある。新しい時代、状況に対応した、そこにおける人間社会のありようによく応えた思想哲学のコトバ。 p31 他者依存的に構築された趣味嗜好、ね。音楽文化のことにおいてもいえる。自分は常に着衣なら、音楽文化も他者から着衣されたものだ。だから逆に音楽文化を継承ないし創造したいなら、自分から他者に着衣、いや、自分の来ている衣を他者にほどこさないといけない。 そこで批評は役に立つし、もっと直裁には好きなもの評論が役に立つ。吉本隆明の本をYouTubeで紹介すればてっとりばやく継承ができる。尾崎豊でもそうだ。間接話法としてカバーやパロディがある。 ここらへんの議論は「関係の絶対性」に近い。 「一人ノリ」をすごくすることが大事なんだ。それが作家や芸術家のできること。単に「脱ノリ」じゃない。 言語の透明性のはなし。透明=日常言語。不透明=概念言語、人文やら文学やら科学やらの非日常的言語。たとえば町田康は透明性を保ったまま(ことばが浮いた感じにならない)で高度なことを表現する。それはある種脱ノリを果たしているが、ノリが悪いわけじゃない。いいかえれば、共同的なノリとまったく合わないわけじゃなく、それへの突っ込みとして機能できる。高橋源一郎はたぶん意識的にことばを透明にしてはいるが、いくぶんノリが悪い印象。使い方がくだけていないのかな。用法が普遍的というか、スラング(文法、用法においても)の可動性が町田康にくらべたら低い。 p48 言語の異物感、器官なき、文脈から脱落した生の「コトバ」。そんな領域でこそ言語の操作が自由になり、詩や文学がはじまる。 俺が中学でひきこもって学校に再会したとき、同級がバカにみえた。ノリを無理矢理やってるような。もう小学生のようには無邪気にノレない。けど共同性をたもつにはノルふりするしかない。そんなのが滑稽だったし哀れだった。それは俺にとって「詩のおとずれる機会」だった。現実を距離をもって眺める視点から詩がやってきた。 きもい。これは大事だ。 HPアイデア:やらかす≒きもい≒新しい自分になる。 昨日は敗北気味だった。けっきょく自分が主体なので、メタの視点ばかり意識していてもしかたないし、その議論ばかりされるとこっちが段々ずれていく。もちろんそんなことわかっている、が、わからなくなってしまうタイミングが危険だ。 強そうだったり前向きなかんじだったり男性的なかんじだったり、が重要で、もうそれはポーズのとりかただけど、でもポーズというのは重要だ。 ところで食楽市場のような場所でまともに観客を相手にできるだろうか僕は。どうもイメージがわかない。大まじめにやるか、ふざけたふりするか。なんにしても気楽で和気あいあいとした雰囲気を疎外しそうで、それはどうなのかと自分でおもう。場所が大事だ。表現に適した場所がある。場所に適した表現がある?でも、そんなこといってたら決まり切ってしまう。カオスが必要ならば、カオスの主体になる覚悟も必要だろう。そこで重要なのは予測をつけること。観客がついてこない、明らかに場にそぐわない、みたいな空気をかんじても、あらかじめ予測しておく。その上で大事そうなことをおさえる。「そこまで言ったらおんなじだよ」と演者と観客の双方がおもえることがらがあるはずだ。 強い言葉。ポーズは強さを要求する。強さのポーズは。じゃあ弱さはどうなるだろう、ということがある。弱い言葉、弱さの言葉を、吐ける場があったほうがよいのだ。それは詩になるだろうか。散文よりも、詩の方法の方が、自分になじんでいるきがする。 彼が生きるに値する世界、場。もしくは、場はあっても世界総体との関係において劣勢感情がぬぐえないことが絶望のタネかもしれない。 おう、そこにいたかあ。
ここにいるのは、おれだけだあ。 スケールフリーとスモールワールドの二層構造。 「ネットワークの死者」への社会的対応とリアルの死者への社会的対応の関係。 基本的に「つながり」の上でしか、人は人を追悼しないとおもわれる。 「欲望」させること。 あれこれ考えつつも、身体(行動)はスケールフリーの次元に適応させること。その「あえて」の意識の強度を身につける、か。 ということで、バランスというか、分人というか、いくつかの「モード」を切り替えながら意識的にやっていけないと、どうにも有効打は見いだせない、ということになっておる。単に「売れればいい」だけではだめだし(俺はそもそもそれできないが)、本質的なことのみを集中してやろう、というのもたりない。 ツイッターつぶやくのとか、やっぱおっくうなんだ。曲作るのだってじっさいは。ライブするのだって大変だ。そういうことを、やらないとかき混ぜられない。やる気を出す際の障壁はとりさっておきたい、その一部が、表現すること自体の意義の意識と、それから「見られる」ことへの不安の除去。もっと無責任に、という「観光」意識はよいきがする。 ツイッターには強制力がないから、したがって任意に自発的につぶやかないとなにもない。発信するということはそういうことで、なにかしらのモチベーションを調達しないといけない。それが習慣でも大義でもよい。 ほんとうは、まとまった塊として表現=作品がいるので、フローする表現=つぶやき、ブログなんかは、あまり有効性はもとめられないのだ。だけれども自分のリズムや蓄積や態勢のためにそれをやる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 東浩紀のいろんな本を読んでいたら眠くなってしまった・・・。僕はあくまで単なるミュージシャンにすぎないので、理屈めいてばかりいてもしかたない。自分が小さい個人としての単位であることを自覚すると落ち込む、という状況はよくない。むしろそのゼロ点を支点にして組み立てる式の実存がないといけない。 人を巻き込んで他人に欲望させて、、、とか、あんまり戦略めいたことを考えようとしても、結局自分が耐えられないし構想しきれないしなにより行動しきれない。ということなので詩を書いたり演奏したりしているのがよい。頭をそっちにいかせる、ということとのバランスをもっとうまくとりたい。 「役に立たない」とか「意味のない」こととか、無効なこととか、そういうものの方へいかないといけない。なんというかそこらへんの意識も二層構造だ。メタでは「有効性」をおいもとめ、主体としては内部の動きを観察する。詩を書くときに、理屈は必要ない。理屈がこわれたところも詩になる。 自分がいままで生きてきたコースと、なにか踏んできてしまったらしいそれと、批評的書籍の言葉のなにもかもが、自分をダメ出ししているような、あるいは無視しているかのような、なんというかの心境であり、そういうところから抜け出したい、救われてみたい、というところで、詩を出発させるというのは、またもや、苦し紛れの、ほめられない、アナクロな、軸のない、行為・・・。 |