ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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think SM パロディ

5/8/2017

 
 ​今日は休日であるからして「ちはら台ユニモ」にて本を物色。さまざま興味深いことがらを立ち読む。一冊も買わず。
 サド、マゾ。変態。欲望。享楽。俺ってどう見られてんのかなー、てゆうかあいつまじキモい、なに息してんだよハゲ、、、こういった循環のなかの人間の関係性のトリック、とりこ、享楽の循環の自己解釈をわがものとし、もっと平易にがんばってこう。とおもった。
 「どう遊ぶか?」「いかに楽しむか?」「自由になれるか?」「そこでリスクはどう見積もるか?」、、、などといったテーマがあり、それらについて、いまの感触だとかなり無責任になってきている。どうでもよい。どうでも、よい、と言えることはかっこいいね、とか感じていられるとしたらそれも享楽の一種だ。立派なんだ。なにを言っても立派。
 なにを言ってもやってもぼくたち結果中途半端、という題名。なのだから、気張らず、半端さを折り込んでいこう。本は半端にしか読めない。つまみ食いしかない。道は極まらない。上には上がいる。そして下にも下がいる。横にもいろいろいる。失過した、とかいちいちおもうな。
 一番の思想とそれ以外の思想。肯定的になるために二重構造を利用しよう。元気の出る思想。サルトルの実存主義を勝手に自己解釈して元気になろう。元気になれることが重要だ。とりあえずそれは正しい。


 そんなことを考えていたら、もっと積極的な自由=パロディも問題になってきた。ソローキンという人は過激に実在人物(スターリンとか)をパロってた。さて、いま、安倍さんと、誰でもいいけど稲田朋美、櫻井よしこ、長谷川三千子、、、などといった人物、こういう人たちが乱交したりSMプレイしたりする、みたいな文章を書いたらそれは炎上するだろうか。そもそも、そういう種類の文章はわりと使い古された文学手法かも。とおもうけど、逆に、そういう文学も許されないとしたら状況としてどうだろう。少なくとも、そこには勇気か野蛮か無謀かがないとできない感じのなにかがある。
 状況は非常に細かく、面倒な次元にまでおよんでいるように見えて、公人か私人かとか(稲田朋美はいいけど櫻井よしこ、長谷川三千子はNG?)、名誉毀損の問題、人権、それから表現の自由などなど、ぶつかりあって矛盾して落としどころが見つからない。筒井康隆の慰安婦像についての筆致など、炎上するとそこに「問題」があるように思えてくるが、本来たいしたことじゃなかったのかもしれないともおもう。(東浩紀は日本語圏だけで読まれる場合と、韓国語圏でも読まれる場合で意味合いがちがう、ということを宮台との対談の質疑応答でちらっと言っていた。つまりコードの差異で表現のアリナシは変わる、ということだろうか。)
 当然、ほんとうに何をしても何を言ってもオッケー、許される、ということではない。たぶん。いや、文学の世界の内側においては何を表現しても自由なはずだろう。けれど公共的には異なる。そこで異なる次元が重なり合っている、ように見るか見ないかの立場でも変わってくるだろう。
 ではどう線引きすればいいか。というか、線引きはどうなされるか。線引きするのは世間であり大勢だ。じゃあ個人の表現者はどう自分の表現をチェックすればいいのか。ということは当然気になる。そこを何も考えないとなると、無謀になるか、コードの範囲内で無難になるかしかない。
 無責任になる。いっそ無責任になる。最終的には、無責任。それも一種の決断主義か?まあ考えても埒あかぬからやっちゃえ。やってみよう。いってみよう。
 加害がある。被害もある。そして加害や被害にセンシティブになりすぎると、観光はできない、というのも現実である。人は人に迷惑をかけないと生きていけない。そもそも生きていくのに他の生命体を食している。命を奪って我が命を延長しているのだ。ただそういう加害は目に見えない=無意識化されている。
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 最近は東浩紀『ゲンロン0』、千葉雅也『勉強の哲学』と、なんとなく無責任的というか、脱コード的でそれでいてガチガチしていない書物を読んだ、ということもあって、そういう考えに寄っているけれど、なぜそうなのかといえば、やはり「この俺」に見合った生き方≒時代に見合った生き方というものがもっとある、ということじゃないのか。そんなに戦後間もない頃の思想や哲学のような生き方でがんばれないし、課題は移っているし、突破口に対する有効策も変化している。そんななか、じゃあ吉本思想やサルトルの思想というのは無効でしかないのか?そうじゃないはずだ。なんにしても、最終的な拠り所たる自己、自分の身体、自分の意識、というものはつきあい続ける以外ない。そのなかで、自分を保っていかなくてはならない。そう考えると彼らの思想を矮小化してサプリのようにとらえることになりそうだが、むしろひとまずそれでよい。サルトル思想を矮小化してとらえてとりあえず元気に主体的になってみようよ。みたいな気分だ。そのほうがよい。つまり、そうじゃないよりも、そうなったほうが「マシ」だということだ。


 筒井康隆の慰安婦像問題。表現がどこまで閉じた空間で行われているか、という問題がある。純粋文芸空間だったら何を書いてもよい。そこから段々と公共的な意味合いを帯びてくる。SNSに投稿する、ということをしたらば、それはもう人の集まる広場で何か言った、ということである。いやそれ以上に、日本中の広場で言った、ということになった。
 とにもかくにもそういうことは問題にされる。問われる時代になった。パロディの有効性の文脈は変わった。パロディを書くと言ったって、誰かが読んでくれることを期待しているわけであって、読まれる以上なにかが起こる。そのなにかが、批判かもしれないし、笑いかもしれない。大まじめに全体的に考えておかなくてはならない。ならなくなった。いや、ほんとうはいつの時代であってもそうだったけど、現象として以前なら問題にされなかったものが問題にされるようになった、ということは大きな変化である。自分の享楽に従って書きたいものを書いていればいいか。それとも時代のコードに合わせるか。いやいや、コードに合わせるとかではなく、そこで問われている問題に対して真摯に考え、考えた上で表現をつづけていくか。突っ込みがくる、くる突っ込みに対して、かわす、突っ込み返す、あるいはボケる。そこでラインを設けるとしたら、つまるところ「どこまで自分は考えたか?」ということじゃないか。批判者はなにを言いたいか、なにを問題にしているか、そのことについて、自分の側は考えていたか、考えていなかったら、どうするか。謝るのか、新しく考えて答えるのか。どうすれば、発展的で建設的な方向にいけるか。
 注目が集まっているのだ。としたら、そこで何を言うかが、人に何かを言うことになる。つまり、自分の次の発言は多くの人に聞かれるだろう。そこで何を言うか。いいこと言おうとして、すべるか。逆ギレして火に油を注ぐか。正論、と自分が信じるところのことを言い続けるか。発言を変えるか、変えないか。自分の考えをどこまで話して、どこからは話さないか。
 「慰安婦像」、というものそのものについて、おそらく筒井康隆はそうこだわりがあるわけじゃないとおもう。それより、「書く」という自分のあり方そのものに自覚的で、こだわりをもっているはずで、だからこそ「断筆」したりもする。たぶんそういう感じだ。いいかえれば自己目的的に書いた。とすると、本気の人間たちは怒る。そして、当事者だっていい気はしない、悲しむ、ということにもなりうる。

 ここで実践的に重要とおもえるのはひとつに表現の「区切り」の問題。慰安婦像の筆致をツイッターに貼るのはよくなかった、のだろう。だとして、じゃあもっと限定的な場で書く。
 でも、そうするとやはり、公の場では表現を規制せざるを得ない、ということになって、それもなんかちがう、と思えてくる。もちろん、根拠のある規制ならいい。けれど、そんなに根拠が全ての場合に正当に問われるか。誤解もあるし一方的な読み違いもある。「空気」が規制的になっていくのは、やはりよろしくないだろう。
 たぶんリスクとハザードのバランス、みたいなものが崩れて偏っているのだろう。そうおもえる。だとして、バランスを戻そうとしみるか?そこでだ、そこで、目標は果たして、「バランスを戻すこと」なのか、「その表現自体にメッセージはある」のか。

 ひとまず自分の考えとしては、こうなる。筒井康隆のあの表現にメッセージ性はなかった。状況に対する風刺、つまりバランスに向けた表現であった。その意味で読み違えもあったかもしれない。
 では、どうすればいいか。現代の表現者は。つまり俺は。
 表現にはメッセージがなくては強度をもたない。しかしナンセンスという方向性もある。まあいろいろある。そのなかで炎上リスクを回避しつつクリティカルな表現を模索していくならば、まず、炎上を恐れてもしかたない。
 炎上を恐れるな。表現するまえに萎縮するな。なんだ、気合いか。要は気合いがだいじ。気合いがあればなんでもできる。
 要は根拠をもて、ということに尽きる。つまり考えること。用意、準備すること。しかし根拠だって有限にしかもてない。この現実は、そもそも予測しつくすことは不可能だ。
 「無責任」「観光」「まじめとふまじめのあいだ」などのキーワードはここらへんで活きてくる。そうやって手持ちの概念を増やしておく。それが自分の自由さを担保してくれる。

 要は、要は「どういう社会にしていきたいのか」という方向性なんだ。自由な発言、奔放な発言も容認される、という意味合いで寛容な社会へ向きたいのか。それともセンシティブに他者を傷つけることがないよう配慮し合う社会へ向きたいのか。「向きたい」方向を決めるのは自分だ。ただ、社会は一枚岩ではない。ゆえに衝突する。それは避けられないし、そもそも避けられるとか避けようとかおもうべきでもない。その意味であきらめた方がいい。それでも、「俺が思ったんだから俺がこうするのは俺にとって正しいしこうするしかないんだ」という、そういう「もう考えつくしてやった行為」に近づく。そんなイメージ。
 だから、もし考え足らずで、後になって「あれ、間違えちゃったかな」と思ったら、そのとき正直に修正したほうがよい。そんな姿勢が大事だとおもう。だけど、別に自分の考えじゃないのにびびって謝ったり、リスクを恐れて縮こまったりは、必要ないし、そこからは何も生まれない。何も生まれない。東浩紀的に言えば子どもも生まれないし、誤配も起きない。そこからは文化、社会は縮小していくしかないのだ、みたいな。


 ということで、表現するという方向性を確認した。メタメッセージの重要性、ということとかかな。再整理すると、筒井康隆はメッセージはなかったがメタメッセージはあった。じゃあ目指すべきは?メッセージがあり更にメタメッセージもある、という方向性だ。これだ。これに尽きる。
 無為のリスクというものが、あるのだ。リスクを恐れて無為を選択したら、徐々に生がしぼんでゆく。そういうことってあるじゃん。だからリスク回避のために、むしろリスクを選択する。まあここで「リスク」という言葉が二重になってます。なんにしても、俺たちの気分、これを健康に保つためには、かような操作、動機付け、整理が必要となってきます。

 ここらへんも身体的な次元での表現論として重要。筒井康隆の例でいくと、社会的意味と自己目的意味を区別する。前者ではパロディの社会的意味が問われる。後者では、じゃあ筒井康隆はああいう表現をしてけっこう気持ちいいのか、ということが問われる。
 ということで、サドマゾの問題は表現にとってより本質的なものだとおもわれる。星野源という人もその意味合いが濃いかもしれない。というか現状の芸能界やポップ音楽においては、表現のメッセージよりも別のものが重要視される傾向にあるのかもしれん。それは批評の不在とおそらく関係している。批評が不在なら、高度な表現をしても空振り感しかない。
 昭和の表現と平成の表現もそこらへんでちがっていて(おおまかにとらえて)、作品の内在的意味や時代的意味とか、そういう本格的な批評の影が近年ますます薄い。気がする。これはそう思い込んでいるだけかもしれない、とは思わない。が、正確なところはどの程度そういえるのか、よくわからない部分もある。
 
 サドマゾ的次元は、生き延びるために必要だ。たぶんきっとその通りだ。気持ちよくないと表現なんて持続できないからだ。


 音楽やめる。バンドやめる。自然消滅する。結婚する。音楽やめる。そういう人たちはたくさんいたけれど、やはり、サドマゾ的快楽に至らなかったのだろう。残念なことなんだ。それは。きっともったいないことだ。
 まじめとふまじめ。の、「ふまじめ」の中身を分析、分解し、つきつめてゆく、その行程においてサドマゾの問題は浮上する。これは享楽、欲望の問題とくっついている。人間にとっての欲望、快楽とはなんやねん、という問題。

​

 自意識系。自意識的表現圏。そんな名付けを思いつこう。
 大森靖子、最果タヒ、本谷有希子、太宰治、、、「自意識こじらせ」系、と通俗化してイメージしてみる。それはやはりサドマゾ的である。ただしサドマゾというと高踏的だけど、自意識こじらせ系はもっと庶民の次元で、まじめに自意識している感じがする。サドマゾ、は、遊びの技法なんだ。余裕の産物ともいえる。
 太宰治だったら自殺までいくんだ。自意識こじらせ系、とは、ばかにした言いぐさだ。これはよくない。ただ考えのために考えると、ストレートに悩むよりも、ちょっとずらして自己継続性を高めたい、と願う。自意識を、どこかに接続する。ぐるぐるする自意識を、手放す。自分のものだと見なさない。
 うまく言えないけどそんなようなことはあるんじゃないか。あるっていうか、必要になってきている、って感じがする。これは俺の変化かもしれない。


 サドマゾ、ってのは自意識を遊びとしてとらえちゃおう、ってことなのかな。ああ、ドストエフスキーの地下室の住人だ。あれは、かなりの地点でマゾやってる。つまり「自意識こじらせ」の迷路には「マゾヒズム」という抜け道がある。
 サドも似たようなことだろうか。サディズム。加害。須藤洋平を思い出す。彼の詩は、暴力的だ。暴力。表現における暴力の積極的意義。
 ぶいらぶいら、臀部にナイフをつきさす。ぶいらぶいら。しかし、暴力というのは文学において使い古されすぎたのではないのだろうか。いったいなんなんだろう。なぜ、人間は暴力をこんなに愛好し描写するのか。そのことと、実際に戦争がなくならないことは、やはり、どこかで通底していることがらじゃないのか。といって、暴力描写をなくせば戦争がなくなる、とかいうことは絶対にないだろう。


 サド。人を服従させたい。マゾは、服従する俺がその服従されている状況を遊び=快楽に変換する技術、、、。
 
 慰安婦像に射精する、というのはサド的である。では、射精される慰安婦像はマゾの領域への契機をもっている、、、といえるかもしれない。だとしたら、筒井康隆は書きすぎたのではなく、書き足りなかったのだ、ともいえる。そこに、射精される側=マゾの心証、立場への想像力、筆致が至っていれば、ことは違った次元を見せていた、ようにおもってきた。そうといえばそうかもしれない。そうなったら。そうなってはじめて、慰安婦像をめぐる社会問題、政治的対立は、小さい表現次元においてだが、相対化される。つまり、炎上したあと、筒井康隆にできたことは?と考えるとして、勝手に考えさせてもらえば、慰安婦像の立場、視点から、おなじ次元でなにか書く、ということであったかもしれない。射精された。顔に精子がかかった。そういえば、戦中は、日本軍人に顔射されていたっけ。ああ久しぶりに思い出した。それにしてもこの文筆家は、なんという老人だろう。そんなに気楽に射精されるいわれはない。というか、届いていない。あなたの射精は私たちには、届いていない。そうだ、日本語で日本人に向けてだけ書いていたって、韓国の慰安婦、および韓国国民や政府には、届いていない。そのなかで、文筆家も表現しているにすぎない。じゃあそこにおける炎上だって同じで、全体的に滑稽だといえばいえる。つまり、炎上してみたってなにも変わらない。状況はむしろ硬直化した、ともいえる。もっと、そこでなくてはならなかったピースは、あるんじゃないのか?慰安婦像を人格化して何か語らせる、という手法も、問題がないわけではない。なんの資格があってそんなことできるのかと。しかし少なくとも視点は飛ぶ。そうやって共感する領域を拡大することそれ自体には、社会的意義があると私は信ずる。


 表現しすぎている、すべっている、考えすぎだ、ということではない。絶対にない。言い足りないし、表現し足りないし、考えが足りないのだ。絶対にそうだ。表現をひっこめることでなにかをクリアした気になるな。表現を表現によって乗り越えることは、常に可能である。




 話を戻す。太宰治のような、自意識をきりきりつめていく、まじめな文学者は、その態度は、じゃあもう脈はないか?そんなことないはずである。現在、たぶん、よくは知らないけど大澤信亮さんとか杉田俊介さんとかが似たようなことをやっている、気もする。そういえば杉田さんの長渕剛論は読んだ。というか依然、実存をしっかりもっていく、という課題は時代と併走しながらもたれているものだ。自意識する。あれ今俺この文章どんなけ読まれてる?読んでどう思うっぺかー。みたいなことを、気にすればいくらでも気に出来るけど、もう正直半分どうでもいいし、どうでもいい、と思えたほうがいいのだから積極的にどうでもよく思っていきたい。しかし、そうなった矢先に自意識の問題圏は消失する。なんということだ。あんなにタムロした俺の居場所が。ふと、そんな風にもおもうのです。


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