・成熟ってなんだろう。
僕は作者がいて、受け手がいて、 その両方が「傷つき」「何かを乗り越える」ことじゃないかと思っている。 20代までは、曲を書くとき、それを念頭に置いていた。 曲を書く過程でなにかに出会い、わかり、違う景色を見れていること。 そう望んで書いていた。 曲を書くことで成熟したかったんだ。 そうやって、長い曲ができる。 別に本来、結論だけ書けば短くてすむはずだけど、 「過程」のところも残すと、どうしても長くなる。 結果的に過程は必要なのだ。 じゃないと、ビフォー・アフターがわからなくなる。 それじゃ意味がない。 吉本隆明は文学には「転換」が必要と説いた。 たとえば主人公が女性に嫌われていて、 物語の途中でなにかのきっかけで女性と恋仲になる。 そうやってビフォー・アフターがつくことで「ドラマ」になる。 なんだ、じゃあ、必ずしも「自分」が主題にならなくてもいい。 そう。別に他人の歌を書いてもいいし、架空の物語でもいいんだ。 ふと見た桜の花の美しさでもいいし、友達への手紙でもいい。 なんだかでも僕は、一生懸命自分の成熟を果たそうとしていた。 それは何らかの意味での代替行為だったかもしれない。 「震災の後で」も「星とおでん」も「空の梯子」もそうだ。 大体「自分ひとりの世界」から「他者」へ手を伸ばそう、という動機に動かされている。 いまは、もっと思いつきで、流れで曲を作ろうとしている。 それは耐性がなくなったからかもしれない。 それとも「俺も自然を知れたよ」、ということかもしれない。 それに、そもそも前提として音楽は身体表現であり、 音の流れとしても身体の動作としても気持ちいいポイントがあるから、 そっちの要素をだんだん重視していくようになったからかもしれない。 ・いま、歌うべき歌はなんだろう。 自分に問うてみる。 「自分が」歌うべき歌なのか、「世界にとって」歌われるべき歌なのか。 そのふたつの方向性で。 成熟を自らに課す。 毎日のなかで、 そういう純粋時間を、 設けないと、やはり つかめないものがあるのだ。 書きながらそう思った。これもビフォー・アフターだ。 吉村志保さん。 千葉で10年以上活動しているミュージシャンなら知っている名前かもしれない。 最近吉村さんのCD「ハイビスカス」をまた、聞いている。 閉じこもらなくちゃ 閉じこもらなくちゃ 届かない 届かない 届かない 届かない どうしようもない気持ちのフラストレーションや、 ディスコミュニケーション。 「価値」や「結果」に結びつかない内面性。 そんなものを、表現して受け取れる環境が、 あの頃と比べても、ずっと少なくなってしまったように思う。 いや、たしかに、それまで「暗かった」こと、 マイノリティだったことがらも、シェアしやすい世の中にはなったと思う。 でも、「シェアできない」こと、 自分一人でしかもっていられないことを、そのまま持ち続けるには、 いま、タフでなかったら、きっとなにかに負けてしまう。 この歌たちを本千葉JAMの野口さんが愛し、応援した気持ちがわかる。 ”これは世に出てほしいな” と思わせるものっていうのは、つまり 「こういうものが世に出てくれたほうが、こういう話が通じやすいほうが、俺は生きやすいよ」 そんな風に思わせる世界をもったもの、なんだと思う。 たぶん、彼女はずっと前に音楽をやめて、どこかで暮らしている。 いつかまた聞きたいなあ。 いや、それもそれでいいってことなんだろうな。 ・表現するってむつかしい。なにがむつかしいって、「ふうん、なるほど。で、それがどうした?」というツッコミ、受け手の疑問があるからですね。
疑問なんてないですよ、表現されたものに素直にいいとか悪いとか感じるだけっすよお、と思う方もいるかもしれないが、こっちはこっちで勝手に想像してしまうのを止めることはできないのだ。 だから、ここでよく「考えるな。やれ」というシンプルな思想を打ち出す人たちが現れる。とにかくあれこれ考えてたって仕方ない。とにかく動くしかない、と。 しかし、そういう人たちは、僕が感じている「表現のむつかしさ」をスルーする。結果的に、その表現は僕から見たら、一番届いてほしい部分に届いてくれない表現、に見えてしまう。 つまりそれは、第一に僕自身のむつかしさなのである。しかし話はそれだけじゃないのだ。それは僕自身のむつかしさであると同時に、時代のむつかしさでもあるのだ。 今日は休日であるからして「ちはら台ユニモ」にて本を物色。さまざま興味深いことがらを立ち読む。一冊も買わず。
サド、マゾ。変態。欲望。享楽。俺ってどう見られてんのかなー、てゆうかあいつまじキモい、なに息してんだよハゲ、、、こういった循環のなかの人間の関係性のトリック、とりこ、享楽の循環の自己解釈をわがものとし、もっと平易にがんばってこう。とおもった。 「どう遊ぶか?」「いかに楽しむか?」「自由になれるか?」「そこでリスクはどう見積もるか?」、、、などといったテーマがあり、それらについて、いまの感触だとかなり無責任になってきている。どうでもよい。どうでも、よい、と言えることはかっこいいね、とか感じていられるとしたらそれも享楽の一種だ。立派なんだ。なにを言っても立派。 なにを言ってもやってもぼくたち結果中途半端、という題名。なのだから、気張らず、半端さを折り込んでいこう。本は半端にしか読めない。つまみ食いしかない。道は極まらない。上には上がいる。そして下にも下がいる。横にもいろいろいる。失過した、とかいちいちおもうな。 一番の思想とそれ以外の思想。肯定的になるために二重構造を利用しよう。元気の出る思想。サルトルの実存主義を勝手に自己解釈して元気になろう。元気になれることが重要だ。とりあえずそれは正しい。 そんなことを考えていたら、もっと積極的な自由=パロディも問題になってきた。ソローキンという人は過激に実在人物(スターリンとか)をパロってた。さて、いま、安倍さんと、誰でもいいけど稲田朋美、櫻井よしこ、長谷川三千子、、、などといった人物、こういう人たちが乱交したりSMプレイしたりする、みたいな文章を書いたらそれは炎上するだろうか。そもそも、そういう種類の文章はわりと使い古された文学手法かも。とおもうけど、逆に、そういう文学も許されないとしたら状況としてどうだろう。少なくとも、そこには勇気か野蛮か無謀かがないとできない感じのなにかがある。 状況は非常に細かく、面倒な次元にまでおよんでいるように見えて、公人か私人かとか(稲田朋美はいいけど櫻井よしこ、長谷川三千子はNG?)、名誉毀損の問題、人権、それから表現の自由などなど、ぶつかりあって矛盾して落としどころが見つからない。筒井康隆の慰安婦像についての筆致など、炎上するとそこに「問題」があるように思えてくるが、本来たいしたことじゃなかったのかもしれないともおもう。(東浩紀は日本語圏だけで読まれる場合と、韓国語圏でも読まれる場合で意味合いがちがう、ということを宮台との対談の質疑応答でちらっと言っていた。つまりコードの差異で表現のアリナシは変わる、ということだろうか。) 当然、ほんとうに何をしても何を言ってもオッケー、許される、ということではない。たぶん。いや、文学の世界の内側においては何を表現しても自由なはずだろう。けれど公共的には異なる。そこで異なる次元が重なり合っている、ように見るか見ないかの立場でも変わってくるだろう。 ではどう線引きすればいいか。というか、線引きはどうなされるか。線引きするのは世間であり大勢だ。じゃあ個人の表現者はどう自分の表現をチェックすればいいのか。ということは当然気になる。そこを何も考えないとなると、無謀になるか、コードの範囲内で無難になるかしかない。 無責任になる。いっそ無責任になる。最終的には、無責任。それも一種の決断主義か?まあ考えても埒あかぬからやっちゃえ。やってみよう。いってみよう。 加害がある。被害もある。そして加害や被害にセンシティブになりすぎると、観光はできない、というのも現実である。人は人に迷惑をかけないと生きていけない。そもそも生きていくのに他の生命体を食している。命を奪って我が命を延長しているのだ。ただそういう加害は目に見えない=無意識化されている。 千葉雅也『勉強の哲学』
これもおもしろいなー。 p29 読んでて思いついたのは、バンドやめる人間って要は「そもそも音楽やってない」人間なんだ、ということ。つまり「結婚相手の家族に自分のやっていることを説明する言葉をもたない」ということが根本的な問題。再帰的な意識から自分のやっていることを見つめ言語化し、加えて市井の人が理解できる大衆的なことと接続しわかりやすくするのだ。脱コード化がまずないとお話にならない。 こういう本が出てくる背景には、SNSおよびネット時代においていろんなことを考えなきゃいけなくなっていて、だけど人文知はそれに答えを与えてくれなかった、という状況がある。新しい時代、状況に対応した、そこにおける人間社会のありようによく応えた思想哲学のコトバ。 p31 他者依存的に構築された趣味嗜好、ね。音楽文化のことにおいてもいえる。自分は常に着衣なら、音楽文化も他者から着衣されたものだ。だから逆に音楽文化を継承ないし創造したいなら、自分から他者に着衣、いや、自分の来ている衣を他者にほどこさないといけない。 そこで批評は役に立つし、もっと直裁には好きなもの評論が役に立つ。吉本隆明の本をYouTubeで紹介すればてっとりばやく継承ができる。尾崎豊でもそうだ。間接話法としてカバーやパロディがある。 ここらへんの議論は「関係の絶対性」に近い。 「一人ノリ」をすごくすることが大事なんだ。それが作家や芸術家のできること。単に「脱ノリ」じゃない。 言語の透明性のはなし。透明=日常言語。不透明=概念言語、人文やら文学やら科学やらの非日常的言語。たとえば町田康は透明性を保ったまま(ことばが浮いた感じにならない)で高度なことを表現する。それはある種脱ノリを果たしているが、ノリが悪いわけじゃない。いいかえれば、共同的なノリとまったく合わないわけじゃなく、それへの突っ込みとして機能できる。高橋源一郎はたぶん意識的にことばを透明にしてはいるが、いくぶんノリが悪い印象。使い方がくだけていないのかな。用法が普遍的というか、スラング(文法、用法においても)の可動性が町田康にくらべたら低い。 p48 言語の異物感、器官なき、文脈から脱落した生の「コトバ」。そんな領域でこそ言語の操作が自由になり、詩や文学がはじまる。 俺が中学でひきこもって学校に再会したとき、同級がバカにみえた。ノリを無理矢理やってるような。もう小学生のようには無邪気にノレない。けど共同性をたもつにはノルふりするしかない。そんなのが滑稽だったし哀れだった。それは俺にとって「詩のおとずれる機会」だった。現実を距離をもって眺める視点から詩がやってきた。 きもい。これは大事だ。 HPアイデア:やらかす≒きもい≒新しい自分になる。 昨日は敗北気味だった。けっきょく自分が主体なので、メタの視点ばかり意識していてもしかたないし、その議論ばかりされるとこっちが段々ずれていく。もちろんそんなことわかっている、が、わからなくなってしまうタイミングが危険だ。 強そうだったり前向きなかんじだったり男性的なかんじだったり、が重要で、もうそれはポーズのとりかただけど、でもポーズというのは重要だ。 ところで食楽市場のような場所でまともに観客を相手にできるだろうか僕は。どうもイメージがわかない。大まじめにやるか、ふざけたふりするか。なんにしても気楽で和気あいあいとした雰囲気を疎外しそうで、それはどうなのかと自分でおもう。場所が大事だ。表現に適した場所がある。場所に適した表現がある?でも、そんなこといってたら決まり切ってしまう。カオスが必要ならば、カオスの主体になる覚悟も必要だろう。そこで重要なのは予測をつけること。観客がついてこない、明らかに場にそぐわない、みたいな空気をかんじても、あらかじめ予測しておく。その上で大事そうなことをおさえる。「そこまで言ったらおんなじだよ」と演者と観客の双方がおもえることがらがあるはずだ。 強い言葉。ポーズは強さを要求する。強さのポーズは。じゃあ弱さはどうなるだろう、ということがある。弱い言葉、弱さの言葉を、吐ける場があったほうがよいのだ。それは詩になるだろうか。散文よりも、詩の方法の方が、自分になじんでいるきがする。 彼が生きるに値する世界、場。もしくは、場はあっても世界総体との関係において劣勢感情がぬぐえないことが絶望のタネかもしれない。 |