ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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think 勉強

5/7/2017

 
千葉雅也『勉強の哲学』

これもおもしろいなー。
p29 読んでて思いついたのは、バンドやめる人間って要は「そもそも音楽やってない」人間なんだ、ということ。つまり「結婚相手の家族に自分のやっていることを説明する言葉をもたない」ということが根本的な問題。再帰的な意識から自分のやっていることを見つめ言語化し、加えて市井の人が理解できる大衆的なことと接続しわかりやすくするのだ。脱コード化がまずないとお話にならない。
こういう本が出てくる背景には、SNSおよびネット時代においていろんなことを考えなきゃいけなくなっていて、だけど人文知はそれに答えを与えてくれなかった、という状況がある。新しい時代、状況に対応した、そこにおける人間社会のありようによく応えた思想哲学のコトバ。
p31 他者依存的に構築された趣味嗜好、ね。音楽文化のことにおいてもいえる。自分は常に着衣なら、音楽文化も他者から着衣されたものだ。だから逆に音楽文化を継承ないし創造したいなら、自分から他者に着衣、いや、自分の来ている衣を他者にほどこさないといけない。
そこで批評は役に立つし、もっと直裁には好きなもの評論が役に立つ。吉本隆明の本をYouTubeで紹介すればてっとりばやく継承ができる。尾崎豊でもそうだ。間接話法としてカバーやパロディがある。
ここらへんの議論は「関係の絶対性」に近い。

「一人ノリ」をすごくすることが大事なんだ。それが作家や芸術家のできること。単に「脱ノリ」じゃない。
言語の透明性のはなし。透明=日常言語。不透明=概念言語、人文やら文学やら科学やらの非日常的言語。たとえば町田康は透明性を保ったまま(ことばが浮いた感じにならない)で高度なことを表現する。それはある種脱ノリを果たしているが、ノリが悪いわけじゃない。いいかえれば、共同的なノリとまったく合わないわけじゃなく、それへの突っ込みとして機能できる。高橋源一郎はたぶん意識的にことばを透明にしてはいるが、いくぶんノリが悪い印象。使い方がくだけていないのかな。用法が普遍的というか、スラング(文法、用法においても)の可動性が町田康にくらべたら低い。

p48 言語の異物感、器官なき、文脈から脱落した生の「コトバ」。そんな領域でこそ言語の操作が自由になり、詩や文学がはじまる。
俺が中学でひきこもって学校に再会したとき、同級がバカにみえた。ノリを無理矢理やってるような。もう小学生のようには無邪気にノレない。けど共同性をたもつにはノルふりするしかない。そんなのが滑稽だったし哀れだった。それは俺にとって「詩のおとずれる機会」だった。現実を距離をもって眺める視点から詩がやってきた。

きもい。これは大事だ。
HPアイデア:やらかす≒きもい≒新しい自分になる。
Picture


アイデア:つまり、YouTube再生数少ないほどいい=世界をひとりじめできているから。おもしろさ、共有、世界資源、<消費>をまだ手つかずでオリジナルのまま、消費しつくさずにある。<せまさ>を維持できているということはいいこと。
みんなべき乗にのること、増やすこと、広げることばかりがいいことだと思いそればかり考える。そこで失うことをあまりにも考えてない。たとえば追悼。有名人の追悼ととなりのおっちゃんの追悼。みんなに追悼されたから価値がある、とかそういうことじゃない。人間や世界をそういうふうにとらえるのは貧しいこと。ここで価値は、むしろ逆転されなくてはならない。人は、知られてないからいいんだ。ネットワークの分布、線は少ないほどいいんだ、価値が毀損、消費、流出されていなく、占有されているからだ。むしろそういう考え方こそ自然で正しい。
東浩紀もそう考えるか。吉本隆明はお墓の例でそういった。SEALDsが残念なのはその点がちがうところ。数があるほうが価値がある、という前提は消費資本主義のコード感を無批判に前提してる。
千葉ルックの野外の或るミイツトムの「みんな来年はZEPPでやれたらいいね」発言への違和感。それをおしすすめると、客ゼロが一番いい、という価値観になる。そこがリミット。そこまでいかないあいだで「操作」できなきゃいけない。実際、純文学の作家も吉本隆明さんも客ゼロではない。それは「食える」範囲で客がついているということ。ほんとにダーガー的な客ゼロじゃあ食えない。だからその範囲で客つけることは必要だが、そのことと「客つくほど=数あるほど偉い」というのは金あるほど偉いというはなしで、根拠ない。そこはラディカルに批判的である必要がある。
東浩紀はそういうメタメッセージ的にSEALDsに批判的だったのだとしたら。宮台はその部分に関しては東浩紀より鈍感だ。反対に、「痛み」に対して繊細的。だからイラク人質問題のときも憤ってた。東浩紀はむしろロスジェネ論壇にその倫理的立ち位置が(意外と)近い。とすると、宮台のいうようにSEALDsこそ郵便的マルチチュード=観光客であると言える面はあった。その延長線でどんどん動員して世界展開してアジアとも連帯して、その先で、暴露的に「動員はネタ。実際意味はない。僕らが集めた数は価値じゃないのだ」と言ってくれれば一番かっこよかったし現在的な革命だった、といえるのでは。で、そこの意識がないことが東浩紀は許せない、ということでは、つまりネットワークに関するメタ倫理がないことが。その意味では確かにSEALDsには(あり得べき)<思想>がなかったし神輿にのっただけだしその次がなかった。確かにじゃあ動員勝負じゃ資本側に負けるだけだった。メタフィジカルな戦争において、軽いノリでレジスタンスしたSEALDsたちが国(含めた体制側住人)のリアルな制圧部隊に鎮圧された、という図式。そこでは数のトリック自体そのものを問題にすることはできなかった。でも思想のすべき転覆はそれなんだ。それしか負ける側がすべきことはない、と。そして、転覆というのも違っていて正確には二層構造のあいだを生きる、ということだと。そこで重要なことは「この数というのは根拠のない数学的帰結にすぎない」という事実認識だと。東浩紀のSEALDs批判はつまるところそういうことではないか。事実、「人間世界に数なんて問題じゃない」というメッセージは左右問わず、実際にはネトウヨの琴線にも触れうるものだったのではないか。そこを、あろうことか逆にリベラル側が「数至上主義」に落ちくぼんでしまったことが最大の欺瞞であり左翼性の放棄だった、とか。さらにいえばリベラル側も、ひとりひとりならちゃんと考えてる、人たちのはずだが、たとえば高橋源一郎だってちゃんとSEALDsに言うべきこと言ってたならまだいいけど実際には言ってないで迎合した。そういうことやってつくりだされるのは「動員ゲーム」の「コード」だった。動員ゲームコードをメタ的につくりだすことに荷担したリベラル陣営の欺瞞が東浩紀は看過できないし許さない、と。宮台はその点は見過ごす。それよりあまりにも不条理に批判されてしまう若者たちを擁護=保護したい。それは宮台のリアルに根ざした意識であり実践経験ふくめた彼の父性。それはいい。そこで父性と息子が相克してんのかな。息子は不条理をいいたてる。父は傷つく子どもを保護する、、、。宮台と東浩紀、人間性をみてるとその通りになってるとおもう。二人のこだわる位置はそこらへんに違いがある。だからこそ東浩紀はSEALDsはみんな肯定して褒めてる、だから俺はしつこく否定する、と述べる。ただ冷静にはその認識はまちがっててSEALDsはめちゃくちゃ批判され否定されてる。宮台はリアル、東浩紀は抽象の次元でそれぞれSEALDs問題をとらえてる、というちがいが出ていて、非常に象徴的な差異であるとおもう。
両者の要素を総合するとしたら?吉本隆明はベ平連を否定していた。ただ時代的にあのとき若者たちはもっとラディカル左翼だった。吉本隆明が生きていたらSEALDsを肯定したのだろうか?しそうな気がするが、一方で絶対しないのでは、という気もする。原発にはああいう立場だった。一方、消費資本主義は肯定していたので、そのノリであるSEALDsは肯定しそうな気がする。安保、9条、自衛隊に関する考えの経緯は単純じゃないから、無条件でSEALDs肯定はないだろう。もっと原理的になにかいうはず。ただ、東浩紀的な発想というのは吉本隆明にはなかったかな。それは宮台が批判した点でそうだろう。
ただ、要は局面局面で対応を変える、ということになるのではないだろうか。SEALDsが極端に否定されている局面では「ちがうだろう」と言う。原理の局面ではまたちがうことを言う。結局のところはそういう在り方しか妥当なものはないのではないか。そして問題は、そこのところが区分されず「SEALDs」の諸現象がまとまったカタチでしか批判されないことが問題では。つまりさまざまな局面がいっしょくたに扱われてた。極端にいえば全否定か全肯定か、、、そういう立場の二極化に流れすぎた。じつは、そういう単純化こそが最も問題だったようにも思う。そうすると森達也みたいなあり方が第三のものとして浮上してくる(森達也も単純化したリベラルなこと言ってたっけ?としたら、森達也1.0に見る可能性)。局面局面をしっかり区別して、その都度言説を切り替えてゆく、というフレキシビリティがぜんぜん見られなかった。その意味でSEALDs現象全体を俯瞰して批評する試みがあったほうがよい。

では、こういう振り返りも「事後」のもので、そういう事後性の問題については?ひらたくいうと「後出しじゃんけんか。後でならどうとでもいえる。その瞬間どうふるまったか、ということでしょ」だ。森友問題もそう。その当時、純粋にリベラル言説を受け入れたか。森友問題もそうだったか。かなりな程度そうだったのだ。「ノリ」に対してどこまで自由で、どこまで巻き込まれたか。それを事後にきれいに整理してちゃあ卑怯で、正確にふりかえるには、当時の自分の感想や言葉、記憶だけじゃない記録もふりかえる必要があろう。それは「責任」にかかわる。
菅野完にどうして惹かれたのか。いまの彼の印象とは異なる当時の印象と可能性があったはずだ。部分的にしか見えないことだからこそ魅力あり、の案件はある。彼の大岡裁き的な部分、昭和な部分、なにか過剰さが正義に見え、あの囲み取材の限りではそうだったはずのところ。そこからの文脈の変化。自分の側の情報の増量。あのあたりでは、まだ籠池さん側のイメージはあまりなかった。興味なかった。メディア論的な色彩も帯びつつ、菅野完が登場した。嘲笑的な風潮へのカウンターもあり、それへの期待、賞賛の感情もこちらにあった。菅野完に期待し、ひいては籠池に期待した。ああなって意外なほど、自分は安倍さんが嫌いだったのか、と気づいた。「安倍さんの点数下ろし」の方向に欲望喚起された。それでいいとおもった。もはや下世話でもなんでもいい。安倍さんの点数下げられる方法というのなら、もはやなんでもいい、、、。
リベラルは更に信用を落としたのか?そうともいえる。ただ現政権のあいだの「ミス」を問題にし、現政権がどういう性格のものか、あきらかにするのは意味があるとおもえた。でもあれ?みたいになったのはどのタイミングだったのか、逆に。なんかどうでもいいな、みたいに今ではなった。「劇場」だったのだ。それはわかってたが、たしかに終わった。劇場でいいし、それができるならいいじゃん、とおもってた。
グレーゾーンの出来事がたくさんだった。それを、強引に左右に分配する。時代はそうやってあせって急かして。その結果いびつな印象がのこる。いつまでこうしてるんだろう。左右のちがいなんじゃなく、ナショナリズムとグローバリズムの対立の問題のほうが真の問題じゃないのか。という観点からすると、どうでもいい問題かもしれない。森友問題は、いったいなんだったのか。なんだか複雑。SEALDsよりも猥雑。不純だ。あまり考える意欲もわかないというか。SEALDsは考える意義ありそうだが、森友はないというか。結局籠池さんの個人的案件だからだ。籠池さんの人権とか、生活とか、そういう次元と、それから幼稚園児、その保護者の次元と、そして国、国有地、政治家の人権感覚の次元と、まあそういう限定的なものに終始せざるをえない。そこでの倫理の問題だ。だから特に部外者がこだわっても仕方ない。これだ。
部外者がこだわっても仕方ない案件。犯罪被害者への同情とか、それに近い。同じようなのに、この場合はえん罪被害者への同情に近くなった。国への不条理への責め。それはそれで正しい。ただその文脈を逸脱して籠池さんも菅野完らもふるまう場面が目につくようになって、急に冷めた。んーそういうことじゃない、あんたらの自己証明はどうでもいいな、、、みたいな。えん罪被害者はえん罪の限りにおいて権利回復されるべきだが、それ以上ではない。というそれ以外ではない。というか、他の民が関わる、関われる普遍的な次元とそうじゃない次元はあるのだ。権利だったら一般普遍だけど、籠池さんたち、菅野完さんたちの野望みたいなものはどうでもいいというか、、、。ひっぱりすぎなのだ。逆に草の根すぎる。

リベラル、というかマイリストに入ってる連中、というか、ツイッター一般の文化人の言動のパターナリズムにうんざりしてる、ともいえた。なんかテンプレきまってるわけで。そこに哲学とかない。左右ともに。

むしろ、おれの享楽=こだわりとは。正義、なにが正しい立場か、ということへのこだわり、ゆえに菅野完支持した。反体制への喝采。そこからの落胆。え、みたいな。暴力、神経症、をかんじた。

アイデア:グーグルなどの創業者?の顔写真をあげて批判、、、。やりたいだけ。やりたいだけ、をやる。お笑いの方法?悪ふざけ。その回路をネットに再生する、というか。ロケットニュース的かな。コンプライアンスとかしらんと。炎上上等?なにを享楽するか。俺としてはYouTubeの価値観をまずまっさらにすること。そういう歌をうたう。ふるまう。語る。文章かく、、、。パフォーマンスなら歌か。

・あんま考えない、でやる、という戦略。東浩紀がいうとちがう。考える人だからだ。いざ行為するときには余計な考えは邪魔。でも考えるモードはちがう。




2017/05/08 11:13
ああ、つかれたね。疲れ、がこんなに創造性の気分を疎外するとは。

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