ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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think 俺

5/6/2017

 

 昨日は敗北気味だった。けっきょく自分が主体なので、メタの視点ばかり意識していてもしかたないし、その議論ばかりされるとこっちが段々ずれていく。もちろんそんなことわかっている、が、わからなくなってしまうタイミングが危険だ。
 強そうだったり前向きなかんじだったり男性的なかんじだったり、が重要で、もうそれはポーズのとりかただけど、でもポーズというのは重要だ。

 ところで食楽市場のような場所でまともに観客を相手にできるだろうか僕は。どうもイメージがわかない。大まじめにやるか、ふざけたふりするか。なんにしても気楽で和気あいあいとした雰囲気を疎外しそうで、それはどうなのかと自分でおもう。場所が大事だ。表現に適した場所がある。場所に適した表現がある?でも、そんなこといってたら決まり切ってしまう。カオスが必要ならば、カオスの主体になる覚悟も必要だろう。そこで重要なのは予測をつけること。観客がついてこない、明らかに場にそぐわない、みたいな空気をかんじても、あらかじめ予測しておく。その上で大事そうなことをおさえる。「そこまで言ったらおんなじだよ」と演者と観客の双方がおもえることがらがあるはずだ。

 強い言葉。ポーズは強さを要求する。強さのポーズは。じゃあ弱さはどうなるだろう、ということがある。弱い言葉、弱さの言葉を、吐ける場があったほうがよいのだ。それは詩になるだろうか。散文よりも、詩の方法の方が、自分になじんでいるきがする。

 彼が生きるに値する世界、場。もしくは、場はあっても世界総体との関係において劣勢感情がぬぐえないことが絶望のタネかもしれない。



Picture


『半市場経済』
・共同感覚はいかにしてもたらされるか?
1 共同時間
2 共同作業
3 表現交換
4 批評交換
5 メディア化(外からの場へのまなざしのオープン)


アーティストはいかにして自立(欲望)するか?
1 彼の音楽の提示
2 彼の意見の提示
3 音楽の作品化(パッケージング)
4 作品そのものの、文脈(批評)の提示(プレゼン)\「時代の答えはここにある」
音楽を提示するだけに終わらず、その音楽がいまどういう回路によって成り立ち有効性がありうるかを説明する(音楽自体の必然性の自己証明)
5 宣伝、民への周知 アーティストイメージへの欲望(興味)喚起「興味をもってもらうために」

具体例1 音楽作曲→録音\映像化→サウンドクラウド\YouTube→説明欄に自己解説と自分の宣伝とライブの宣伝など
ⅰ 『黒のこっち』ならばオバマの映像→オバマの映像うつしたPC→見てる俺(変顔?)→広島原爆?核実験?の映像など

具体例2 いちおう、いま書いているコラムを仮説として完成させておいておく。別にそれをツイッターのトップにのせたりしなくてよい。小さく言っておく、ということ。ダーリンコラム的な位置。それが自分の軸になるから。
内容は1当事者研究的なもの。ステージに立つことの心理分析。2ネットワーク理論のバンドマンへの応用展開。3実存確保の試論。ここが重要。じゃあどうやって実存を満たすか。僕のやってきたやりかた。実作の方法を開陳し、自分の生き方とも照らし合わせ、こうしてコラムを公開することへの正直な懐疑や不透明さもさらす。偉い。それができたら偉いとおもう。

プラットフォーム自前論
★これは批判的見方だが、noteは一見よさげだが、やはりプラットフォーム自体を自前でもったほうがいいのだ。つまりweeblyで(自前じゃないけど)。YouTubeとかnoteじゃなく(再生数とか可視化されなくていい)、HPでコンテンツをつくってこうよ。ネットで交流とかコメントとかいらないしそもそもこないし、それは批評ではないのだし。意見がほしかったらメールとかを置いて募った方が良い。大体「コメント」って可視化されちゃうじゃん、書く方も。さらしたくないでしょ。作者にだけ届けたい言葉ってあるんじゃないのかな。そういう「ありかた」を確保するためにも、HPである種の閉鎖性を確保すべき。そんなのが「正義の空間」だと思いなしていければ。ただ、やっぱりいまはメインのテンポや方法が公開プラットフォームでの公開競争だから、負けるは負ける。でももっと長期でやるべき方向性、負けるなりに正しい方法、でもって「抗う」のだ。あえてでもネタでもこの「抗う」意識はわかりやすいし使えるな。
1 コラムにメールフォームおく
2 HPに音源を直接おく。その際に自己批評もおく。映像はやる余裕がない。そんで意見はフォームでつのる?コメント欄おく?
↑ これらはYouTubeなどの公開プラットフォームへのアンチだ。ああやって画一的なフォームに制圧されることで、工夫が消える。人間はそのプラットフォームでいかに勝つか、ということしか考えなくなる。それにとにかく横並びで同じ画面に自分のオリジナルらしい表現をおしこめたって、どうにもならないだろう。そもそもYouTubeという場自体が表現に適しているのか、という批評的視座がないことが問題。


★本質的なことに対して興味ある(俺は)。だから、俺自身も本質的なことだけやればよい。俺が客ならそういうものに興味持つ。「真っ向勝負」なんだ。
キーワードは批評。実作と批評。批評が必要なのは確かだろう。それを自給自足する、ということが最も重要。誰もやってくれないし、いまはゼロ。
批評をいれるということは批判するということになる。批判する\されるなかでその領域がダイナミックで活発になる。みんな保護しすぎだしされすぎ。ライブハウス批評があるとしたら店員の文句も書く。「嫌われない」ことばかり考えるとできない。


千葉郊外論
★都市でもなく地域でもない、郊外のありかた。千葉県民は田舎でも都会でもないとこで、どっちかに寄るか中途半端にやってくか。中途半端さの中身の強度をあげてく言葉がいる。
今後30年で震度6以上の地震が起こる確率、千葉市が全国一おおい。めずらしく日本の中心になった。「千葉」というありかたは、むしろ今日的ではないか、とぼくはおもう。なぜなら中途半端だからだ。東京の植民地といってもいい。千葉民は社会問題への意識が低いが、それは東京とのアンビバレンツな感覚をすでに抱えているので、日本的な問題へはむしろ共感をかんじない、という性質のせいだ。
千葉駅は新しくなったのにパルコはなくなったとか、いかにも千葉っぽい。戦略的な統一感がない。もしかしたらものすごく栄えるというイメージが自分たちのアイデンティティにそぐわなくなってるのかもしれない。ゆえに無意識に失敗を織り込んで行動している。で、そうなるとそれは「日本国」のイメージに近似的に近くなっていく。アメリカとの関係を念頭においた日本のイメージだ。

もっとおもいきり地方だったら考え方もわりきれる。千葉はそうじゃない。非常にやはり中途半端な地理的条件。つまり郊外なんだ。郊外には郊外の葛藤というものがある。総武線の各地点も幕張は埋め立て地だし東京というかんじだが、逆に津田沼、船橋は千葉っぽい感じがする。市川は東京ですね。舞浜はいわずもがな・・・。
そんなふうに考えると、この郊外のありかた=アイデンティティというのをしっかりもたないとしんどい。東京から考えると無力だし、地域として考えると共同体が薄い。なにもいいところがない(といっても千葉以上に困難なところはもちろんたくさんあるが)。そういう認識から、郊外感覚はじゃあ東浩紀の「観光」や「誤配」「偶有性」「郵便的マルチチュード」感覚に相性があう気がする。もっと具体的にしないといけなくて、俺が感じた「画一的プラットフォームへの違和感」は重要。つまりツイッターやYouTubeをみんななんとなく当たり前と思って使ってるけど、そもそも出た当時はそれがなんに使えるのか、どういう意味をもつのか、など活発に問われたはず。それが千葉という地点ではアーリーアダプターが少ないので「もうすでに当たり前化した後で」みんな使い出す。つまり無意識無葛藤無疑問で。これがよくない。概して千葉民は深く考えない傾向がある。となるとそれからのオルタナティブも構想できない。オルタナティブ意識はメインに対する批判意識がないと現れないから。
「なにも考えなくてもそこそこやれる」のが千葉の市民性だった。これがなくなってくる。そこそこもやれなくなる。それがいまの現状。必要な意味での左翼性があったほうがよかったが、千葉でそれやると単なるバカになる。なぜかというと自分たちがどこにいるかという認識がお粗末だから。
つまり、単純な図式におさまってことたりちゃうんですね、千葉の左翼は。見当外れな上に切迫感もないのに、それっぽくやろうとするから滑稽なんです。もっと自分たちの「現場」に注目してそこから考えを深めた方が良い。

1 ライブハウスは東京中心モデルからの脱却を
2 自活できるアーティストメディア環境の確立
3 ネットにおける独自の場の創出

高田渡が好かれるのは、開放感を与えてくれるから。森達也もそうだ。
そもそも再生数なんて表示される必然性は存在しないのだから、表示されない方がいいに決まってる。あれのせいで余計な評価が先にくる。
高田とか森のありかた=遅れが役に立つのは、無自覚な表現者のみ?いや、ああいう表現者が適切に存在できるプラットフォームを考えることが有意義。

4 遅れの表現が可能な場=プラットフォームを考える

遅れの場では、「数字」が邪魔になる。森達也の場合なら視聴率。高田渡なら販売数?動員数?自立系の表現媒体になる(森達也 自主?映画)。そもそもの再生数とか見えたら興ざめだろう。映画見てる最中にそういうメタ的な数字見えたら台無し。ニコニコ動画も相対性のメディアだけど、あれも僕は向かない。要は僕みたいな人間(一定数いるはずの)がちゃんとやれる場がないと、僕みたいな人間たちは生きられない、という問題なのだ。「自分に向いた」やりかたというのがもっとバリエーション豊富にないと社会が回らないはずだったのだ。noteもあやしいな。うん。完全に自前がよい。もちろんweeblyはちがうけど。。。あれぐらいならいい。閉鎖性、というかメタ性が可視化されない方が良い。よくわからん洞窟のなかで、日常性や社会性と隔絶された空間である必要がある。つまり、現在の基準でかんがえたらいささか暴力的で強制的なやりかたでしか、担保できない芸術性があるのだ。「大きくなって」も洞窟が隠れテーマだった。それが俺が自由になれる場所、、、。
思記に対する対思記を設置したのもそこらへんだ。まあ、あれもライブドアとかなのがいただけなかった、、、。もうHTML、古いWEBサイトで直書きやってたほうが幾分よかったな。
とかいっても、じゃあ完璧に洞窟にいきたい、というわけじゃない!それが<郊外性>なんです。そこがめんどくさいポイント。そんなポイントを満たすのがWEEBLY内で完結する表現だった。いちいちYouTubeやサウンドクラウドとかに出かけないことが重要。そういう意味で「一軒家」的ともいえる。そうなると、俺は一軒家育ちだからそうしたいのかも。養育環境の影響もあるだろう。
とにかく自分にとって不快じゃなく継続的で資質にあってるのがいい。再生数なんてはじめからボロ負けするのがわかってるものに突っ込むのはいやだ。そこらへんをいろいろ当たり前とおもわず再検討するのが大事だ。
そもそも再生数というのはネットワーク理論でいう優先的選択を発生させるための仕掛けだ。それ以上の根拠なんてない。そう考えるとまるで諸悪の根源だ。でも自然な流れでしかない。じゃあ違うことをやるしかない。
ツイッターは?僕にとって最低限の広場かな。つぶやく程度ならできるというか、、、。自前の場で蓄積があることが広場で自身持てる秘訣でしょう。
自分ちは自営業だったから、余計に外部的な装置に慣れない。自前空間で完結したい。そういう思想があるかもしれないことに思い当たる。ツイッターじゃなくヌマッター?
「つながる」「拡散する」ことばかり奨励される世の中になっちまったからな。「遮断する」ことを意識しないといけない。じゃないと遮断空間はできない。
もっと攻めた考えはないか、、、。HPにて他アーティストの空間はできる?勝手に古木衆ページつくるとか、、、。自前の家に他人の空間つくるような、客室空間?
吉本隆明さん死んだときに、「自前の家つくるんだ」と悟ったよな。吉本隆明さんは自前の家つくってもってたんだ。
ただそれらは単なる反動におわっちまわないか、という懸念も。だいたいそうだから。継続性をもとめないといけない。資本は集まらないが、あきらめちゃいけない。
たとえばメルマガならばメルマガサービスはむろんだめだし、GMAILもYAHOOもEZWEBもだめ。独自ドメインがいる。つまりそれだけがアイデンティティたるのだよね。 そもそも「みんなやってるから」以外にYouTube利用する積極的意味なんてない。<郊外的在り方>においては株式公開しないほうがいいわけだ。なぜなら東京からみたら無価値だから。かといって地元だけではまわらないので、別の価値基軸が必要。それは再生数じゃない擬似的な共同性にもとづくものか、個別主義にもとづく表現。つまりHWGかヌマケンか。
行司光の死のツイートもどこまで拡散したらよかったのか。鍵付きアカウントの問題もある。追悼の問題。べき乗的世界にのると、追悼すらもうまくできなくなる。RTの数が少ないとその人間の価値も少ないのか?そんなわけない。だから、スケールフリー=べき乗世界とは異なるスモールワールド=共同体においてきちんと追悼される必要がある。
それを可能にする準備、場の創出に関わる準備が、僕のHPや表現活動になれば、ということだ。
となると、それがメルクマールだとすると、構造自体、プラットフォーム自体を懐疑するのも正しい。RTされる数がどうとか、そもそもツイッターのなかの価値観を前提にしたはなしにすぎないわけだし。僕らははやりのWEBサービスを無疑問においかけすぎた。
えーと、僕が死んだら、僕のHPの書き物とかは残るわけだ。それを肯定しよう。なにを肯定するか、というのはなにを残すか、ということだ。まあ僕が死んでもHPでいろいろ読めたり聞けたりすればいいかな。あ、でも有料だからな、、、。死ぬ前に無料で恒常的な場所に移す必要がある。
人が死ぬということに対応した社会が成熟した社会。ネット社会はアカウントのこってどうすんの?という問題があるから未成熟。死んだら全部アーカイブだからな。だからリアルタイムでフローして、って最後は終焉するんだよ。はじめから僕はアーカイブ。私有財産派。
たぶん「おもしろそう」とか欲望って、変な奴にいだけるもんだし。その意味で、俺のHPには変な奴感がたりない。もっと音、映像、でアピールしていかないと。だけど公共プラットフォームは利用しない、というポリシーで。

それはそれでもっと、動画アップのスピードも早くないとあかんなあ。


実文
基本的に今、ミュージシャンはなにしたらいいか、わからなくなってるとおもう。何年も。ネットでプレゼンスあげて売ってけばいいのか、それとも・・・というオルタナティブもおもいつきづらい。
以前だったらメジャーにひっかかるようにがんばっていけばよく、それがかなわなかったら地元でやっていく、ということでよかった。
けれどネットの発達によって様々なやり方が出てきた結果、やることはいろいろありそうだけどなにをしたらいいかわからない、効果もどうなんだ、とわかりづらくなった。
メジャーとアマチュアの境もグラデーションがついた結果、逆に「地元でやっていく」というあり方がもはや「なにもしない人」でしかなくなった。アイデンティティがばらばらになった。

「ネットでがんばる」というのもそもそも音楽以外のことを散々考えなくてはいけなくて、そもそもそれが自分のやりたかったことなのか、と悩む人は多いはず。引きこもり気質で(ネットにも出たくない)創作だけをきちっとやって、たまにライブハウスで披露する、というのが俺のやりたいペースである。それがますます通用しなくなった。

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