ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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diary GW

5/3/2017

 
図書館にきた。GW、ゴールデンウィーク。

 『新平等社会』
 モチベーション格差。「希望は努力が報われると感じたときに生じ、努力が報われないと感じたときに絶望が生ずる」勉強しても報われない?勉強努力保障システムのおわり。新しい価値観を「本気で」支援し推進する。

 結局、ひとびとは、あんまり他人を信用しないし、連帯もしない。ほうっておけば孤立して損をかこっていく。モチベーションの格差、と表現されるものもある。


 『ネットと愛国』
 居場所のために。主張よりも、団体というのは「共同体」だ。なぜそこに参画するか。主張と居場所。

 『「生きること」と「死ぬこと」 人はなぜ自殺するのか』
 「自殺の直接動機は、結局のところ価値観の挫折と関係がある。~~どの自殺をとりあげてみても、一つとして同じ自殺はないのである。」


 『90分でわかるサルトル』
 結局、生き方はサルトル的な、あるいは吉本隆明的な、実存主義を強度の根拠としてもつしかなくなってくる。それでAI=人工知能の問題もその展開として理解し、修正として対応したい。「人間性」というものが置き換えされていくとしたら、最後の人間のよりどころはなんだろう?ということは、しかし考えさせられる。それは思考実験だろうか。それとも現実化していく喫緊の脅威だろうか。



 価値観、という外部設定と、実存主体の能動性。それの関係の仕方がどうなのか、という問題。そのぶつかりあい。
 じゃあ、そのぶつかりあいの「舞台」はどこに設定されうる?スケールフリーとスモールワールドのあいだに。誤配を期待して。
 価値相対主義からなにかを主張するものへ。そして評価経済の流脈に対し実存が等価原則をもって抗う。新鮮な「価値観」が生成され、それが維持されるためにコストがかけられなければならない。そのアイデアを生み、つくる。

 在特会でもなく、べてるでもなく、SEALDsでもなく、草の根のミュージシャンの集いかたがなければならない。音楽はなにを主張しうるか。「生身」であること、「ライブ」であることの特性。承認ハードルを下げること。そして承認欲求よりも高い実存的強度をもつためには。単なるなれあいではなく、会員制のようなありかたなのか?僕がみたいのは、既存の技術の優劣をもとにした価値観ではおどろくような、別種の自由さ。別種の表現の力。
 単に「表現の場(機会)」と、それへの賞賛、だけではたりない。やはり、批評が機能することはたいせつだ。ジャーナル、メディア、深掘りする情報。ミュージシャンといえども、歌うだけではアーティスト性を確保するのは難しい。文芸批評的アプローチ、ロッキンオン的?アプローチ、もっと瞬発的な寸評の充実、評の表現はツイッターで間接的にやってもその場でやってもいい。もっと「評する」ことがだいじとおもえる。そしてその評を外部へおくること。もっと誤配を企むこと。
 内部的に、場で場を高め合う工夫、意識。もっと本質的なはなしを交わしたい。交わせる場があったほうがいい。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

18:35
 食楽市場へちょいと。千葉。ぷらぷら。サンマルク。なんというか、モチベーションの管理がきっと必要。書籍ばかりインプットしていると、そっちにばかりいくので、音楽の現場をみたい。音楽の現場でなくても、WEBで確認できる音楽、YouTubeやツイッターやツイキャスや、それなりにある。でも、僕にとっては音楽の場の意味は「知り合いに会える」ことだったりする。
 音楽そのものを楽しみたい、ということと、知り合いに会いたい、というふたつが並行してある。なじみの連中、というのは有意味なこと。そのなかで、もっと成果を出すには、きっと乱暴なくらい深掘りする蛮勇が一瞬いる。

 ゲンロン0をちょいとめくりなおすと、「再誤配」というキーワード。固定しがちな数を偶然性に再誤配する。音楽の場でいえば、ある程度名のあるミュージシャンとの対バン。ひと目にさらされることがおもいうかぶ。現状のままでは格差は固定化。世界にもっと偶然性、流動性、平等性をおもいださせるには、認識と方法がいる。
 ほぼ日、糸井重里とインターン生の対話。人生はスイカ割り?「こっちだよ」の声を間違えないことが大事。いろいろと示唆のおおい対話。基本的には、根っこがだいじ。

 いくつか考えたいこと、というか、常識的にはAだけど俺はBだ、Bの方法でいくんだ、といいたいことがらがある。ライブの方法、ありかた、というのはそれ。「客数」と「演者数」の考えなおし。「ライブにおける成功」というものの考えなおし。現状、ライブに対する考え方は硬直していて、とりあえず動員数以外の成功の価値基準というのは実はあんまりない。それにしても動員数というのはなんだろう。もちろんそれがなければライブハウス自体が成り立たない。しかしただその場限りの人が来ただけでは場は次につながらない。次につながっていく、ということがサスティナブルなコミュニティになっていく。ならば、そこでのコミュニケーションの本質をもっと考えたい。ライブはコミュニケーションだ、という場所ではなにができるか。
 こういうことを考えて、それは実践へと結びつくはずだが、いまはただ考えるだけだ。考えなきゃどうしようもない。僕にとっては「考えるな、やれ」という意見が強すぎたようにおもう。いまの時代の突破口を見つけないといけない。あとは、スイカ割りだ。


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