ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
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5/3/2017

 
 冷静さはロジックに不可欠です。
 客観的になればなるほど、父っぽくなる。病気が顕在化すれば息子よ。
 そのふたつの位相が矛盾し合うので、並立はない。ということは、明晰かカオスか。
 カオスにばっかり挨拶していてもしかたないね、となってくればよい。文字の運びは、なにかが判断する。
 無意識こみで、表現するには詩の言葉がいい。メタファーでなんでもいい。物語性をもてばどこかへいく。どこかにいかざるをえない。

 外在的ななにかが侵入しそうになるのか。その防備反応か。システムが内部で偏りはじめる。整合性をとりたい、無視するか。普段無視しているのか。
 それは「現れている」のか。それとも、自分自身で「生み出している」のか。なにかを「仮に投影している」のか。仮の友敵図式によって心情がのりきろうと、解釈しようとする。そのときその図式はどれだけ根拠をもとめるか。
 いっさいの根拠はない。ぜんぶかりそめである。妄想、幻想である。そうだというと、それは突破口がないかんじになる。根拠をみとめる。そのうえで、突破口を探したいのだが、安易なる突破の試みは成功しそうにない。いや、それともそれはできないのだ。
 いったい心情のトリガーはなにをもって仕掛けられ、解除されるか。その運動をあきらかにしたい。それは理解の助けになる。
 内部へとひきこもりたい心情は、子宮退避願望のようなものか。外部があることそのものが、等しく異和になる。原生的疎外。その領域では、善悪が社会通念以前にもどる。おそらくはテロリズムとは関係ないが、短絡は可能である。それとも、宗教テロリズムとは無関係だがテロとは関係あるかもしれない。秋葉原のものをおもいうかべる。
 行動と無行動。「あること」より「ないこと」が劣っている、という価値序列へ異和する。根本的にそうなってくると、バートルビーのようになる。ひたすら無言だ。一人の人間はなにを表現しうるか。バートルビーは無行動は行動と拮抗しうる、ということを表現した。本来、どこかにそうした心情は隠されているとおもう。どんな運動体にも。


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 競合ゲームを勝ち抜いても競合ゲームの構造は変わらない。競合ゲームを競合でない、別様のやりかたでプレイする、というときはじめてオルタナティブはあらわれる。それは批評ゲームかもしれない。協同ゲームかもしれない。
 表現ゲーム、をおもう。べてるの方法がそれにみえた。なにをやっても優劣ゲームに移行するだろうが、本質、はじまり、ゼロ点が近く、いつでも戻れるようであればいい。北初富にそれに近いものがみえたきがした。千葉近辺では少しちがう。もっと距離があり、なにか媒介している。それは東京-地方という関係、あるいは東京-郊外という自意識なきがする。千葉というのはアイデンティティが薄いとおもう。固有の土地、というより、埋め立て地が多いし。マザースというライブハウスはまったく知らないけど、ルックだって30年弱で、それ以上の歴史は千葉ではたどれない。といっていまからなにかやれるほど可塑性ものこってない感じがする。
 もっと本質的なはなしをおもいだそう。人にとっての人生のスケール、それが場においてどう対応づけられるか、だ。つまり、人の死にその場はどう対応するのか。ライブハウスという場にとっても、そういうことは考えられていないと、人間の一生以上のスケールはみえない。
 「いま」だけみてても、狂う。スケールをもっと考えてから、共同性を考えないと。伝統的な田舎は当然それができている。近代以降はそのスケールが狂いはじめて、落としどころがわからない。本質的な解決を見いださないまま、AIなどの次のテクノロジーでなんとか疑似解決しようとしている。すこし考え直したい。

 相対性→否定神学 でなく 相対性→肯定人間学 を。
 人間の相対性が、各人の相対的無価値へとつながるのでなく、相対的有価値へとつながっていく通路を構想する。


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