ヌマケン ((沼田謙二朗のWEBサイト))
  • home
  • diary
    • diary2022-05~12
    • diary2022-03~04
    • diary2022-01~02
    • diary2021-12
    • diary2021-11
  • poem
  • review
  • lyrics
    • 小さな歌
    • 星とおでん
    • 三千年紀の鳥
    • 震災の後で
    • 愛してた
    • とあるミュージシャンの話
    • 空の梯子
    • フェスティバル
  • blog
  • past
  • about

think

4/29/2017

 
 出会いは偶然、別れは必然。10代、20代、偶然の経験、自分の判断でそれと距離をとったり。文学は後ろ歩きで前に進む、いいかえれば必然を重視する。
 ただ、偶然が生ずるのは条件がいる。誰が偶然を用意したか。親、社会環境、自分の選択。
 30才になる日というのは、偶然を重ねたうえで自分がなにを選択するか。もう処女性はない、そのうえでの選択は、自分自身の必然をおりこんだものになる。
誰の30才も祝福されていいように。その人の必然をみとめる。
 ただこの「必然」もだんだん単純なものになっているのかもしれない。文学を軸にみれば明らかに単純になっている。宮台がいうように高次的から低次的へ。それは、意識の退化か。
 意識が高次的であるとは、いかなる時代への準備適応だったのだろうか。かつての文学はなんのために重みをもっていたのか。敗戦の重み?戦後のねじれと高度成長の苦悶?
 なにはともあれ、そういった戦後文化の「子供たち」たる僕らは、その意識をもって、いまなにをなすべきか。その意識が生き延びていく道を探るのか。それとも意識は絶滅するか。
 「これからはコミュニティ・ファーストだ」なんていったって、いい景色が想像できない。
 東浩紀がいう「敵の似姿にならない」はとても共感。けれど僕はそうしてきて、それをある種逃げ口上にも使ってきた。そのことの反省もある。どこからどこまでが敵であり、どこまでが自分も使っていい範囲なのか、などの整理は必要だ。ただ、やはり高度であることを真正面から試みる、という姿勢が、回り回って一番有効だというかんじがする。それは『ゲンロン0』もそうだろう。
 これができるのはポストモダニストの意識を生きてきたゆえだろう。根本的な必然性を自らに問うくせがあるから。そもそも、なぜそれをするか。そもそも、そもそも。「そもそも」を言わなければならないし、それをどれだけ説明できるか、問うてきたか。


 文学でも音楽でも、重要で高度なことを伝達できるとおもう。そのことを忘れてもあきらめてもいけない。逆にいえばわりと勝手にあきらめてるのかもしれない。ほんとに高度なことを試みたためしがあるか。方法論ばかりで、いかに勝つかというゲームだけしか見えないようになっているのは、おかしな話なんだ。
 そこらへんが「誤配」ということにつながってくるだろう。かつて「はじめての中沢新一」なるコンテンツがほぼ日にあったが、ああいうのがおもしろかった。ああいう誤配って、ほぼ日は誤配のサイトだった。ああいう誤配はいまない。それが「信用」だろうか。なにかが微妙に、けれど決定的にちがうのではないだろうか。
 一瞬誤配で夢をみれた時代があったのだ。それを知れたのは幸運だったとおもうしかない。
 時代の方向性を修正するというか、かつてあった可能性をもういちどやる、というような。そんな試みもみたい。あっていい。なにが潰えたか。民主党政権、震災前後で決定的になってしまったかな。



 哲学にできること。いま支配的なゲームとは別のゲームを構想する。あるいは支配的なゲームを相対化する。『ゲンロン0』のような本。批評や思想はそうだろう。たぶん、近代社会のバランスとしては経済の上位に知識人がいたほうがいい。経済は「動物」の世界で「自然状態」である。いつでも上からの、人間からの視線がなければ、自然状態は全体化されるのみである。ボス猿が権益をもつのみだ。
 哲学も「話」だった。書かれたもの以前に話されたこと。話す、ということは重要だし可能性がある。


 そもそも論がもっとも大事。なぜ、意識は高次化されねばならないか。いや、ねばならないということはないのだ。けれど、人間は本来複雑な存在で、その実存が満たされるためにはそれ相応の手続きが必要とされるはずなのだ。「動物的な人間」が前面に出ていたら、目の前のエサを無限循環で食い続けるようなサマもありうる。それをやめる。さける。さけたうえで、自分自身の実存のもっとも問題となる部分へ目をやる。
 そういった営みは高次化された意識が備わってないとどだい無理な話だ。では「自分自身の実存のもっとも問題となる部分へ目をやる」必然はなぜあるのか?
 こういった問いに答えきるのはむつかしい。「人間」を「近代的自我」ととらえてまがりなりに培ってきた僕のことばも、端的に古くさいかもしれない。
 それは自分の「偶然の条件」ですね。つまり、どこに生まれ、どういう親のもとで育ち、誰と出会い、なにをおもい、どんな環境をもつか、というもの。そのいくつもの条件のぜんぶが自分という人間の固有性をかたちづくるわけです。そこから文学的な意味での可能性というのは出立するはず。
 こう考えると、誤配というのは、つまり「偶然の子ども」をもつには、高次化された意識がないといけない。ひらたくいえば芸術家、表現者になるには意識が貧弱じゃお話にならないということになる。
 ここらへんのことは「大衆の原像」とからめてよくよく肝心なところ。いつまでたってもむつかしいところ。

 意識がない、動物、宮台のいう説明も納得するが、一方でメタ意識のようなものが上がっている領域もあるとおもう。メタソング、自虐、高次化された意識がおりこまれたサブカルチャー。ただ、身体反射に近いものがおおく、そこから大きい話になかなか展開しない。
 高次化された意識は本来、大きい話に向かうものだった。それが身体感覚に閉じてしまった。最果タヒを思い出す。いまの時代における文化のありかた。詩、というよりは、なにかもっと別な、、、。
 大きい話をする人、大きい話のできる場がないと、大きい行為もできないし大きい問題も解決されないのだ。これがおもいあたる重要問題。高次化→大きい話→問題解決。誰かが問題に対処しなければならない。いままで誰かが問題に対処してきた。いまこれからそれがいなくなるのか?だとしたら未来はこない。

コメントの受け付けは終了しました。

    Categories

    すべて
    Diary
    Poem
    Think

    Archives

    5月 2018
    4月 2018
    3月 2018
    9月 2017
    8月 2017
    6月 2017
    5月 2017
    4月 2017

© numa-ken.net
  • home
  • diary
    • diary2022-05~12
    • diary2022-03~04
    • diary2022-01~02
    • diary2021-12
    • diary2021-11
  • poem
  • review
  • lyrics
    • 小さな歌
    • 星とおでん
    • 三千年紀の鳥
    • 震災の後で
    • 愛してた
    • とあるミュージシャンの話
    • 空の梯子
    • フェスティバル
  • blog
  • past
  • about