今日は ・今日はきのうの疲れがあり、特に目が疲れていて、しぼしぼ。またしてもいつもながらに、書き方にぶつかりあれこれ試行錯誤することに。もういいかげんこういうのも、もっとスムーズにいきたい。 なにかを伝達するためのブログじゃない、ということである。自分のために書いているのか。自己表出とめぐりあいたい。ここらへんは、微妙とおもわれるかもしれないが、でも詩というものは僕にとってそういう傾向のもので、自分の独り言のようでいて、そこに存在意義がある。 そういうことはなんとなく示しておきたい。 ((誰かになにかを、伝えるか?)) 「聞いてくれてありがとう。また、見てくれたらうれしいと思います。あの人もかっこいいよね(笑)もっとよくなるようにがんばります!」
ああ
ちきしょう ちきしょう ちきしょう というわけで今日はこれまで あほです
あふぉです あほうです 鏡が目の前にあって、それは、PC操作の本もあり、ながらも頭の中は、まだ眠りのなかに、もどりたかったから、しょうもないミステリ感覚のなかに、いくならそれもラクだなと、おもいながらもいまこうしてる。 あほで あふぉです あほうでーすー ・えーまあ、なんということだったっけ?あれが言いたい、これが言いたい。うかつにはじめてうかつに終わる。今日はうかつで、明日もうかつ。これでいこう、これで。
どうやって楽しみを構築するか、ということなんですね。 まず、楽しまなきゃあしょうがない。楽しくて、まじめ、というのが理想。楽しいだけでまじめになれないのは、少し物足りないのだ。 カオス。オウム。心の中が泡立って。
て、て、て、て。 カオスがやってくると、というか、カオスのなかに突入すると、そこはオウム的な、というかそれは単に連想のアレだけど、心が泡立つ。ようだ。言語を整理するのに時間がかかる。時間がかかるということは時間が要る。時間をつくるか盗まないといけないのだ。 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』
生成。卵。流れ。なにか固有の止まった固定的記名、でなく流れ。僕たちは流れ。常に。「最終的になになにになるんだ」とりあえず吹聴できるステータス、固定的な状態、達成、のようなものを重視すると、今度は流れ、連続性を分断しがちになる。 ポストモダン思想は役に立たないとおもっていた。それは破壊的で「人間」の諸価値を無化するようなもので、それだから敬遠していた。でもちがう。それはもっと時代の表現で、時代に応じたものの考え方のおおいなるヒントになる。そんなかんじに思えるようになってきた。ゲンロン0を読んだ効用で前提が整理できた感がある。それらは案外生き方を教えてくれる。つまり、無駄に怖がらなくていいし、こう考えれば前向きになれる、ここに突破口がある、みたいな風に。時代を先取りして、いま現れている問題、課題に答えようとしていた、そうともいえる。 あとはアイデンティティの問題。これに答えるには、吉本思想やサルトルの思想のようなものが、役に立つといえる。 僕は2012年まで糸井重里(ほぼ日)-吉本隆明のラインの言説に影響を受けてきた。そこでは左翼の内ゲバに至らないための自戒のようなものが強調されていた、ようにおもう。常に「いいことをいわない」とか、「無価値の価値」とかが言われ、「強いことを言ってみんなを従わせる」ことをさける注意みたいなものが常にあったように思う。それらは糸井さんの感性でありこだわり、あるいはトラウマ?に基づくものだった、たぶん。 糸井さん、ほぼ日から切り離した単体の吉本隆明はどうか。それはけっこう、単純なじゃない。ある意味、矛盾してるんじゃないか、ということを言っているようにもおもう。読み手によってイメージが変わる。宮台真司らが特に言う吉本隆明のポストモダン状況への感度の鈍さ、は、確かにそうともいえるけれど吉本思想、あるいは吉本文学とか吉本世界の全体性の一部をあげつらってる、とも同時にいえてしまう。露出が多いのだ。別にテレビによく出てたとかではないけど。出した本が膨大で、特に90年代、00年代以降はばんばん出してたんじゃないか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー #2017/05/09 13:08 当事者としての自分は、弾き語りをやっている人間で、ライブをやる人間で、ということになっている。でも一般的な意味で批評意識は有意義だ、ということ。 石川さんのNewsPick興味深い。うかつにはじめない、おわらない。まあうかつにはじめたりすることもあっていいんだろうとはおもうけど。ただ準備、ふりかえりはたいせつだ、ということ。 生成すること。流れがたいせつだ、ということと、それでもやはり人間は区別しながら認知するはずで、その機能が意味を認識させてもくれるはずだ。まあ両方が大事ということになる。 今日は休日であるからして「ちはら台ユニモ」にて本を物色。さまざま興味深いことがらを立ち読む。一冊も買わず。
サド、マゾ。変態。欲望。享楽。俺ってどう見られてんのかなー、てゆうかあいつまじキモい、なに息してんだよハゲ、、、こういった循環のなかの人間の関係性のトリック、とりこ、享楽の循環の自己解釈をわがものとし、もっと平易にがんばってこう。とおもった。 「どう遊ぶか?」「いかに楽しむか?」「自由になれるか?」「そこでリスクはどう見積もるか?」、、、などといったテーマがあり、それらについて、いまの感触だとかなり無責任になってきている。どうでもよい。どうでも、よい、と言えることはかっこいいね、とか感じていられるとしたらそれも享楽の一種だ。立派なんだ。なにを言っても立派。 なにを言ってもやってもぼくたち結果中途半端、という題名。なのだから、気張らず、半端さを折り込んでいこう。本は半端にしか読めない。つまみ食いしかない。道は極まらない。上には上がいる。そして下にも下がいる。横にもいろいろいる。失過した、とかいちいちおもうな。 一番の思想とそれ以外の思想。肯定的になるために二重構造を利用しよう。元気の出る思想。サルトルの実存主義を勝手に自己解釈して元気になろう。元気になれることが重要だ。とりあえずそれは正しい。 そんなことを考えていたら、もっと積極的な自由=パロディも問題になってきた。ソローキンという人は過激に実在人物(スターリンとか)をパロってた。さて、いま、安倍さんと、誰でもいいけど稲田朋美、櫻井よしこ、長谷川三千子、、、などといった人物、こういう人たちが乱交したりSMプレイしたりする、みたいな文章を書いたらそれは炎上するだろうか。そもそも、そういう種類の文章はわりと使い古された文学手法かも。とおもうけど、逆に、そういう文学も許されないとしたら状況としてどうだろう。少なくとも、そこには勇気か野蛮か無謀かがないとできない感じのなにかがある。 状況は非常に細かく、面倒な次元にまでおよんでいるように見えて、公人か私人かとか(稲田朋美はいいけど櫻井よしこ、長谷川三千子はNG?)、名誉毀損の問題、人権、それから表現の自由などなど、ぶつかりあって矛盾して落としどころが見つからない。筒井康隆の慰安婦像についての筆致など、炎上するとそこに「問題」があるように思えてくるが、本来たいしたことじゃなかったのかもしれないともおもう。(東浩紀は日本語圏だけで読まれる場合と、韓国語圏でも読まれる場合で意味合いがちがう、ということを宮台との対談の質疑応答でちらっと言っていた。つまりコードの差異で表現のアリナシは変わる、ということだろうか。) 当然、ほんとうに何をしても何を言ってもオッケー、許される、ということではない。たぶん。いや、文学の世界の内側においては何を表現しても自由なはずだろう。けれど公共的には異なる。そこで異なる次元が重なり合っている、ように見るか見ないかの立場でも変わってくるだろう。 ではどう線引きすればいいか。というか、線引きはどうなされるか。線引きするのは世間であり大勢だ。じゃあ個人の表現者はどう自分の表現をチェックすればいいのか。ということは当然気になる。そこを何も考えないとなると、無謀になるか、コードの範囲内で無難になるかしかない。 無責任になる。いっそ無責任になる。最終的には、無責任。それも一種の決断主義か?まあ考えても埒あかぬからやっちゃえ。やってみよう。いってみよう。 加害がある。被害もある。そして加害や被害にセンシティブになりすぎると、観光はできない、というのも現実である。人は人に迷惑をかけないと生きていけない。そもそも生きていくのに他の生命体を食している。命を奪って我が命を延長しているのだ。ただそういう加害は目に見えない=無意識化されている。 |