冷静さはロジックに不可欠です。
客観的になればなるほど、父っぽくなる。病気が顕在化すれば息子よ。 そのふたつの位相が矛盾し合うので、並立はない。ということは、明晰かカオスか。 カオスにばっかり挨拶していてもしかたないね、となってくればよい。文字の運びは、なにかが判断する。 無意識こみで、表現するには詩の言葉がいい。メタファーでなんでもいい。物語性をもてばどこかへいく。どこかにいかざるをえない。 外在的ななにかが侵入しそうになるのか。その防備反応か。システムが内部で偏りはじめる。整合性をとりたい、無視するか。普段無視しているのか。 それは「現れている」のか。それとも、自分自身で「生み出している」のか。なにかを「仮に投影している」のか。仮の友敵図式によって心情がのりきろうと、解釈しようとする。そのときその図式はどれだけ根拠をもとめるか。 いっさいの根拠はない。ぜんぶかりそめである。妄想、幻想である。そうだというと、それは突破口がないかんじになる。根拠をみとめる。そのうえで、突破口を探したいのだが、安易なる突破の試みは成功しそうにない。いや、それともそれはできないのだ。 いったい心情のトリガーはなにをもって仕掛けられ、解除されるか。その運動をあきらかにしたい。それは理解の助けになる。 内部へとひきこもりたい心情は、子宮退避願望のようなものか。外部があることそのものが、等しく異和になる。原生的疎外。その領域では、善悪が社会通念以前にもどる。おそらくはテロリズムとは関係ないが、短絡は可能である。それとも、宗教テロリズムとは無関係だがテロとは関係あるかもしれない。秋葉原のものをおもいうかべる。 行動と無行動。「あること」より「ないこと」が劣っている、という価値序列へ異和する。根本的にそうなってくると、バートルビーのようになる。ひたすら無言だ。一人の人間はなにを表現しうるか。バートルビーは無行動は行動と拮抗しうる、ということを表現した。本来、どこかにそうした心情は隠されているとおもう。どんな運動体にも。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 競合ゲームを勝ち抜いても競合ゲームの構造は変わらない。競合ゲームを競合でない、別様のやりかたでプレイする、というときはじめてオルタナティブはあらわれる。それは批評ゲームかもしれない。協同ゲームかもしれない。 表現ゲーム、をおもう。べてるの方法がそれにみえた。なにをやっても優劣ゲームに移行するだろうが、本質、はじまり、ゼロ点が近く、いつでも戻れるようであればいい。北初富にそれに近いものがみえたきがした。千葉近辺では少しちがう。もっと距離があり、なにか媒介している。それは東京-地方という関係、あるいは東京-郊外という自意識なきがする。千葉というのはアイデンティティが薄いとおもう。固有の土地、というより、埋め立て地が多いし。マザースというライブハウスはまったく知らないけど、ルックだって30年弱で、それ以上の歴史は千葉ではたどれない。といっていまからなにかやれるほど可塑性ものこってない感じがする。 もっと本質的なはなしをおもいだそう。人にとっての人生のスケール、それが場においてどう対応づけられるか、だ。つまり、人の死にその場はどう対応するのか。ライブハウスという場にとっても、そういうことは考えられていないと、人間の一生以上のスケールはみえない。 「いま」だけみてても、狂う。スケールをもっと考えてから、共同性を考えないと。伝統的な田舎は当然それができている。近代以降はそのスケールが狂いはじめて、落としどころがわからない。本質的な解決を見いださないまま、AIなどの次のテクノロジーでなんとか疑似解決しようとしている。すこし考え直したい。 相対性→否定神学 でなく 相対性→肯定人間学 を。 人間の相対性が、各人の相対的無価値へとつながるのでなく、相対的有価値へとつながっていく通路を構想する。 なんだか妙に疲れを覚えて、きょうは休みだったけれど寝てしまった。こういうときはだいたい精神的にも詰まった感がある。
朝から昼に「スマホで朝生」なる番組をYouTubeでみた。3月の放映分。AIについての議論。堀江貴文と落合陽一などが出演。 AIについての知識。それへの考え方。AI危機論。人文知や既存芸術との折り合いでつい考えてしまうが。 いやでもよくてもAI技術は発達して生活にも更に入り込んでゆく。社会で存在感も増してくるし影響力も増してくる。 宮台真司がいう「主体」というのとかかわること。いま、僕がこうして考えて書いていることも、脳科学的に解けるしAIやビッグデータのリソースとしても解ける、として、「文学」の有効性はどうなるだろう。「自己表現」というものの、そもそもの有効性は、普遍的な価値にかかわるなにかではない、ということになるか。 AIに関する議論は整理が必要だとおもう。 さんざん、いろんな人の「ライブ」を見てきた。彼らがステージ上で歌う、そのとき、彼らはなにをしているか。それはとても生身な行為で、その限りでAIには代替できない。人間が人間であったという歴史、古代からの音楽のコミュニケーションの歴史というものもたぶんある。 AIは、ラクさせてくれる。目の前に作曲してくれるAIがあったら、とりあえず使うだろう。出てきたものが良いか悪いか判断するのは僕だ。 そこで失われるものがあるとしたら、吉本隆明的な考えでいけば、やはり沈黙にかかわるはなしだとおもう。 書道というのは筆跡をみるんだ、というはなしを聞いたことがある。そこに書かれているカタチをみるのでなく、むしろ筆者の筆のはこび、書くときのいきおい、なんかをみるのが書道の鑑賞なんだ、と。つまり結果でなくプロセスをみる、想像するんですね。 となると当然、AIにはプロセスがその意味で「無い」のだから、その分だけ「つまらない」。これは、芸術的価値にかかわるとおもう。ただ、じゃあその「プロセス含めて鑑賞する類いの観客はどう確保するか」という問題。ゲンロン4のことばでいえば、「批評というゲーム」が機能するには観客が要る。批評は観客を要請する。だからみんな、観客になれよ、と。 観客がいることで芸術の場が保たれて、再生産可能になり、それが文化になり、人間社会に根付いてゆき、局面で物事の是非を考える能力になったり、感情の豊富さになったりする。文化にはいろいろ、良い面があるはずだ。 最近おもうのは、「文学なんて役にたたねえ」「でも役に立たねえからいいんだ」という意見の退き。吉本隆明はそう言っていた派。この段階では、「役に立つ」「役に立たない」ということばの使い方がいまと変わってきたのだとおもう。高次産業社会より前の感覚なのかな。つまり食う食わないに関係ねえ、ということ。だけど人間に必要な、人間たらしめているなにかだ、と。 こういう言い方から、背景が変わった。文化芸術の有効性を文化芸術自身がアッピールしないといけなくなった。自らの必要性、必然性を自己証明しないといけないんですね。価値相対主義において。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 30才は成人式。「成人式」が行われるようになったのはいつ?そのときの平均寿命といまとの比較。 べてるの家の当事者研究。研究というと公へ提出するもの、というニュアンスが濃くなり、それがいいのだ。「自己反省」だとまだ内側にとどまる感がある。社会化への道筋がつくことが突破口になる。 生まれたことに意味がある、と人間がいえるか。個々人がそういえるか。時代が変わっても、AI時代になっても、その条件は変わるだろうか。生まれ、生きたことに価値を見いだす考えが深まっていかないといけないだろうが、今後の状況に対応しないといけない。条件は変わる。近代意識を更新する必要があるということだ。それは当然のことで、でもうまくやられていない。必要なことはまだまだ手つかずのままとおもえる。 ステージに立つ、歌を歌う、ということは、けっこう不思議なことだ。これは、なんだ。ある種の憧れゆえか。そうかもしれない。この「歌」というもののメッセージに、別様のなにかを込める試みをやりたかった。間接話法でイメージをつくる。可能性を出現させる。 ある理想の場の状態。理想の場のイメージがなんとなくあって、そこに近づきたい、という願望がある。それを追い求めているともいえた。理想の場はじゃあどんな条件に依っているだろうか。それは僕にとって「生きやすい場」ということがはじめにもとめられる。誰であっても「自分にとって生きやすい場」をもとめるだろう。さらに、挑戦的でなくてはいけない気がする。これは自分の資質の延長線上で、自分の得意な挑戦ということになるだろうか。自己暴露だって挑戦だけど、とくいなことかもしれない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「苦労を取り戻す」か。 正義と悪が、反転しますよ。それは、かくされたなにかの結果で。 具体的になろうとしないので、それはポエムたるのだった。 いいか、悪がはびこっている。 いいか、正義が悪をやっている。 正義が悪いんだ。みんな正義が悪い。 ポエムだけ。やりかたはポエムだけ。 いや、もっと、具体に、、、。 そうなるときは散文だった。 散文の先に、他犠牲的な暴露があって、、、。 私小説は破壊する。 まず、破壊衝動。 悪が正義になるだろう。 悪が正しいからだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 例をあげたい。なんだろう。世にも奇妙な物語。つまりなんだろう、常識というか、自民党の憲法草案。あれの家族愛、素朴なことを議員さんはいうが、そういったものの悪性だ。 過去も未来も無視したいまへ。 素朴なことを僕もいいたい。意味が不明瞭でもいい。意味が不明瞭で、それはでっちあげない。意味が不明瞭とはなんだろう。 さけていて表現していて、それはマシュマロマンのような体躯で。精神運動の普遍性にくらべれば彼の理屈なんて人工的な蝋細工にすぎない。人間として生きていくことのいくつかの困難な側面をスルーするか否か。スルーする技術、スルーすること自体の是非。 話が通じないので、こころがそれだけ壊れ疲れた。壊れ疲れたことをつきつけたいので公にそれを公表しようかとおもった。おもいうかぶリベンジポルノ。犯罪への共感と理解の契機はあるのだが。 人殺しは善である。テロの人たち、そう教える教育効果があるとおもう。それはイメージの段階からくる。反転する。価値を反転することに惹かれるのは、価値を憎むからだ。 少し混乱している。おちつこう。おちつきたくない。いいか、善悪とか倫理とか、それが主張されるときは当人の当事者性が肝要だぜ。どこから言葉を発しているか。僕は、精神の言葉が、ポエムになるとき、現実はかっこに入るんだ。善意の人間は悪い。そうとしかおもえない。 曲がり角に来た。電柱。ぶつかると、ごん。すべて世界がまんがになる。一時避難所としての低次空間。昔のファミコン、ドット絵。 自分の発育とともにゲーム機も性能があがって。そういう意味での同時代性はテレビゲームが一番ある。新しい技術、ハード、それはわくわくするものだし、期待と希望があるもの。 ときどき、スパロボをやりたくなる。あれは、アニメごとの文脈があって、機体や操縦者に感情移入した。物語性があった。そういうもの。そういうものを動かすこと。赤い敵がいて、最適手順で倒すこと。経験値、獲得金を最大限もらうこと。機体や操縦者を強化すること。 指先の操作で世界を制覇し勝利できた。それは「成功体験」と呼べるだろうか。ゲームのなかでの苦労は苦労と呼べるだろうか。そうでなかったら、それはなにであって、なんの時間だったろうか。 なぜ、人は、自分の世界観を人におしつけようとするだろうか。それは善意だ。善だからだ。もうすこし、自分を疑ってみたほうがいい。違う視点で考えてみよう。僕が反論したとして、それでも、話が通じない、またふりだしにもどる。 話の仕方が悪かったろうか?文書にしてのこそう。外交文書のように明確に書こう。文書を基点にしよう。また話すときは文書をふまえてやろう。 しかし、悲観的なことばが必ず正しいとはかぎらない。むしろそれもバイアスがかかっている。現実がこうなったことへの反応としての悲観主義化という側面もあるか。現実を肯定しつつ道筋をみいだしていく類いの思想はいまありうるか。それはリバタリアニズムになっちゃうのか。
マストドンはどうかしらないが、とりあえず自分の空間を広げるというのが目下やるべきこと。ツイッターはだから利用したい。HPとツイッター、かな、いまのところは。WEB空間はそれでいい。YouTubeもそろそろあげたい。サウンドクラウドもやらないとミュージシャンだと思われないな。 そうするともっと野心的な作品もつくりたくなってくる。ちょいと前はそういった意欲もあったけれど、今年になってからは純粋に真面目に考えることが多い。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今日は仕事がイベントで、だからリズムがおかしい。帰ってきてからブックオフに行き3冊購入。「シリーズケアをひらく」の『当事者研究の研究』がよさそう。これは、ミュージシャンにも適用できる、というか自分にも。俺の当事者研究。 「具体的な自分の実感をことばにすること」というくだり。そこに、ポエジーも宿るとおもえる。心の動きを記述。身体の反応をことばにする。 自分がその場にいられない、なんとなく疎外されたような、胸のあたりが落ち着かなくって、ひとりにならないといけないけどひとりになりたいわけじゃなく、ほんとうは共有できればいいのだけど、共有はしたくないしできない。そういう場面がある。そういうとき、それはこらえ忍ぶしかないのだけど、その体験をことばにすることができたら、なにかの一歩にはなる。事後的な共有への一歩になるかもしれない。人間とは、表現することによってつながりうる存在なのだ。 すべての本は表現だ。この文章もしかり。書き手はなにがいいたいか。なにを欲しているのか。メタメッセージとメッセージ、あるいは本音と建前。 SNSやら、いまどきのべき乗世界、スケールフリー、資本のそれに向かいあってこちらの心がくらってしまうとき、そこにも具体的なことばの表現余地がある。それらはまだ表に出ていないかもしれない。SNSがむかつくんだ、なんて、言ってみてもいいはずだけどそれも紋切り型と受け取られる。紋切り型ではない通路を経なければ。 いまビデオニュースの更新メールが入ったけど、ビッグデータに支配されないために、か。たとえばこうやって書く僕の文章によって僕の人格データが蓄積され、ネット履歴によって蓄積され、購入履歴、入力した単語、クリックしたいいねによって蓄積され、会社や政治?に利用される、というようなイメージだろうか。僕たちは動物だ。管理されている。こういう現実認識から「抵抗」のモチーフも生まれてくる。ただどこまで妥当かよくわからない面もおおい気がする。 「肯定する思想」というもので、未来性ある議論は不可能だろうか。それは間違いの素だろうか。最小単位なら肯定できる、ものもあるとして、それを出発点にできるならば。 歴史はかなり進んだ。人間社会は後期だ。というわけで、「ゼロ点」が見いだしづらい、ということはないか。当事者研究的方法でゼロ点が確認できるのでないか。べき乗でなく正規分布、ビッグデータではなく生身、そっちにもう一度ものさしを合わせなおす。 こういったことも散々言われ続けていることにすぎないかもしれない。ただ実存(の安定継続可能性)に必要な現実認識は、そこにゼロ点が含有されてないといけないとおもう。骨がなく服を着てボロボロくずれる、ということがないように。 出会いは偶然、別れは必然。10代、20代、偶然の経験、自分の判断でそれと距離をとったり。文学は後ろ歩きで前に進む、いいかえれば必然を重視する。
ただ、偶然が生ずるのは条件がいる。誰が偶然を用意したか。親、社会環境、自分の選択。 30才になる日というのは、偶然を重ねたうえで自分がなにを選択するか。もう処女性はない、そのうえでの選択は、自分自身の必然をおりこんだものになる。 誰の30才も祝福されていいように。その人の必然をみとめる。 ただこの「必然」もだんだん単純なものになっているのかもしれない。文学を軸にみれば明らかに単純になっている。宮台がいうように高次的から低次的へ。それは、意識の退化か。 意識が高次的であるとは、いかなる時代への準備適応だったのだろうか。かつての文学はなんのために重みをもっていたのか。敗戦の重み?戦後のねじれと高度成長の苦悶? なにはともあれ、そういった戦後文化の「子供たち」たる僕らは、その意識をもって、いまなにをなすべきか。その意識が生き延びていく道を探るのか。それとも意識は絶滅するか。 「これからはコミュニティ・ファーストだ」なんていったって、いい景色が想像できない。 東浩紀がいう「敵の似姿にならない」はとても共感。けれど僕はそうしてきて、それをある種逃げ口上にも使ってきた。そのことの反省もある。どこからどこまでが敵であり、どこまでが自分も使っていい範囲なのか、などの整理は必要だ。ただ、やはり高度であることを真正面から試みる、という姿勢が、回り回って一番有効だというかんじがする。それは『ゲンロン0』もそうだろう。 これができるのはポストモダニストの意識を生きてきたゆえだろう。根本的な必然性を自らに問うくせがあるから。そもそも、なぜそれをするか。そもそも、そもそも。「そもそも」を言わなければならないし、それをどれだけ説明できるか、問うてきたか。 文学でも音楽でも、重要で高度なことを伝達できるとおもう。そのことを忘れてもあきらめてもいけない。逆にいえばわりと勝手にあきらめてるのかもしれない。ほんとに高度なことを試みたためしがあるか。方法論ばかりで、いかに勝つかというゲームだけしか見えないようになっているのは、おかしな話なんだ。 そこらへんが「誤配」ということにつながってくるだろう。かつて「はじめての中沢新一」なるコンテンツがほぼ日にあったが、ああいうのがおもしろかった。ああいう誤配って、ほぼ日は誤配のサイトだった。ああいう誤配はいまない。それが「信用」だろうか。なにかが微妙に、けれど決定的にちがうのではないだろうか。 一瞬誤配で夢をみれた時代があったのだ。それを知れたのは幸運だったとおもうしかない。 時代の方向性を修正するというか、かつてあった可能性をもういちどやる、というような。そんな試みもみたい。あっていい。なにが潰えたか。民主党政権、震災前後で決定的になってしまったかな。 哲学にできること。いま支配的なゲームとは別のゲームを構想する。あるいは支配的なゲームを相対化する。『ゲンロン0』のような本。批評や思想はそうだろう。たぶん、近代社会のバランスとしては経済の上位に知識人がいたほうがいい。経済は「動物」の世界で「自然状態」である。いつでも上からの、人間からの視線がなければ、自然状態は全体化されるのみである。ボス猿が権益をもつのみだ。 哲学も「話」だった。書かれたもの以前に話されたこと。話す、ということは重要だし可能性がある。 そもそも論がもっとも大事。なぜ、意識は高次化されねばならないか。いや、ねばならないということはないのだ。けれど、人間は本来複雑な存在で、その実存が満たされるためにはそれ相応の手続きが必要とされるはずなのだ。「動物的な人間」が前面に出ていたら、目の前のエサを無限循環で食い続けるようなサマもありうる。それをやめる。さける。さけたうえで、自分自身の実存のもっとも問題となる部分へ目をやる。 そういった営みは高次化された意識が備わってないとどだい無理な話だ。では「自分自身の実存のもっとも問題となる部分へ目をやる」必然はなぜあるのか? こういった問いに答えきるのはむつかしい。「人間」を「近代的自我」ととらえてまがりなりに培ってきた僕のことばも、端的に古くさいかもしれない。 それは自分の「偶然の条件」ですね。つまり、どこに生まれ、どういう親のもとで育ち、誰と出会い、なにをおもい、どんな環境をもつか、というもの。そのいくつもの条件のぜんぶが自分という人間の固有性をかたちづくるわけです。そこから文学的な意味での可能性というのは出立するはず。 こう考えると、誤配というのは、つまり「偶然の子ども」をもつには、高次化された意識がないといけない。ひらたくいえば芸術家、表現者になるには意識が貧弱じゃお話にならないということになる。 ここらへんのことは「大衆の原像」とからめてよくよく肝心なところ。いつまでたってもむつかしいところ。 意識がない、動物、宮台のいう説明も納得するが、一方でメタ意識のようなものが上がっている領域もあるとおもう。メタソング、自虐、高次化された意識がおりこまれたサブカルチャー。ただ、身体反射に近いものがおおく、そこから大きい話になかなか展開しない。 高次化された意識は本来、大きい話に向かうものだった。それが身体感覚に閉じてしまった。最果タヒを思い出す。いまの時代における文化のありかた。詩、というよりは、なにかもっと別な、、、。 大きい話をする人、大きい話のできる場がないと、大きい行為もできないし大きい問題も解決されないのだ。これがおもいあたる重要問題。高次化→大きい話→問題解決。誰かが問題に対処しなければならない。いままで誰かが問題に対処してきた。いまこれからそれがいなくなるのか?だとしたら未来はこない。 いま朝。ぼーっとする。風呂にはいった。出来事を淡々と。それが詩のあわいになる。なにかを予測して事前に恐れるこころというのはなかなか離れない。それでも待っていれば時間がすぎていく。
------------------- 内向きのまま、外に出る、という姿勢がいいんだろうな、自分には、とおもうた。外に出る、外向きになる、と、外に合わせる姿勢になる。それはちがった。 たぶん、自分の「仕事」をストックさせていく意識でいければいいんだ。フローのなかで最大の効果を狙う、というのでなく。 昔のWEBはそうだった。おおむねホームページというのはアーカイブするものだった。「電脳的漫画論」とか(マンガ批評サイト)よく参考にしてマンガを買った。 いつしか拡散し動員するためのWEBばかり目立ってきたけど、本来もっと勝手にやっているというか、個人的なストックコンテンツを公開する、というところにおもしろさと自由度があったようにおもう。 昔のWEBは好きだったし、おもしろかった。いまはWEBも社会そのままというか、むしろWEBが社会というか、評価経済的な性質がとにかく全面的に前面に出ていて、それがつかれるし、異和する。 昔がよかった、という話ではない。昔の方法をいまやってみると、いまだからこそおもしろくなる、というアイデアの話だ。現状追認と先取りの競争だって、本来の倫理的な正当性が備わっているわけじゃない。わけじゃないのに、人はそれを正当だとおもいたがる。そこに関してはオルタナティブでありたいとおもうし、そうでなくてはならないだろう。 「自分に対する自己影響を第一義とする」という例の原則をやってみる、と。つまり、そのストックは自分のためのストックなんだ、ということが自由度をあげるミソなのだとかんじるようになってきた。妙に利他的な言説にひっぱられすぎてはいけなかった。それは方便であり、よくて片面の真実にすぎない。今上天皇がマニアックな動物の生態に詳しいような、そういうたぐいのこだわりがいいんだとおもうし、そこを主張してよい。 見いだしうるべき場所はある。やるべき余剰はつねにまっている。 東浩紀が言っていた「敵の似姿にならない」ということが、たしかにそうだな、とおもえる。 日記
2017/04/28 02:58 今日は新曲を練習した。16分の裏のノリで演奏させたい、とこだわっていたけど、どうももっと白玉で歌と曲全体の波を勘定して演奏したほうがよさそうだった。もう帰りたい時間だったけどはまってしまった。 演奏は、欲張ったら見失うものがあるんだとおもう。そう考えると、いつも欲張っている。あるいは単純に思い違っているだけか。もっと簡単で効果的な演奏があるのだ。 ニューズピックスの東浩紀と宮台真司の対談がおもしろかった。ゲンロン0も読んだし、東浩紀に共感率が高い。宮台の「なりすまし」も印象にのこった。ふたりの対談はおもしろい。 コメント欄のほうはふたりに否定的な意見もけっこうある。やはり、ビジネスパーソンらしい。 落合陽一のポストヒューマンぽい話は、やはり脅威を感じる。宮台さんは「主体」の話をしてくれるが、近代的自我のようなものはもうおしまいなのだろうか。 AIの時代になっても人間の実存は消えないし消せないだろう、とおもう。ただ価値観は変容していくだろう。その実存を手当するもの、と考えたって、高次的対応と低次的対応はちがう。結局ファストフード、サプリメントのようなものばかり増える。 ただメタ意識のようなものは一般化していっているような気はする。それとも、ネット社会に適応していてそうなっているだけか。 夜、吉本隆明の講演をすこしきく。質疑応答が本編より長いのが通例らしいが。若者?の質問を丁寧にきく吉本隆明は、すごいなとおもった。1987年ごろのもの。 |